アルメニア人のジェノサイド
                     【ブログ掲載:2015年5月8日】


▼2週間前の毎日新聞のニュースサイトに、次のような記事があった。(4月21日)
 第一次世界大戦中の1915年に起きたオスマン・トルコ帝国によるアルメニア人の迫害について、ドイツのメルケル政権を構成する2大与党が20日、迫害を「ジェノサイド」と位置付けることで合意した。24日にドイツ連邦議会で行われる追悼式典で議会が表明する声明に、これを盛り込むのだという。
 記事はまた、このドイツ議会の動きに先行して、ローマ法王が事件を「20世紀最初のジェノサイド」と発言し(4月12日)、トルコ政府が反発したこと、欧州議会がトルコに「ジェノサイド」を認めるよう促す決議を採択した(15日)ことも伝えている。 

 記事に付けられた「アルメニア人迫害」の説明は次のようなものだ。
 《現在アルメニアは第一次世界大戦中の1915~17年にかけ、オスマン・トルコ帝国の軍隊が、同国東部で最大150万人のアルメニア住民を虐殺した、と主張している。アルメニア人がオスマン・トルコの交戦国ロシアに協力したり、ゲリラに参加したりしたことなどが背景にあると見られる。トルコは50万人が犠牲になったことは認めるが、アルメニア人がロシアと組んで戦闘に加わったことや、飢餓が原因だったとして、虐殺ではないと否定している。》 

筆者はこの記事を読んで、異様な感じを受けたのだが、アルメニア人虐殺の問題を初めて聞いたのは、アメリカ議会の決議だったことを思いだした。
 2007年にアメリカ連邦下院の外交委員会が、アルメニア人大量虐殺を公式に「ジェノサイド」と認知するように、ブッシュ政権に求める決議を採択した。その時も筆者は異様な感じを受け、選挙で選ばれるためにはどのようなスタンドプレーも厭わないアメリカの下院議員の「質」に驚いたのだが、ブッシュ政権はトルコとの関係を重視し、決議に賛成しなかった。
 しかし今回の動きは「外交音痴」のアメリカ下院ではなく、外交に伝統的な知恵を蓄積しているはずのヨーロッパの動きである。

 

▼筆者の受けた「異様な感じ」を分析すると、まず100年前の事件を昨日の出来事のように扱うことへの違和感である。
 20世紀は巨大な戦争と殺戮の時代であり、無辜の民の受難に満ちている。しかし100年という時間の経過は、なまなましい感情の付着した「出来事」を、「歴史」として距離を置いて語ることを可能にするはずなのだが、現実に進行しているのは「出来事」をなまなましく甦らせようとする動きである。
 19世紀ロシアにおける民衆のユダヤ人虐殺事件(ポグロム)と同様、オスマントルコにおいてもムスリムの民衆によるアルメニア人の虐殺は繰り返し発生した。そうした歴史を下敷きに、第一次大戦中の大量虐殺事件も発生したわけだが、扱い方については慎重な考慮が必要なはずである。
 第2の違和感は、事件の末裔であるアルメニア人でもトルコ人でもなく、ヨーロッパ諸国やアメリカの議会が、100年前の出来事を「ジェノサイド」と認めよと決議することについてである。
 現在進行形の「人権侵害」に対して、外国の政府や議会がメッセージを発することはありうるし、それなりの積極的な効果を期待できるだろう。しかし100年前の出来事について、直接のかかわりをもたない外国の議会が決議することに、どのような積極的な意味があるのか。
 各国におけるアルメニア移民のロビー活動が背後にあるわけだが、歴史の考察と現実政治上の行動では意味が違う。
 そして3点目の違和感は、「政治」の観念あるいは「政治」の役割に関するものである。ヨーロッパ各国やアメリカの議会に見られる動きは、「政治の劣化」ではないのだろうか。

 

▼「政治とはマーカンタイル・アーツである」という言葉を知ったのはいつだったのか、誰の言葉であるのか覚えていないが、感心した記憶は明瞭に残っている。
 マーカンタイル・アーツ mercantile arts 、つまり商人の技術、技能として「政治」をとらえるという発想がきわめて新鮮であり、感心したのだが、この言葉の意味の有効性は21世紀の世界で、いっそう増しているように思う。
 人間社会には利害や思想の対立が常に存在する。そうした対立を共通の利益や将来像を示すことにより解消し、あるいは対立を一時凍結し、社会を分裂させずに発展につなげることこそ「政治」の役割であり、「政治」の技術だとするのが、この言葉の意味である。今風の言葉で言うなら、問題を「ゼロサム」の関係としてとらえるのではなく、「ウイン・ウイン」の関係としてとらえ、社会をその方向に導く技術こそ「政治」なのだ。
 だから民族や宗教の違いの面のみを強調する主張は、社会の分裂を招き有害である。同様に「歴史の正義」を度外れに強調する主張も、その副作用に十分注意して聞くべきだろう。不満や不正義を主張し正義の回復を求めることも大事だが、より大きな不幸を招来しない、より不幸な事態を回避する技術は、現在にとってより大切なことではないか。 

 「政治とはマーカンタイル・アーツである」という言葉の出所を探していたら、この言葉そのものは出てこないが、同様の内容がむかし読んだ『外交』(ハロルド・ニコルソン 日本訳1968年発行)で述べられていることに気づいた。
 ニコルソンによれば、外交をとらえる見方には、武人的理論と商人的理論がある。武人的理論は、外交を「他の手段による戦争」とみなし、交渉の目的は勝利であり、完全な勝利が得られないことは敗北ととらえる。一方、商人的理論は外交を平和的通商を助長するものととらえ、敵対者のあいだでお互いに妥協する方が、敵を殲滅するよりも利益があると考える。
 このような外交についての二つの理解は、それぞれ独自の危険をもっている。武人的理論派は武力の威嚇する力を過信し、商人派の誠実が理解できず、商人的理論派は武人派が自分とはまったく異なる考えをもっていることを理解できず、信用というものを過信する危険性がある、と著者はいう。 

 ニコルソンが整理した二つの「外交」観は、「政治」についても当てはまるものだろう。二つの見方は「それぞれ独自の危険をもっている」というところを含めて。


ARCHIVESに戻る