アメリカが見つかりましたか   阿川尚之

              【ブログ掲載:2016年9月16日~10月7日】

 

▼『アメリカが見つかりましたか――戦後篇』(2001年 都市出版)という本を読んだ。著者は阿川尚之。戦後、アメリカで仕事をしたり、留学したりした人びとの体験記を阿川が読んで、内容を紹介しつつ批評した書物である。
 戦後篇に取り上げられたのは都留重人から村上春樹まで16人、一人ひとりに1章を当てた軽い読み物だが、全体を通読すると「アメリカへの向き合い方」を通じて見る「戦後日本人の精神史」の趣きもある。(都留重人の留学は戦前だが、その活動時期は戦後だという理由で「戦後篇」に入れられているようだ。)
 また通読して面白いのは、アメリカに好感を懐いた人たちとアメリカになじめなかった人たちの対比が、読み手の中で自然と行われることで、彼らの違いに思いを巡らすことになる。
 その違いがどこに由来するものなのか、著者の阿川もある時は首をひねり、ある時は自信をもって指摘しているが、アメリカに来る前の体験や思考のスタイルが多分に影響しているのかもしれない。 

▼アメリカに好感を懐き、またアメリカの人びとから温かく迎えられた体験を語っているのは、ソニーの盛田昭夫や児童文学の作家であり翻訳家だった石井桃子である。
 盛田昭夫が初めてアメリカに渡ったのは1953年、31歳の時だった。阿川の説明によれば、後発の家電メーカー・ソニーは、アメリカ市場で地保を固めブランドを確立することで、逆に日本市場での地位を高めるという戦略をとったのだという。この戦略を考え出し、自ら実行し、成功させたのが盛田だった。
 盛田を成功させたものは、もちろんその天才的な商才であったろう。しかし彼が、これはと見込んだアメリカ人の弁護士や代理店主とのあいだに厚い信頼関係を築いたこと、そして彼らからアメリカの社会や商慣習について親身の指導を得ることができた彼の人柄も、大きく寄与していたはずである。
 盛田が親しくしたある弁護士があるとき彼に、安いホテルの良い部屋に泊まるよりも、良いホテルの安い部屋に泊まりなさい、良いレストランで食事をして料理の味やサービスの違いが分かるようにならなければいけない、と助言した。盛田はこの助言を忠実に守り、家族とニューヨークに移り住んだ時には最高級とされる五番街に居を定め、政財界の著名人を招いて夫妻で社交に励んだという。
 阿川は、盛田という優れた才能は、アメリカでなくても花開いたであろうが、活躍の主たる舞台がアメリカであったからこそ、人びとに自然に受け入れられ、愛され、あれほど大きな花を咲かせたのだと思う、と書いている。

▼岩波書店で子どもの本の編集をしていた石井桃子のもとを、ある日ロックフェラー奨学金の選考委員をしていた坂口志保が訪ねてきて、1年間アメリカに勉強に行く気はないか、と尋ねた。石井は迷った末、提案を受けることに決め、戦前から文通をしていたボストンのミラー夫人に、渡米することを知らせた。ミラー夫人は子供の本の批評誌を主宰する女性で、その著書に関して石井が質問の手紙を出したところ、折り返し誠実味のある返事があり、それがきっかけで文通が始まったのだった。
 ミラー夫人は、石井の知らせを受けるとすぐに全米に散らばる子供の本の仲間に連絡を取り、石井のために綿密な旅行計画を作りあげた。こうして石井桃子は1954年にアメリカに船で渡ることになった。40代半ばだった。 

 サンフランシスコで上陸すると、同市の図書館部長というべき女史が出迎えてくれて、図書館を見学、次にバークレーを訪れると同市の図書館児童部長の女性が出迎えてくれる、という具合に各地で児童図書館の責任者が世話をしてくれた。どこへ行っても、一度も会ったことのない人が迎えてくれて、心のこもったもてなしを受けた。

≪石井とこれらのアメリカの婦人たちは、児童文学という糸で結ばれていたからである。迎える側にとって石井は、同じ活動に携わる同志であった≫。日米戦争の忌まわしい記憶も、≪石井という知的で活発な一人の日本人女性とは何の関係もないと、彼女たちの方で判断したようである≫と、阿川は書いている。
 ニューヨークを回り、ようやく石井桃子はボストン郊外の小さな駅でミラー夫人に会う。文通を長く続けながらようやく顔を合わせた夫人は、懐かしげな挨拶をするでもなく、ボストンの図書館を見学させ、自宅に石井を連れていく。紹介された夫は、「そうか、これがミス・イシイか。この数か月、妻は朝から晩まで、ミス・イシイ、ミス・イシイ、ミス・イシイとしか言わなかった」と言った。夫人は、たいへんなはにかみ屋だったのだ。 

石井桃子は日本に帰ると、自宅に子供のための図書館「かつら文庫」を開き、日本における子ども図書館の運動を始めた。阿川尚之はこの「かつら文庫」の第期生なのだという。近年はどこの公共図書館でも見られる「子どもの本の読み聞かせ」も、この運動の中から広まったのだろう、と筆者は推測する。

 ▼盛田昭夫と石井桃子はアメリカ人と親しく交わり、互いに尊敬しあえる関係をつくり、アメリカの良い面を十分に見ることができた。語る阿川の筆の運びも、幸福そうに生き生きと弾んでいる。
 しかしアメリカと幸福な関係を持てなかったらしい人たちもいる。阿川は、都留重人、小田実、西部邁の体験記を読んで、そのような感想を持った。

  都留重人が渡米したのは昭和6年だった。第八高等学校を無届欠席で(左翼運動と関係があるのか?)退学となり、実業家の父親が資金を出してくれたのでドイツへの留学を考え、ある事情で直接ドイツへ行くことができなかったので、「とりあえず」アメリカへ渡ったのである。しかしドイツでは1933年(昭和8年)にナチスが政権を握ったため、アメリカに居続けることにした。
 都留はひたすら勉強に打ち込み、女子学生と付き合うこともなく、アメリカの市民生活にも興味を持たなかった。2年後にハーバード大学に転籍し、経済学を専攻、大学院に進み、博士号をとって助手になった。この間、父親の資金のおかげで都留はアルバイトの必要もなく、貧しさとは無縁の生活を送った。
 日米戦争が始まったため、11年間の滞米生活を切り上げ、昭和17年に交換船で帰国。戦後は経済安定本部などに勤務したのち一橋大学で経済学を教え、多彩な執筆活動を展開した。
  阿川は都留重人について、「一貫して社会主義に対して見方が甘く、資本主義・市場経済に関して点が辛かった」と言う。そして「社会科学的な法則を見ようとしないところに、私はアメリカ人の長所もあれば短所もあるのだと思う」と言う都留の言葉を引きながら、次のように批判する。
 ≪たとえハーバード出の著名な経済学者が「社会科学的な法則」の必然を説いても、それをはなから疑ってかかるのが、アメリカ人の最大の強みなのである。そのことを都留先生は、結局分からなかったのではないか。それが社会主義者でありながらエリート臭の抜けないこの人のアメリカ理解の限界ではなかったか。私にはどうもそう思えてならない。≫

▼小田実(昭和7年生まれ)は、1958年の夏から1年間フルブライト留学生としてアメリカに滞在し、帰途ヨーロッパに渡り、ギリシャ、エジプト、イラン、インドなどを旅して1960年4月に帰国した。彼がその旅行体験を『何でも見てやろう』という本に書き上げ、発表すると、本は1961年のベストセラーとなった。
 外国旅行がまだ高嶺の花だった当時、それは若い世代に憧れの窓を開くものであったし、世界を「貧乏旅行」して回った新しい世代のたくましさは、人びとの賛嘆の的となった。
 『何でも見てやろう』の特徴の一つは、いろいろな体験をし、いろいろなものを「見た」だけでなく、見たもの、体験したものを著者が「考える」ところにある。今回この文章を書くために、手持ちの『何でも見てやろう』を取り出してページをパラパラめくり、拾い読みしたが、体験と思考はバランスがとれており、観念に淫したところはない。
 「まあなんとかなるやろ」で始まる気取らない大阪弁の文体、あるいは多少意地の悪い言い方をするなら「素朴さを気取った文体」ということになるが、それも人気を博した要因であったにちがいない。 

▼小田はアメリカを論じるにあたり、アメリカの「匂い」を話題にする。「きわめて衛生的」で「無害無益な匂い」―――それは物理的な「匂い」というよりも、衛生的で単調な社会から受ける「印象」を含めた意味のようだが、当時アメリカ社会を論じる際によく使われた言葉にするなら、「画一主義(コンフォーミズム)」と言い換えることもできる、と小田は考える。
 誰もが同じものを食べ、同じような服を着、同じような住居に住み、同じように考え、同じように語り、同じように行動する。アメリカの郊外に見られる、スーパー・マーケットのある同じ単調な造りの町………。「画一主義(コンフォーミズム)」はたしかに、今日のアメリカの社会が直面している最大の問題の一つであろう、と小田は思う。
 アメリカのこの画一性から逃げ出そうとするのがビートなのだ、とも考える。  ≪………私はビートを他人事として突き放せない気がする。ビートが小児退行現象であるというとき、私はじつは、ビートをそうしたところまで追いやったものの恐るべき大きさについて語っているのにほかならないのだ。それは一口にいって、アメリカ的なもの――「アメリカの匂い」にほかならないのだろう。≫ 

小田の留学先は一応ハーバード大学となっていたから、大学に顔を出し、ライシャワー教授と議論することもよくあった。日本についていろいろライシャワーと議論してみて、日米知識人の違いを小田は痛感し、その由って来る原因を考える。
 ライシャワーは、小田も含め日本のインテリの考え方が観念的で非現実的であることを指摘する。小田は、確かにそうかもしれない、と思う。しかし「貧困」は多かれ少なかれ、インテリを観念的にするものだ、とも考える。インドで出会ったある若いインテリが小田に最初に発した言葉が、「お前は死についてどう考えるか?」だったことを考えても、貧困という要素の持つ意味は、きわめて大きいのではないか。
 もう一つのカギは、一方が戦争の直接の被害を受け、死にかけた体験を持っているのに対し、他方はそのような体験とは無縁だという事実であろう。身をもって飢餓を体験した国民と、その体験のない幸運な国民のあいだに横たわる深い断層を、小田は感じた。 

▼阿川尚之は小田実の『何でも見てやろう』について、次のように書いている。 

当時、アメリカへの渡航は、まだ珍しかった。渡米にあこがれる若者は多くても、実際に行くのは難しい。小田はこの障壁を乗り越えるためにフルブライト留学試験を受け、合格する。まぐれで受かったように書いているが、東大で古代ギリシャ語を専攻し、現代アメリカ文学に通じた秀才である。小田の旅は、型破りではあったが気ままなものではなく、むしろたいへん気負ったものだったであろう。
 小田は憧れの摩天楼を初めて見たときの印象を、「えらくみんな古びていやがるな」と書き留めた。「失望ではないにしても、妙な感じ」だった。かっては旧大陸から自由を求めて逃れてきた人びとの前で、摩天楼と自由の女神は白く輝いていたはずだが、いま摩天楼は年老いてしまい、薄汚れ、疲労が染みついている、と書いた。 

阿川は、自分が初めて摩天楼を見たときのことを思い出すと、この小田の言葉にはまったく同意できないと思う。留学していたワシントンから北上し、≪ハドソン川をはさんでマンハッタンの対岸へ到着したとき、突然バスの窓から摩天楼の列が見えた。思ったより間近く、巨大だった。日暮れどき、ダウンタウンからミッドタウンにかけて、山脈のように灰色のシルエットが連なり、一種筆舌に尽くしがたい感動を受けた。≫
 そして阿川は、それ以来いく度もマンハッタンの摩天楼を眺めたけれど、「小田のようにそれがアメリカの疲弊の象徴だと感じたことはない。いつ見ても、アメリカの圧倒的な活力を感じた」と言い、「風景というものは見る人の心の状態によって、随分違って映るものらしい」と、いささかの皮肉を込めて書く。

▼阿川は小田実に対し、なかなか手厳しい感想と批評を書きつけているが、要約すれば次のようなものになるだろう。

≪小田の描くアメリカは、総じて暗い。なんだかいつも天気が悪くて、じめじめしていたような印象を受ける。≫
 ≪靴をはいたまま人の家にずかずか入っていくような観察の仕方をしながら、この人はアメリカ人との間にいつもある距離を置き、ある種の緊張感をはらんで接した。(中略)小田がアメリカに対して表す一種挑戦的な気分は、どこからくるのだろうか。/ひとつには、小田の観察を規定する(あるいは縛る)思想、政治信条のようなものがあるだろう。『何でも見てやろう』に示される抜群の行動力とは裏腹に、この人の考え方は時にひどく教条的である。≫
 ≪どこへ行っても小田は強烈に日本を意識した。≫
 ≪……小田はアメリカに反発し、アメリカから距離を置こうとしながら、アメリカから離れられない。このことは戦後日本人のすべてに、あるいは日本全体に、大なり小なりあてはまることかもしれない。しかし小田の場合、アメリカとのかかわりあいのひねくれ方、反発の程度、頑固さ、観念的対応が、とくに際立っているように思う。≫

▼阿川尚之の小田実への手厳しい評言は、かなり当たっていると言えるだろう。しかしそこには、阿川の気づいていない、あるいは軽視している盲点もあるように思う。それは小田のアメリカ体験が、1958年から59年にかけてのことであるのに対し、阿川のジョージタウン大学への留学は1975年から77年にかけてであり、両者のあいだには20年近い時間の経過があることだ。
 20年近い時間の経過の中で、アメリカは大きく変貌した。とくに60年代後半のベトナム戦争とそれに反対する反戦運動がアメリカ社会にもたらした傷は、深く大きかったであろう。
 しかし筆者が問題にするのはそのことではない。20年の時間の経過がもたらした日本の社会の側の変化の大きさに、阿川が無自覚ないしは軽視していることが、疑問なのだ。 

幕末の開国以来、西欧の文明・文化とどう向き合うか、どう対決するかという問題は、日本の知識人に課せられた逃れられぬ宿題だった。彼らは、ある時はそれを積極的に受け入れることで解決しようと考え、またある時はそれを拒否し、日本独自の「精神」を説くことで問題を解こうとした。
 軍事的に国の独立を維持し、西欧に負けない豊かな国家をつくることは、一貫した大きな課題だった。そしてそれと同時に、日本人の文化的・精神的アイデンティティをどのように守ればよいのかという問題意識は、幕末の「尊王攘夷」のスローガンから昭和10年代の「近代の超克」論議に至るまで、常に当事者たちを突き動かしていた。西欧の文化・文明は、それだけ巨大な存在だったのである。
 アメリカは日本人にとって、西欧文明を体現した相手であったが、単にそれだけではなく、大戦争を戦い、徹底的な敗北を喫し、占領され、支配された相手だった。だから戦後、アメリカに渡った若者たちが強い複雑な対抗心を燃やし、また反射的に日本を意識せざるをえなかったのはきわめて自然なことだった。

▼阿川が小田のアメリカ体験記に、「アメリカ人との間にいつもある距離を置き、ある種の緊張感をはらんで接した」ことや、「アメリカに対して表す一種挑戦的な気分」を読み取ったことは、正しい読み方である。小田が「どこへ行っても」「強烈に日本を意識し」、「アメリカに反発し、アメリカから距離を置こうとしながら、アメリカから離れられない」というアンビヴァレント(愛憎併存)な心理状態にあった、と読み解くことも正しいだろう。
 しかし阿川がそこに、小田実のイデオロギー的な頑なさを見ているのは正しいとはいえない。小田のある種の頑なさは、自分が戦争に負けた小さな貧しい国に属することを自覚し、そしてその貧しい国を背負っていく立場にあることを自負する若者にとって、ごく自然なことだったと考えるべきなのだ。
  日本人が個人の心理としては自然だが、姿勢としては不自然な緊張状態から解放されるのは、戦後の日本が経済の高度成長に成功し、それが人びとの暮らしを大きく変えてからである。西欧文化が日本風に形を変えながら日本社会に取り入れられ、西欧と日本の社会のあいだにあった落差の意識は薄まった。
 そして時の経過の中で、戦争の記憶も薄れ、戦争を知らない世代が社会の大半を構成することになった。つまり経済の高度成長と時の経過に後押しされて、幕末の開国以来の日本人の宿題は、ようやく主要な問題の座を降りたのである。
 小田に対する阿川の批評のかなりの部分は、遅れて生まれた者の特権を無自覚に行使しているものだと言えよう。

▼筆者が『何でも見てやろう』を読んだのは、60年代の終わりごろだったと思う。全体に瑞々しい印象を受け、好感を持ったように記憶する。
  また、小田が1965年に発表した論文「難死の思想」にも感心した覚えがある。『何でも見てやろう』と「難死の思想」は、いまでも読むに値する作品であると思う。
 しかし小田が70年代以降に発表した文章は、現実を粗雑な図式で裁断し、呪詛するような暗い声でお題目を単調に繰り返すもので、どれもひどいものだという印象だった。社会運動を行うということは、こういうことなのかと、暗い気持ちになった覚えがある。
  だが阿川が、アメリカでの小田の思考や感想に、彼の後年の文章から逆算し、「ひどく教条的」な「思想」や「政治信条」のせいにしているのは、繰り返すが間違いであろう。
 『何でも見てやろう』のなかで、たしかに小田は、摩天楼に代表される「アメリカ文明」の豊かさや巨大さに、驚嘆したり感激したりしていない。だが彼が、阿川のように無邪気に「アメリカ」を受け入れられなかったのは、もっと素朴な理由だったように思われる。小田の背後には、戦争による無数の死者の記憶や戦後の貧しい同胞の暮らしがあり、それらを裏切り、恵まれた豊かな国の側に乗り換えるわけにはいかなかったのだ。

▼一つの参考として関川夏央の批評を見てみよう。彼は、『何でも見てやろう』が発表された30年後、90年代初めになってはじめて読み、感想をつづっている。(『昭和時代回想』1999年)
 関川は、この本に「清新さ」を感じたと書く。そして小田の、「祖国と祖国の文化が生んだ自分という個性への矜持の高さ」に感心する。
 また小田の、「東アジア人としては大きな体躯と大阪弁的な英語を武器とした」行動力に目を見張るとともに、「南アジアで見た貧困と無感動の巨大な広がりに圧倒され、打ちのめされた神経質な青年の困惑と悲しみ」を読み、感じ入る。それらは「五〇年代を生きた知識的な青年たちの誰にも共通するもの」だ、と関川は思った。
  だが一般の読者の読み方は違った。≪なにをどうとり違えたものか、その後の日本は、『何でも見てやろう』に向日性と好奇性、そしていわゆる行動力のみを見出して、青年の困惑と悲しみの部分を忘れ去った。≫
 『何でも見てやろう』は、『地球の歩き方』の元祖として、旅行の技術書としてのみ記憶されることになり、小田実も貧乏旅行を敢行した「豪傑」と見なされ、「小田自身もそのようにふるまって30年の時が流れた。」
  「そこにこの作品と作家の不運があった」というのが、関川の読後の感想である。

 

▼「遅ればせのアメリカ体験」と副題された西部邁(にしべすすむ)の『蜃気楼の中へ』は、西部が19771月から翌年3月までカリフォルニア大学バークレー校で過ごし、その後英国ケンブリッジ大学に滞在した時の体験を、随想風にまとめた本である。西部は昭和14年生まれだから、出発時すでに38歳、妻子を伴っての初めての外国生活だった。
 阿川尚之はこの本を読んで、「抽象的な思索の記述がことのほか多い本書のなかで、具体的に描かれるアメリカの情景は、どれもことごとく暗くてうっとうしい」という印象を受ける。

 ≪………西部にとってアメリカで見るもの聞くものすべてが神経に障った。隣家の屋根の上で股を大きく開き、全裸で日光浴する女性たち。タバコを吸いながら街を歩いていると、「ノー・セックス、ノー・スモーキング」と偉そうに顔を突き出してくる丸坊主で白衣の白人。「ジェイ、ジェイ、ジェイ」と耳障りな鳴き声で騒ぎ立てるブルージェイという鳥そっくりな、荒々しくやかましいアメリカ婦人たち。頭の芯が痛くなるほど甘いアメリカの料理や菓子。クチャクチャとチューインガムを噛みながら世間話をし続け、行列を作って待っている客をいくら待たせても平気な店の従業員たち。≫ 

 西部のアメリカ体験があまり愉快でなかった理由は、彼の側にもあったようだ、と阿川は思う。西部のアメリカ人との接し方は、どう見てもぎこちない。大学の研究者に電話で約束を取り、「三十分かそこら、形通りというかうわべだけというか、相手に申し訳ないような退屈な話をして、『お会いできてうれしかったです、またお会いしましょう』とは言ってみるものの、『こんな面白くもない初対面の場しか作れなかったのだから、この人ともう会うこともないのだろうなあ』と心で呟いたり」する。

 ≪言葉のハンディがあったのかもしれないが、これでは相手だってとりつくしまがない。アメリカ人は、相手が面白ければ初対面であろうとなかろうと興味を示し、また会いたがるものである。西部は相手にそう思わせなかった。話がよほどつまらなかったか、無意識のうちに自分のまわりに壁を築いていたか、どちらかだろう。≫

どうも後者の方だったのではないか、と阿川は思う。そして阿川は、西部が故郷の北海道になじめず、アメリカにその故郷と類似の側面を見出して嫌うのではないか、と考える。

 ≪西部は故郷の束縛から、また記憶から、離れようともがいてきたらしい。そのため若いときは左翼へ走り、のちに転じて保守思想の担い手となった。しかし左翼にせよ保守にせよ、この人の思想への傾き方そのものに、一種マンチャイルド的な自己中心性や攻撃性がある。伝統だの保守だのとうるさく言って左を攻撃するやり方そのものは、一九六〇年前後に活動した左翼運動家のそれを多分に思い出させる。忘れようとしても忘れられないのが故郷であり、捨てようとしても捨てられないのが思想の内容そのものよりも思想の型なのだろう。≫

 阿川の西部評は全面的な否定であり、文字通り「とりつくしまがない」。 

▼筆者がこの本を読んだのは、八〇年代の半ばだったように思う。硬質で冗舌、ソフィスティケイトされた文体は、あまりなじめるものではなかったし、描写される「アメリカ」も薄汚れていて暗い印象だった。これは阿川の受けた印象と変わりない。
 阿川尚之の批評を読み、西部の本を取り出してパラパラ拾い読みしながら、西部ははたして「アメリカ」を「体験」したのか、という疑問が浮かんだ。西部は彼なりに隣人とのいろいろなトラブルに巻き込まれ、それほど自由でない英語を駆使して道を切り開き、その体験を素材に思索を展開する。だがその思索の展開の仕方が、妙に型にはまっているように見えるのだ。「体験」は西部の予想を超えることはなく、西部の「思索の型」をひっくり返すようなことは起こらない。
 西部は、「自分はアメリカに大した関心がなく」、「アメリカというものをアメリカ語を話せる日本人あるいはアメリカ志向の日本人を通して実感するという傾き」がある、と書いている。正確で正直な自己分析だと思う。西部はアメリカに暮らしながら、現実のアメリカにはさして関心が持たず、自分の思念を発展させることの方により強い関心を抱いていたのだろう。
 西部邁という男は、強烈な否定のエネルギーの塊りを体内にかかえていたように見える。それはのちに「ビジネス文明批判」、「アメリカニズム批判」、大衆社会批判、伝統論、保守論などの形で展開されることになるが、体内の強烈な塊りにコトバを与える卓越した能力があることは、この本からも十分見て取れる。
 また単純な文筆の徒ではなく、社会や人間関係の機微に通暁した大人であることも、記述から読み取ることができる。にもかかわらず、議論がどこかバランスを失していく傾きがあるのは、彼の性向なのか、それとも否定のエネルギーの統御しきれぬ強烈さによるものなのか、と筆者は考え込んだ。
 

▼『アメリカが見つかりましたか』の中から、アメリカの良い面を見、幸せな体験をした2人(盛田昭夫、石井桃子)と、アメリカと幸福な関係を持てなかった3人(都留重人、小田実、西部邁)を取り上げた。最後に村上春樹のケースを取り上げよう。

 村上春樹は1991年の初めから2年間、プリンストン大学に滞在した。当時アメリカはサダム・フセインのイラクを相手に湾岸戦争中であり、やがて戦争が圧倒的勝利に終わると、国中がお祭りムード一色に包まれた。その年の暮れには真珠湾攻撃50周年記念日があり、愛国的高揚感と経済不調に対するフラストレーションは日本に向かい、新聞は日本と日本人を批判する投書や論説に満ちた。
 村上は、対日感情が悪くなって、アメリカに住むのは大変ではないですか、と日本人からよく質問された。彼は、何と答えるべきか、心底困惑する。日本にいてもアメリカにいても、不愉快なろくでもない奴はいたし、生活の質は基本的に変わらない。「東京に住んで生きていくのだってけっこう大変だったよ」とでも答えるしかない。(『やがて哀しき外国語』1994年)
 阿川は考える。「アメリカに対して構えない。日本人であることを過剰に意識しない。こうした態度は村上特有のものであると同時に、アメリカに対する感じ方の新しい一つの型かもしれない。(中略)同じ種類の教養を持つアメリカ人といる方が、社会的背景や興味の違う日本人といるより、居心地がいい。さらに言えば、アメリカにいようが日本にいようが、相手がだれであろうが、ある日あるときふと共感を抱ける瞬間がある。アメリカで暮らした私には、この感じがよくわかる。」  そして阿川は、アメリカと向き合う日本人の体験を総括しながら、次のように書く。

 ≪………村上のアメリカ体験は、一世代前の日本人のアメリカ体験となんて違うのだろうと思う。江藤淳などかっての留学生が接したアメリカには圧倒的な存在感があって、食うか食われるか戦い続けねばならなかった。よくも悪しくもアメリカはぐいぐい迫ってくるから、それを拒否するか受け入れるか、選択を迫られた。全身全霊をあげて対峙した結果、ある人はアメリカとの折り合いがついて、大きな心的展開を経験する。またある人はそれができなくて、アメリカを拒絶したまま、あるいはされたまま、帰ってくる。≫ 

 先に小田実のアメリカに向き合う姿勢に関して筆者が述べたように、戦後の日本経済の高度成長の影響は日本社会を洪水のように呑み込み、アメリカとのあいだの文化的・経済的ギャップを埋めた。洪水後の人間である村上春樹は、「アメリカ」に対し文化的緊張感なしに自然に接する世代に属する。

 ≪………村上のようなアメリカ観が、これからより多くの日本人のものとなるのかどうか、それがいいことかどうか、実のところ私にもよくわからない。ただ日本人はアメリカとつきあっているうちに、ずいぶん遠くまで来てしまったのだなあと感じるばかりである。≫
 これが『アメリカが見つかりましたか』における阿川の締めの言葉である。 

▼戦後の日本人の「アメリカ」との関わりを考える場合、江藤淳のケースを欠くわけにはいかない。しかしそれは稿をあらためて論じることにしたい。

 

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