「河野談話」検証報告は地味だが確実なヒットである

              【ブログ掲載:2014年6月30日~8月17日】



▼1週間ほど前(6月20日)、政府は「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯」と題する報告書を、衆院予算委員会理事会に提出した。この報告書の内容とその後の日韓メディアの対応は、大いに興味深いものだったので、地味な話題だが取り上げてみたい。
 
 「河野談話」(1993年)は、21年経った現在も、依然ホットな話題である。というよりも、いっそう捩じれ過熱し、手を付けられない状態に至っている。
 「談話」には、戦時中、日本の軍や政府が強制的に韓国人慰安婦を集めたかのように述べた部分がある。それは事実ではなく誤りだから、見直すべきだという声が日本国内にかなりある一方、韓国内には談話見直しの動きへの強烈な反発が存在する。
 日本国内では、強制的に韓国人女性を慰安婦にしたことを示す事実は政府の調査では確認できなかったが、元慰安婦の聞き取り調査をした結果、「強制性」を認める「河野談話」となった、と理解されていた。
 今年の1月、河野談話作成のために1993年に政府が韓国で行った元慰安婦の聞き取り調査の内容が、産経新聞で報道された。内容はずさんで、裏づけ調査もしていない、「強制性」の証拠となるようなものではない、といった記事だった。
 2月の衆院予算委員会は「談話」発表当時の官房副長官(石原信雄)を呼び、「談話」の作成過程について質した。石原・元官房副長官は、次のように証言した。
 ①「河野談話」の根拠とされる元慰安婦の聞き取り結果の、裏付け調査は行っていない。
 ②「談話」の作成過程で韓国側と意見のすり合わせがあったかもしれない。
 ③「談話」の発表により、いったん決着した日韓間の過去の問題が、最近になって再び韓国政府から提起される状況を見て、当時の日本政府の善意が活かされておらず、非常に残念である。―――
 安倍首相は、「河野談話は安倍内閣で見直す考えはない」という考えも表明しつつ、「談話」の作成過程について検討チームを設けて検証することにした。
 元検事総長を座長とする5人のチームは、「談話」に関する事務を担当していた内閣官房や外務省の保有する一連の文書を検討の対象とし、元慰安婦の聞き取り調査を担当した当時の政府職員等からのヒアリングも実施した。慰安婦問題の歴史的事実そのものは検討の目的とせず、「談話」作成過程での韓国とのやりとりを中心に、その後の措置としての「アジア女性基金」までの一連の過程を検証することを目的とした。

▼報告書は副題を「河野談話作成からアジア女性基金まで」としているが、大きく2部に分かれる。
 第1部は、「河野談話」の作成の経緯である。1992年1月に宮沢総理が訪韓した際、韓国内で高まっていた慰安婦問題への関心や対日批判に対し、「お詫びと反省の気持ち」を表明し、「資料発掘と事実究明を誠心誠意行っていきたい」と述べるまでの、韓国側とのやりとりを記すことから始まる。
 続いて、首相発言を受けて行われた日本の調査と加藤官房長官の調査結果の発表(1992年7月)、河野官房長官談話(1993年8月)に至る過程での、韓国側とのやりとりが記されている。
 たとえば加藤官房長官の調査結果発表に関し、
《韓国側からは、調査結果発表前に、当該調査を韓国の政府及び国民が納得できる水準とすることや、調査結果発表について事務レベルで非公式の事前協議を行うことにつき申し入れがあった。》とし、「河野談話」に関しては文面の文言についても、韓国側と緊密に議論し、調整したことが述べられている。
 元慰安婦の聞き取り調査については、《韓国側より、聞き取り調査の実施は最終的に日本側の判断次第であり、不可欠と考えているわけではないとしつつも、聞き取り調査は日本側の誠意を強く示す手順の一つであり、実現できれば調査結果の発表の際に韓国側の関係者から好意的な反応を得る上で効果的な過程の一つとなると考えるとの意向が示された。》と書いている。
 そして、《事後の裏付け調査や他の証言との比較は行われなかった》とし、「河野談話」との関係については、《聞き取り調査終了前にすでに談話の原案が作成されていた。》としている。

 第2部は、「韓国における『女性のためのアジア平和国民基金』事業の経緯」と題し、いわゆる「アジア女性基金」の行った事業の顛末について述べている。
日本政府は「談話」で「お詫びと反省」を表明したあとの対応として、韓国の元慰安婦に対し国民的な償いを行うための資金を民間から募金すること、元慰安婦の医療や福祉などの事業に対し政府の資金で支援すること、事業を行う際には国としての率直な反省とお詫びの気持ちを表明すること、などを決めた。
《元慰安婦への「措置」について、日本側が、いかなる措置を取るべきか韓国政府の考え方を確認したところ、韓国側は、日韓間で補償の問題は決着済みであり、なんらかの措置という場合は法的補償のことではなく、そしてその措置は公式には日本側が一方的にやるべきものであり、韓国側がとやかくいう性質のものではないと理解しているとの反応であった。》
 1995年6月、日本は社会・自民・さきがけ3党の村山政権だったが、五十嵐官房長官が上の基金募集について発表した。これを受け、韓国外務部は外務部論評を発表した。
《韓国政府は従軍慰安婦問題のフォローアップは、基本的に日本政府が93年8月に発表した実態調査の結果により自主的に決定する事項であるが》としつつ、
《今次日本政府の基金設立は、一部事業に対する政府予算の支援という公的性格は加味されており、また、今後右事業が行われる際、当事者に対する国家としての率直な反省及び謝罪を表明し、過去に対する真相究明を行い、これを歴史の教訓にするという意思が明確に含まれているとの点で、これまでの当事者の要求がある程度反映された誠意ある措置であると評価している。》と述べた。


▼「アジア女性基金」の顛末は、この慰安婦問題を考える上で重要なので、詳しく見ていくことにする。

 日本の官房長官が発表した「アジア女性基金」事業を「誠意ある措置」と評価した韓国政府だったが、韓国国内の慰安婦支援団体が反発しているのを見て、翌月には態度を微妙に変えた。支援団体の批判は、「償い金」はあくまでも民間の慰労金にすぎず、日本政府の補償金ではない、という点にあったらしい。
 《韓国政府は、官房長官発表を韓国外報部としては評価する声明を出したが、その後被害者支援団体から韓国外報部に強い反発が来て困っている、このような事情からも表立って日本政府と協力することは難しいが、水面下では日本政府と協力していきたいとの立場が示された。》
 1996年7月、「アジア女性基金」は、元慰安婦に「償い金」を支給すること、首相からの「お詫びの手紙」も手渡すこと、医療・福祉事業を行うこと、を決定した。首相の手紙を手渡すことにしたのは、日本政府は「お詫びと反省」をすでに表明しているが、それは韓国政府に対するもので、被害者は個人的にはお詫びをしてもらっていないと感じている、と韓国側から伝えられたことによる。
 「首相の手紙」は次のような内容だった。

 《………いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げます。
 我々は、過去の重みからも未来の責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、お詫びと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳にかかわる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。………》

▼だが「アジア女性基金」の事業に対する韓国政府の及び腰は、さらに強まる。
 《韓国政府からは、①日本政府がどのような形式であれ、被害者たちが納得できる措置をとってほしい。②日本が法的に国家補償を行うことが無理であることを明言した上で、政府の謝罪の気持ちを表明し、何らかの形で、国家補償と同じように見えるものができないか、③「韓国との関係については今後誠意をもって話し合いたい」旨のメッセージを日本政府より発出して頂けないかとし、その後具体的にどう対応するかについて、時間をかけて日本側と静かに話し合っていきたいとの意向が示された。》

 日韓間で法的補償の問題は決着済み、という日本側の基本的立場を韓国側が理解していたことは、やりとりの随所に示されている。韓国政府はさらに、元慰安婦への「措置」についても、日本側が「自主的に決定する事項」であり、「韓国側がとやかくいう性質のものではない」という態度をとってきた。その上で日本側の示した「アジア女性基金」による事業を、「当事者の要求がある程度反映された誠意ある措置であると評価」したのである。
 ところが支援団体の反発を見ると、「誠意ある措置」と評価した口をきれいに拭い、態度を豹変させた。「被害者達が納得できる措置をとってほしい」。―――それは「水面下で日本政府と協力していきたい」と語った約束をも反故にし、問題を解決する政府としての責任の放棄を意味する言葉だが、彼らはなぜ支援団体に対してそれほど腰が引けていたのだろうか。

▼「アジア女性基金」は1996年8月に、基金の運営審議会委員を韓国に派遣し、十数名の被害者に会い、事業の説明を行った。同年12月、元慰安婦7名が「アジア女性基金」の努力を認め、事業の受け入れを表明した。
 日本政府は1997年1月に在日韓国大使館に対し、「基金」が7名に対して事業を実施すると、事前に通報した。
韓国政府からは、「①関係団体と被害者の両方が満足する形で事業が実施されるのでなければ解決にならない、②何人かの元慰安婦だけに実施されるのであれば、関係団体が厳しい反応を示すこととなろう、日韓外相会談、首脳会談の直前であり、タイミングが悪い」という反応があったという。
 「アジア女性基金」はその翌日、代表団がソウルにて元慰安婦7名に首相の「お詫びの手紙」を手渡し、韓国のマスコミに「基金」の事業について説明した。

 報告書はその後に起こった事態について、次のように書いている。
《………韓国のメディアは「基金」事業を非難し、被害者団体等による元慰安婦7名や新たに「基金」事業に申請しようとする元慰安婦に対するハラスメントが始まった。被害者団体は、元慰安婦7名の実名を対外的に言及した他、本人に電話をかけ「民間資金」からのカネを受け取ることは、自ら「売春婦」であったことを認める行為であると非難した。また、その後に新たに「基金」事業の受け入れを表明した元慰安婦に対しては、関係者が家にまで来て「日本の汚いカネ」を受け取らないよう迫った。》

 韓国政府はその次の週に行われた日韓外相会談で、「アジア女性基金」が元慰安婦に一時金を支給したことは「極めて遺憾」と発言し、金泳三大統領も表敬訪問した池田外相に対し、「アジア女性基金」の措置は国民感情にとって好ましくない影響を与えるもので遺憾だ、と語った。


▼「アジア女性基金」事業の顛末を、さらに見ていくことにする。
 
 「アジア女性基金」では、「償い金」を受け取った韓国の元慰安婦がハラスメントを受けることになったことを踏まえ、一時事業を手控えつつ、韓国での理解を得られるよう方策を検討した。1997年の夏から秋にかけて「基金」では、少しでも多くの元慰安婦に事業の内容を知ってもらい、理解を得るために、韓国国内で新聞広告を掲載したいと希望した。しかし日本政府は、韓国大統領選挙が近々行われることなどを理由に、延期するよう働きかけた。
この広告は、翌年1998年1月に韓国の新聞4紙に掲載された。韓国政府側からは、「本問題が目立たずに徐々に消えていくよう(日本側が)対応することが好ましい」と考えており、「その意味で新聞広告はきわめて刺激的だった」という反応が示されたという。

《1998年3月、金大中政権が発足し、韓国政府として日本政府に国家補償は要求しない代わりに韓国政府が「生活支援金」を元慰安婦に支給することを決定した。》
 この「生活支援金」は、「アジア女性基金」から「償い金」を受け取った元慰安婦は対象外とするが、これは「基金」の事業に反対し非難する趣旨ではない、という説明が韓国政府からなされた。
さらに韓国政府は、「金大統領自身、本件について金銭の問題をなくせ、政府間のイシューにするなという意見であり、両国の問題は存在しないと思った方が良い」として、「『基金』には申し訳ないが、政府間の問題にならないよう終止符を打つべきだ」という趣旨のことを述べていた。

▼「アジア女性基金」は、韓国だけを対象に事業を行ったわけではない。フィリッピン、インドネシア、オランダ、台湾でも戦時中の元慰安婦を対象に、医療、福祉などの支援事業を行った。
 韓国内においても「償い金」事業から医療・福祉事業に転換することを検討し、1999年1月、韓国赤十字に協力を打診することを決めた。
《日韓の事務方のやりとりにおいて、韓国側から事業を抜本的に変更することは結構なこととして、形としては日本側と韓赤の間で話が進み、韓赤より(韓国政府が)相談を受けた段階で前向きに対応することを慫慂する、との段取りが適当と考える旨の反応が示された。》
 しかし3月下旬、《突如韓国政府が方針を変え》、「この問題では、何かしてもしなくても批判される」と言い、「韓赤は韓国政府の息のかかった組織であり、強い反対が予想されるので、今回の提案は勘弁してほしい」と日本側に申し入れた。
 日本側は、この「事業転換」は、金大中大統領の訪日により醸成された「未来志向の日韓関係」に悪影響を及ぼさぬように、難色を示す「基金」を説得して実施に漕ぎつけたものであり、韓国側の申し入れは納得しがたいと主張した。
 しかし結局韓国政府は、「アジア女性基金」の「償い金」の支給も「医療・福祉事業」の実施も反対という態度を変えず、「基金」は2002年5月、韓国におけるすべての事業を終了せざるを得なかった。

 「アジア女性基金」には事業終了までに約6億円の募金が集まり、日本政府は拠出金・補助金あわせて約48億円を支出した。
 韓国における事業では、元慰安婦合計61名に対し「償い金」200万円を支給し、あわせて政府拠出金を原資とする医療・福祉支援事業300万円を実施(一人当たり計500万円)した。これらを受け取ったすべての元慰安婦に対し、総理の署名入りの「お詫びの手紙」を手渡した。

▼長々と「報告書」の内容を紹介したが、初めて明かされるような新しい事実はほとんどない。
「河野談話」発表までに、日韓両政府のあいだで内容・文言の苦心の調整があったことは、発表翌日の各新聞に報じられていた。朝日新聞は「苦心の末、〈強制性〉盛る」と見出しを掲げ、「発表文の表現をめぐり相手の顔色をうかがいながら進めた調整のやり方には批判の意見もある。」と書いていた。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』1999年)
 「報告書」では、〈強制性〉の真偽について何も言及はない。「河野談話」の「起案」は7月29日までに行われていた事実をたんたんと示し、「談話」が元慰安婦の聞き取り調査(7月26日~7月30日)に基づくものではなく、「政治的な決着」としてなされたことを間接的に示唆しているが、目新しい事実はその程度である。

 筆者はこの「従軍慰安婦問題」について、過去のブログで何度か検討してきた。(当HPの「韓国人と日本人」ほか参照))
問題を扱う日本政府の対応について、不手際のために小さなキズを大きなハレモノにしてしまった無能さを非難する、強い思いがあった。しかし「報告書」を読み、「日本政府はそれほど無能でもなく、意外によくやった」という評価に変わった。
 日本政府がそれほど無能ではなかったと評価したのは、問題を「強制連行」の有無だけに絞るのではなく、慰安婦制度が慰安婦になった女性たちに大きな苦しみを与えたことを認め、謝罪の意思を示す措置をとるという大きな枠組みを選択したことである。
 そして民間からの寄金を元に「基金」を設立し、そこに政府の資金も理由のつくような形で出資する。それは日韓条約により請求権問題(補償問題)は解決済みであることを考えれば、―――このことは当時日韓両政府が認めていた―――、優れた選択だったと言える。
 また80年代、90年代以降の、「女性の権利」を尊重し拡大することが正義であるという意識の世界的広がりのなかで、「強制連行」の有無だけに絞った議論に固執するなら、戦術的にきわめて拙劣といわなければならない。日本政府の採った「大きな枠組み」は、妥当な「落としどころ」だったと言えよう。
 にもかかわらず、その優れた選択がなぜ、効果を発揮しなかったのか。その原因を客観的に示したところにこそ、この「報告書」の意義がある。


▼この「報告書」を読んだ筆者の感想の第二は、韓国政府の定見の無さであり、無責任さであり、誠実さの欠如だった。
「アジア女性基金」事業を「誠意ある措置」と評価しておきながら、事業に対する慰安婦支援団体の反発を見て態度を変え、自分たちが非難を受けないように、「被害者たちが納得のできる措置」をとってほしいと言う。7人の元慰安婦が「基金」から「償い金」や「首相のお詫びの手紙」を受け取ったときには、国内の反発の高まりを受け、「関係団体と被害者の両方が満足する形で事業が実施されるのでなければ解決にならない」などと言う。
 金大中大統領が「未来志向の日韓関係」を言い、韓国政府は「慰安婦問題」について「両国の問題は存在しないと思った方が良い」と説明しておきながら、大統領が変わるとまたぞろ「慰安婦問題」を蒸し返す。
このような、政治・行政にたずさわる者としての矜持を欠く相手と交渉しなければならなかった日本側担当者に、同情の念が湧く。

 韓国政府は「報告書」が発表される前にコメントを出し、「日本政府が河野談話を毀損する検証結果を発表する場合は、我が政府は歴史的な真実と責任に関する資料を積極的に提示する」と牽制した(6/15)。6月20日の「報告書」の発表後はただちに「談話の信頼性を傷つけ、形骸化させようとしている」と非難し、元慰安婦たちの証言は「どの書類よりも強制性を立証する強力で明確な証拠だ」とする見解を、外交省のホームページ上に乗せた(6/25)。
 彼らにとって「強制性」の有無だけが関心事項であり、自分たちの無定見、無責任な態度が「問題」を非生産的に混迷させたという、筆者が報告書から読み取った問題については、一言の言及もなかった。
「談話」を毀損する検証結果を発表する場合は、対抗して「積極的に提示する」と凄んで見せた「歴史的な真実と責任に関する資料」は、結局、「内容について項目ごとに一つずつ反論はしない」(韓国外交省報道官)ことにしたらしい。(6/24)
 
▼韓国の慰安婦支援団体が、自分たちの考えを非妥協的に主張することは、別に不思議ではない。不思議なのは、彼ら(彼女たち)の強硬な主張が支配的「世論」となり、韓国政府の外交を拘束してしまう過程で果たす、韓国のマスメディアの役割である。
 自由や民主主義を価値とするいずれの国においても、マスメディアは自分の存在意義のひとつを、多様な意見空間を涵養し保障するところに見出すはずである。
ところが韓国においてマスメディアは、「慰安婦問題」に関する多様な意見を、扇情的な報道により圧殺する役割を果たしてきたように、筆者には思える。
韓国メディアの問題性を見るために、今回の「報告書」がどのように報じられたかを見てみよう。
 韓国の保守系三大新聞(東亜日報、朝鮮日報、中央日報)の日本語版をインターネットで読むかぎり、韓国メディアは政府と一体となって、「報告書」が「河野談話」を「毀損した」と非難している。「報告書」の内容や特徴を読者に客観的に伝えようとする態度は見られず、過去の日韓間の交渉の経緯から、あらためて問題を謙虚に考える、という姿勢もない。
 韓国をよく知る日本の新聞記者(黒田勝弘)は、韓国の記者は「国民の蒙を啓く」のがメディアの役割だと思っている、と言うが、たしかに彼らは事実を正確に記述することよりも、「論」を述べることに熱が入るらしい。

▼一例として、6月23日の中央日報日本語版の「取材日記」というコラムの記事を、少し長くなるが引用する。記事の題名は「米国にも冷遇された安倍首相」、執筆者はユ・ジヘ政治国際部門記者とある。
 記事は安倍首相が、「河野談話は安倍内閣で見直すことは考えていない」と答弁しつつ、談話の作成過程を検証することにしたことを取り上げ、次のように言う。

《日本がこのような二律背反的態度を見せた理由は、報告書を見れば知ることができる。自身の支持基盤である右翼勢力を意識して「不正」でもあったかのように検証を始めたが、河野談話の正当性を否定する証拠は探せなくて回りくどい自己矛盾に陥ったのだ。
 当初、日本の右翼は慰安婦被害者の証言の信憑性を問題視した。ところが本来の報告書はこうした是非をつくほどの部分はなかった。(中略)
 被害者証言の信頼性を損ねることができないと日本は、とんでもないことに文案調整のための韓日‘協議’を浮上させた。まるで政治的妥協でもしたかのようにおとしめたが、報告書にも出てきたようにこれは日本側が要求した通りに韓国政府が最小限の意見を陳述した程度に過ぎなかった。しかも国際的・外交的な慣例でも十分に容認される程度の水準だった。政治的な妥協があったように騒ぎ立てた日本は、ばつが悪くなるほかはなかった。(中略)
 米国政府も「私たちは河野談話を継承するという日本政府の立場に注目する」(ジェーン・サキ国務省報道官)と話している。「河野談話の修正は夢にも見るな」ということが、国際社会が日本に送る警告だということだ。当初の河野談話の検証をうんぬんした時もそうだったが、検証報告書を発表する過程で日本はより大きなものを失うことになった。》

 よくわからない、頭の痛くなる文章だが、原因はこれを書いた記者なり翻訳した人間の、日本語能力の問題だけではない。事実を事実として伝えるという記者としての基礎的訓練が、まるで欠けているために、「事実」と「自分の思い」の境い目が明瞭でなく、熱病患者のうわ言のような「記事」になってしまうのだ。
 筆者は見出しの「米国にも冷遇された安倍首相」を見て、どのように「冷遇」されたのか期待しながら読んだのだが、結局、「冷遇」は見当たらなかった。
 記事中、米国に関わる話は、米国国務省報道官のコメントの部分だけである。そのコメントは、安倍内閣が河野談話を維持するとしたことを評価し、「日本と韓国は多くの共通利益を持っており、両国が過去の問題を生産的な形で解決し、未来に目を向けることが重要だ」と言う。(6/21朝日新聞)
それは日韓両政府に向けられた米国のメッセージだが、より多く韓国・朴政権の「日韓対話を拒否する」姿勢に向けられていることは、言うまでもないだろう。


▼日本の新聞の「報告書」の取扱いは、各紙ともそれほど大きくなく、「河野談話」を検証した委員の紹介など、あっても肩書程度だが、朝鮮日報(6/23)は委員5人を、顔写真入りで紹介している。中でも一番大きく紹介されているのは、秦郁彦である。
 アン・ジュンヨン記者は、《秦氏は学会で、「慰安婦=売春」という理論を打ち立てた学者として評されている。》と解説する。(ヘンな日本語だが目をつぶろう―――筆者)
 《昨年には慰安婦問題で妄言を繰りかえすことで有名な橋下徹大阪市長をかばい、「慰安婦は公娼制が戦場に移動したにすぎない」と主張。産経新聞への寄稿では、「日本がやってもいない犯行を認めた」と述べ、河野談話の撤回も要求した。安倍首相をはじめとする極右政治家は秦氏の主張を自らの理論的基盤とした。》と書く。

 中央日報(6/23)もやはり秦郁彦の顔写真を載せ、「慰安婦の強制連行を否認する右翼理論家の巨頭」だと紹介している。(無署名記事)
《日本の言論界のある要人は「安倍政権が秦氏のような人を検証委員会に入れたということは、すでに‘結論’を決めて検証作業に出たということを意味する」として「検証委員会自体が、慰安婦問題に精通した秦氏の論理に振り回されたのは明らかだ」と話した。》

 実証的な歴史研究者をもって任じている秦郁彦を、「理論を打ち立てた」とか「右翼理論家」と評するのは、はなはだ失礼なことなのだが、この記事を書いた韓国の記者には理解できないかもしれない。ここには、「高論卓説」を述べることが事実を究明する地道な作業よりも価値が高い、とする記者の無意識が窺われるように思うが、深読みだろうか。
 もし記者が「報告書」を自分の眼で読んでいたなら、「検証委員会自体が、慰安婦問題に精通した秦氏の論理に振り回された」などという「日本の言論界のある要人」のイカサマ発言に、疑問を抱いたはずである。検証委員会の仕事は「論理」をいじくることではなく、過去の日韓間のやりとりを正確に跡付けることであり、「報告書」はどのような「論理」とも無縁に、淡々と過去の事実を記述しているからだ。

▼韓国社会には日本に対する否定的「物語」が、すでに牢固としてできあがっているように見える。それは「国民的妄想」と呼ぶしかないしろものなのだが、韓国言論界は世論を主導しつつ逆に「物語」に拘束され、非生産的な議論を繰り返す。
正しい歴史認識を持たず、歴史の過ちを心から反省していない日本。一方、高い道徳性を持つ韓国。日本が真に謝罪することが、日韓関係正常化の前提である。―――
彼らは事あるごとにこの「物語」を取出し、反芻し、「物語」と結びつけては自分たちの行動の正当性を確認する。

7月1日に安倍内閣は、集団的自衛権を行使できるとする憲法解釈変更の閣議決定を行ったが、翌日(7/2)の東亜日報の社説は、「潔く賛同できない理由がある」と言う。その理由は次のようなものだ。
《日本は過去に韓半島と中国を侵略した歴史があり、従軍慰安婦など反人類的な戦争犯罪に対して心からの反省を回避している現実と無関係でない。》

先日、ソウルのロッテホテルで開く予定の自衛隊の記念行事について、一部市民の反対を理由にホテル側が前日になって会場の使用を断る、という問題が発生した。この問題を取り上げた朝鮮日報社説(7/12)は次のように書いた。
《 韓国と日本は今も国際社会で、慰安婦問題や歴史問題をめぐり激しく衝突している。これについては道徳面での優位を失わないことが何よりも重要だ。欧米各地に慰安婦の追悼碑が建設され、現地の世論が韓国に友好的となっているのは間違いないが、これは韓国の主張が人類共通の普遍的価値からしてより正当性があるからだ。》

▼昨年10月に在日米国大使館で、日本と韓国の記者が「対話」する時間がもたれた。日韓の感情的対立に困惑する米国が斡旋し、在日米軍基地の視察プログラムで来日した韓国の「中堅言論人約10人」と、「日本の主要新聞の外交・安保専門記者」が忌憚なく話し合える場を用意したのである。(中央日報2013/10/15 コラム「接点がない韓日対話」)
韓国人記者たちの関心は「日本の再武装と右傾化の動き」にあり、「過去の歴史に対する徹底的な反省なしに日本が集団的自衛権を行使することになれば、軍国主義の復活につながる危険がある」という趣旨の発言が共通してなされた。
 日本の記者たちは、《歴史問題と安保問題を混同するのは誤りだと声をそろえた。》
 米国大使館の関係者は、日本の軍国主義復活の懸念について、「歴史的には理解するが、今や可能なシナリオではない」と発言した。
 このコラムを書いた記者は、次のように言う。
《過去の歴史に対する日本の真の謝罪と反省が前提になったとすれば、米国の説明を受け入れるのに無理はない。そうではないため、その言葉をそのまま受け入れるのが難しいのだ。》
 せっかくの米国の斡旋だったが、コラムの題名どおり、「接点のない」まま韓日対話は終わった。

 政府から距離を置き、多様な視点を保持するべき言論人たちが、政府の代弁者になりさがり、韓国内でしか通用しない「物語」を疑うことなく繰りかえすのを見れば、米国政府関係者でなくとも肩をすくめ、嘆息せざるを得ないだろう。


▼これまで政府の「報告書」の内容が正しいことを前提に、議論を続けてきた。
当ブログではスタート以来、主張の根拠をきちんと吟味したうえで明示し、意見の異なる人たちの〈反論可能性〉を十分確保するように心掛けている。
 事実経過を羅列しただけの「報告書」といえども、「事実」の取捨選択の仕方によって、読み手の印象を大きく変えることも可能である。そこで、大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』(2007年)を参照することで、「報告書」の信頼性を確認し、また実際に問題に関わった人々の思いを見ることにしたい。

 大沼保昭は1946年生まれ、「慰安婦問題」が日韓間の政治問題化した90年代は、国際法を専門とする東大教授だった。70年代から積極的に在日韓国人の人権問題や、サハリン残留朝鮮人の韓国帰還問題などの市民運動に取り組み、成果を上げた。
 韓国メディアは、彼らに批判的な人々には気安く「右翼理論家」、「極右政治家」などの言葉を連発する一方、理解を示す行動や発言に対しては、「日本の良心」、「良心的メディア」などの気恥しい言葉で、持ち上げる傾向がある。大沼は彼らの分類では、もちろん「良心的学者」である。
 大沼は「アジア女性基金」設立に「呼びかけ人」として当初から積極的に関わり、「基金」の設立後は理事となって活動した。「基金」の韓国における活動が不本意な形で中断を余儀なくされ、2007年に解散したあと、《現場の目撃証人として、また日本の戦後責任を考え続けてきた者として》の使命感からまとめたのが、この『「慰安婦」問題とは何だったのか』(2007年)である。

▼大沼保昭は、「慰安婦」問題について次のように考えていた。
 彼女たちの境遇や待遇は多様であり、《一方の極にはある日突然強制的に連行された事例があり、他方にはすでに「公娼」だった人が募集に応じたケースもあった。》しかし《もっとも多かったのは、看護婦、家政婦・賄い婦、工場労働者として募集され、現地に着いてみたら「慰安婦」として「性的奉仕」を強制され、長期間自由を拘束される状態におかれたというケース》だった。
 慰安婦制度が、《全体として女性の尊厳を踏みにじる過酷な制度であったことは到底否定できない》という認識のもと、大沼は「アジア女性基金」の活動を中心となって担い、批判に対しては「基金」を擁護する論陣を張った。

 「アジア女性基金」による元慰安婦への「償い」という政策への批判や非難は、「右」からも「左」からもなされたが、なかでも「左」の支援団体や学者・弁護士たちは「国家補償」を主張し、国民参加の補償はごまかしだと強く反発した。しかし大沼は次のように言う。
 「元慰安婦個人に国家補償の請求権が認められるべきであり、それを裁判を通じて実現する」という主張は、国際法の観点から見て説得力のあるものではなかった。また、法改正や特別立法により国家補償を実現するという主張も、国会の政治力学の中で実現可能性のあるものではなかった。他方、元慰安婦は高齢のため次々に亡くなっていく。
 「基金」は、嫌がる元慰安婦に「償い」の受け入れを強要するようなことはしなかった。接触できた彼女たちに、「基金」の理念と「償い」の内容を説明し、「償い」を受け容れても日本政府の法的責任を追及する裁判は続行できるから、受け取ってはどうか、と助言してきた。
 ところが「基金」に反対する支援団体や学者・弁護士たちは、元慰安婦たちが「償い」を受け取ることに反対し、妨害し、裁判で勝てるはずだ、国会で特別立法が実現できるはずだと彼女たちを引っ張りまわしたあげく、何も実現できなかった。その政治責任をどう考えているのか。
 また大沼は、数十万人の国民が「アジア女性基金」に拠金したことに、積極的な意味を見るべきだと考える。それは国民自身が日本という国家の犯した犯罪に気づいたときに、自らの主体的意思に基づいて行った行為であり、「国家補償」に還元できない価値がある。―――

▼大沼は、「アジア女性基金」の事業が比較的成功したフィリッピンの例をあげる。元慰安婦たちの中心となって活動してきた女性は、当初は「基金」による償いをごまかしとして拒否していたが、償いの理念と内容を理解するにつれ最終的に受け入れることを決断したのである。
 《詰めかけた記者団にヘンソンさんは、「今まで不可能と思っていた夢が実現しました。とても幸せです」と語った。ほかの元「慰安婦」たちも、「50年以上苦しんできたが、いまは正義と助けを得られて幸せ」、「今日みなさんの前に出たのは、総理の謝罪が得られたからです。感謝しています」などと語った。こうしたことばとともに、彼女たちは、橋本首相からのお詫びの手紙を誇らしげに掲げて見せた。》

 また韓国で、基金の償いを受け取った元慰安婦のひとりは、総理の手紙を受け取ったあとの気持ちを次のように語ったという。
 《私は、この手紙を受け取って涙を流しました。日本のあちこちのいろいろな集会で、さまざまな方にお話をしてまいりましたけれども、そういった私の活動があまり知られることなく、そのまま闇に葬り去られるのではないかというふうな心配をした日もたくさんありましたし、そういうところで私の活動、私の努力が少しでも首相の元に知られたのかな、伝わったのかなというふうに思いまして、ほんとうに涙があふれ出ました。》

 同様の情景を、「報告書」は以下のように書いている。
 《一部の元慰安婦は、手術を受けるためにお金が必要だということで、「基金」を受け入れることを決めたが、当初は「基金」の関係者に会うことも嫌だという態度をとっていたものの、「基金」代表が総理の手紙、理事長の手紙を朗読すると、声を上げて泣き出し、「基金」代表と抱き合って泣き続けた、日本政府と国民のお詫びと償いの気持ちを受け止めていただいた、との報告もなされており、韓国国内状況とは裏腹に、元慰安婦からの評価を得た。》


▼「お詫び」や「謝罪」は、個人間にあってもなかなか難しい。さまざまな考えの持ち主が構成する国家の間、あるいは国民という集団の間では、「お詫び」や「謝罪」の問題はいっそう複雑にならざるを得ない。
 また、どのような「責任」を認めるのかということについても、いろいろな考えがあり得る。
 慰安婦問題で盛んになされた主張は、「元慰安婦の人間としての尊厳の回復は、日本政府が法的責任を認め、国家補償を行うという形でなされなければならない。国民参加の補償とはごまかしだ」というものだった。「日本政府は道義的責任だけでなく、法的責任をはっきり認めるべきだ。政府が道義的責任を認めるというのは、法的責任を認めないためのごまかしだ」という主張もなされた。
 大沼保昭は、「法的責任」を「道義的責任」の上位に置くこのような考え方は誤りだと言い、「いったいだれがそのような価値序列を決めたのだろうか」と問い返す。
 法律は社会の最低規範に過ぎない。「法律に違反していないなら何をしてもよい、ということにはならない」という言葉は、社会にはより高次の規範があるし、あるべきだという人々の良識を示している。道義とか道理という言葉は、社会を律する高次の規範を意味し、「法的責任」は免れるとしても「道義的責任」は免れないことがらが存在することを教えている。
 大沼は元慰安婦たちと関わった体験から、彼女たちの「思いと境遇は多様だが、それでも、真摯な、心のこもった、国家としての正式の謝罪を求める、という点では幅広い共通性があった」と考える。
 問題は、「真摯な、心のこもった国家としての正式の謝罪」を、一部の人々が「法的責任を認める政府の謝罪」と同一視し、それ以外に謝罪の形はないと頑なに主張したことである。「この考えは、法と道義のそれぞれの独自性と両者の共通性との理解において、決定的な過ちを犯している。」
 近代法は適用要件が専門的・技術的に明定されているのであり、要件を満たした場合にのみ国家権力によって強制される。政府の「法的責任」は、裁判所によって適用要件が吟味されたのち、認定されるものだが、仮に認定されたとしても、それは「真摯な、心のこもった国家としての正式の謝罪」とは別次元のものと考えるべきだ、と大沼は言う。

▼第2次世界大戦に関わる「謝罪」としてよく取り上げられるのが、1970年に当時の西ドイツのブラント首相が、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人墓地でひざまずいた例である。それは、一国の指導者が果たしうる最大限の人間的誠実さを示した責任の取り方として、評価されてきた。
 《だが、ブラントがひざまずいたとき、彼は法的責任をはたしていたわけではない。ブラントの行為は、広い意味での道義的責任のひとつのはたし方であり、同時に政治的責任のはたし方でもあった。》

 「ドイツは戦争責任を果たしているのに日本は果たしていない」という議論がまかり通っているが、ドイツが果たしてきたのは「道義的責任」であって、「法的責任」ではない、という事実はほとんど知られていない、と大沼は言う。
《ドイツは、「日本と違って侵略戦争の法的責任を認めている」わけではない。「日本と違って個人の補償の法的請求権を認めている」わけでもない。》
《ドイツが日本に比べて相対的にはマシなかたちで戦争責任を認めていることはたしかだが、両者の違いは「法的責任を認めているか否か」にあるのではない。それは、「道義的責任をどれだけ適切なかたちで認めているか」という点にあるのである。》

「総理の手紙」は、「私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる元従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からのおわびと反省の気持ちを申し上げます」と記し、末尾には「日本国総理大臣」という肩書を明記し、総理自身が署名している。内容、形式から見て、明らかに国家を代表する内閣総理大臣の、正式のお詫びの手紙である。
 元慰安婦たち一人ひとりに手渡されたこの手紙は、《多くの場合、受け取った人たちに深い満足感、尊厳の回復感を与えた》。《基金の理事がこの手紙を読み上げると、多くの被害者が涙を流し、人によっては理事と抱き合い、手を取り合い、ほとばしるようにつらかった過去を語り、その後笑顔を示した。》

 国際法学者である大沼の言うところでは、一般に政府が謝罪や反省の言葉を発する必要に迫られたとき、もっとも多く用いられるのは「regret (遺憾)」という言葉だという。「apology (お詫び、謝罪)」や「remorse (反省、悔恨の念)」という重い言葉が用いられることは稀であり、そうした謝罪の言葉を記した国家の代表者の署名入りの手紙を、個々の被害者に届けることは「さらに稀」だという。
「総理のお詫びの手紙」は、「心からのお詫びと反省(heartfelt apology and remorse)」という言葉で国家の代表者が元慰安婦個々人に謝罪した手紙である。にもかかわらず、せっかくのその言葉が彼女たちの多くに届かなかった原因を、大沼は悔しさをこめて次のように告発する。
 《日本政府とアジア女性基金が償いの理念と意義を十分な広報・説得活動を通じて伝えることができなかったこと、多くの支援団体やNGOがあまりにこわばった姿勢で基金による償いを拒否し続けたこと、そしてメディアが基金による償いの欺瞞性というイメージを津々浦々に広めてしまったことが、被害者からそうした機会を奪ったのである。》

▼大沼は、「日本政府とアジア女性基金が償いの理念と意義を十分な広報・説得活動を通じて伝えることができなかったこと」を、「アジア女性基金」の事業が韓国で不本意な形で中断せざるを得なかった理由のひとつに挙げている。「基金」の理念を広め、理解してもらうための積極的な広報活動を大沼たちが求めても、政府は「ひたする嵐が過ぎるのを待つ」消極姿勢を変えず、外務省から天下った「基金」の事務局長や寄り合い世帯の事務局は、効果的な活動を行う能力や意欲を持たなかった。
 この指摘は、今回の「談話の検証報告書」には顕れないものであり、「基金」の「失敗」の原因を考える際、大事な視点である。
 支援団体やNGOの「あまりにこわばった姿勢」について、大沼は著書の中で強く批判しているが、その詳細についてここでは触れない。ただひとつだけ、「本当に筋の通った解決」のためには問題の解決に五〇年、一〇〇年かかっても構わないと主張した韓国の挺対協指導者(尹貞玉)の言葉をあげておく。
 彼女はまた、「アジア女性基金」の償い金を受け取った元慰安婦たちに対し、金を受け取ることは、自分が公娼だったことを認めることだと非難した。こうした「当事者不在」の発言、自らの信じる「正義」を元慰安婦たちの思いに優先させて怪しまない発言が、韓国メディアを拘束し、韓国政府を拘束したことは、「検証報告書」が記すとおりである。


▼このブログの連載中の8月5日、6日の2日間、朝日新聞はその16面、17面の全紙面を使って「慰安婦問題を考える」という異例の大特集を行った。そしてその中で朝日の過去の報道を点検し、「慰安婦問題」のそもそもの発端となった、済州島で「慰安婦狩り」を行ったという吉田清治の証言は「虚儀だと判断し」、関連記事を取り消した。
 また、「『女子挺身隊』の名で前線に動員され、慰安所で日本軍人相手に売春させられた」、「朝鮮人女性を女子挺身隊の名で強制連行した」と、女子挺身隊と慰安婦を混同する記事を載せたことについても、誤りであることを認めた。「当時、慰安婦を研究する専門家はほとんどなく、歴史の掘り起こしが十分でなかった」ことが原因だという。
 そのほかに3点、朝日新聞の過去の記事に向けられた批判を取り上げて弁解し、「慰安婦問題」の経緯を整理した記事と有識者5人のコメントを並べている。

 新しい情報も積極的な提案もあるわけではない。吉田清治の証言が虚偽であることや、女子挺身隊と慰安婦の混同が韓国世論を燃え上がらせた一原因だったことなど、いまさらあらためて言うまでもないことだ。何を今ごろになって、と訝しく思わないでもないが、おそらくここには朝日新聞の強い危機感が存在する。
 日韓関係が悪化し、いっこうに改善の兆しが見えない。韓国側はことあるごとに、日本は歴史認識を改めろ、反省が足りない、誠意を見せろと言いつのり、日本人の韓国に対する感情も、これまでになく険しくなっている。両国の関係悪化を生み出したのは、朝日新聞の「慰安婦問題」の記事ではないか、という言論界や政界での朝日批判も強まっている。
 「慰安婦問題」に火をつけ煽った者として、朝日新聞はいつまでも批判に頬被りを続けるわけにはいかなくなった、というのが、異例の大特集を組んだ理由であろう。
 今回の特集の中で朝日は、他紙も同様の記事を書いていたではないかという反論にもならない反論を試みながら、明白な誤報は弁解しつつ取り消し、その他の批判は当たらないとする。そして、《問題の本質は、(いわゆる強制連行の有無ではなく―――筆者註)軍が関与しなければ成立しなかった慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳が傷つけられたことにある》という従来の主張をくりかえすことで、態勢を立て直そうとしたのである。

▼読売新聞は8月6日の社説で、朝日のこの特集を取り上げた。通常2本載せる社説を、この問題1本にしぼるという異例の張り切りようで、「吉田証言」は《国連人権委員会のクマラスワミ報告にも引用された。これが、慰安婦の強制連行があったとする誤解が、国際社会に拡大する一因となった。》《もっと早い段階で訂正されるべきだった。92年には疑問が指摘されながら、20年以上にわたって、放置してきた朝日新聞の責任は極めて重い》と書く。
 そして、《疑問なのは、「強制連行の有無」が慰安婦問題の本質であるのに、朝日新聞が「自由を奪われた強制性」があったことが重要だと主張していることだ》と批判する。

 産経新聞も8月6日、「主張」欄に《朝日慰安婦報道 「強制連行」の根幹崩れた》とするやはり長文の文章を掲載した。「取材などで事実が判明すれば、その都度、記事化して正し、必要があれば訂正を行うのが当然の姿勢ではないのか」と言い、自分たちも吉田証言を記事にしたが、その後の取材や研究で証言が「作り話」であると判明したのちは、その事実を何度も報じてきた。朝日が「証言をこれまで訂正せず、虚偽の事実を一人歩きさせた罪は大きい」と批判する。
 また、《朝日の報道が日韓関係悪化の発端となったにもかかわらず、「自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っている」と、ここでも責任を転嫁している》と非難する。

▼問題の発端はたしかに、「慰安婦狩り」や「女子挺身隊」の徴用を通じて朝鮮人女性を強制的に慰安婦にしたという新聞記事であり、その真偽の問題だった。しかしその後問題は自己増殖し、変異した。二つの記事は誤りであったと、火つけ役の新聞は二十数年後に認めたが、変異し自己増殖した問題は世界各地に転移し、「20世紀における最大の人身取引事件のひとつ」(アメリカ連邦下院決議 2007年)、「人道に対する罪」(ニューヨーク州上院決議 2013年)にまで成長してしまった。
 日本政府が(あるいは日本人が)相手にしなければならないのは、誤解であれ何であれ、このように変異し、増殖・転移が現在も進行中の問題なのである。「強制連行はなかった」という事実が明らかになれば片づくわけではないし、朝日新聞の責任を追及し非難すれば済むわけでもない。変異や転移の状況を見極めたうえで、周到な戦略・戦術をもって対応しなければならない問題なのだ。

 筆者が読んだ中では、毎日新聞の社説(8月7日)がもっとも問題意識がクリアで、問題全体への目配りが行き届いていたように思う。

《毎日新聞は慰安婦問題について、法的には国家間で決着済みとする政府の立場を踏まえつつ、これを人権問題として考え、医療や社会福祉などの面で救済措置を講じることができないかと提案してきた。
河野談話に基づき95年に設置された「女性のためのアジア平和国際基金」が、首相の「おわびと反省の手紙」を添えて韓国、台湾、フィリピンなどの元慰安婦に1人あたり200万円の「償い金」を渡すことにしたのは、当時の日本としてできる最大限の措置だったといえる。
しかし、韓国側はこれをいったん評価しながら、その後、あくまで国家賠償を求めるとして受け取りを拒否した。これが慰安婦問題がこじれて今日に至った大きな原因である。》
そして日本政府がこれからとるべき道を、次のように主張する。
《……河野談話を安倍政権が引き継ぐと世界に約束した以上、広義の強制性か狭義の強制性か、といった国内論議に改めて時間を費やすのでは、国益を損ねる。戦時下の女性の尊厳というグローバルな問題と捉え、日本の取り組みを再構築していくべきだろう。》

▼当初は2~3回の予定で書きだしたのだが、予想外に長くなってしまった。
 途中、いくつか資料を読みながら、「歴史」について考えることもあったが、それはいずれ機会を見て取り上げることにしたい。
「〈正義〉に憑かれた人々」が「慰安婦問題」には多く登場するが、彼ら(彼女ら)との接触はどのような場面であれ避けたいところだ。しかしそういう人々が大きな影響力を発揮し、歴史を動かすということもあるのだろう。
 日本政府と韓国政府がこれから対話・交渉を再開するにあたり、「河野談話」の「検証報告書」に書かれた事実は、(韓国政府がいかに忌避しようと)その土台となるべきものである。
「検証報告書」に書かれた事実経過と、変異・増殖し転移した「問題」を睨みながら、日本政府は早期の解決を迫られている。

(おわり)

ARCHIVESに戻る