「男らしさ」の忌避をめぐって思うこと

             【2014年11月25日~11月30日】



▼3週間前の新聞記事の話になるが、朝日新聞の1面トップは、「『自分』追いつめた性別」という見出しの記事だった。事件のニュースではない。「男/女が生きる らしさって?」という副題がつき、《知らず知らず、私たちは「男/女らしさ」を意識する。でも、らしさってなんだろう。追いつめられた性的少数者の人たちや、とらわれる男たちの姿を通して考える。》とリードがあるから、これが「朝日」のキャンペーン記事だとわかる。1面のみならず、2面にも大きなスペースをとって記事は続き、翌日もその続きの話が載った。
 通常、この手の記事はパスすることに決めているが、「朝日」があまりにも力を入れているので読んでみた。予想したとおり、もやもやして胃の消化に悪い記事だった。なぜもやもやした不満が残るのか、そのことを少し考えてみようと思った。

▼まず初めに、同性愛者や心と身体の性が一致しない人の話が取り上げられている。
 性転換手術をして男の身体を手に入れ、戸籍も女から男へ変更したが心は満たされず、薬を大量に飲むようになり、吐瀉物をのどに詰まらせて死亡した若者の話。
 次に、10代のころから「女っぽい、気持ち悪い、オカマ」といじめられ、引きこもり、高校中退、自殺未遂を経験した人の話。彼は自分が同性愛者であることを公表し、今は教育現場でのいじめ対策に取り組んでいる。
 3人目に紹介されるのは、デンマーク人男性と「結婚」し、コペンハーゲンに移住した男の話。同性愛者であることを隠した日本での暮らしは息苦しかったが、隠す必要のないデンマークでは「自然体の暮らし」ができ、幸せを感じている。―――
 そういった「性的少数者」のケースを紹介したあと、次のようなコメントが挿入される。
 《「雄々しい」などの言葉には、社会的に刷り込まれた、雄々しくない男への差別意識が潜む。》
 《雄々しいのが男であって、そうでない男は男でない。「らしさ」を強いる意識は、そんなふうに異質なものを排除しようとする心と結びつく。》

 次の話題は、あるメーカーで肩たたきに合い、給料も大きく減らされた男の話である。
 彼は自宅を買ったばかりで、子どもは私立小学校に通っている。妻がパートに出てくれると経済的に大いに助かるのだが、「働いてくれなんて、妻には絶対に言いたくない。」
 しかし自宅待機を命じられ、家で事情を話すと、妻は「私が働けばいい」とあっさり言い、男は拍子抜けした。
「男らしさ」の意識にからめとられ、困難な状況から「逃げる」こともできず、悩みを解決することもできず、そのあげく家族へ暴力を振るったり、妻に去られたりという悲劇に堕ちていく男たちが多い、と記者は言いたいらしい。

 3番目の話題は、89歳で料理教室に通い、料理の基本を習っている老人の話である。
 老人は、妻に先立たれたあと、稼ぐこと以外は妻に頼ってきた自分に初めて気づいた。
 料理教室の主宰者は言う。「生きるのに欠かせない食事を、女性だけになぜ任せるんでしょう?」
《90年代からの「失われた20年」で、失業や収入減、非正規社員の増加などから「標準」が揺らぐようになった。家族や地域での孤立や自殺など、「男らしさ」が生きづらさにつながる問題が目立ち始めた。》と記者はコメントする。

 そして最後の話題は、「最も身近な常識『男らしさ』『女らしさ』から離れてみる」ために、生徒が男女で制服を交換して1日を過ごす山梨県のある高校の話。企画を提案した高校生は、テレビで「おねえキャラ」のタレントを見て「性的少数者」に関心を持ち、「男らしく」「女らしく」という自分たちにとって当り前の意識が、彼らを生きづらくさせているのでは」と考えた。
 担当教諭は、《「らしさ」の意識にとらわれず、社会の仕組みやルールをつくってほしい》と、生徒たちに期待を寄せる。
 全校生徒800人のうち300人が参加する予定だという。


▼内容も性質も異なる雑多な話が並んでいる。
最初の同性愛者や心と身体の性が一致しない人の話と、次の会社をリストラされた社員の話と、その次の、妻に先立たれ料理教室に通っている老人の話のあいだに、何の関連もない。その、何の関連もない話をつないでいるのは、「男らしさ」「女らしさ」の意識が生きづらい社会をつくっており、変えなければならないと考える、記者の思い込みである。
しかしあらためて言うまでもなく、「雄々しさ」や「女々しさ」を生物学的男・女と結びつけて非難するのは、的外れである。言葉の出自はともかく、「雄々しさ」も「女々しさ」もひとの行為や態度に対する社会の価値評価を示しているのであり、男を尊重しているわけでも女を卑しめているわけでもない。
 《「雄々しい」などの言葉には、社会的に刷り込まれた、雄々しくない男への差別意識が潜む》から、そういう言葉の使用を控えようと、記者は明示的には言わないが、そのような文脈でこのコメントを記す。
 しかし「雄々しい」という言葉を、たとえば「勇敢な」とか「凛々しい」という言葉に言い換えたとしても、「勇敢な」行為は賞讃され、「女々しい」行為や振る舞いが軽蔑されることはなくならないだろう。また、なくなっては困ると思う。
 《雄々しいのが男であって、そうでない男は男でない。「らしさ」を強いる意識は、そんなふうに異質なものを排除しようとする心と結びつく。》
 ここで「らしさを強いる」として非難されているのは、「勇敢さ」「凛々しさ」という徳目を大切だと考え、称揚する意識である。健全な社会の価値意識が、「差別意識」「異質なものを排除しようとする心」と強引に結びつけられ、非難されている。
こういう訳知り顔のうっとうしい発言が幅を利かせるのは、健康な社会ではない。


▼「朝日」の記事の中の、会社でリストラの対象とされ自宅待機を命じられた男の話から、筆者は映画「トウキョウソナタ」(黒沢清監督 2008年)を思い出した。

 ある企業の課長職にあった中年の主人公が、ある日突然解雇を言い渡される。妻に話せず、毎朝それまでと同じように家を出、ハローワークに通うが、新しい職はなかなか見つからない。
 行き先もないまま立ち寄った公園で、偶然、高校時代の同級生に遇う。同級生はなかなか忙しそうで、主人公との立ち話のあいだにもケータイに仕事の電話がかかってきたりするのだが、やがてお互いに失業中であることが判明する。ケータイの電話はただのお芝居だと、同級生はあっさり認める。
 公園ではホームレスへの炊き出しが行われており、ふたりは昼食をもらうための列に並ぶ。
 こうしてふたりが公園で会う日が、幾日か繰り返される。同級生はひとりごとのようにつぶやく。
「………なんか、俺らって、ゆっくり沈んでいく船みたい。………救命ボートはとっくに行っちゃって、口元まで水が来てもうだめだと分かってるのに、まだどこかに出口を探している………。かといって水の中もぐる勇気なんてなくて………。
行っちゃったんだよ、救命ボート。女と子どもと若いやつらだけ乗っけて……。」

 主人公の妻も二人の息子も、それぞれ家族に言えない問題を抱え、映画は家族の崩壊の危機と再生の希望に向けて突き進むのだが、それはひとまず措いておこう。いま問題にしているのは、なぜ主人公の中年男は、自分の失業を妻に言えなかったのかということである。
 男のプライドが邪魔をした、「男らしさ」の意識が主人公を縛っていたからだ、という説明は、必ずしも間違ってはいない。しかし、だから「男らしさ」の意識などさっさと脱ぎ捨て、身軽になるべきだと主張するなら、それはほとんど間違いだと言わねばならない。
 主人公は解雇という理不尽な現実に対し、強い憤りを持ちながら、受け入れざるを得ないと自分に言い聞かせ、けれども現実と折り合いをつけるのは難しく、無力感が彼を苛む。彼を捉えているのは、自分が敗者であり、社会からの脱落者であることへの言いようのない「恥ずかしさ」である。
「救命ボート」はすでに遠くに去り、社会から捨てられてしまった孤独感が彼を包む。それでも力を奮い起こし、現実を受け入れ、なんとか血路を開こうとする彼にとって、「男らしさ」とは自分を支える最後の矜持であるはずだ。たとえそれが愚かしく不合理だとしても、彼を嗤うことは誰もできない。


▼同性愛者や心と身体の性が一致しない人びとについて、日本では彼らを差別する法制度はなく、また宗教的な抑圧もほとんどないはずである。
 にもかかわらず、「性的少数者」として生きる彼ら彼女らの毎日が、息苦しい緊張感に満ちたものであることは、容易に想像できる。自分は男なのか女なのか、男として生きるべきか、それとも女として生きるべきか、大部分の人間が考えなくてもよい問題に、多くの時間を割くことを強いられるからだ。
 「金持ちであることの利点の一つは、金のことを考えなくても済むことだ」という言葉があるが、寝ても覚めても金をどう工面するかを考える生活が苦しいものであるように、常に自分の性について考えることを強いられる生活も、辛いものだろう。
 つまり、彼らの存在の仕方そのものが苦しさを生み出すのであり、周囲が「らしさ」の意識から自由になれば、彼らの苦しさが消える、というようなものではないのだ。
 彼らが安らぎを得るためには、同じ境遇にある人びとと知り合い結びつくことが、必要であり有効だろう。インターネットが普及した現代は、同じ境遇にある人びとが知り合う格好の手段を用意しているわけで、彼らは過去のどの時代の人々よりも恵まれていると言える。

この種のデリケートな問題は、新聞社がキャンペーンを張ったり、学校教育で取り上げたりするのにふさわしいテーマとは思えない。「朝日」の見識を訝しく思う。

▼先週、高倉健が亡くなったというニュースが流れ、「健さん」追悼の言葉がTV、新聞、雑誌にどっと現れた。周囲に気を配るやさしい人だったと懐かしむ声もあれば、愚直に筋を通す「男の美学」や、男らしい「男の中の男」を強調する声も多かった。
「男らしさ」を語ることに疑問を投げかける「朝日」がどう報じるのか、少し皮肉な目で眺めたが、他のメディアと違いはないようだった。 
 「朝日」の社説は、「健さん逝く」「自らを律する美学残し」と題して、次のように書いた。

《スクリーンの中に息づく、信義に厚く、損得勘定とは無縁の寡黙な姿を、人々は生き方のひとつの規範と受け止めた。そしてそれを、人間・高倉健と重ねてきた。》
《背筋の伸びた、たくましい健さんの後ろ姿。その背景には、母の言葉があった。
 「辛抱ばい」
 「家族に恥ずかしいことをしなさんな」
 映画の中で「刺青を入れたり、寒いところへ行ったり」する息子の身を案じつづけていたというおかあさんの、素朴だが、重い人生訓である。(中略)
 逆境に耐え、自らを律する。そう望んだ母の教えに照らして、恥ずかしくないか。健さんを磨き上げ、輝かせたのは、その自省の深さだったのだろう。》

 この社説の言葉に異存はない。この社説の言葉と、「雄々しさ」や「男らしさ」をさかしらな理屈をつけて貶める言説とはどう関わるのか、「朝日」の「自省」を注意して見ていきたいと思う。

(おわり)

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