『みんな元気』と『東京物語』

              【ブログ掲載:2013年6月23日〜7月21日】



1.

▼先日たまたま、BS放送で流していた『みんな元気』というアメリカ映画を見た。
 技術者として長年勤めていた企業を退職し、現役を引退した初老の男が、郊外の家にひとりで暮らしている。妻は8か月前に亡くなったが、感謝祭の休日には子どもたちが帰省し、家族みんなで食事をすることができる。それを楽しみに、スーパーに出かけて上等の肉やワインを買い込み、バーベキューコンロも新調し、準備万端整える。
 しかし家の留守電には、用事ができて帰省できない、という子どもたちの伝言が入っていた。男は、自分の方で子どもたちを訪ねて行こうと、事前に連絡せずに旅に出る。
 最初に訪れたのは、ニューヨークで画家をしているデイビッドのアパートである。しかし息子は留守で、夜遅くまでアパートの前で待つが帰ってこない。書き置きをドアの隙間から中に入れ、娘の住むシカゴへ移動する。
 娘エイミーは広告代理店の幹部として働き、郊外の豪邸に夫と中学生ぐらいの息子とともに暮らしている。初老の父は2,3日滞在するつもりだったが、夕食の席で娘の夫とその息子のあいだの複雑な反発関係を見せられ、娘からも仕事が忙しくていっしょに時間を過ごせないと告げられ、翌日デンバーに向かう。
 息子のロバートは、デンバーの交響楽団で指揮者をしているはずだった。街頭に張り出された交響楽団のポスターの前で、父は誇らしげに写真を撮ってもらう。しかし楽団の練習を覗くと指揮者は別人であり、息子はドラマーだった。練習のあと顔をあわせた息子は、自分には指揮者の才能はない、ドラマーで十分満足している、と語る。

▼最後に訪れたラスベガスでは、娘のロージーが迎えに来た。ダンサーとして成功したという娘は、超高層マンションの見晴らしの良い部屋に父親を連れて行く。食事は高級レストランでしようと娘と父が話していると、赤ん坊を抱いた女がやってきて、少しのあいだ預かってほしい、という。娘と女が赤ん坊の世話をしているあいだ、男は別室に行き、そのマンションが娘の住まいではなく、一時的に他人から借りたものだということを知る。
 父親は娘に、ニューヨークのデイビッドが留守だったが、どうしているか知らないかと尋ねる。メキシコに行ったらしい、と娘は答える。が、もっと詳しいことを聞きたい父親に、娘は、詳しいことはわからない、と言って話そうとしない。
 ラスベガスからの帰りの飛行機の中で、男は持病の心臓発作を起こして倒れ、救急車で病院に運ばれる。意識のない男の脳裏に、4人の子どもたちが少年少女期の姿で現れ、「父さんは厳しかった」、「母さんには何でも話せた」、「父さんは自分たちに求め過ぎた」と口々に言う。
 男は驚いて言い返す。私はお前たちを立派に育てるために、一生懸命働いた。そしてお前たちは立派に育った―――。(だが妻から聞いていた子どもたちの話は、本当ではないところがいろいろあるようだ。)
 意識のもどった男は、ベッドの脇に立つ息子と娘に気づき、デイビッドはどこにいる、と聞く。息子のロバートは、デイビッドはメキシコで麻薬を手に入れようとして警察に逮捕され、その麻薬を隠そうと呑み込んだため、急性薬物中毒で亡くなった、と言いにくそうに告げる。男は嘘だと言い、その話を受け入れない。
 嘘ではないの、とエイミーが言う。私がシカゴの家で、忙しいから父さんと一緒に過ごせないと言ったのは、メキシコにデイビッドの遺体を引き取りに行かなければならなかったからなの―――。

 クリスマスの休日に、男の家に子どもたちの家族が集まり、賑やかに食事を楽しむ。エイミーと夫は離婚していたこと、ロージーのマンションで見た赤ん坊はロージーの実の子であること、などが知らされる。部屋の壁には、男がデイビッドの死後手に入れた彼の絵が掛けられていた。それは父親の仕事をモチーフにした絵だった。
 晴れた日、男は妻の墓に行き、亡き妻に報告する。「みんな元気だ」。

▼『みんな元気』(Everybody’s Fine)は、カーク・ジョーンズという監督の2009年の作品だが、小さなファミリーの危機と再生というドラマトゥルギーの基本に忠実な佳作である。家族を愛し、仕事に打ち込み、懸命に生きてきた初老の男の自信と誇りと困惑を、ロバート・デニーロが好演している。
 この映画は同じ題名のイタリア映画のリメイクだというが、老いた親が子どもたちを訪ねて旅をする話の元をたどれば、当然、小津安二郎の『東京物語』(1953年)に行きつく。小津の『東京物語』と『みんな元気』の比較対照の中から何が見えるのか、次に考えたい。

2.
▼前回、カーク・ジョーンズの『みんな元気』と小津の『東京物語』の比較対照の中から、何が見えるのか考えたい、と予告を書いたが、その後たまたまイタリア版の『みんな元気』のVHSが手に入り、観ることができた。まずそちらから話を始めたい。

 イタリア版の『みんな元気』(Stanno Tutti Bene)は『ニュー・シネマ・パラダイス』などで知られるジュゼッペ・トルナトーレの作品である。彼は『ニュー・シネマ・パラダイス』を撮った翌年の1990年に、この映画の監督と脚本を手掛けている。

 シチリアの役場で長年出生証明の事務をしていた老人マッテオは、夏に子どもたちが帰省するのを心待ちにしていたが、だれも帰ってこない。そこでイタリア各地で仕事をしている子どもたちに、会いに行こうと汽車に乗る。
 まずナポリで大学職員をしているはずのアルヴァーロのアパートを訪れるが、息子は留守。その後何回電話しても息子と連絡を取ることができない。
 諦めてローマに向かい、政党組織の仕事をしているカニオのアパートに行き、泊まる。息子が政治家として華々しく売り出すことを期待している父親に、彼は、自分は党の地区組織の書記に過ぎないという。
 ローマから娘トスカの車で、娘が暮らすフィレンツェの見晴らしの良いアパートへ行く。娘は女優兼モデルとして成功しているようだった。
 翌朝老人が目を覚ますと娘の姿はなく、ベビーチェアに座った赤ん坊がおり、友人の子どもを預かっている旨の手紙が置いてあった。やがて友人が子どもを引き取りに来て、老人は娘のファッションショーを見に行く。娘の艶やかな姿に拍手し、ブラボーと叫ぶ老人。しかし娘はショーの合間に、楽屋の隅で赤ん坊に乳を飲ませている。
 ミラノへ移動する途中の列車で、老人は旅行中の老女に出逢う。年金生活者たちの旅行会の旅行なのだと老女は説明し、老人は一行とともにリミニの海岸へ行く。その晩、老人は老女と語らい、ダンスに興じる。
 ミラノでは、楽団のドラマーをしている息子グリエルモに会う。その息子、つまり10代半ばの孫のアントネッロとバイクに同乗し、いっしょにハンバーガーを食べ時間を過ごすうちに、孫は心を許し、恋人を妊娠させてどうしたらよいか分からない、と打ち明ける。
 最後にトリノへ行き、娘のノルマの夫婦に迎えられる。しかし夜中に目覚めた老人の耳に、隣の部屋の娘夫婦の会話が聞こえてくる。―――もう幸福な家庭をよそおうのはやめよう。父上に会うたびに心が痛む―――。

▼『みんな元気』のイタリア版は、列車の中で出会った老女に惹かれて寄り道するエピソードを除けば、物語の骨格も細部の設定もアメリカ版とほとんど変わらない。最初に訪れた息子が不在で会えないことも、もう一人の息子が楽団のドラマーをしていることも、娘の一人が父に内緒で赤ん坊を産み育てている設定も、同じである。また子どもたちの幻が少年少女期の姿で現れ、これまで父親に言えなかった思いを語るという設定も同じである。

 夜中に娘夫婦の会話を聞いてしまった老人は、夜中にもかかわらず家を抜け出し、霧の漂う街をさまよう。ホームレスの段ボールハウスが集まっている駅の一角で、空いているハウスに腰を下ろした老人の前に、子どもたちの幻影が現れる。
 娘ノルマの少女の幻影は老人に、夫とうまくいってないが別れてはいない、パパが結婚にご執心だから、という。
―――お前たちは私をだましていた。なぜだ?
―――パパを悲しませたくなかった。話してないことがたくさんある。
―――パパは優等生を望んでいた。僕たちを怒鳴ったり殴ったりしたことを忘れたの?
 老人は、お前たちのことを思ってしたことだ、しっかり育ってほしかったと弁解し、またみんなで一緒に食事をしよう、昔のように、と提案する。
 しかし予約したローマのレストランに顔を出したのは、カニオとグリエルモの息子二人だけだった。ふたりからアルヴァーロが死んだこと、孤独に苦しんだ末の自殺だったと告げられる。
 シチリアに帰る列車の中で、老人は夢に現れた母親に、子どもたちは幸せだと思っていたが、そうではなかった、自分の苦労は何にもならなかった、と苦しそうに語る。そして人事不省に陥る。
 病院で目を覚ました老人の周りに、子どもたちの家族が全員集まっていた。老人は、やっと皆を集められた、と独り言をいう。それから孫のアントネッロを手招きし、そっと伝える。
 「彼女の子どもは二人で育てなさい。家族とのあいだで問題が起こるだろうが、やがて収まる。子どもを大人物に育てようとしてはいけない。普通の人に育てなさい。」

 シチリアに戻った老人は海辺の墓地に行き、妻の墓に、帰ってきたよ、有意義な旅だった、と報告する。「子どもたちのことが気になるかい?みんな元気だ。本土で立派にやっている。私たちは胸を張って歩ける。みんな元気だ。」

▼主人公の老人役を、マルチェロ・マストロヤンニが熱演している。分厚いレンズの入った太い黒縁の眼鏡をかけ、ソフト帽をかぶり、時代遅れの古いオーバーコートを着、ネクタイを締めた姿で歩き回る。74歳という設定のようだが、壮年期のように分別もあり包容力もある人物として描かれている。
 イタリア版には1990年当時のイタリア社会の現実が描かれているほか、意味の判然としない、つまり理屈では説明が難しい何気ない場面がいくつか描き込まれている。
 たとえば、巨大なアグリッパの上半身の石膏像が小型トラックにくくりつけられ、街のなかを運ばれる場面。あるいは、金をくれなければ自殺する、とアパートの屋上で下に集まった群衆に向かってわめく男と、またやってると、にやにや見上げている群衆の場面。
 無数の鳥の死骸を清掃作業員が片づけている場面や、高速道路で車が止まり、何が原因なのかと車を降りて見に行くと、道路にシカが一匹迷い込んだためだと分かる場面。
 トルナトーレが何を意図してそれらの「不要な」場面を挿入したのか分からないが、それらが「良い味を出している」と見ることも可能かもしれない。
 アメリカ版では話の骨格に関係のない不要な部分は取り除かれ、スッキリと分かりやすく整理されているが、その評価はひとにより別れるところだろう。
 
3.
▼『東京物語』は小津安二郎が監督した昭和28年の作品である。
 尾道に暮らす老夫婦(笠智衆と東山千栄子が演じている)が夏のある日、東京で暮らす子どもたちに会いに上京する。老夫婦には子どもが5人あり、長男と長女が東京に住み、次男は戦争で亡くなり、三男は大阪で鉄道員、次女は小学校の教員で、尾道で一緒に暮らしている。
 長男(山村聡)は東京で内科・小児科医院を開いている。画面にちらと出てきた手がかりから推測すると、足立区の墨田区との境、東武伊勢崎線の堀切駅近くがこの医院の所在地らしい。近くに荒川が流れ、川の土手が医院から見上げる位置にある。老夫婦はこの長男の家に泊まる。
 長男は両親を東京見物に連れて行こうと計画するが、出かける直前に子どもの急患があり、計画は中止となる。
 長女(杉村春子)は美容院を営んでいる。自分は店を空けられないからと、老夫婦の東京見物を義理の妹(原節子)に依頼する。戦争未亡人である義妹は快く引き受け、会社の休みを取って老夫婦と一緒に「はとバス」で東京を回り、夜は自分の一間きりのアパートに二人を連れて行き、夕食でもてなす。
 長男と長女は両親に、熱海の温泉でゆっくり休んでもらおうと考える。熱海の海岸の景色と温泉を楽しんだ老夫婦だったが、夜遅くまで続く旅館の客の麻雀と歌謡曲の喧騒に耐えられず、翌日早々に東京に戻る。長女は、両親がせっかくの熱海旅行から1日で戻ってきたことに、不満を隠さない。

▼老夫婦はその日どこに泊まるか相談する。熱海から早々に戻ってきたため、企画してくれた長男や長女のところには、泊めてくれと言い出しにくい。尾道での知り合いが東京にいるので尋ねてみる、と夫は言い、妻は義理の娘のアパートの部屋に泊まることにする。
 その夜、夫は尾道での知り合いの代書屋と元警察署長と、一緒に酒を飲む。元警察署長は、子どもへの不満を口にする。「子どもはおらなければさびしいし、おれば親を邪魔にする」、「もちっとセガレは何とかなると思っていた。わしは不満じゃ」、「あれもあんな奴じゃなかった」―――。
 長女は夜中に寝ているところを、駐在の巡査に起こされる。戸を開けてみると巡査が酩酊した老父を連れて立っており、老父を受け取って家の中に入れると、もう一人酩酊した元警察署長が一緒に入ってきた。―――

 老夫婦は子どもたちに見送られ、東京駅から夜行列車で尾道に帰る。しかし間もなく尾道から、「ハハキトク」の電報が子どもたちの元に届く。駆けつけた子どもたちが見守る中、脳溢血で倒れた母親は意識を回復しないまま亡くなる。
 葬儀のあと子どもたちも順次引き上げ、義理の娘が最後に帰る日になる。老人はお礼を言い、「あんたのようなええ人が、いつまでも独りでいる。それが心苦しい」と再婚を勧める。
 「私そんな、おっしゃるほどいい人間じゃありません」
 「いやァ、そんなことはない」
 「私、ずるいんです。いつも昌二さんのことばかり考えているわけじゃありません。思い出さない日さえあるんです。……一日一日何ごともなく過ぎていくのがとても寂しいんです。どこか心の片隅で何かを待っているんです。ずるいんです。」
 「ええんじゃよ、やっぱりあんたはええ人じゃよ、正直で」

 老人が独り座る部屋の外から、通りかかった近所の主婦が、「皆さんお帰りになって、お淋しゅうなりましたなァ」と声をかける。老人は笑顔で「いやァ」と答える。
 「ほんとに急なことでしたなァ。」
 「……気のきかん奴でしたが、もっとやさしゅうしといてやれば良かった。……独りになると急に日が長くなりますわい。」

▼『東京物語』も『みんな元気』も、老年の親が遠く離れた土地で暮らす子どもたちを訪ねて旅をするという、話の骨格は同じである。また子どもの生活の現実が、親の期待を(小さく、あるいは大きく)裏切るものだった点も同じである。
 『東京物語』の老夫婦は、子どもたちへの失望をあからさまに語ることはない。長男の医院が「もっと賑やかなところでやっているのかと思っていました」と老妻が言い、長女について「子どものころはもっと優しい子だった」というあたりが、彼らの「期待外れ」だが、彼らはその事実を、そういうものだと自然に受け容れる。
 『東京物語』が『みんな元気』と異なるところは、前者では老夫婦が一緒に子どもを訪ねる旅行をし、最後に老妻が亡くなるのに対し、後者では妻はすでに亡くなっている点である。この設定が、ドラマの成立の上で重要である。
 夫と子どもたちの間に立ち、家族の関係をひそかに調整していた妻が亡くなったために、父親に隠されていた「事実」が表に顕れ、『みんな元気』のファミリーは危機に陥るのだが、『東京物語』の夫婦はいわば一心同体である。したがって『東京物語』では、『みんな元気』のような形で家族が危機に見舞われることはない。

 もうひとつ、この二つの作品の重要な違いを生み出しているのは、父親像の違いである。『みんな元気』のロバート・デニーロもマルチェロ・マストロヤンニも、持病をかかえる老人ではあるが、壮年に勝る判断力や理解力を持ち、子どもたちを圧するに十分な威厳dignityの持ち主である。
 一方、『東京物語』の父親は、隠居した老人であり、敬愛の対象ではあるが実生活上の力はない。笠智衆はそうしたひょうひょうと生きる枯れた人物像の魅力を、余すことなく伝えている。
 『東京物語』と『みんな元気』の父親像の違いは、テーマの違いとなって顕われる。
 『みんな元気』はイタリア版もアメリカ版も、父親と子供たちの関係が生み出した家族の危機と再生の物語である。他方『東京物語』では、監督がどれほど意識的であったかわからないが、親子関係というテーマのほかに、ひとは「老い」をどのように生きるべきかという問題が、より大きなテーマとしてく立ち現われているようにみえる。

4.
▼山田洋次の『東京家族』(2013年)という映画は、『東京物語』を60年後の東京で撮り直し、小津安二郎に捧げられた作品である。
 山田洋次の語るところによれば、映画は2011年の4月に撮りはじめる予定だったが、3月11日の大震災の発生で中断を余儀なくされ、1年後に大震災の話題も取り込んで撮影したのだという。

 『東京家族』は『東京物語』から話の骨格や登場人物を借りただけでなく、台本のせりふも可能な限りそのまま使うようにして作成されている。
 瀬戸内海の島から老夫婦(橋爪功と吉行和子)が、東京で暮らす子どもたちに会いに出てくる。長男(西村雅彦)は内科・小児科の開業医、長女(中嶋朋子)は美容院経営という具合に、同じ職業、同じ名前、同じ家族構成で登場する。舞台美術の仕事をしている次男・昌次(妻夫木聡)とその恋人・紀子(蒼井優)という新しい役柄も登場するが、これは『東京物語』では戦死した次男とその未亡人の名前である。
 長男は老夫婦を東京見物に連れて行こうとするが、急患が発生して計画はつぶれる。次男が東京見物の案内を頼まれ、観光バスに乗り一緒に東京を回る。
 次男は舞台美術の仕事をしているとはいうものの、実態は公演の舞台背景を出し入れする日雇い仕事であり、父親はその生き方が気に入らず、また心配でもある。次男はそんな父親をはなから苦手としており、母親の取り成しによってどうにか関係は保たれている。
 長男と長女は両親のために、横浜の高層ホテルを予約する。部屋のベッドに腰掛け、見晴らしの良い部屋の窓から観覧車を眺めたりするが、とても長くいるような場所ではない。翌日早々に老夫婦は東京の長女の家に戻り、長女から、今晩は商店街の寄り合いが遅くまであり、泊めることはできない、と言われる。
 父親は郷里での知り合い・沼田(小林稔侍)を訪ね、一緒に酒を飲む。
 母親は次男のアパートへ行き、それまで知らされていなかった次男の恋人・紀子を紹介される。被災地のボランティア活動で知り合ったのだと、息子は言った。驚きながらも紀子の人柄を気にいり、息子への心配も消え、喜びに包まれる母親。紀子の帰ったあと、ふたりで布団を並べ、父親に話してほしいという息子に母親は、自分の口から父親に言わなければいけない、と言い渡す。
 翌朝、二日酔い状態で長男宅の長椅子に腰かける夫の前に、上機嫌の妻が帰ってくる。しかし妻は二階へ上がる階段の途中で急に倒れ、救急車で運ばれる。
 妻は、入院の翌朝未明に亡くなった。子どもたちは母親を東京で遺骨にし、郷里で葬式をあげる。
 紀子は、病院から郷里での葬式まで昌次とともに参加するが、父親は直接声をかけようとはしない。長男長女夫婦が早々に帰り、あとに残った紀子も帰ろうと挨拶に行ったとき、父親は初めて正面から娘に向かい、頭を下げ、礼を述べる。
 妻が息子のアパートから帰ってきた朝、とても上機嫌で嬉しそうだったこと、そのわけを妻から聞くことはできなかったが、今はよく分かる。あんたはいい人だ。自分は昌次のことを女々しくて頼りない息子だと思ってきたが、母親似の優しい子なのだ。どうか息子をよろしく頼む。―――

▼山田洋次は一応破綻なく、『東京物語』のストーリーを現代日本に移し替えてみせた。そのポイントは、昌次と紀子という職業的には不安定な身分にあるが愛し合っている若者を登場させ、父親との和解を描いたところにある。山田はすでにこのアイデアを、20年前に撮った『息子』(1991年)という映画で使っている。

 岩手の山奥の村で、父親(三國連太郎)はひとりで暮らしている。妻は1年前に亡くなり、二人の息子は遠く離れ、長男は千葉県で金融機関に勤め、次男は東京で定職に就かず、フリーター生活を送っている。
 戦友会があって上京した父親は、長男のマンションに泊まる。長男は一緒に住もうというが、狭いマンションに長男の家族と一緒に住むことなど、父親にはとても考えられない。
 次男のアパートにも行く。次男(永瀬正敏)は若い娘をファクスで呼び出し、父親に引き合わせる。娘(和久井映見)は聾唖者だが、相手の唇の動きを見て言葉を察知し、手話で意思を次男に伝えることができた。父親は予想外の出来事に驚きながら、あんたは本当にこの男の嫁ゴになるつもりなのかと、娘に問いかける。
 その夜、父親は横になってもなかなか眠れなかった。娘の気立てのよさも気持ちよかったが、ダメな奴だとばかり思っていた息子が、真剣に良い伴侶をえようとしている姿が嬉しかった。父親はついに起きだし、怪訝な顔をする息子の前で「お富さん」を唄い、身体の中で沸き立つ喜びを表現する。―――
 
 『息子』は、よくできた気持ちの良い映画だった。三國連太郎は口の重い東北人を熱演し、永瀬正敏と和久井映見も恵まれない境遇にある若者の真剣さと、互いを思いやる心の一途さを好演していた。
 『東京物語』と『息子』という二つの秀作を足し合わせた『東京家族』であるが、二つの作品よりかなり劣るという印象はぬぐえなかった。役者の演技が悪いというわけでは必ずしもない。問題は山田洋次の台本と演出で、どこか弛緩しており、優れた作品に欠かせない緊張感やユーモアや気品が欠けているように見えるのだ。

5.
▼『東京物語』と『東京家族』を比較するのに、適当な画面がある。父親が古い知り合いの「沼田」という老人と、一緒に酒を飲む場面である。
 『東京物語』の沼田老人は元警察署長だが、再会を喜び、陽気にはしゃぎつつ、子どもの戦死の話になると次のように言う。「子どもはおらねばおらんで寂しいし、おればおるでだんだん親を邪魔にしよる。二つええことはないもんじゃ。」
 自分の息子が嫁の尻に敷かれている不甲斐なさを嘆く沼田老人に対し、主人公の父親は、自分も子どもに不満があることを認めつつ、それは親の「欲」というものだと言う。「欲張ったらきりがない。諦めにゃならん、そう思っている。」
 陽気なお喋りの陰に寂しさの垣間見える沼田老人を、東野英治郎が好演している。酔態は一般に目を背けたくなるものだが、東野英治郎の陽気にはしゃぐ憎めない人柄と、穏やかな諦観を浮かべた笠智衆の笑顔の対照は、見る者の微笑を誘う。
 この呑み屋の場面は、静かな会話が続き動きの乏しい『東京物語』のなかで、貴重なアクセントとなっている。

 一方、『東京家族』に登場する沼田老人(小林稔侍)は、造船会社の元重役ということだが、息子の甲斐性のなさと嫁の尻に敷かれていることが不満だという設定は、同じである。しかし小林稔侍の演技は、酔態を延々と見せつけるもので、橋爪功の背中を叩いては、「呑め、お前、友だちがいがないぞ。」と酒を強要する。
 橋爪功演じる父親は父親で、子どもたちがみな故郷を出て東京へ行ったことを嘆き、酔いにまかせて次のような独り言をつぶやく。「……どこかでまちごうてしもうたんだ、この国は。もうやり直しはきかんのかのう。しかしこのままじゃいけん……」
 近くの席にいた勤め帰りの男女3人が、沼田老人や父親の酔態に眉を顰め、外に出て、「なんだ、あのじじいたちは」、「ああ、いやなもの見た」と吐き出すように言う。
 山田洋次は、登場人物に「ああ、いやなものを見た」と言わせることで、この呑み屋の場面で酔っぱらいの醜態を批判的に撮ったことを示した。つまり70歳過ぎの父親世代の言動に、否定的な眼差しを送って見せた。
 それが何を意図したものなのか、筆者にはまるで理解できない。この場面は、『東京家族』という映画の品を落とす効果しかもたらしていないように見えるのだが、どうなのだろうか。
 また橋爪功の取って付けたような独り言は、どうとらえるべきなのか。「この国はどこかでまちがってしまった」というセリフは、映画の文脈からいえば、父親世代の醜態とともに葬られるべき位置にある。しかし山田洋次自身はこのセリフを、自分の大事なメッセージとして挿入したように見える。

▼小津安二郎はシナリオを作るとき、演ずる役者を具体的に思い浮かべて、そのセリフを書いたという。『東京物語』の父親のセリフは、当然、笠智衆を思い浮かべて書くわけだから、寡黙の上にも寡黙、簡潔な上にも簡潔となる。

 たとえば、母親が明け方に亡くなった朝の画面。子どもたちが遺体の周りで悲しんでいるとき、父親がその場にいないことに気づき、紀子は探しに家の外に出る。尾道の街と海を見下ろす高台に、父親がひとり佇んでいる。紀子に気づいて父親は言う。「……きれいな夜明けじゃった……」。それから紀子に言うともなく、「……今日も暑うなるぞ……」とひとこと言って、父親は引き返していく。

 この場面は『東京家族』では次のように変わる。母親が亡くなった朝、父親を捜す昌次は、病院の屋上で父親を見つける。父親は昌次に気づき、「……きれいな夜明けじゃった……」と言う。それから「……のう昌次、……母さん死んだぞ……」とひとこと言って立ち去る。口を押えて嗚咽を抑える昌次。

 山田洋次のシナリオの、「母さん死んだぞ」も悪くはない。しかし「今日も暑うなるぞ」には及ばない。
 小津の台本の抑制の利いたセリフは、美しい構図と相まって凛とした気品ある画面を創りだしている。
 山田洋次が加えた台本の変更は、多くの場合、言葉での説明が多すぎ、画面を弛緩させている。

▼二つの『みんな元気』と『東京物語』、『東京家族』を比べてみると、『みんな元気』と『東京家族』のあいだにはドラマとしての共通点がある。
 『みんな元気』はどちらも、子どもたちに良かれと思いつつ子どもたちを抑圧していたことに父親が気づき、子どもたちと和解する物語であり、『東京家族』は父親が不肖の息子と見ていた次男を見直し、和解することで「家族」のつながりを回復する物語である。
 しかし小津の『東京物語』には父と子の和解もないし、父親に隠されていた子どもたちの秘密があるわけでもない。家族の危機も、その再生もない。妻の死の前後で、夫に目立った変化はないし、父と子どもたちの関係にも変化はない。
 要するに『東京物語』には、劇的要素がまるで欠けているのである。唯一不安定なマグマを抱えているらしい紀子も、劇の中ではそのマグマの存在を語るだけで、完璧に抑え込んでいる。
 もしドラマがあるとすれば、それは時間の経過の中でひとは老い、死に、親子の関係も変わるという、人間存在の宿命そのものということになろうか。

 小津自身は『東京物語』について、「親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ。ぼくの中ではメロドラマの傾向が一番強い作品です。」と語っている。(キネマ旬報1960年12月増刊号)
 しかし完成した作品を見るかぎり、観客の胸に残るのは「日本の家族制度の崩壊」などではなく、従容として自分の老いを受け容れ、妻の死を受け容れ、やがては自分の死さえも微笑とともに受け入れるであろう日本の庶民の姿であるはずだ。

▼小津安二郎は昭和の初めから昭和38年に60歳で亡くなるまで、54本の映画を撮った。現在、世界的に高く評価されている小津だが、その作品が外国に知られ、評価されるようになったのは1970年代に入ってからである。
 『東京物語』がアメリカで初めて紹介されたのは1972年だという。ニューヨークの上映会で観客は皆、笠智衆演ずる老人の、老いに抗わずに生きる姿の魅力に打たれたらしい。そのことを伝える新聞記事を、当時読んだ記憶がある。
 日本での小津安二郎の再発見・再評価は、その後だったように思う。それは評価における主体性のなさ、事大主義といってもよいのだが、しかし必ずしもそれだけではないだろう。日本の社会の現実も日本人の生き方も、映画の舞台となった昭和20年代とはすっかり様変わりし、画面を見るわれわれの眼差しが米国人のそれに近づいた、という面もあったにちがいない。

(おわり)

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