昭和時代回想


              【ブログ掲載:2011年6月4日】

  『昭和時代回想』 関川夏央  日本放送出版協会 1999年12月
                       集英社文庫 2002年12月


1.
 この本を紹介するにあたり、あらかじめ二つの注意書きが必要であろう。
 まず、回想される「昭和時代」の範囲だが、戦前の20年間が対象外であることはもちろん、戦後の昭和20年代、30年代も直接の対象にはなっていない。また昭和50年以降も含まれていない。著者の学生であった昭和40年代半ばから後半にかけて、つまり西暦に直せば60年代末から70年代の初めにかけての時代の感触と意味を、関川夏央が思い起こしつつ記したものである。
 また、この本は一つのテーマの下に計画され書き下ろされたものではなく、注文に応じてあちこちの新聞や雑誌に書かれた短文を集め、上の表題をかぶせたものである。だから同様の対象を同様の表現で繰り返す部分も目に入るが、その繰り返しは少しも目障りではない。そこに拘泥・執着する著者の思いは、素直に納得できるからである。

2.
 著者は六〇年代という時代の変化を示すために、2冊の本を挙げて語る。一冊は同志社大学の学生で、軟骨肉腫を病み1963年に亡くなった大島みち子の『愛と死を見つめて』。恋人との往復書簡がみち子の死後本にまとめられ、ベストセラーになった。
 もうひとつは立命館大学の学生だった高野悦子の『二十歳の原点』。高野悦子は1969年に鉄道に飛び込み自殺、その日記が上梓されてベストセラーになった。
 京都に暮らした女子大生の私信、日記という類似点を持ちながら、この二つは大きく異なる。従来の日本人の普通の感性で何の問題もなく読み進められる前者に比し、後者の日記の痛々しさ、不可解さは、難病の有無や個人的資質の問題を超えて、時代の急激な変化を視野に入れなければ理解できない、と関川は考える。

 《日記をつぶさに読めばわかるが、高野悦子は素直さ、明るさ、真面目さを併せ持った人である。いい職業人、いい奥さん、いい母親になれた人である。ただ野太さという資質、またはなにごとにつけ四捨五入ですませられる生活者の融通のみが欠けた彼女を、意味なく悩ませ焦慮させ、ついに死を選ばせたものは、六〇年代後半という時代の空気に停留した軽薄な悪意である。かん高い「連帯」のかけ声こそ誠実と純粋を信じた若い女性にいたむべき弧絶を呼び込み、「性の解放」はどこにも達し得ない新たな迷路を出現させただけだったのである。そして、そういう毒あって実のない幻想は、大島みち子の死んだ一九六三年から高野悦子が生をあきらめた一九六九年の間に出現し、日本社会とそこに住む青年たちを酔わしめた。》

 「六十年代後半という時代」とは何か。関川は次のように書く。
 
 《それはどんな時代かというと、文学や映画や新劇が、まだきわどく命脈を保っていた時代である。報われないと薄々知りながら、青年たちがそれらに、その年代特有の求道的な気分、言い換えればロマンチックな気分や、その過剰な表出であるところの無頼や放浪への憧れを託し得た最後の時代である。》

 《適度な貧しさと向上心がバランスした時代、日本人が無邪気に「冷戦下の平和」を楽しめた時代、自分の身の安全は確信しながら高らかに反戦を叫びえた昭和時代》

 《華やかにうつろな、また、熟しているかに見えてその実冷え切った60年代という時代》

 《大げさに騒々しくて、そのくせ叩けばうつろな音のするような時代だった。》

 そうした「時代」はいかにして生まれたのか。関川の診断はこうである。

 《当時の青年たちは、日々増すばかりの日本の物質的豊かさに、自分の貧しい精神はとても見合わない、といたずらに焦燥していた。空虚なはなやぎ、というか空転する騒々しい時代を呼び込んだ動機はそれだと思う。》

 《日ごと奔流のように物質的豊かさと利便さを増し続ける環境にあって、自分の精神はとてもそれに見合わぬ貧しさにとどまっていると感じていた青年たちが、焼けた鉄板上で足踏みするように、いたずらに焦慮していた時代》だった。

3.
 『昭和時代回想』の発行から10年後に、『1968』(小熊英二 新曜社 2009年7月)が刊行された。1968年を中心としたいわゆる「学生叛乱」を当時の学生の手記や発言、後年の関係者の回想等を博捜し、上下2巻、併せて二千ページを超える大冊にまとめたものである。
 このなかで小熊は、「学生反乱」発生の要因として、4点を挙げている。①学生の大衆化、②高度成長による社会変化、③戦後の民主教育の下地、④若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望、がそれであり、《一言でいうなら、あの叛乱は、高度経済成長に対する集団摩擦反応であったといえる》と書く。
 当時の学生は、親の世代が直面した、貧困、飢餓、戦争などの分かりやすい「近代的不幸」とは異なる、言語化しにくい(そして最後まで言語化できなかった、)空虚感、閉塞感に取り憑かれ、「生の実感」をつかめぬ「リアリティの欠如」に苦悩していた。これが小熊の言う「現代的不幸」である。《そうした彼らにとって、学生運動に飛び込み、機動隊と衝突し、バリケード内で友と語り合うことは、連帯感と仲間を得ることと、自分のアイデンティティや性のリアリティを確認できることの両面で、大きな魅力を持った。》と小熊は説明する。
 しかしこれは、「叛乱」発生の必要条件の説明にはなっても、学生たちが意を決して運動に飛びこんだ十分な説明になっているとは言い難い。
 さらに小熊の分析の主たる結論部分、つまり《あの叛乱は、高度経済成長に対する集団摩擦反応であった》という部分は、関川の記述と重なるものであるが、ひとつだけ微妙に異なるところがあるように思う。
 分析の対象である青年たちが、他ならぬ「青春」期にあるという事実を、関川は主題として言及しているのに対し、小熊は「学生」という存在が「青春期」にあることは当然のこととして、特に言及してはいない。しかし「青春」というものが歴史的に成立した観念であり、生物学的に人間に青年期が存在することとは異なるとするなら、小熊の「方法」で当時の学生の内面をとらえることは、できないように思う。

 関川は「青春」について、次のように書いている。
 《思えば、青春とは判断停止のまことに情けない状態のいいかえに過ぎないのである。》
 《わたしも人並みに時代の波をかぶってずぶ濡れになったが、それが有益な体験だったとはまったく思わない。むしろ濡れた体を乾かすのに長い年月を費やしたばかりだ。》
 《親がいてこその不良行為である。過剰な自恃と過剰な自己嫌悪の反復、生意気で反抗的な気分と小心、泣き虫な精神の併存、そういうものが青春だとすれば、いつか終わらなくては身が持たない。ひとりもので勝手なことばかりしていたせいか、人並みはずれて永かったけれど、とにかくその呪縛から解かれたという安堵の思いを、父の骨の一片を小雨に濡れた地面に拾った瞬間、味わったのである。
 長々と書きつらねてきたが、自分より若い人にいえることなど私にはないのである。その資格がもとよりないと思うのである。それでも、どうしてもといわれたら、青春なんていつかは過ぎていく、恐れることはない、とつぶやくばかりだ。》

 関川夏央のこの手厚い手向けの言葉を、かっての青年たちは心からうなずき、領とするにちがいない。


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