ニュールンベルグ裁判
          
  【ブログ掲載:2013年12月30日~2014年1月26日】



▼60年代後半のことだが、新宿紀伊国屋書店の5階のホールで、毎月1回名画観賞会が開かれていた時期がある。オットー・プレミンジャーの「野望の系列」、ジャック・タチの「僕の伯父さんの休暇」など、ここで観た名画は忘れられないが、その中でもっとも感動したのは「ニュールンベルグ裁判」(監督:スタンリー・クレーマー 1961年)だった。法廷での議論の織り成す緊迫感にしびれ、もの悲しい「リリー・マルレーン」のメロディに感じ入り、裁判長役のスペンサー・トレイシーの演技に打たれた。
 あまりにも感動が大きかったからだろうが、その後BS放送などで放映され、観る機会が幾度かあったにもかかわらず、録画しただけで観ることはなかった。
 先日、映画「ハンナ・アーレント」を観て、「アイヒマン裁判」に触れる機会があったのを機縁に、古いVHSの録画を取り出し「ニュールンベルグ裁判」を観た。かっての自分の評価が間違いでなかったことをあらためて確認でき、嬉しく思った。

▼映画の舞台は1948年のニュールンベルグである。戦火によって廃墟になり、その廃墟がそのまま残るニュールンベルグの市街を、アメリカから派遣されたヘイウッド判事(スペンサー・トレイシー)が車で案内されるところから映画は始まる。
 ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判いわゆる「ニュールンベルグ裁判」は、1945年11月に始まり、ゲーリング以下の主要戦犯に対し1946年10月に判決を言い渡した。裁判はその後も対象を変えて継続され、ナチス政権下で判事や検事を務めた法曹界の責任者を裁くために、新任判事は派遣されたのである。主要戦犯の裁判からすでに2年が経ち、アメリカ本国では関心が薄れて軍事裁判の判事のなり手がなく、自分のようなメイン州の田舎の判事にお鉢が回ってきた、とヘイウッドは問わず語りに語る。
 車は判事の宿舎として接収された大きな屋敷に着き、以前はナチス高官夫妻のものだったと説明される。

 裁判は罪状認否の場面から始まる。エミール・ハーン、フリードリッヒ・ホフステッター、ヴェルナー・ランペ、エルンスト・ヤニング(バート・ランカスター)の4人が被告席に座る。ハーン、ホフステッター、ランペの3人はいずれも無罪を主張するが、ヤニングは終始無言。弁護人が代わりに、被告は裁判の正当性に疑問があるのだと言う。
 検事・ローソン大佐(リチャード・ウィドマーク)が立ち、起訴理由を述べる。
この裁判は法の名のもとに犯された犯罪を裁くものである。被告たちは第三帝国の司法を体現した人物であり、ドイツにおける正義と法を曲解し、正義を尊重すべき立場にありながら破壊した。彼らはヒトラー台頭前に成人だったのであり、成人として第三帝国の思想を奉じた。けっしてナチスに教育されたわけではない。彼らの破壊した正義によって、彼らは裁かれなければならない。―――
 弁護人・ロルフ(マクシミリアン・シェル)が立ち、陳述を行う。
文明世界がこの裁判を注視している。裁判の目的は個人の懲罰などではなく、法の殿堂としての法廷を立て直すことである。責任とは政治的、社会的考慮の中に存するものであり、個人の人格の中に存するものだ。
それでは、たとえばヤニングの人格とは何か。彼はワイマール憲法を立案した一人であり、法律家として世界的な名声を博し、著書は大学の教科書として世界中で使われている。
判事とは法を創るものではなく、法を執行するものである。ヤニングが法の執行を拒めば良かったのか、この問題こそ裁判の核心である。

▼検察側、弁護側双方の証人尋問が始まる。
 検察側証人として学生時代のヤニングを教えた法学者が出廷し、ナチスが政権を取ったあとの裁判の変化について証言する。裁判から客観的事実が排除され、国家への忠誠が判断基準となったこと。不服申し立ての公訴権が亡くなり、‘国民による’特別法廷が最高裁にとって代わったこと。その結果、司法を執行する権利が独裁者の手に落ちてしまったこと。
新たな法律が作られ、「反社会的」な人間への断種が義務付けられ、人種という概念が初めて法に適用された。―――
 弁護人が反対尋問に立ち、断種法のような法律はナチス以前から世の中に存在したのではないかと問う。政治犯に適用されるようなものはなかったと答える証人に、政治犯に適用された具体例を個人的に知っているかと追及し、直接個人的には知らないという答えを引き出す。
そして証人は1935年に職を辞したと言うが、なぜ1934年の公務員法に宣誓したのか、あれはドイツ帝国と国民の総統・ヒトラーに忠誠を誓う宣誓ではないか、と鋭く問う。法学者は、皆がそうしていたと弱々しく答えることしかできない。

 ヘイウッド判事が家で調理場を覗くと一人の美しい婦人がおり、使用人から以前のこの屋敷の持ち主のベルトホルト夫人だと紹介される。ベルトホルト夫人(マレーネ・ディートリッヒ)が、地下室に残したアルバムなどの荷物を持って帰ったあと、判事はナチス政権下の社会と生活について使用人夫婦に尋ねる。しかし使用人夫婦は、話したがらない。
 この町の近くにダッハウという町があるが、と話を向けると、彼らは、何も知りませんでした、そんなことを聞くなんてあんまりです、と抗議する。
 私たちはいわゆる小市民です。息子は戦死し、娘も空襲で死にました。戦時中の食糧不足はひどいものでした。……ヒトラーはいいこともしました。アウトバーンを整備し、仕事も増やした。……ユダヤ人への仕打ちは大半の国民は知らなかったのです。もし知っていたとしても、何もできなかった。―――
 判事は、ベルトホルト夫人の夫は陸軍の将軍だったが、捕虜虐待の罪で国際軍事裁判で処刑されたことを知る。


▼裁判に対する検察側の方針は、被告たちがナチスに迎合して法の適用を曲げた事実を指摘し、犯罪として糾弾することにあった。
 検事はルドルフ・ピーターセンという断種を強制された男を証人として呼び、それがナチに敵対したという政治的理由に因るものであることを、立証しようとする。
 弁護人・ロルフは、その断種が政治的理由に基づくものではなく、悪質な遺伝を排除するためのものであったとして、巧みな反対尋問を行う。ピーターセンの母親に精神疾患があったことや、ピーターセン自身の知能にも問題があることが、尋問の過程で暴かれる。(目が落ち着かず、不安そうにおどおどと喋るピーターセン役=モンゴメリー・クリフトの演技が見事である。)
 
 その夜、ヘイウッド判事は陪席の判事やその夫人とともにナイトクラブで会食し、ベルトホルト夫人に遇う。夫人は判事に、ニュールンベルグの街を見物したかと聞き、美術館は再建中だしオペラハウスでピアノの演奏会も開かれる、と誘う。自分にはアメリカ人に、全ドイツ人がモンスターなのではないと伝える使命がある、と言う。
 しかし夫人は検事・ローソン大佐が顔を見せると顔をこわばらせ、すぐに立ち去る。ローソン大佐は、「毛嫌いされても仕方がない、彼女の夫を起訴し死刑になったのだから。」と自嘲する。彼は酔っており、法廷でのピーターセン証人の件で気が滅入っているのだと判事に弁解する。そして、「アメリカ人というのは新参者で経験も浅く、占領者に向いていない。劣等感があってすぐ相手を許し、すぐ忘れる」と、裁判の被告に寛容になりつつある空気への日ごろの不満を述べる。
 軍の係官がダンス音楽の演奏を止め、マイクの前で士官の名前をいくつも読み上げ、自分の所属部隊にすぐ帰れ、と告げる。ソ連がチェコに侵攻したので部隊を送るのです、と判事の世話役の士官が判事に説明した。

 拘置所の庭で、トルーマン大統領が東側の脅威に深い憂慮を表明し、軍を増強したというニュースを新聞で読みながら、ハーンが大きな声で言う。「われわれが正しかった。ヒットラーも同じことを言っていた。もう戦争犯罪人とは呼ばせない。」そして、庭の一隅で花の庭仕事をしているヤニングに、全員が団結して裁判を乗りきりましょう、と呼びかける。
 ヤニング「私もひどい目にはあってきたが、君に仲間扱いされるほど嫌なことはない。共通点など何もない。」
 ハーン「われわれの共通点は同じ政府にいたこと、そしてあなたがドイツ人だということだ。」

▼ピアノの演奏会を楽しんだ判事は、ベルトホルト夫人の家まで一緒に夜の街を歩く。街の酒場から「リリー・マルレーン」の歌が流れている。夫人はその一節を口ずさみ、ドイツ語の歌詞は英語訳よりも美しく悲しい、と言う。

……ドイツ兵は恋人を失う、いつか自分の命も
灯りは彼女の足音を知っている
ぼくはもう忘れられた
代わりに誰がそばに立つ
あの灯りの下、彼女の隣に……

 夫人はコーヒーでもどうかと誘い、判事は荒れた屋敷の階段を上り、彼女の住む一室に立ち寄る。
 つらい日々なのではないかと気遣う判事に、夫人は、自分は軍人の娘で、感情や欲望を抑えるように厳しくしつけられたから、それが役に立っていると答える。そしてヤニングについてどう思うかと判事に質問する。法廷以外では裁判の話をすることは禁じられていると答える判事に、夫人は次のような話をする。
 ヤニング夫妻とはよくコンサートで一緒になりました。細君は小柄で美しい人でした。ある会合にヒトラーが出席し、ヤニングの細君を見て気にいり、言い寄ったことがあります。その時ヤニングは毅然としてその不作法なふるまいをたしなめ、ヒトラーは青ざめて会場を出ました。
 ヤニングや私の主人のような人はヒトラーを嫌い、ヒトラーの方でもまた嫌っていました。だから主人の裁判は皮肉でした。処刑のことはご存知でしょう。彼には身に覚えのない罪状での処刑。これは戦勝者による復讐、政治的殺人です。お分かりでしょう?
 判事の顔が苦しげに歪む。―――

▼ピーターセンを証人として「事件」の立証に失敗した検察側は、次に被告たちがナチスに迎合して法の適用を曲げた実例として、「フェルデンシュタイン事件」を取り上げる。フェルデンシュタインとは裕福でユダヤ人社会の指導的位置にあった商人だが、いわゆる「ニュールンベルグ法」違反で起訴され、有罪とされた事件である。

 ナチスの党大会がニュールンベルグで大規模に開催された1935年9月、ヒトラーは内相に、ユダヤ人と「アーリア」との結婚を禁ずる法律を党大会終了までにつくるように命じた。内務・法務官僚たちが急遽ニュールンベルグに呼び集められ、法案がつくられ、すでに議員すべてがナチであった国会議員の全会一致で承認され、成立した。
 いわゆる「ニュールンベルグ法」は二つの法律から成る。一つは、ドイツ国籍を持つ者であってもユダヤ教徒やナチスが「ユダヤ人」と見なした者は、ドイツ公民から除外し差別するという「ドイツ国公民法」である。
 もうひとつは「ドイツ人の血と名誉を防護する法」であり、「ドイツ的血の純血性」を守るためにユダヤ人と「アーリア」の結婚を禁止し、「婚外」関係も処罰の対象とするというもので、ドイツ人の血を持った45歳以下の女性は、ユダヤ人の家や経営で働くことも禁じられた。(以上、『ヒトラーのニュルンベルク』芝健介 吉川弘文館 2000年に拠る。)

 当時65歳だったフェルデンシュタインは、16歳のアイリーン・ホフマンと性的関係を持ったとして起訴されたのである。

▼フェルデンシュタインは結局、有罪と認定されて死刑になり、アイリーン・ホフマンは偽証罪に問われ、2年の懲役となった。その裁判を裁くためにニュールンベルグ裁判の検事・ローソン大佐は、当時二人に付いた弁護士を証人に呼んだ。
 弁護士は、その事件が「ニュールンベルグ法」に関わる裁判として喧伝されたために、傍聴席にはナチスの幹部が多数顔を見せるなど、異様な雰囲気の下で行われたことを証言した。そして担当検事が冷酷非情なエミール・ハーンであり、無罪を勝ち取ることはおよそ不可能に思えたが、唯一の希望は「正義の人」として評判の高いヤニングが判事だったことだった、と述べた。

 次にローソン大佐は、アイリーン・ホフマンを証人に立てた。彼女は2年間服役し、戦後はベルリンで夫と小さな写真店を営んでいた。証人として出廷するように求めるローソンに対し、彼女は、ドイツ人は同朋を告発することを嫌うこと、自分たちは裁判の後もここで暮らさなければならないのだ、と言って出廷を拒否する。しかし、出廷したくてもできない人の無念を晴らさなくてもよいのか、と説得する検事の熱意に負け、証言台に立ったのである。
 彼女は、フェルデンシュタインは自分たちのアパートの大家であり、また自分の父親と親しかったことから父親の死後は父親代わりの存在だったと述べた。そして性的関係などないと主張する彼女を検事だったエミール・ハーンは別室に連れ込み、つくり話をしても何の役にも立たない、お前の話など誰も信じない、フェルデンシュタインを弁護するならお前を偽証罪で告訴すると脅した。それでも自分は、親切にしてくれた人を裏切れなかった、と問われるままに答えた。
 ロルフ弁護人は、新たな証拠を用意するので、反対尋問は用意ができてからあらためて行いたいと述べた。

▼「ここに並んだ被告たちは、絶滅収容所の運営に関与してはおりません。暴力を振るったわけでもなく、ガス栓をひねったわけでもありません。しかし被告たちのサインにより、多くの人々が収容所に送られた。」
 検事役・ローソン大佐はそのように述べ、自分が収容所に解放部隊の一員として入り、撮影に立ち会った映像を法廷で映写する。
 ユダヤ人を閉じ込めてサイクロンBを噴射して殺した「シャワー室」、死体を焼いた「オーブン」、死体の身に着けていた無数の服や靴、メガネ、金歯等の山、死体の皮膚でつくられたランプシェード……、伝染病の蔓延を防ぐために、腐乱死体の山をブルドーザーを使って大急ぎで穴に埋める英国部隊の作業……。

 翌日の法廷で、ロルフ弁護人は低い静かな声で発言を始めた。
 昨日の映像はとてもショッキングで驚いている。ドイツ人としてあのような出来事を恥じている。とても正当化できない。
しかしこの法廷での映像の公開は間違っているし、公正さを欠いている。被告とは関係がない。いったい何を証明したいのか。全ドイツ人に責任があるというのか。見逃した責任ですか。
事実は少数の過激な人間の仕業です。事実を知っていたのは一握りの人間だけだ。あの映像にあったようなことは、われわれの誰も知らなかった。
被告たちが職にとどまったのは、最悪の事態を避けるためでした。危機を前にして辞職したり逃げ出したりすることは、責任感ある人間のすることではない。―――

▼ロルフ弁護人は、フェルデンシュタイン事件に関し弁護側証人を呼んだ。当時清掃作業員としてアパートに出入りしていた老女で、弁護人に問われるままに、フェルデンシュタインとアイリーンがしばしば会っていたと言い、アイリーンが男の膝の上に座っていたのを見たと証言した。
 検事は反対尋問に立ち、「あなたの支持政党は」と聞き、口ごもる証人に古くからのナチの党員だったことを認めさせ、質問を終えた。

 ロルフ弁護人がアイリーン・ホフマンに反対尋問をする番になった。
弁護人は証人にフェルデンシュタインとの関係を問い、しばしば会っていたこと、たばこやキャンディをもらったこと、ひざの上に座ったこともあることを認めさせ、ほかに何をしたのかと厳しく迫った。証人はフェルデンシュタインが父親のような存在だった、みだらなことは何もしていないと答えたが、弁護人は追及の手を緩めなかった。
どうして私に真実を話させてくれないのか、あなたが言わせようとすることは何もしていない、と叫ぶアイリーンに向かって、「何をしたか」と繰り返し声を張り上げ、責め立てる弁護人。
 それまで法廷で一言も発しなかったヤニングが被告席で突然立ちあがり、弁護人に向かい「ロルフ!」と大声で一喝し、それから「また繰り返す気か?」と言った。騒然とする法廷で検事はヤニングの発言の継続を求め、弁護人は休廷を求め、判事は小槌を激しくたたき、静粛を求めた。判事は迷った末、休廷を宣した。

 ロルフ弁護人はヤニングに面会し、翻意させようと説得する。
自分はこの裁判を通じて、ドイツ人に何かを残そうと努力している。少しの自信でいい。しかしあなたが有罪になれば、ドイツの明日はないのです。
 アメリカの支配を望みますか?広島や長崎に原爆を落とし、女性や子どもを多数殺した国ですよ。そんな道徳意識の国にドイツを任せるのですか。私の話をどうかわかってほしい。―――
 しかしヤニングは一言、もう何も聞きたくない、と言う。

▼ラジオから、今日、ベルリンへの陸路が閉鎖された、というニュースが流れている。
 アメリカ軍の幹部が新聞記者に囲まれ、裁判をどうするのかと聞かれ、裁判を早く終わらせる必要がある、と答える。
 幹部はローソン大佐に言う。米ソ両陣営の存亡をかけた戦いがこれから何十年も続くだろう。ドイツがその要となることは、地図を見ればすぐわかる。今の我々には、ドイツ国民の支持が必要なんだ。

▼法廷が再開し、満場が見守るなか、ヤニングが話し始める。
 ―――フェルデンシュタイン裁判への理解は、この法廷だけでなくドイツ国民にとっても大切だが、そのためには「時代」を理解しなければならない。
 国は荒れ果てていた。ひとは誇りを失い、食料もなく、民主主義は内部から分裂していた。ひとは明日を恐れ、隣人を恐れ、自分たち自身をも怖れていた。そのことを理解できれば、ヒトラーの台頭もわかるはずだ。
 彼はこう言った。ドイツ人であることを誇れ、自由主義者、共産主義者、ユダヤ人は悪魔だ、悪魔が死ねば災いも消えるのだと。私たちはその言葉が悪質なウソだと分かっていた。それなのになぜ、沈黙を守り体制に加担したのか―――。
 祖国を愛していたからだ。少数の人々が政治的権利を失ったとしても、それは過渡期の一段階に過ぎない。すぐに終わるだろう。ヒトラーも遅かれ早かれ終わる。祖国の危機だ。顔をあげ、前進しよう。
 その成功は歴史が証明しています。予想以上の成功だった。ヒトラーの憎悪と権力が、ドイツと世界に催眠術をかけたのです。
 ある日気がつくと、ドイツはより恐ろしい危機に陥っていました。儀式としての裁判が全土で進行していた。過渡期であったものが日常になった。
 ―――裁判長、私はこの裁判では甘んじて沈黙を守り、私のことは弁護人に任せた。だが彼はそのための手段として、第三帝国が国民の為だったと暗示し、断種は社会のために役立ったと言い、年老いたユダヤ人が少女と寝たとまでほのめかした。またしても祖国を愛するがゆえに、だ。
 ドイツを救うには、われわれが痛みや屈辱を乗り越え、罪を認めるしかない。フェルデンシュタインの判決は、開廷する前から決まっていた。証拠証言に関係なく、有罪と決まっていた。ユダヤ人を生贄にする儀式だったのだ。
 (ロルフ弁護人が発言を止めようとするが、ヤニングは続ける。)
 ……われわれが強制収容所の存在を知らなかったというのか。ならば、われわれはどこにいたのか。ヒトラーが議会で演説した時は? 夜、隣人がダッハウに連行されたときは? 夜中に叫び声を聞いたときは? 私たちには目も耳も口もないのか。
 詳細は知らなかった。だがそれは、知りたくなかったからだ。
(ハーンが立ちあがり、「裏切り者!」と叫ぶ。)
 ……私は全世界が反対しても真実を述べる。私は自分の人生を罪深いものにしてしまった。彼らと協調したからだ。―――

 静まり返った法廷で弁護人が立ちあがり、ヤニング発言の衝撃に耐えながら静かに話し始める。
 ……ヤニングは自分の罪を認めた。しかし弁護人としては、弁護しなければならない。彼が有罪だとするなら、同じような行動を採ったものも罪があるとしなければならない。
 1939年にヒトラーと協定を結び、先の大戦を可能にしたソ連の責任はどうなる?
 1933年のバチカンとドイツの協定はヒトラーに大きな名声を与えたが、バチカンは有罪か?ヒトラーの再軍備に手を貸し、大金を儲けたアメリカの産業界はどうなのか?
 責任をドイツだけに押し付け、被告たちを責めるのはたやすい。しかし全世界にヒトラーの台頭を許した責任がある。ヤニングの罪は全世界の罪でもある。―――

▼ローソン大佐が部屋へ入っていくと、ベルリンへ石炭から野菜まで、毎日700トンの空輸を行うように電話で指示を出していた幹部が、振り向いて言う。
 ベルリンが落ちたらドイツを取られる。ドイツが取られたらヨーロッパを取られる。われわれにはドイツ人の協力が必要なのだ。自分は君に指示を出す立場ではない。しかし有罪判決が出たら、彼らは協力しないだろう。大切なのは勝ち残ることだ。どんな手を使ってでも。
 ローソン大佐は黙って聞いていたが、一言、だったら教えて欲しい、と言う。一体、あの戦争は何だったのか?

▼法廷が開かれ、検事は最終論告を行う。戦争が終わって間もないのに緊張が高まっている国際情勢に触れつつ、判事は困難であろうが真実を明らかにしてほしいと述べる。異例の論告内容に、法廷が少しざわめいた。
 続いて被告人の最終陳述が行われ、ハーンは、自分の行為は正当であり、過去を後悔などしない。自分たちは命がけで闘ったのであり、西洋文明のかなめとして共産主義を防いだのだ、と述べた。
 ホフステッターは、自分は人生を国に捧げ、法律家としての信念に従った。信念とは、権威ある法と自分の正義感が衝突する場合は、法に忠実に従うことだった、と述べた。
 ランペは、裁判長……と言ったままあとに続く言葉が出ず、着席させられた。
 ヤニングは、自分の意見はすでに述べたと語り、着席した。

▼ヘイウッド判事が判決理由を述べたのち、判決を下した。傍聴席にはベルトホルト夫人の顔も見える。
 
 ―――この法廷もすでに8か月間を過ぎ、1万ページに及ぶ記録が残された。裁判の要点は、被告たちが自発的に残虐で不正に満ちた体制に関与したことである。文明国ならば道徳と法に違背する行為だ。
 弁護人は巧みな弁論で、被告人のほかに最終的な責任を負わねばならない者がいる、と述べた。それは真実だ。この裁きの場でもっとも嘆いているのは文明であろう。だが被告たちにも責任はあると、当法廷は考える。
 人間を絶滅するための法や命令の制定、執行に積極的に関与した者は、有罪とされねばならない。刑法の原則はすべての文明社会に共通であり、殺人を行わせた者、幇助した者はすべて有罪なのだ。
 ヤニングの後悔と苦しみは同情に値するが、関与した大量虐殺を許すことはできない。もし被告たち全員が残虐を好む倒錯者であるなら、道徳的意味など問う必要はない。天災に遇ったようなものだから。
 だが判ったことは、国家の危機の際には卓越した人物でさえ、想像を絶した犯罪に加担してよいと信じ込んでしまうことだった。
 アメリカにおいても国家に危機が迫るとき、生き残るために敵の手段をまね、ご都合主義の理屈をこじつける人たちがいる。しかし、何のための生存なのか。
 国家が危機に陥った時、必要なことは、正義、真実、そして人間の命の重みである。―――

法廷の下した判決は、4人の被告いずれも「有罪、終身刑」だった。

▼ヘイウッド判事は米国に帰国する朝、ベルトホルト夫人に電話をかける。しかし夫人は暗い部屋の中で電話の鳴る音を聞きながら、受話器を取ろうとはしない。
 ロルフ弁護人が別れの挨拶に来て、ヤニングがお会いしたいと言っている、と伝える。それから、あの被告たちは5年以内に釈放されるだろう、賭けてもよい、と言う。
 判事は、君の弁論は論理的で見事だった、と褒めた。今のきみの予言も当たるかもしれない。しかし論理的であることが常に正しいとは限らない。―――

 刑務所の独房の扉が開き、ヘイウッド判事が中に入る。書物を読んでいたヤニングが立ちあがり、自分の担当した裁判の記録です、信頼できる人に渡したかった、と言って資料を手渡す。判事は、大切にします、と受け取る。
 ヤニングは、あの判決は批判され、世間の支持は少ないでしょうが、自分はあなたの判決を尊敬します、と言った。あなたの陳述も素晴らしかった、と判事は応じた。
 判事の帰り際にヤニングは、あの殺された何百万人のことは本当に知らなかった、それだけは信じて欲しい、と言う。振り返った判事は淡々と、「あなたが無罪と知りつつ死刑判決を出したとき、虐殺は始まったのです」と言う。ヤニングの愕然とした顔を残し、扉が閉じられた。

 「1949年7月14日でニュールンベルグ裁判はすべて終了した。今は誰も服役していない」という字幕が最後に出て、3時間以上の長い映画は終わった。

▼「ニュールンベルグ裁判」という映画作品について、少し考えてみたい。
 この作品は論理の対立・攻防を軸にした政治ドラマである。登場人物の発言を長々と引用したのは、論理の対立・攻防の様相を見るのに必要だったからだが、ドラマの構造は単純で見やすい。
 裁判であるから裁く者(判事、検察官)と裁かれる者(被告、弁護人)の対立が骨格であるが、検察官と弁護人の攻防、被告人の中でのヤニングとヤーンの対立、裁判の進め方をめぐる米国駐留軍内部での考え方の違い―――といった対立がいくつも重なり、それらが米ソ冷戦の拡大の動きを背景に展開する。戦勝者の米国人に向けられる敗戦国民・ドイツ人の複雑な視線が底流に流れる中、ヘイウッド判事は困難な課題に向き合い、判決を言い渡さなければならない。
 「裁判」は、事実認定や法解釈や利害の対立を前提に成立するものであり、それに関係者の感情的な思いが絡むから、もともとドラマになりやすいものではある。しかしすべての裁判がドラマになるわけではない。単に対立があるだけでなく、その対立が普遍的な意味の広がりを持ち、多くの人びとの現実に関わる者でなければ、すぐれたドラマにはならない。
 ギリシャ悲劇は人間と超人間的なものとの対立を、劇の主題とした。人間が神や自然や宿命と対立し、圧しひしがれ破局にいたる人間の運命を描き、恐怖や苦しみを体験し、体験することで逆にそのような感情を浄化することが目的だった。
 映画「ニュールンベルグ裁判」も、人間を超えた歴史の巨大な力と無力な人間の悲劇をテーマに据える。ヨーロッパ文化の担い手である教養も良識もある人びとが、なぜナチに政権を握らせ、その蛮行に加担したのか。国家の統治行為としてなされた行為について、行為にたずさわった個人を裁くことができるのか。もしそれが可能だとして、個人はいかなる罪をどの程度に負うことになるのか。
 そのようなテーマに裁判という舞台で回答が提出することは困難である。しかし不可能なテーマに向かってぎりぎりまで論理的に迫り、論理を突き抜けたところに一応の答案を提出して見せたのが、この映画だといえる。

 スペンサー・トレイシーが、笑顔の優しい好々爺だが時折鋭い眼光を放つ判事の役柄を、好演していた。彼はアメリカの田舎の判事であり、ヨーロッパに来たのも第一次大戦時の軍役体験に次いで2度目だという、文化的にはあか抜けない、しかし人生の大事な判断のポイントは誤まらない知恵を持つ人間として描かれている。ヨーロッパの文化的伝統に対し素朴な良きアメリカ人を対比させる構図は、古いアメリカ映画にしばしば見られるものだが、「ニュールンベルグ裁判」ではことのほか成功している。

▼秦早穂子という評論家が、映画「ハンナ・アーレント」のパンフレットに批評を書いているが、その中に次のような一節があった。《ちょうど61年にスタンリー・クレーマー監督の「ニュールンベルグ裁判」が公開されたが、勝者から見た映画の作りは、当然ながら、本作とは性質を異にする。》

 「ちょうど61年に」というのは、アイヒマン裁判が行われたのと「ニュールンベルグ裁判」の公開が同一年だったことを言っているのだが、「勝者から見た映画の作り」とは、何を指しているのだろうか。
 この映画が、勝者がすなわち正義だとして敗者・ドイツ人を裁いたものでないことは、これまでの紹介で明らかであろう。
映画「ハンナ・アーレント」は、問題を考えぬくためのアーレントの「苦闘」と、一応の結論を出し問題を裁いた後の「苦味」が、映画の骨格であり味わいだった。「ニュールンベルグ裁判」でも困難な問題を裁くことへの人びとの「苦闘」があり、裁きのあとに「苦み」の残る現実があった。それらは優れたドラマに欠かせないものであり、二つの映画に共通する要素である。
 秦の批評は失当というほかない。

▼映画の中で重要な事件として取り上げられる「フェルデンシュタイン裁判」は、モデルとなる事件が存在した。レーマン・カッツェンベルガーという靴店を経営する裕福なユダヤ人と、彼を代父として慕っていたイレーネ・ザイラーというドイツ人女性が、「ニュールンベルグ法」違反で起訴された裁判で、内容はほぼ映画に描かれたとおりである。(『ヒトラーのニュルンベルク』芝健介)
 ドイツでは1997年に本格的な研究が発表されるまで、「長らく忘れられていた」事件なのだそうだが、映画の脚本を手がけたアビー・マンはどこからかこの事件の情報を入手し、ストーリーの一角に据えた。

 アビー・マンの脚本による「ニュールンベルグ裁判」は、1959年に米国のCBSテレビで放送され、反響を呼んだ。スタンリー・クレーマー監督はその脚本に少し手を加え、ハリウッドスターを集めた新たなキャスティングで1961年に映画化した。
 1961年は「東側」が「ベルリンの壁」を築き、東西冷戦の緊張が一挙に高まった年である。そのベルリンで、スタンリー・クレーマーはブラント市長と組み、世界26カ国から新聞、TV,ラジオの記者300人以上を招待して、映画の試写会を上映した。
 日本から参加した新聞記者によれば、試写会に参加したドイツ人は、映画上映後さすがに口数少なかったという。(キネマ旬報 1962年4月号)
 また、戦時中アメリカにいてアメリカ軍の慰問などをしたマレーネ・ディートリッヒに対しては、「未だにドイツ人の心の中に引っかかっている」らしい様子が見てとれたという。



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