「プライド」と「東京裁判」

            
【ブログ掲載:2014年2月24日~4月6日】



▼先日、テオ・アンゲロプロスの映画「エレニの帰郷」を見に、新宿に行った。昼食を取ったあと少し時間があったので、紀伊国屋書店の前にあるTSUTAYAを覗き、「プライド 運命の瞬間」(伊藤俊也監督)という映画のDVDを見つけ、借りることにした。
 1998年の制作と書かれているが、東条英機を主人公に東京裁判をテーマに取り上げ、日本の戦争を擁護した映画だということで公開当時話題になったことを、ぼんやりと覚えていた。
 このブログ上ですこし前に、映画「ニュールンベルグ裁判」の検討を行ったが、比べてみると面白いかとも考えた。
 駄作だった。
 退屈で、途中で観るのを一度やめたが、思い直していちおう最後まで観た。映画の評価としては「駄作」の一語で済むのだが、せっかく2時間40分の長い映画を終りまで辛抱して観たのだから、駄作の駄作たるゆえんを考え、またこの映画を政治的主張の面で評価する動きについても、少し考えてみようと思った。

▼この映画は、インドのパール判事を副主人公に設定している。独立(1947年)の喜びに沸くインドの都市・ニューデリーが映し出され、その独立の喜びのとき二人のインド人の姿がそこになかった、とパールの声でナレーションが入る。インド独立のため日本軍とともに英国軍と戦ったチャンドラ・ボースはすでに事故で亡くなり、自分は東京裁判の法廷にいたからだ、と声は続く。
 次に場面は昭和20年9月の東京に替わり、東条英機の家に米軍兵士が戦犯容疑者として逮捕に来る。東条は自殺するつもりで事前に自分の左胸にマークを付けていたにもかかわらず、拳銃自殺に失敗する。

 昭和21年5月に東京裁判が始まり、A級戦犯28名に対する起訴状が朗読される。起訴状朗読後、東条の弁護人であり弁護団の副団長である清瀬一郎が、「管轄権」に関する動議を提出した。
「管轄権」に関する動議とは、日本はポツダム宣言を受諾して降伏したのだから、宣言の内容には拘束されるが、宣言に書かれていないことがらを受け容れる義務はない。宣言は通常の戦争犯罪者の処罰を述べているが、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」には触れておらず、この法廷はこれらの「罪」を裁く権限がない、というものだった。ウエッブ裁判長はこの動議を却下する。
 検察側の冒頭陳述をキーナン首席検察官が行い、その後立証に入る。検察側証人として陸軍少将の田中隆吉や満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀などが呼ばれ、侵略戦争を行う上での被告たちの役割について証言した。また南京事件について証人が呼ばれ、目撃した事実を証言し、弁護側は反対尋問を行った。
 弁護側の反証は22年2月から行われたが、日本の戦争は検察側の言うような計画的な侵略戦争ではなく、あくまでもその時々の状況に迫られて起こした自衛のためのものだったことが強調された。

▼東条英機とキーナン検察官の「対決」が、昭和22年の暮れに行われた。被告人一人ひとりが証言台に立ち、自分の主張を述べる個人反証段階である。映画のなかで東条は堂々と、戦争は自存自衛のためにやむを得ず始めたものだと主張し、相対するキーナンは動揺し、言葉に詰まり、逆上した発言をして裁判長に止められる。
 裁判は23年春の検察側の最終論告と弁護側の最終弁論を経て、長い休廷に入る。そして11月に判決公判が開かれ、東条ら7被告に死刑が宣告された。法廷では判事の多数意見だけが読み上げられ、少数意見は公開されなかった。
 昭和23年12月23日未明、死刑執行。「連合軍は次代の日本天皇の誕生日を選んで処刑を執行したのである。」と字幕が出る。

 裁判が終わり、パール判事は故国に帰る。妻に、あなたの判決を聞かせてほしいと言われ、それを読み上げる場面で映画は終わる。
 「……戦争犯罪の処罰は国際正義の行為であるべきで、敗戦国の国民のみを国際裁判所に引き渡し処罰するのは国際正義の観念に合致しないものである。勝者による裁判は敗者を即時殺した昔と同じであり、人類が築いた文明を抹殺するに等しい。理性が虚偽の仮面を剥いだとき、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の変更を求めるであろう……」

▼この映画を見ていて一番苦痛だったのは、緊張感の昂まりを欠いていることだった。どこか間延びしていてテンポが遅く、散漫で盛り上がりに欠けるのだ。
 脚本に問題があることは明瞭だが、監督の演出や編集技術にも問題があるのだろう。また東条英機役の津川雅彦はなかなかの熱演だったが、ウエッブやキーナン、清瀬一郎役の俳優の演技は、画面の緊張感を高めるよりも水を差す方向に働いていたようである。

 ドラマづくりの要点は、いかに見事な「対立の構図」を創りだすかに懸っている。強力な敵や困難な状況が前に立ちふさがり、主人公が絶対絶命の窮地に陥るからこそ、窮地を切り抜けようと奮闘する主人公の行動は観客の共感を呼び、手に汗を握らせることになる。
 もしも敵が弱く、知的に劣り、人格的にもつまらない人間だったとしたら、魅力的なドラマをつくることは難しい。手ごわい魅力的なかたき役がいてこそ、話は盛り上がるのだ。
 
 この映画では日本側の弁護活動を、理の通った正義の主張として描く。ドラマとしてそのこと自体は別に問題でないが、その一方で日本の戦時指導者を裁くウエッブ裁判長やキーナン検察官を矮小に描き出す点は、問題と言わねばならない。
 こんな場面がある。裁判の進行状況に不満のあるキーナンが、ある夜ウエッブの宿泊している帝国ホテルの部屋を訪れる。冷やしたジンを飲みながら、ウエッブは次のように呟く。
 ―――この裁判は何かおかしい。……どこか後ろめたい。それに比べて被告たちは死を前にたじろぎもしない。……
 キーナンは次のように言い返す。
 ―――ひとつだけ言っておく。私は日本軍国主義の亡霊・東条を徹底的に打ちのめし、わが米国の威信を守るために来ている。……今後尋問の途中で口を挟まないでほしい。

 主人公の東条や被告たちが堂々としていると見え透いた「ヨイショ」をする一方、裁く側の人間を矮小化して描くことで、ドラマの質を落としていることに監督は気づかなかったのだろうか。

▼映画「プライド 運命の瞬間」のタネ本には、児島襄の『東京裁判』(昭和46年)と清瀬一郎の『秘録 東京裁判』(昭和42年)が含まれているようだ。筆者はたまたま二つの本を以前読んだことがあったので、映画を見ながら場面場面の出典の見当がつき、本を取り出し読み返してみた。
 たとえば東条が自殺の準備として左胸にマークを付けていた話は、清瀬本から採ったものだろう。また、東条が自宅の庭の一角で栽培していたトマトが赤く実っている場面や、ウエッブ裁判長が帝国ホテルの部屋で冷やしたジンを愛飲していたことは、児島本から採ったはずである。
 物語のリアリティを保証するのは細部の具体性であり、細部の具体性を手に入れるためには、関係者自身が直接語るか、関係者からていねいに取材した書物に当たるしかない。
 特に児島襄の『東京裁判』は、法廷での議論だけでなく法廷をとりまく関係者の思惑や動きに多くのページを割いているから、脚本を書くにあたって大いに参考になったにちがいない。

 児島襄は旧制高校3年生の時にこの裁判に遭遇し、友人の父親が弁護人であった伝手で傍聴券を手に入れ、週に二、三回のわりで法廷に通った。そしてのちにこの本を書くために、厖大な資料を読み込むとともに、消息の分からなかったウエッブを探し出してオーストラリアのブリスベーンでインタビューし、米国ではGHQの元幹部たちを訪ね歩き、裁判やGHQの内幕について説明を受けるなど、精力的に取材を行った。
 そのような周到な準備のうえで平静かつ客観的に記述された書物であるから、映画がそれに全面的に依拠したとしても少しも不思議はない。もし児島の書物にない場面や発言が出てきたなら、その多くは監督の創作だと疑ってよい。

▼この映画に、裁判が始まって間もなくキーナン検察官が記者たちに囲まれ、裁判の意義を説明する場面が出てくる。

 ―――……要は日本が二度とわが国にとって軍事的脅威にならぬことだ。新しい憲法、政治体制、教育、あらゆる点で徹底的に武装解除せねばならない。そのために検閲を含む情報操作は不可欠だ。戦犯・東条らは悪しき軍国主義のシンボル、連合国は解放者、平和の回復者として印象づけられなければならない。東京裁判はそのための舞台だ。……

 こういう場面の「創作」によって、監督は映画が「歴史修正主義」の立場に立つものであることを鮮明にした。
 筆者はプロパガンダ映画を一概に否定はしないが、優れたプロパガンダ映画をつくることはきわめて難しい、ということは指摘しておかねばならない。その政治的主張のゆえに受ける非難を跳ね返し、映像自体として敬意を払われる域に達するためには、圧倒的な質と力が必要とされるからだ。
 この映画はもちろん観客を圧倒するような映像の質も力も持っていない。「歴史修正主義」の主張をなぞっただけのプロパガンダ映画から生じるのは、その安っぽさに対する観客の白けた気分である。

▼「歴史修正主義」という、必ずしも日本の社会で市民権を得ているわけではない言葉を使用したので、その意味を明確にしておく必要があるだろう。筆者がこの言葉によって指している「思想」は、次のようなものである。
 まず「大東亜戦争」は日本にとって自存自衛の戦争であり、また欧米諸国の植民地支配に対するアジア開放の戦いだったと主張する。
 したがって日本の戦争指導者たちを「戦争犯罪人」として裁く「東京裁判」は不当であるとして、法論理の上でも事実認定の上でも批判する。
法論理上の批判とは、清瀬一郎によって法廷で主張された「管轄権」の問題であり、また「事後法」によって人を裁くことが許されるのかという近代法の原則に関わる問題である。
 事実認定については、「共同謀議」の問題をはじめいくつも問題はあるだろうが、彼らがもっとも力を注いできたのは、「南京事件」は「まぼろし」だという主張だった。(映画には、彼らの主張がそのままの形で取り入れられている。)
 彼らは自分たちの主張の正しさを述べるために、戦後社会で普通に受け入れられている日本の近現代史の見方を、「東京裁判史観」と命名し、非難する。日本が二度と軍事的脅威とならないように、連合国は「東京裁判」や新憲法の制定、教育や検閲などの情報操作を通じて日本人に罪の意識を植え付け、洗脳した。日本人は連合国を解放者、平和の回復者と受け止め、徹底的に武装解除された。―――
 だから正しい歴史認識を持ち、誇りを持てる国・日本を取り戻そう、と彼らは叫ぶのだが、歴史の見直しを主張の基軸に置く彼らの「思想」を「歴史修正主義」と呼ぶことは、実態に即し適切だと考える。

▼筆者は南京事件について、そのうち検討する機会を持ちたいと思うが、ここでは映画の「主張」すなわち「歴史修正主義者」たちの主張について、いくつか疑問を提出しておきたい。南京事件とは、昭和12年12月13日の南京陥落から南京入城式が行われた12月17日までに、城内で発生したといわれる中国市民殺傷事件をいう。(異論はあるだろうが、児島襄はそのように時間を区切っている。)

 映画では、事件を次のように取り上げている。
① 法廷の証言台で検察側証人が、南京城内での日本軍の民間人殺戮や強姦について証言する場面。
 弁護人が立って、いまの証言のうち、あなたが直接見たのはどれかと問い詰め、1件だけだという発言を引き出した。
② 検察側証人に対し日本人弁護人が、日本軍が民間人を殺戮したというが、それは民間人に紛れ込んだシナ兵だったのではないか、と問う場面。
 われわれは武器を捨てた者を兵士とは考えないという答弁に、弁護人は、それは詭弁だと激高する。民間人の中に紛れ込んだシナ兵が、隙を見ては日本の兵士を襲ったんですよ!
③ ウエッブ裁判長がホテルの部屋で、裁判の進行を早めるように求めるキーナンに対し、次のように言い返す場面。
「検察側の証人は最低だ。溥儀の証言は時間の無駄。南京関連もふつうなら証拠価値ゼロ。こんな裁判をまかされた私こそ、いい恥さらしだ。」

 南京で虐殺が行われたという検察側証人の証言は「証拠価値ゼロ」であり、民間人を日本軍が殺傷した例があったとしても、それは武器と軍服を捨て民間人に紛れ込んだシナ兵だった、「南京大虐殺」など存在しなかった、と映画はこの三つの場面から主張したいようだ。現実の法廷はどうだったのだろうか。

▼児島襄『東京裁判』は法廷での「南京事件」を、次のように書いている。

 《南京虐殺事件は、一般の日本市民は太平洋戦争後に知ったが、国際的には事件当時から報道され、東京裁判でも最も重要な戦争犯罪とみなされていた。》
 中国側は犠牲者43万人と発表し、この数字は東京裁判でも主張された。《43万人は誇張であろう。(中略)一部の兵による略奪、放火、強姦が行われたことは間違いない。》
 南京陥落当時、城内では主として英米人の牧師、教授、ジャーナリスト、実業家たちが,「国際安全地帯委員会」を組織して、市民の保護任務にあたっていた。南京虐殺が世界に伝えられたのは、この「国際安全地帯委員会」と中国の赤十字社である「紅卍会」の報告による。
 東京裁判でも検察側は、委員会のメンバーや一般市民を多数証人に呼び、また供述書を大量に取って立証を試みた。《その量はおそらく東京裁判の犯罪対象のうち、群を抜いていた。》

▼南京事件は東京裁判の焦点のひとつである。日本の市民も、弁護側がどのような反証を行うかに強い関心を寄せ、傍聴に多数訪れた。が、弁護側の提出した書証は3通に過ぎず、証人も3人だけだった。《法廷は、あっけにとられた。》
 当時の上海方面派遣軍最高司令官・松井石根の弁護人(伊藤清)は、のちに次のように児島襄に述懐したという。
 「事件については、真相は別として、検察側の証拠は圧倒的であり、世界中にあまりにも悪評が高まった事件でもあり、松井被告には少々気の毒とは思ったが、事実そのものの認否のことは一応に止め、方面軍司令官としてこのような不法行為の防止に出来るだけの努力をはらったこと、その部下に直接的責任の地位に在った軍司令官や師団長がいること、ゆえに松井被告に刑事責任まで負わせるべきでない、との方針をとった。」
 要するに東京裁判の法廷では、弁護人は検察側の提出した圧倒的な証拠の前に、虐殺事件の有無を争っても勝ち目がないので、松井被告個人の刑事責任の問題として闘わざるをえなかったのである。

 また弁護側の反対尋問により、検察側証人の直接目撃した殺戮がたった1件にすぎず、他はすべて伝聞証拠だと判明する場面は、「南京虐殺」が「まぼろし」だと主張する根拠として「歴史修正主義者」たちが愛好するシーンである。
 もし犯罪の立証がただ一人の証言に懸っているとするなら、彼らの希望は十分満たされたことだろう。しかし事実は彼らにとって遺憾なことに、証人や供述書など「検察側の証拠は圧倒的」だったのであり、一つの証言に瑕疵を見つけたとしても、それによって何かが変わるわけではなかった。

 児島襄は、武器と軍服を捨て、便衣(私服)を着て民間人にまぎれこんだ中国側敗残兵がいたことや、着物をはぎ取るために人を殺したり、略奪を行ったりした蛮行もあったと書いている。しかし、「だから」日本軍による虐殺は「なかった」、という主張が飛び出してくるとは、児島も予想しなかったに違いない。
 
▼松井石根はこの南京事件の責任により、死刑の判決を受けた。教誨師として巣鴨拘置所で松井に接した花山信勝は、次のような松井の言葉を記録している。

 「私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は浅香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落としてしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。」(『平和の発見』花山信勝 昭和24年)

 「巣鴨の生と死の記録」という副題のある『平和の発見』は、当時よく読まれた書物であるから、「歴史修正主義者」たちも知らないはずはない。虐殺は「まぼろし」だと主張する彼らの理屈の根拠を、そのうち調べてみようと思うが、それは地下の松井石根を悲しませるようなものではないのだろうか。

▼話は映画「プライド 運命の瞬間」から少し離れるが、児島襄『東京裁判』を読み返していて大事なことにあらためて気づかされた。「東京裁判」には真の主役が出席しておらず、真の主役の出席をめぐり眼に見えぬ闘いが行われていたという事実である。
 真の主役の取扱いをめぐって繰り広げられた、法廷内の駆け引きや法廷外の工作のドラマとして「東京裁判」を見るなら、東条英機とキーナン検事の対決も別の様相を見せることになる。主として児島襄の記述にしたがって、一般傍聴者の眼には隠された真の争点をめぐる法廷内外の攻防を見て行こう。

 昭和天皇と天皇制をどう取り扱うべきかは、連合国の最重要の懸案事項だった。
 米国政府内でも激しい論争があったことが知られているが、「天皇制こそ日本の狂信と侵略のイデオロギーの核心であり、除去すべきだ」とする意見がある一方、「天皇制は利用可能であり、廃止すると日本は混乱し、占領に甚だしいコストがかかる」という意見も有力だった。
 この対立の妥協点は、「日本国民がそれを望むことを条件に、一定の形態の天皇制存続を容認する」というもので、その趣旨は例えばポツダム宣言には、「日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府」が樹立されれば占領軍は撤収する(12条)、という形で盛り込まれた。
 しかし東京裁判での昭和天皇の処遇については、なかなか決まらなかった。訴追の決定権は形式的には昭和20年12月に結成された国際検察局にあり、そのメンバーには天皇の訴追を主張する者がいたからである。(以上、長尾龍一「昭和天皇と戦争責任」―――「This is 読売」1998年10月号所収 に拠る。)
 また、日本占領政策の最高決定機関としてつくられた11か国の代表者から成る「極東委員会」では、オーストラリア、ソ連、中国が天皇の戦犯問題について、強硬な態度を維持していた。

▼昭和20年9月27日に行われた昭和天皇とマッカーサー元帥との会談の内容は、極秘にされている。しかし会談のあと外相の吉田茂がマッカーサーを訪ねると、「陛下ほど、自然そのままの純真な、かつ善良な方を見たことがない。実に立派なお人柄である」と言って、天皇との会見を非常に喜んでいた、という。(吉田茂『回想十年』昭和32年)
 児島は直接の根拠は明示していないが、吉田茂の記述も引用しながら、「天皇が、戦犯問題にふれて、一切の責任は自分にある旨を強調されて、マッカーサー元帥を感銘させたことは、事実である」と書いている。

 東京裁判が始まり、法廷に出された証言・証拠から、天皇を訴追しようとする動きが検事団の中に生じたとき、キーナン首席検察官は、天皇の訴追をしないことに決定すると言った。待ってほしい、それは決定か、協議か、と英国代表検事が口を挟み、決定だという答えを聞くと、自分は承服できないと首を振った。
 キーナンは目をむいて英国代表検事に向かい、「これは連合国軍最高司令官の意思である。この方針に賛成できぬなら、さっさと荷物をまとめて本国に帰ってもらおう。最高司令官は、あらためてより適任者の派遣を要請するだろう」と言った。それから他の検事に向き直り、一人ひとりの名前を呼び、同意を求めた。《一人一人に呼びかけるキーナン検事の気迫に、秘書山崎晴一は「全員、寂として声はなかった」と回想している。》

▼ウエッブ裁判長は天皇を訴追すべきだと考えていた。キーナン首席検事が証人や被告の尋問を通じて、彼らの口から天皇に戦争責任はないという言葉を引き出そうとすると、ウエッブはその質問にしばしば口を挟み、疑問を呈した。
 キーナンは、法廷で「天皇に責任はない、自分にある」と明言してくれる「大物」を必要とした。密会した神崎弁護人が、それなら東条大将がよいと言い、自分が東条工作をすることを引き受けた。
 神崎弁護人は東条に面会し、この戦争は閣下が陛下のご命令に背いて始めたものだと、法廷で証言してもらえないかと頼んだ。東条は、臣下として陛下のご命令に背いてこの戦争を始めたなどとウソの証言をして、どうして死にきれようかと拒否した。しかし結局、神崎の説得が功を奏し、「陛下はいやいやながら開戦をご承認になった」と証言することを東条は承知した。
 キーナンは別のルートでも工作を試み、東条のもっとも懇意な塩原弁護人が巣鴨に出かけ、東条と「練習」をすることになった。

《―――開戦の決定は天皇が命令したのか。
「ちがう。天皇の命令ではない。」
―――では、開戦の決定はお前が決めたのか。
 「そのとおり」
 いや、そこはまずい。一人でひきうけるのはよいが、一人だけ悪者になるのはよくない、と塩原弁護人は注意した。
 ―――天皇の了解を得て決定したのか。
 「いや、ご了解は得ない」
 塩原弁護人は、それもまずい、むしろ、内閣や軍の最高機関が開戦のやむなきを決した、天皇は、そうかといわれた、という答弁のほうがいい、と告げた。》

▼昭和22年12月31日、大晦日の法廷で、《キーナン検事はあやうく絶息するほどに仰天した。》証言席に座る東条英機に木戸幸一被告を担当する米人弁護人が、天皇の平和に対する希望に反した行動を木戸内大臣がとったことがあるか、と尋ねたところ、東条は即座に、次のように答えたからである。
 「そういう事例は、もちろんありません。私の知るかぎりにおいては、ありません。のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意志に反してかれこれするということは、あり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においておや。」
 《まずい、とキーナン検事が奥歯をかみしめるのと、ウエッブ裁判長の声がひびいたのは、同時であった。
 「ただいまの回答がどのようなことを示唆しているかは、よく理解できるはずであります。」》
 今後、よほど明確な形で東条が前言訂正をおこなわないかぎり、天皇の法廷喚問の可能性は強まったと見なければならない。

 キーナンは平静さを失い、東条への尋問もそこそこに宿舎に帰り、田中隆吉を呼び出し頭をしぼった。田中が松平式部長官に相談することを思いつき、元日早朝に車を迎えに走らせ、長官を交えて相談を続けた。問題は、誰が東条を説得するかだが、木戸弁護人に依頼することになった。
 法廷は元日は休みだが、1月2日は開廷し、3、4日は土日で休み。5日朝までには東条に事情を呑み込ませ、明白な答弁をさせなければならない。それまでキーナンは天皇問題とは別の質問を続けながら、東条説得の知らせを待たなければならない。
 松平長官が木戸弁護人と連絡が取れたのが1月4日、木戸弁護人が東条と接触できたのは1月5日の昼食休憩時間だった。東条は喜んで前言を訂正する、と答えた。知らせを5日の夕刻に受け取ったキーナンは、躍り上がって喜んだ。 《それまで、キーナン検事は二日、五日といたって冴えない質問を繰り返し、「キーナン準備不足の為か非常に不成績なり」と、重光元外相も不審げに首をかしげる調子であった。》

▼翌日1月6日の法廷で、キーナンは問題の焦点に質問を移した。

―――2、3日前にあなたは、日本臣民たるものは何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はないと言われたが、それは正しいか。
「それは私の国民感情を申し上げたのです。責任問題とは別です。」
―――あなたは実際に米、英、オランダに対して戦争をしたではないか。
「私の内閣において戦争を決意しました。」
―――その戦争を行うことは裕仁天皇の意思でしたか。
「統帥部その他の責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったというのが事実でしょう。そして、平和愛好の精神は、最後の一瞬にいたるまで陛下はご希望をもっておられました。……昭和16年12月8日のご詔勅の中に、明確にそのご意思の文句が付け加えられております。しかも、それは陛下のご希望によって、政府の責任において入れた言葉です。……まことにやむを得ざるものあり、朕の意思にあらずという意味のお言葉であります。」

《一月八日夜、マッカーサー元帥は、ウエッブ裁判長、キーナン検事を総司令部に招き、東条証言の経過を聞き、東条大将の責任の明確化、いいかえれば天皇の免責が確認されたとみなして、天皇不起訴を決定した。ウエッブ裁判長は、なお釈然としない表情だったが、「よろしいな」という元帥の言葉にうなずいた。》

▼長々と児島襄の記述にしたがって、東京裁判における昭和天皇の訴追問題の経緯を述べた。
 キーナン検事がマッカーサーの意を体して、天皇を訴追しないために入念な準備工作をおこなった。しかし、大晦日の日の法廷での「事件」発生により、計画は破綻の危機に直面する。
 事態を打開するためキーナンは知恵を絞り、関係者が東条説得に走る。時間を稼ぐためにキーナンは法廷で東条に「冴えない質問」を繰り返し、自分の水面下の工作が成功するのを待つ。
 傍聴人の眼には、尋問する検事が言葉に詰まり、平静さを失い、反対に被告・東条は堂々と余裕をもって尋問に答えているように見えただろうが、筋書きを描き演出しているのは実はキーナンだった。
 戦争犯罪人を告発する立場にある検事が、天皇の訴追を避けるために懸命の努力をするという歴史の皮肉。そして困難を乗り越え努力が実り、計画が成就したときの溢れるような喜び。喜びはキーナン検事ばかりでなく、日本側の関係者(被告をはじめとする支配層)にも共有されていた。
 この歴史の皮肉こそドラマというにふさわしい。


▼閑話休題。映画「プライド 運命の瞬間」に関連し、二点述べておきたい。二つとも映画の問題というよりも、「歴史修正主義者」たちの思考法あるいは知的誠実さに関する疑問である。

 まず、東条英機たちA級戦犯7人が昭和23年12月23日未明に処刑されたことに関し、この映画が字幕で「連合軍は次代の日本天皇の誕生日を選んで処刑を執行したのである」と述べたことについてである。
 この日を「選んで」処刑を執行した、というのだから、たまたま処刑の日が皇太子の誕生日にあたっていたというのとは違う。連合軍は日本(軍国主義)が二度と立ちあがれないようにと祈り念じて、この日を処刑の日に選んだと映画は主張するのだろう。
 筆者は皇太子の誕生日など、平成時代に祝日となるまで知らなかったが、さすがにマッカーサー元帥の調べは行き届いており、呪術の世界にも通じていたというわけだ。また、この日付に込められた連合国側の「悪意」を見抜いた「歴史修正主義者」たちは、マッカーサーの上を行く慧眼の持ち主なのだろう。
 しかし「12月23日処刑」という事実と、その日が「次代の日本天皇の誕生日」にあたるという二つの事実だけでは、上の主張が正しいかどうかを判断することはできない。以下のような事実を併せて考えたばあい、どうなるか。

 11月12日 被告たちに刑の宣告。
 弁護側は連合国最高司令官に再審査の申し立てをする。マッカーサーは11か国の対日理事会代表に諮ったうえで11月24日に申し立てを却下し、1週間以内に刑を執行するよう命じた。
 11月29日、米人弁護人が「東京裁判」の法廷を設置したマッカーサー元帥を、米国憲法違反でアメリカ連邦最高裁に訴えた。刑の執行は一時延期された。
 12月20日、アメリカ連邦最高裁判所は、マッカーサー元帥は「連合国の代理者」として法廷を設置したのであり、「米国の裁判所」はその判決を審査し、無効とする権限を持たない、との理由で訴えを却下。
 12月23日未明、処刑。

 つまり、弁護人たちの活躍により処刑の日程が延期され、その結果、処刑が12月23日に行われたのである。もし米人弁護人がマッカーサーを米国の連邦最高裁に訴えることがなければ、処刑は12月初めには終わっていただろうし、連邦最高裁の決定が数日伸びれば、やはり「次代の日本天皇の誕生日」に処刑を行うことは不可能だった。「歴史修正主義者」たちの主張が「妄想」であることは、明らかだと筆者は考える。
 しかし彼らは、自分たちに都合の悪い事実には目をつぶり、都合のよい事実の解釈に執着する方を選ぶようだ。彼らはA級戦犯処刑の事実経過を知りながら、自分たちの「妄想」を繰り返し語り、事実を知らない善意の人びとの素朴な感情に訴えようとする。

▼もう一点は、映画がパール判事を副主人公に設定し、インドの英国からの独立があたかも「大東亜戦争」の目的であったかのように描いている点である。
 戦争の初期、日本が東南アジアに軍隊を進め、植民地支配者を打倒したことが、東南アジア諸国の戦後の独立の原動力のひとつとなったことは、そのとおりだろう。また、シンガポール陥落のニュースがインドの対英独立運動を鼓舞し、捕虜のインド人兵士たちを「インド国民軍」に組織し、ともにインパールに向かったことも事実である。
 しかしそれらの事実から、「大東亜戦争」の目的は植民地の解放にあった、という結論を導き出すことが正しいわけではない。
 この問題は以前論じたことがあるので、ここであらためて取り上げることはしないが、(「国破れて」参照)当時の日本が朝鮮や中国に対しどのような政策を採っていたかを見れば、説明は不要だろう。
 日本が支配していた朝鮮で、独立運動は過酷に弾圧された。中国において日本は、日清・日露戦争いらい権益を獲得し拡大することに力を注ぎ、既得権益を守り自国民を保護するためと称して、支配地域をつぎつぎに拡大した。どこに「植民地の解放」があったというのか。
 日清・日露の戦争が、当時の国際関係の中で避けられない正当な戦いだったとしても、そのことがその後の日本の領土拡大の野心と行動を正当なものだと保証するわけではない。
「大東亜戦争」とは、「1か月で屈服させられる」(杉山陸軍大臣)と見ていた中国戦線が行き詰まり、対外的な孤立を深め、経済的に圧迫され、ついに米英に対する開戦に日本が追い込まれた戦争である。それは「植民地解放の戦い」などではなく、「植民地再分配のための戦い」だったという上山春平の言葉が、戦争の性格規定として簡にして要を得ていると思う。
 「歴史修正主義者」たちはここでも都合の悪い事実には目をつぶり、都合のよい事実を集めて自分たちに心地よい物語をこしらえているのだ。


▼1960年代のことで記憶はかなり怪しいのだが、当時「深夜劇場」という名のTV番組があった。夜の12時過ぎに始まる「劇場」では、邦画、洋画、有名、無名を問わず、秀作、駄作、玉石混交で古い映画が放映されていた。
 筆者がはじめて、今井正の「青い山脈」、ニコラス・レイの「夜の人々」、ルネ・クレールの「自由を我等に」などを観たのは、この深夜劇場だった。もの悲しいテーマ曲が今でも耳に残る「ヘッドライト」(アンリ・ベルヌイユ)を観たのも、ここだったかもしれない。
 この「劇場」で、題名もあらすじも覚えていないが、広田弘毅の妻子が裁判の傍聴に通い、「お父様は悪くない」と語りあうシーンが出てくる映画を見た記憶がある。だから東京裁判に関する映画が、「プライド 運命の瞬間」以外まったく作られなかったというわけではない。
 しかし戦前・戦中の日本の国家指導者を裁いた裁判を取り上げた映画は、劇映画、記録映画ともいたって少ないというのが実情である。
小林正樹監督の「東京裁判」はそのような中で、難しいテーマに正面から挑んだほとんど唯一の記録映画作品といえる。小林の作品に少し触れて、この稿を終わりにしたい。

▼小林正樹監督の「東京裁判」は1983年に公開された。劇映画ではなく、厖大な記録フィルムを繋ぎあわせ、まとめ上げた4時間40分という長大なドキュメンタリー映画である。
 東京裁判の法廷場面が中心だがそれだけでなく、裁判に到る戦争の歴史と法廷を取りまく戦中戦後の国際・国内政治、灰燼に帰した日本の国土と国民の生活など、昭和の現代史を客観的に描き出した力作である。
 佐藤慶のナレーションがちょうど古いニュース映画のアナウンサーの声のようで、画面の実写フィルムと相まってニュース映画を見ているような気分になる。しかしこの映画の場合、通常のニュース映画やドキュメンタリー映画と異なり、監督は劇映画以上に綿密な台本をつくったはずである。
 そしてその台本にしたがって世界中の映像記録庫を探し、必要なフィルムを手に入れ、長い時間をかけて繋ぎあわせたのである。しっかりした構成と内容を見ると、企画・調査から台本執筆、フィルムの入手、編集、完成まで、普通の商業映画では考えられないような時間と労力がかけられていることが分かる。
 映画は、ウエッブ裁判長の強引な法廷運営や法理論上の無理にかなり批判的である。しかし「勝者の裁き」を強調するあまり、「文明の裁き」という側面をシニカルに全否定するわけでもない。東京裁判の取り上げた問題はいぜん現在の問題として続いている、と言うかのように、戦後の世界各地で紛争や戦闘が途切れることなく発生していることを指摘し、ベトナム戦争で泣きながら逃げてくる子供たちの画面で、映画は終わる。

▼この映画の中に1カ所だけ記録映像を使っていない場面がある。南京事件の場面である。使用したフィルムは、事件を告発した中国の映画『中国の怒吼』からの映像だ、と断り書きを画面に入れて挿入している。
 「歴史修正主義者」たちは映画の公開当時、この場面を問題にして騒いだ。しかし問題視するのは誤りだろう。
虚構のストーリーを作りものの映像を使って、事実であるかのように主張することは非難されるべきだが、存在した事実をどのように描くかは、監督の権限に属する。適当な記録フィルムがない場合に、映像なしで済ますという選択もあったであろうが、小林正樹は自分のイメージに近い映像を、実写フィルムではないと断わって使用することを選び、次のナレーションを入れた。
「南京事件は裁判冒頭において管轄権を疑われた罪状ではなく、議論の余地のない戦争犯罪であった。」「(犠牲者の)数字に極端な誇張があり、証言の中に疑わしいものもあったが、不祥事の事実は否めない。」
「歴史修正主義者」たちにとって、「南京事件」を事実と考えることじたい非難の対象だろうが、小林には彼らのように都合の悪い事実に目をつぶるといった不誠実な態度はなく、ごまかしもない。

▼この映画は1987年8月15日に、42回目の「終戦記念日特別番組」としてTBSテレビで放映された。これを録画したVHSが幸い手元にあったので、あらためて観ることができた。
 映画評論家の荻昌弘が、池袋の巣鴨プリズン跡の記念碑の前で映画を紹介しながら、「映像の勝利と呼びたい」と語っていた。
 長い映画なので、放映の途中、その日の短いニュース番組が挿入されていた。武道館での政府主催の記念式典のニュースには昭和天皇や中曽根首相の顔があり、千鳥ヶ淵での社会党系の集会には当時の委員長・土井たか子の顔が見えた。「42回目の終戦記念日」からさえ、すでに30年近くの時間が経つことを思った。
 80年代は、戦争を第一線で担った世代が社会の指導的立場で活動していた時期である。戦争や戦後の記憶は遠くなったとはいえ、「東京裁判」のような地味なテーマの映画が興行的にも成り立つと、大手の資本(東宝東和・講談社)でも判断するような空気が社会にあったのだろう。
 小林正樹という優れた戦中派の映画監督が、その執念をかけて映画「東京裁判」を完成させ、残してくれたことは、われわれにとって幸運だったと思う。

(おわり)

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