逝きし世の面影
【ブログ掲載:2014年8月24日~9月28日】
▼知人がスリランカに旅行し、帰ってきた。
サルやリスがホテルの周りにたくさんいた、と彼女は言った。人に興味があるのか、恐れる様子もなく近寄ってくる。しかし餌を求めて襲ってくる、ということはない。
ゾウも辺りをうろうろしていた。ガイドの話では、飼い主のいない野良ゾウだということだった。
いちばん印象的だったのは、子どもたちがみんな可愛いということ。顔立ちももちろん可愛いのだが、観光客に向かって皆ニコニコして寄ってくる。大人たちも観光客に興味津々で、ニコニコしていた。
スリランカ社会が「近代化」していくにつれて、ああいう底抜けの素朴さは失われていくのかしら。―――
話を聞きながら、以前読んだ『逝きし世の面影』(渡辺京二 1998年)を思い出した。
▼『逝きし世の面影』は大著である。500ページ近いボリュームがあることももちろんだが、副題に「日本近代素描Ⅰ」とあるとおり、著者・渡辺京二にとってこれは彼の書きたい「日本近代を主人公とする長い長い物語」の第1部、あるいは序章に過ぎない。
昭和5年(1930年)に京都で生まれた渡辺は大連で育ち、15歳の時に日本に引き揚げてきた。この大連という近代的な街で育ったことにより、日本の風物を異邦人の眼で見る感覚が自分の中に生じたと、彼は振り返る。
書評紙の編集者をしたり予備校で生徒を教えたりしながら、60年代に文筆活動を始め、日本社会の「近代化」に背を向け反発する人々の生を叙述することを通して、日本の「近代」の意味を考える文章を多く発表する。
齢を重ねるにしたがい、「自分の一生の意味を納得する」ために、自分の育った「昭和」の時代の構造を解析しなければ、という思いが彼の中で大きくなった。
「昭和」の意味を問うなら「開国」の意味を問わねばならず、開国以前のこの国の「文明」のあり方を尋ねなければならぬ、と彼は考えた。幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人の日本観察記を読むことで、開国以前の、つまり近代以前のこの国の文明のあり方を知り、また「近代」がこの国にとって何であったかを知ることができるのではないか。―――こうして生まれたのが、この『逝きし世の面影』である。
渡辺は幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人の書いた日記や紀行文を、翻訳のあるもの無いもの併せて百数十篇を渉猟し、厖大な証言を整理することによって、すでに失われてしまった世界の面影を浮き彫りにした。
《滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らなければならない。なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである。》
▼「滅んだ古い日本文明」という言葉を渡辺は使用しているので、本書の結論であり出発点でもあるこの言葉について、はじめに触れておく。
《われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。》と著者は言う。
しかし著者の用語法によれば、「文化」は生き続けるが「文明」は死ぬ。文化や国民の性格は変わりにくく長い持続性を持つが、「江戸文明」と俗称される「一回かぎりの有機的な個性としての文明」は滅んだのである。
著者は、ある時代の「歴史的な個性としての生活総体のありよう」を「文明」と名づける。「文明」は、「事象を関連させる意味の総体的な枠組み」であり、事象の意味を形づくる心性のことである。
たとえば、超高層ビルの屋上に稲荷が祀られていたり、正月の空に凧が舞っていたとしても、それは「江戸文明」の中にあった稲荷や凧とは別物だ、と著者は言う。稲荷や凧をとりまく事象の意味連関がまったく変化しているからである。
《死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性は再び戻っては来ない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。》
《幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、一つの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明だった。しかしそれは滅びなければならぬ文明だった。》
▼日本を訪れた外国人が書き遺した文章を取り扱う場合、最初に考えなければならないのは、それらがたしかに当時の日本社会の実態を描いているのか、という問題である。
それらの文章に見られるのは、「気楽な旅行者の無責任なエキゾティシズム」ではないのか、あるいは彼らが読んでいた先行するテクストに影響され、見たいものだけを見た結果ではないのか。
また、そこには西欧中心的世界像や人種的偏見による歪みがどの程度反映しているのか。それはまた、彼らの文化的色メガネが逆の形で生みだした「美しい幻影」ではない、という保証はあるのか。―――
渡辺京二は個々の証言を取り扱う前に、上のような当然の疑問に対し、方法論的検討とでもいうべき手順を踏んでいるので、まずそのことから見ていきたい。
渡辺は検討の素材として、横山俊夫という学者が英国で出版した『Japan in the Victorian Mind』(1987年)という著作を挙げる。
横山の著作は、ヴィクトリア期の定期刊行物を精査し、欧米人による日本観察記の多くが、現実から遊離したステレオタイプとなっていると論じたものである。渡辺はこれを労作と評した上で、横山が批判的に取り上げたオズボーンやオリファントのレポートについて、別の読み方を示す。
オズボーンは、安政5年(1858年)に日英修好通商条約締結のために来日した英国使節団の船の艦長であり、オリファントは使節団団長の個人秘書である。彼らは帰国後それぞれ日本への旅行記を書き、出版され、「バラ色の日本イメージ」を広めたとされる。
横山は、二人とも「短い日本滞在において、その国をもっともよいものに見せかけようと努力する日本の当局に支えられながら、すでに本で読んで知っていたことを見、かつ述べた」のだと書く。 使節団一行の通る付近の住人たちには町奉行から、見苦しくないよう通りを清掃せよという指令が出され、遠乗りに出る際には、ふつうよりいっそう厳しいお達しが前もって出されていた。「……英国使節団はわずかに日本の一表面を見たにすぎない。オズボーンはていよくあざむかれたのである。」
▼渡辺は、幕吏が日本の恥となるようなものを英国人の眼から遠ざけようと努めたことは、承知しておいてよいことだが、彼らの意図はどれだけ成功したのだろうかと問う。
オズボーンは、「猥褻きわまりない種類の図や模型」が店先にぶら下がっているのを見て「仰天する」が、「彼らはその恥知らずな展示物を意識していないか、それともそれに無関心であるらしい」と記している。
また、遠乗りの帰り道、人びとが土間や戸口の外で行水を使うのを見た。「なにしろ戸は空けっぱなしなので、美しきイブたちが浴槽から踏み出し、たぶん湯気を立てて泣きわめいている赤子を前に抱いて、われわれを見ようと裸でかけ出してくるそのやり方には、少々ぎょっとさせられた」。
宿舎となった寺の僧侶や下男下女、昼間に詰めかける見物人たちにとって、興味の的は英人たちの食事であり、台所の木の壁の節穴はあつらえ向きの覗き穴だった。「使節団が消費する肉の量はおどろきの大いなる源だった。」
英人が肌まで白いのか確かめたくて、彼らの洗顔をのぞき見したり、彼らが着替えている様子を障子に穴をあけて覗く娘たちについても、書き留められている。
渡辺は、オズボーンやオリファントが日本の現実に触れず、本で読んだステレオタイプ的イメージを強化するだけに終わったという横山の主張は、「とうてい承認しがたい見解」だと言う。
《そのような見方は第一に民衆を統制に唯々諾々と従う無気力な存在と仮定する点で、第二に使節団員を幕吏が見せようと欲するものしか見ない暗愚な観察者と仮定する点で、二重に誤っている。》
《使節団と日本人は、幕府当局の思惑など超えて実質的な接触を持ち、その細部は団員の記録に書きとどめられたのである。》
▼横山俊夫の著作が欧米人の日本観察記を否定的に評価した原因について、渡辺京二は当時の日本の学界や知的風土における支配的傾向を挙げている。
たとえばオズボーンは、日本での最初の寄港地・長崎の印象を、次のように述べた。
《この町でもっとも印象的だったのは、(そしてそれはわれわれ全員による日本での一般的観察であった)男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった。》
オリファントも次のように書いた。
《個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である。》
しかし当時の――といっても80年代以前の、ということに過ぎないのだが――日本の「学界ないし知識層の共有する常識」によれば、幕末もしくは明治初期の日本の現実が、西欧人観察者のいうような幸せで明るいものであるはずがない。明るく幸せに見えたとすれば、何らかの「からくり」があるはずで、横山はそのような「予断」を元に、ステレオタイプ的イメージが自己産出されるメカニズムを想定した、と渡辺は分析する。
もうひとつ渡辺が横山の著作に見出した傾向は、人類の普遍的同質性に立つ議論が好ましく、民族の特殊性を強調するような議論は警戒すべきだとする姿勢である。
渡辺は「これが当世流なのだろう」と皮肉っているが、ある文化の独自性や特殊性を強調するよりも、他の文化との共通性や相互理解の可能性を論じることが、国際主義的で望ましい態度だとする空気が、当時の日本の知的風土に存在したらしい。
しかし異文化に正しく接近する前提には、その文化が観察者の属する文化のコードとは全く異質のコードから成り立っていることへの、「驚き」がなければならない。来日した西欧人は開国前後の日本に接して、その驚きや戸惑いを率直に記述したのであり、《目をみはるに足る異質な文明が当時の日本に存在したということが問題の一切なのである。》
さらに渡辺京二の視線は、彼ら西欧人観察者が《工業化社会のただ中に生きて、そのことに自負と同時に懐疑や反省を抱かざるを得ない十九世紀人だった》ことにも及んでいる。
《彼らが日本という異文化との遭遇において経験したのは、近代以前の人間の生活様式という普遍的な主題だった。異文化とは実は異時間だったのである。》
《幕末の日本では、精神の安息と物質的安楽は、ひとつの完成し充溢した生活様式の中で溶け合っていたのである。》
▼『逝きし世の面影』の著者は、前回述べたような「方法論的検討」を済ませたあと、西欧人の残した膨大な観察記録を13の項目に整理し、引用・記述している。
幕末から明治にかけて日本人は、「男も女も子どもも、みんな幸せで満足そう」だったと西欧人観察者のひとりは書き遺したが、まず「陽気な人々」について書かれた記述から見ていくことにする。
《封建制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人びとは幸せで満足していたのである。》
これは明治4年に来日したオーストリアの外交官の観察である。
日本人の表情に顕れているこの「幸福感」については、明治十年代になっても記録されている。横浜、東京、大阪、神戸等の水道の設計にたずさわった英国人は、明治19年(1886年)の「タイムス」紙で、伊香保温泉の湯治客の様子について次のように述べた。
《誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう。彼らは何か目新しい素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている。》
温泉客が上機嫌でも不思議はなかろう、とは思うが、ルイ・フィリップの孫の世界周遊に随行して幕末に来日したフランスの青年伯爵は、《この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である》と言い、スイスの駐日領事は、《(日本人は)話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである》と記している。
明治11年に来日したオーストリアの陸軍中尉は、《日本人はおしなべて親切で愛想がよい。底抜けに陽気な住民……》と言い、大阪の染料工場を尋ねたときの体験を次のように述べている。
《わたしたちが入ってゆくとひとりの女工が笑いだし、その笑いが隣の子に伝染したかと思うと瞬く間に全体に広がって、脆い木造建築が揺れるほど、とめどのない大笑いとなった。陽気の爆発は心の底からのものであって、いささかの皮肉も混じっていないことがわかっていたが、わたしたちはひどくうろたえてしまった。》
西欧人の見た当時の日本人が、「みんな幸せで満足そう」という印象を彼らに与えたことは、理解できないこともないが、「絶えず喋り続け、笑いこけている」、「笑い上戸で心の底まで陽気な性格」と言われると、筆者はハタと考え込んでしまう。
『逝きし世の面影』の著者は、上に引用したものの数倍の記録を挙げているので、それらの印象や観察が一部の特殊なケースだとするわけにはいかない。しかし現代の日本人について、「絶えず喋り続けている」、「笑い上戸で心の底から陽気」という感想を聞くことは、まずないだろう。
現代日本人にとってすでに失われてしまった世界、「逝きし世」といわれる所以であるのか。
▼イギリスの女性旅行家として有名なイザベラ・バードは、明治11年に来日し、日本人通訳を連れて東北・北海道を馬に乗り旅した。彼女は民衆の親切や正直、礼儀正しさに強い感銘を受けたことを記している。
彼女は東北・北海道の旅のあと関西へ向かったが、奈良県の三輪で三人の人力車夫から、自分たちを伊勢への旅に雇ってほしいと頼まれた。推薦状も持たず、人柄もわからないので断ると、自分たちも「お伊勢参り」をしたいのだと言った。
この言葉にほだされて、身体の弱そうなひとりを除いて雇うと言うと、「この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るから」と懇願され、とうとう三人とも雇うことになった。
《(この連中は)その疲れを知らぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の慰めとなった。》
《ヨーロッパの国の多くや、ところによってはたしかにわが国でも、女性が外国の衣装でひとり旅をすれば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度たりとも無礼な目に逢わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない。》
明治初期に司法省顧問として来日したフランス人ブスケは、猟や散策の途中、農家に立ち寄って接待を受けることがしばしばだったが、いつも一家中から歓待され、しかも《彼らにサービスの代価を受け取らせるのに苦労した》という。
ブスケは日光に旅行した際に乗った籠の担ぎ手について、次のように書いている。
《彼らはあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、気分にむらがなく、幾分荒々しい外観は呈しているものの、確かに国民の中で最も健全な人々を代表している。このような庶民階級に至るまで、行儀は申分ない。》
幕末にイギリス公使として来日し、幕府官僚の「欺瞞」と攘夷を呼号する浪人たちの脅威に悩まされたオールコックは、「封建的日本の忌憚のない批判者」(渡辺京二)で、日本があたかも楽園であるかのようなイメージが普及していることについて、苦々しく思っていた。しかしその彼も、農村地帯を実見するとき次のような感想を抱いた。
《これらのよく耕作された谷間を横切って、非常な豊かさの中で所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見ていると、これが圧政に苦しみ、過酷な税金をとりたてられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるをえなかった。》
(つづく)
▼前回は、日本の農民の暮らし向きは予想外に良さそうだという印象を抱いた、イギリス公使オールコックの観察で終わったので、少しこの話題を続けたい。
日英修好通商条約が締結されたあと、オールコックはイギリスの初代の駐日総領事兼外交代表として来日した。開港予定の「神奈川」を視察するが、近郊の農村で破損している小屋や農家などはほとんど見なかった。これは彼の前任地である「あらゆるものが朽ちつつある中国」とくらべ、快い対照をなしていた。
《住民のあいだには、ぜいたくにふけるとか富を誇示するような余裕はほとんどないにしても、飢餓や窮乏の兆候は見うけられない。》と彼は記している。
アメリカの初代の駐日領事として幕末の日本を訪れたハリスは、はじめ下田の寺に領事館を構えた。この土地について、ハリスは次のような観察を遺している。
下田は貧しい土地だが、《それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりも良い生活を送っているところはあるまい。》
当時の日本の農業生産力がかなりの高さにあったことを示す観察は、《山の上まで見事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている》(リュードルフ)ことなど、いくつも遺されている。
「平地から段丘に至るまで作物でおおわれた景観、整備された灌漑施設と入念な施肥、土地の深耕と除草――それはいずれも観察者がすぐに気づいた徳川期農村の特徴だった。」(渡辺京二)
そうした生産力の高さが、農民たちの暮らし向きの背景にあったことはいうまでもない。
▼しかし、農業生産力の高さだけで農民の暮らし向きが決まるわけではなく、「分配」問題を考えなければならない。
著者・渡辺京二は、「苛斂誅求にあえぐ徳川期の農民」という「今ではかなり揺らいでいるかも知れないが、長くまかり通ってきた定説」を検討する。著者が検討に使用するのは、トマス・C・スミスという研究者の書いた『徳川時代の年貢』(1965年)である。
スミスは、「徳川時代をつうじて年貢は過酷なまでに重圧的であったという説ほど、日本経済史家のあいだに広くもたれている見解はあまりない」と言い、「それは農民にたいして、生産費を差し引いたのちこれというほどの剰余を残さなかったばかりでなく、時のたつにつれてますます重くなったと考えられている」が、誤りだと主張する。
歴史家たちは、「検地」によって査定された石高に対する年貢の比率の高さから、過酷な収奪という結論を引き出してきた。しかし、査定された石高と実際の収穫高の差に注目するなら、結論はおのずと変わる。
一般に「検地」は1700年以来ほとんど行われなかった。それは膨大な作業を必要とするからでもあるが、それよりも反抗されることへの恐怖心が大きかったからだという。
査定石高は固定されていたのに、農業生産性は絶えず向上し、作物の収穫量は増加した。したがって農民の側に剰余がしだいに蓄積されていったことは、疑いようがない。
農業生産性が向上し収穫量が増加したことは、「食糧の輸入なしに、この時期をつうじて都市人口が顕著に増大したことからも明らかである。」
スミスは、剰余が農民全体に行き渡ったわけではないこと、天災や貨幣経済の広がりなど年貢以外の要因が農民に困窮をもたらしたことにも触れながら、「徳川時代の大多数の農家にとっては、農業は引合うものであったように思われる。」と総括した。
▼上のスミスの研究は、多くの欧米人観察者が「幸せで満足そうな日本農民像」を記録にとどめたことの謎の一斑を、見事に解き明かしていると著者はいう。しかし当時の人々の「生活の簡素さ」について触れないと、そのことの含意は十分明らかにならない、とも著者は考える。
幕末に長崎海軍伝習所で、幕臣に近代的な海軍教育を施したオランダ人・カッテンディーケは、次のような観察を遺している。
《日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。何となれば贅沢の禁令は、古来すこぶる厳密であり、生活第一の必需品は廉い。……上流家庭の食事とても、いたって簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほど違った食事をしている訳ではない。》
《日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。》
ハリスは江戸城内で将軍家定に謁見した時の観察を、次のように述べる。
《大君の衣服は絹布でできており、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。だがそれは、想像されうるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりもはるかに高価だったといっても過言ではない。……殿中のどこにも鍍金の装飾を見なかった。木の柱はすべて白木のままであった。火鉢と、私のために特に用意された椅子とテーブルのほかには、どの部屋にも調度の類が見当たらなかった。》
ここには二つの事柄が語られている。当時の日本人は、富める者も貧しい者も、高貴な身分の者も下層の者も、生活ぶりにさほどの違いはない、日本人の生活は比較的平等であるということが一つである。
また日本の建物や物質文化様式は、「簡素、単純きわまる」ものであり、西欧人の眼には日本人は「奢侈贅沢に執着心を持たない」ように見えた、ということが一つである。
この二つは別の事柄だが、庶民が自分の簡素な生活にさほど不満を抱かず満足するという精神生活を、結果としてたがいに支えることになる。
著者はさらに、西欧人観察者の脳裏に、ヨーロッパの工業都市の悲惨な社会問題としての貧困があったことを強調する。それらの結果、それらと対照された日本の眼前の光景が、「幸せで満足そう」な庶民像として語られることになった。
(つづく)
▼幕末・明治の初期に日本を訪れた西欧人たちの観察記録は多岐にわたっており、それを整理・引用した『逝きし世の面影』の叙述も、当時の日本社会のさまざまな側面/に触れている。しかしここではいくつか選んで駆け足で見るにとどめたい。
混浴や行水、人びとが人前で裸体を晒して恥じない習慣などは、西欧人の観察者たちを一様に驚かせた。
通りがかった「紅毛人」をひと目見ようと、男も女も風呂屋から裸で飛び出し戸口で立って眺めている光景を、カッテンディーケもバードも記録している。
また春本や春画がはばかりなく横行していることも、西欧人観察者たちを驚かせた。「猥褻な絵本や版画」を、「若い女が当然のことのように、また何の嫌悪すべきこともないかのように買い求めるのは、ごくふつうの出来事である。」(ティリー)。
著者・渡辺京二は、当時の日本人の性に対する禁忌意識が乏しかった理由について、次のように説明する。
《当時の日本人にとって、男女とは相互に惚れ合うものだった。つまり両者の関係を規定するのは、性的結合だった。むろん性的結合は相互の情愛を生み、家庭的義務を生じさせた。(中略)さまざまな葛藤に満ちた夫婦の絆を保つのは、人情にもとづく妥協と許しあいだったが、その情愛を保証するものこそ性生活だったのである。(中略)性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであり、従って恥じるに及ばないものだった。》
しかし、《性を精神的な憧れや愛に昇華させる志向が、徳川期の社会にまったくといっていいほど欠落していたことが、日本人の性に対する態度に何か野卑で低俗な印象を帯びさせているという事実には、やはり目をつぶるわけにはいかない。》
また、日本が「子どもの楽園」であるということも、多くの観察者が述べている。「この国ではどこでも子どもを鞭打つことはほとんどな」く、親たちは子どもたちに盲愛に近い愛情を注ぐ。
しかしあまりにも被抑圧的で、必要な陶冶と規律を欠くという観察もあった。
▼西欧人は、江戸あるいは東京という日本の「都市」に来て、何を感じ、何を考えただろうか。渡辺京二の総括的な解説を聞こう。
《江戸が当時世界で最大の人口を擁する巨大都市であることは、来日した外国人たちにもよく知られていた。しかし彼らが実見した江戸は、彼らの都市についての概念からあまりにかけ離れた「都市」であった。それはヨーロッパの都市と似ていないのはもとより、彼らの知るアジアの都市にも似ていなかった。つまり江戸は、彼らの基準からすればあまりに自然に浸透されていて、都市であると同時に田園であるような不思議な存在だった。一口でいえば、それは巨大な村だったのである。》
「江戸はいわゆる百万都市でありながら、まったくヨーロッパの大都市とは比較できない」。「突然江戸に来た者は、将軍の居城のみが都市自身であり、これに反し江戸の市街地はいずれも郊外かあるいは周辺の村落だと思うであろう」(ヴェルナー)。
「巨大な門」も「壮大な様式の街並みや橋」もなく、モニュメンタルな壮麗さを期待した者には、江戸の現実は幻滅だったはずである。しかし江戸の都市としての特異な魅力を、やがて見出す者もいた。
江戸に住みつき、あちこち歩き回りはじめると、飽きるということがない。「この街が貧しい小さな家の単調でありふれた外観の下に、限りない変化を与えられているからであり、また、そこで人に知られぬ絵のような場所を毎日見つけることができるからである。」(ブスケ)。
緑の丘陵と谷間の水流、庭園、寺社、森、野原。つまり「江戸の美は田園的なもの」なのだが、しかしそれはあくまでも都市化された田園であり、田園化された都市なのだと渡辺京二はいう。
《後年、近代化された日本人は、東京を「大きな村」ないし村の集合体として恥じるようになるが、幕末に来訪した欧米人はかえって、この都市のコンセプトのユーニークさを正確に認識し、感動を隠さなかったのである。》
▼現在でもヨーロッパに行けば、中世あるいは近世の面影を残した「都市」を見ることができる。石を積み上げて造られた共同住宅や橋や門は、時の経過にも風化せず長くその形と機能を保つということもあるが、何よりもヨーロッパの人々が彼らの「都市」を守り抜くことを、固く決意し実行しているからだ。
都市の中の共同住宅はおおむね5階ないし6階建てであり、その形や色は基本的に維持するよう義務付けられている。エレベータの発明以前に建てられた住宅も多いが、その場合、らせん階段の中心にある空間を利用して小さなエレベータを設置している。
国や公共団体が古い建築物を取り壊し、斬新なデザインの超モダンな建物に建て替える場合もあるが、新たなデザインが環境によく調和し、モニュメンタルな価値を生み出すと期待される場合に限り、特別に認められるようだ。
かっての城塞都市の城壁は取り除かれたところが多いが、取り除いた跡地は多くの場合、環状道路として利用されている。
どこの国でも近代化とともに、人口が都市に集中する傾向は避けられない。そうした場合、彼らは古くからの街並みを「旧市街」として維持しつつ、それとは別に、それと接して「新市街」を建設する例が多い。「新市街」は機能的であり、その意味では快適だろうと思われるが、それでも彼らは、車もろくに通れない細い曲がりくねった中世の街路や、陽の射さない古く暗い建物を維持することに力を注ぐ。
幕末期に江戸で大きな面積を占めていた幕府、諸大名、旗本の屋敷はすべて無くなり、寺や神社の用地も縮小された。異邦の観察者たちが少し足を伸ばせば、いたるところに残されていた多くの「自然」は、住宅地の無秩序なスプロールとともに消え失せた。
ヨーロッパの都市と日本の都市の違いは、「都市のコンセプト」以上に、そこに住まう人々の意識の違いとして明瞭に顕れているのだが、このことをどう考えるべきなのだろうか。
(つづく)
▼著者・渡辺京二が異邦人の観察記録を使って描き出した「失われた世界」だが、その後の日本社会の変化によって痕跡さえ残さず失われた部分もあれば、明らかな繋がりを持続している部分もある。
たとえば雇い主と使用人の関係について、日本では「友好的で親密」だという観察がなされているが、これはグローバル化時代の企業組織まで連綿と続く「上下関係」の原型である。明治中期に華族女学校の教師としてアメリカから来日したアリス・ベーコンは、日本の使用人は雇い主に従属するだけの存在ではないと、興味深く書きとめている。
彼女は召使いが言いつけたとおりでなく、主人にとってベストであることを自分で考えて行動することが、「はじめのうちたいそう癪にさわ」った。しかし何度か経験するうちに、召使いの方が正しいのだと彼女は悟った。
アメリカの主婦は、《自分が所帯の仕事のあらゆる細部まで支配するかしらであって、使用人には手を使う機械的労働だけしか与えないという状態に慣れている》。しかし日本では、《使用人が彼女の教えたとおりにする見込みは百にひとつしかない。》使用人は自分のすることに責任を持とうとしており、たんに手だけではなく意志と知力によって雇い主に仕えようとしている。
このような日本人の使用人の特性は、封建制下の家臣のあり方に由来すると彼女は考える。封建制下の家臣はいく世代にもわたって主人に仕え、主人の家族の歴史とメンバー一人ひとりの特徴を熟知している。《多くの場合、使用人は自分の主人の人となりとその利害を、当人以上によく知っており、主人が無知であったり誤った情報を与えられている場合には、彼自身の知識に頼って事を運ばねばならない。》
アリス・ベーコンの理解や推定が正しいかどうかは分からないが、現代日本の経営組織で働く日本人の行動様式は、かって観察された雇い主と使用人との関係にきわめて近いように見える。
日本の経営組織では、そこで働く職員一人ひとりの仕事の内容は、明瞭に定められてはいない。多くの場合、係ないし課というチームの一員として、チームの課題を達成するために、一人ひとりが頭を使い、助け合いながら奮励努力することが期待されている。
仕事の進め方や具体的な課題は、チーム内の「話し合い」で決まることが多く、組織の幹部やトップが直接指示することは例外である。こういう組織のあり方や仕事の進め方は、社会が大きな変動にさらされない場合には、現場の士気を高く保ち、高いパフォーマンスを可能にした優れた方式だったといえる。
しかし社会の大きな変動期には、上に立つ者の能力不足とリーダーシップの弱さが露見し、決断ができないまま貴重な時間を空費することになる。
ソ連軍の指揮官・ジューコフ元帥が敵の日本軍について語ったといわれる言葉、「下士官兵は優秀、下級将校は普通、上級幹部は愚劣」という批評は、遠く近代以前の日本社会に根拠を持つことを、本書は示している。
▼『逝きし世の面影』は西欧人観察者の記録によって近代以前の世界を浮き彫りにしようとした試みであり、著者の「思想」を積極的に述べたものではない。また日本論、日本人論を意図した書物でもなく、古い日本を礼賛したものでもない。
《私の意図するのは古き良き日本の哀惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性が生き生きと浮かんでくるのだと私は言いたい。》
「ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験」した著者は、次のような結論にいたる。
《幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。》
「ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験」した読者も、それぞれさまざまな感想を懐くだろう。筆者の感想の一端は上に述べてきたが、著者・渡辺京二の資料を扱う腕前に感心したことを記しておきたい。
観察記録の常として、たくさんの相反する記録が存在し、その中からどれを採りどれを捨てるかは、著者の力量と志にかかる。筆者は著者の引用する西欧人の観察記録の多くを読んでいないから、その引用が正しいバランスのとれたものであるかどうかの判断を、直接することはできない。
しかし随所に覗く著者のコメントや資料を扱う手並みから、それが信頼に足るものであることを間接的に判断することはできるように思う。その例を一つ挙げて、本稿を閉じることにする。
観察者たちが幕末期の日本は「子どもの天国」だと記述したことについて、歴史学者・氏家幹人は児童虐待が日々行われていた多くの事例を紹介し、「束の間の滞在、限られた体験」の観察者たちには見えなかっただろうが、エドは「子どもの天国」などではなかったと論じた。以下が著者のコメントである。
《徳川期に様ざまな児童虐待の例がみられるというのは、われわれが承知しておいてよいことである。だが、そのことをもって日本は子どもの天国などではなかったというのは、「天国」という修辞にとらわれすぎた議論だろう。この地上にそもそも天国などありようがない以上、修辞にとらわれて日本は天国ではなかったと証明してみせてもむなしい労苦でしかないし、さらにまた、外国人観察者がそのような修辞で表現しようとしたある事実の存在に対する反証にもなりえない。氏家が挙げている事例はことごとく児童を対象とした犯罪である。犯罪の起こらぬ国がどこにあろう。観察者がたとえば、日本人が子どもを打たないというとき、それは一般的事実について述べているのであって、そういう例が皆無だと述べているわけではなく、ましてや児童に対する犯罪が起こらないと言っているのではない。彼らが述べているのは、日本では子育てが著しく寛容な方法で行われるということと、社会全体に子どもを愛護し尊重する気風があるという二点にすぎない。しかもその事実は賞讃されるとはかぎらず、かえって批判の対象ともなる場合がある。このような正常な社会全体のマナーを対象とした彼らの議論に、特異例としての児童虐待犯罪を対置しても、それが何かの反証になるわけがなかろう。》
(おわり)
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