蒋経国とスターリンあるいは戦後の日本人の思考について
【本稿は「台湾の旅」に続く内容である。
ブログ掲載: 2014年6月8日~22日】
▼前回のブログに、「台湾の戦後の歴史を知ることで、すぐれた政治指導者により国家と社会が大きく変化する姿を見ることができる。それは過酷な政治とは無縁だった戦後の日本人の思考から、すっぽり落ちてしまった盲点を照らしだす」と書いた。
舌足らずの発言を補足しながら、「国際政治」あるいは「戦後の日本人の思考」について、少し考えてみたい。
▼ドイツの敗戦を目前にした1945年2月、クリミア半島の保養地ヤルタにアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが集まり、首脳会談が開かれた。ドイツの占領計画や戦犯の処罰問題、ソ連の対日開戦問題や国際連合の設立運営などが協議され、中欧東欧地域でのソ連と米英の利害の対立が調整された。
会談最終日には一般に「ヤルタ協定」と呼ばれる秘密協定が結ばれたが、これは会談の内容全般を対象としたものではない。協定の英語の題名が如実に示すように、英米がソ連の領土拡張の野心を満足させるかわりに、日本に対する参戦の約束を取り付ける、という取引を内容としたものだった。(英語の題名はAGREEMENT REGARDING ENTRY OF THE SOVIET UNION INTO THE WAR AGAINST JAPAN 「ソ連の対日参戦に関する協定」である。)
「ドイツが降伏しヨーロッパの戦争が終了したあと2か月ないし3か月のうちにソ連は連合国側に立ち日本に対して参戦することを協定する」という短い本文のあと、領土に関するソ連の要求が協定履行の条件として記されている。
第1は、外蒙古(モンゴル人民共和国)は独立国である現状を維持すること。
(中華民国の領土とはしないこと。)
第2は、「1904年の日本の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利」が回復されること。具体的には、南樺太をソ連に返還し、旅順港をソ連が海軍基地として租借すること、東支鉄道や南満州鉄道は中ソで共同運営すること、などが挙げられている
第3に、千島列島はソ連に引き渡されること―――。
の3点である。
チャーチルとルーズベルトが1941年8月に大西洋上で会談し、戦後世界についての八つの原則を「大西洋憲章」として発表したが、その第一に掲げたのは「領土不拡大」の原則だった。
ルーズベルト、蒋介石、チャーチルの3人が1943年11月に発表したカイロ宣言では、「同盟国は自国のために利得を求めず、また領土拡張の念も有しない」と謳った。
しかし「ヤルタ協定」に見られるのは、ソ連の指導者のむき出しの領土拡張欲と、戦争を早く終わらせ、自国の若者の死者を増やさないために、「原則」を曲げ、自国の腹を痛めない譲歩をする米国の指導者の姿である。
蒋介石が協定の内容をアメリカの駐華大使から知らされたのは、締結から2か月半を過ぎてからだった。
▼蒋経国はソ連から帰国(1937年)後、蒋介石の有能な部下として活動を開始し、1945年6月、中ソ交渉のためにモスクワに派遣された代表団に随行した。
スターリンの態度ははじめ丁寧だったが、正式交渉に入るとがらりと変わり、1枚の紙をテーブルの上にポンと投げるように出して、これを見たことがあるか、と言った。
中国側代表はそれが「ヤルタ協定」であることを認め、大体の内容は承知していると答えると、スターリンは「これはルーズベルトがサインをしたもので、あなたが話し合いをされるのは結構だが、これを根拠にしなければならない。」と強調した。
中国側は「租借」と言う言葉の使用を「歴史の恥辱」として反対し、また外蒙古の独立についても強く抵抗した。激烈な論争の末、スターリンは「租借」に関しては断念したが、外蒙古の独立問題についてはけっして譲歩しようとはしなかった。
蒋介石の指示により、蒋経国は個人の資格でスターリンに面会し、説明した。
「中国が日本に対して抗戦してきたのは失われた領土を取り返すためである。しかるに外蒙古のような広大な土地を割譲するようなことになれば、何のための抗戦かということになる。国民はわれわれをけっして許してはくれないだろう。」
スターリンは言った。「君の話を理解できないわけではない。しかし十分了解してもらいたいのは、私が君に援助を頼んでいるのではなく、君の方が私に援助を求めているということだ。中華民国に力があり、日本を自力で追い出せるなら、私は要求など持ちだしたりしない。それだけの国力がないのに君のように言うのは、無駄口というものだ。」
蒋は単刀直入に尋ねた。「あなたは外蒙古の独立になぜそれほどこだわるのか。外蒙古は確かに広大だが、人口は少なく交通も不便、ろくな産物もない。」
スターリンは答えた。「私が外蒙古を欲する理由は、完全に軍事的観点からだ。もし軍事的力量を持った国家が外蒙古からソ連に進行し、シベリア鉄道を切断したら、ソ連はそれでお仕舞だ。」
蒋は、「いま中国はソ連の要求で25年間の「友好条約」を結ぼうとしている。外蒙古からソ連に進行するような軍事的力量を持った国などどこにも存在しないではないか」と反論した。
スターリンは答えた。「条約とは頼りにしたくても信用できないものだ。もうひとつ、中国にソ連を侵略する力がないと君は言ったが、中国が統一をし始めたら、他のどの国よりも進歩が速い。」
(スターリンと蒋経国の交渉の出典は小谷豪冶郎『蒋経国伝』(1990年)。小谷は蒋経国の書き記した覚書や書簡、報告書類を編んで作られた『風雨中的寧静』、 『総統蒋公大事長編初稿』から上の会話を引用している。)
▼戦争終結後の1945年10月、蒋経国は再度ソ連側と交渉するため満洲の長春(新京)に派遣された。すでに満州駐留の関東軍はソ連に降伏しており、ソ連軍は旅順と大連を占拠し、旧日本軍の兵器や弾薬、日本の工場施設や資材を接収していた。中華民国はソ連が日本から接収したものを返還してもらい、旧満州の行政権そのものを引き継ごうと考えていた。
ソ連軍の全権代表は中華民国代表に対し、すでにソ連軍は撤退を開始しており、12月1日以前にソ連国境線に撤退する予定だと言った。そのことは既に締結された「中ソ友好同盟条約」の付属協定で、「日本降伏後3週間以内に撤退をはじめ」「遅くとも3か月で撤退を完了する」と明記されていた。
しかし交渉が始まると、事態は予想以上に困難なものだということが判明した。中国側は接収部隊を11月初めに大連に上陸させ、日本と満州国が経営していた工業施設を接収したいと申し入れると、ソ連側は国民党軍の早期上陸に同意せず、工業施設はすべてソ連の「戦利品」だと主張した。また大連港は軍港ではなく商港であるという理屈で、国民党軍を大連から揚陸させることは「中ソ友好同盟条約」に違反すると主張し、中国側の出鼻をくじいた。
ソ連側が大連港を使うことを認めないため、やむをえず別の港に揚陸地点を変更しようとすると、「一帯はすでに非正規軍(中共軍)がいるため安全を保障することはできない」とソ連側は通告した。
中国側は、ソ連側のヤルタ協定を盾とする無理難題と、平気で約束をたがえる汚いやり口に耐えながら、できるだけ早い撤退とソ連支配地域の引き渡しをするよう説得に努めた。しかしソ連側の方針は交渉前から決まっていた。
第1に、接収した必要な機械設備類は、どのような理屈をつけてでもソ連本国に持ち帰ること、
第2に、中国共産党に満洲を支配させ、それをソ連の傀儡として使うこと、
第3に、「門戸開放」を掲げる米国が満州にどのような形であれ影響力を持つことを、絶対に拒否すること。
このために、中国側を対等の交渉相手として扱うように見せながら、実際には手玉にとり、時間を引き延ばすことに力を注いだ。
ソ連としては、国民党軍の満州進駐が遅れれば遅れるほど、本国へ送る機械設備類は多くなり、中共軍は整備され力をつける。当初11月30日とされた約束の撤退日は46年の1月3日となり、さらに2月1日、4月末日にまで延期された。
この間、ヤルタ秘密協定が公表され、中国国民のあいだに反対が強まった。中華民国政府は2月19日、ヤルタ秘密協定には何ら拘束を受けない旨、声明を出した。
▼長々と蒋経国の関わったソ連との領土交渉や、「満州」の引き渡し問題の交渉について述べた。上の記述を通して、外交交渉というものの一斑を覗き見ることができるからだ。
交渉がまとまることが双方共通の利益であるとしても、もっとも有利な位置に線を引くべく国と国が相争う。言葉の無力さに苛立ち、徒労感に苦しめられながら、それでも交渉を続けなければならない。
蒋経国はその日記に、「昨夜は安眠できず、今朝は4時に目が覚めたが、それからはもう眠れなかった。」(11月9日)、「最近は心中に悩みごとがあって、胃の具合が悪く、毎食あまり食べられない。忙しければ悩みも忘れているが、ちょっと暇になると悩みが頭をもたげてくる。しかし(中略)意志だけは強固である。」(11月10日)などと書いている。
交渉の場に立つ者が痛切に欲するのは、自分の代表する祖国が「力」を持つことであろう。それが軍事力であるか政治力であるか、あるいは経済力であるかを問わず、「力」の背景のない「正論」の無力と悲哀を、交渉者はしたたかに味合わされることになる。
上の交渉からはまた、スターリンの一貫した意志と意図を明瞭に見て取ることができる。
まず、日露戦争でロシアが失った領土を奪回し、国威を発揚するとともに、その安全のために周囲に衛星国を確保することである。このため外モンゴルを独立国として中華民国政府に認めさせ、また中共軍を支援するために日本軍から捕獲した武器弾薬を横流しし、国民政府軍の満州駐留を妨害した。
また、ドイツとの戦いによって破壊されたソ連国内の産業を復興させるために、満州で接収した機械設備や資材を大量に持ち帰ることである。日本軍の捕虜をシベリアに連行し労働力として使役したのも、ソ連で不足していた労働力を補うための「合理的」な解決方法だったであろう。
スターリンはそのような問題のソ連的解決法を、米英の依頼に応える形をとって実現する願ってもないチャンスを得た。それが「ヤルタ協定」であり、1945年8月9日、ソ連軍は米英の全面的な賛意のもと、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻した。
▼戦争が終わり、生きて戦後を迎えた日本の知識人たちは、ある感情を共有していた。「過去の根本的反省に立った新しい出直しが必要なのではないか」という「解放感と自責感が分かちがたくブレンド」された感情だった。(『後衛の位置から』丸山真男 1982)
丸山が「悔恨共同体」と名づけたこの感情の土壌の上に、日本軍国主義を断罪するとともに、ソ連という国家の行動を擁護する奇怪なアダ花が咲いた。社会主義は平和勢力であり、社会主義の祖国ソ連を擁護することが正義であるという観念的な主張が、知識人の世界で盛んになされた。
露骨なイデオロギー的主張はさすがに60年代には衰微するが、それでも一部では細々と続き、戦争末期のソ連軍の満州侵攻についても、「日本は人類の敵だったのであり、中立条約の破棄には道義的に非難の余地はない」(『ロシア史(新版)』岩間徹編 1977年 の中の和田春樹執筆部分)といった主張がなされている。
国家と国家が生存と利害を賭けてぶつかり合う国際政治の場に、イデオロギーに曇った眼を持ち込むことにより、リアルに現実を見ることができない一例である。
「社会主義は平和勢力」というイデオロギーは過去のものになったが、「社会正義は力の裏打ちが無くても世界に通じる」という思い込みは、戦後の日本人の思考を染める一種のイデオロギーとして健在だといえる。
▼戦後日本の「悔恨共同体」の土壌に広まったもうひとつの特徴的な思考法に、国家という存在をできるだけ軽いものとして捉えたいという志向があった。「市民」の「自立」を強調し、「国家権力」の干渉や強制から市民的自由を守ることを問題意識の第一に置いて、思考を組み立てる傾向である。
「思想」は生きものであるから、もっとも関心のある事柄に焦点を当てて形成されるのは当然であり、戦時中の抑圧の記憶や戦争の悲惨な現実が圧倒的であるとき、それらをもたらした「国家」を否定したいという思いに駆られたとして少しも不思議はない。
社会が貧しい時代には貧困から抜け出すことが最大のテーマとなり、豊かな時代には豊かな社会の病理が議論の焦点となる。昭和20年代から30年代にかけて、国家をめぐるテーマはまず「国家権力から市民的自由をいかに守るか」という形で意識された。
しかし国家をめぐる問題は、「国家による個人の抑圧」に尽きるものではない。一方に国家が存在するがゆえの悲劇があるなら、他方には国家が存在しないがゆえの悲劇もある。
1990年代に発生したルワンダの内戦・虐殺や旧ユーゴスラビアの内戦・虐殺は、国家権力が機能しない、あるいは存在しないために、「個人」がむき出しの暴力に晒された悲劇ということができる。
国家の保護を失い、むき出しの暴力に晒された人々の恐怖や苦悩は、戦後日本の思考の盲点を照らしだしていたのだが、日本の思想界ではまともに受け止められたようには見えない。日本の思想界ではその時期に、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』などを援用しつつ、「国民」や「国民国家」はフィクションだと言い、その虚構性、イデオロギー性を暴くことが流行していたからである。
筆者には、「国民」や「国民国家」がフィクションであり「作りもの」である、と貴重な発見をしたかのように論じたがる人々の知的感度が理解できない。「国民国家」を上手に創れるかどうかに、多くの国民の運命が左右される世界の現実を見るなら、どのように上質の「作りもの」を作るかという点にこそ、議論の重点は向けられねばならなかったはずである。
アメリカ合衆国にしろ明治日本にしろ、「国民国家」の黎明期には、それが「作りもの」であることを肌で理解しているからこそ、指導者たちは上質の国家を創るべく苦闘したのである。
▼金美齢という日本に帰化した元台湾人がいる。1934年に台湾に生まれ、25歳の時に日本に留学。台湾独立運動に関わったために旅券を取り上げられ、事実上の亡命生活を日本で送る。李登輝が政権に着いたのちに、ようやく31年ぶりに台湾に帰国することが認められた。
その金美齢が言う。
《日本人にとって「国」とは空気のような存在だ。空気がなければ生きていけないのに、その存在に思いが至らない。
だから、日本が安全で安泰であるためには、国民個々人が、それを維持するための相応の努力をしなければならないという考えも、いまの日本人からはスッポリと抜け落ちている。
国をなくしたことのある人間であれば、いかに国の存在が大切なのかが、よくわかる。》(『私は、なぜ日本国民となったのか』金美齢 2010年)
自分は国をなくしたことのある人間だ、という凄みを利かすことで、彼女は自分の発言にハクを付けているが、内容的には常識的なことである。その不安な体験の記憶が、日本の言論空間の能天気ぶりに対し、彼女を敏感に反応させる。
しかし日本人の過去の体験の中に、彼女と類似の体験を見ることもできないわけではない。終戦直前のソ連軍の侵攻により、満洲から必死の逃避行を強いられた人びとは、剥きだしの暴力の前に晒されたのであり、彼らの無念の体験に耳を傾けることがあったなら、日本の言論空間も多少は変わっていたであろう。
この問題はいずれ、あらためて論じなおすことにしたい。
▼余談だが、スターリンとの領土交渉において中華民国の指導者たちが、現在のモンゴル人民共和国、かって外蒙古と呼ばれた地域を、どのような根拠に基づいて自国領と主張するのか、不審に思った。
外蒙古は、モンゴル人が遊牧生活を営み部族国家をつくる地域だったが、1697年、清の康熙帝の時代に清朝の領土となった。
1911年に清朝が滅亡するとモンゴル人は独立を宣言し、ロシアの十月革命以降はソ連の援助のもとに、「モンゴル人民共和国」として社会主義国家の道を進んだ。
だからスターリンが領土交渉において、「モンゴル人民共和国」を独立国として存続させることを強硬に主張したことは、彼の思惑は別として、国際法的には無理なものではない。
一方、清朝の国力が最大に達した康熙・乾隆時代の版図をもって自分たちの領土と主張する中国人の思考法には、違和感を覚える。この思考法は、国民党政府の指導者だけでなく共産党政府にも、そして広く国民(漢民族)のあいだに存在するようだ。
中国研究者・平松茂雄は次のように言う。
《もともと中国語には、ヨーロッパ的な意味の国境という言葉はない。中国の同化力の及ぶ範囲が「世界」であり、そこから外は「世界」の中に入れなかった。》
国境という言葉はないが、《中国語の中にそれに該当する言葉を探すとすれば、「辺彊」である。(中略)「辺彊」は国境線ではなく、地域を示す言葉である。英語を使えばborder lineではなくborder areaである。しかもどこからどこまでと線で明確に区画された地域ではなく、極めて曖昧な地域である。》
《ちょうど風船球が膨らんだり、萎んだりするように、「中華世界」は中央政府が強大で強固なときは膨らみ、反対に政治的に混乱し、強力な中央政府が存在しないときには萎んでしまう。その膨らんだり萎んだりする地域が「辺彊」である。》(『中国は日本を併合する』平松茂雄 2006年)
中国人が「沖縄は中国領土だ」と主張すると聞いて、日本人は呆れかえるが、中国人(漢民族)の二千年以上前から続く思考法からすれば、少しも驚くことではないのかもしれない。
しかし朝青竜や白鵬が大相撲の横綱を張れたのは、スターリンの強欲のおかげ、という歴史の事実は、中国人にとっても驚きかもしれない。
(終)
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