収容所から来た遺書
【ブログ掲載:2016年3月11日】
▼ひと月ほど前、『収容所から来た遺書』(辺見じゅん著)という本を読んだ。
敗戦後にシベリアに抑留され、病に倒れ、1954年に亡くなった山本幡男(やまもとはたお)という人の遺書を、ラーゲリの仲間たちが分担して記憶し、1956年の暮れに帰国してから文章に起こし、山本の妻のもとへ届けたという信じがたい話が書かれていた。
ソ連の官憲は、ラーゲリで日本人が文字を書き残すことをスパイ行為とみなして取締り、作業に出たすきに抜き打ちの私物検査を行い、日記やメモを見つけると持ち主を営倉送りなどにした。帰国前の検査は特に厳重だったから、遺書を「稗田阿礼」のように記憶するという方法を選んだことは、彼らにとっては取り得る最善の、そしてもっとも自然なことだったのであろう。
昭和61年(1986年)に、読売新聞社と角川書店が主催した「昭和の遺書」の募集という企画があり、山本幡男の妻が応じた一篇の遺書を著者は知った。著者はそれ以来、山本幡男を知る人びとを尋ねてまわり、話を聞き、『収容所から来た遺書』を書き上げた。
「昭和」が終わり、「平成」が始まる年の春だった。
▼シベリアに抑留された日本人は約60万人、そのうち7万人が帰国できず亡くなったとされている。
シベリアはロシアの帝政時代から流刑地とされ、その開発に囚人労働が利用されてきた。ソビエト政権の樹立後、「強制労働収容所(ラーゲリ)」の制度が整備され、帝政時代の貴族や富農、反革命軍参加者、民族主義者や政治的反対派などが収容された。その後、スターリンによる粛清の時代(1936~1938)には粛清の犠牲者が多数ラーゲリに送られ、スペイン内乱で敗れた人民戦線派の亡命者たちも収容され、ポーランド分割(1939)後はポーランドの指導層や軍人が送り込まれた。
ドイツとの開戦後はソ連領内のドイツ人移民が収容され、ソ連に攻め込み敗走した大量のドイツ軍捕虜も、戦争によって疲弊したソ連経済の再建のための労働力として活用された。日本軍の捕虜60万人も、こうした囚人労働力として抑留されたのである。
山本幡男は明治41年、6人兄弟の長男として島根県に生れた。松江中学を優秀な成績で卒業すると東京外国語学校の露西亜語科に入学。しかし卒業間際に、共産党員とそのシンパが一斉検挙された三・一五事件で逮捕され、退学処分となった。
山本は弟妹たちの面倒を見るために叔父の店をしばらく手伝い、やがて結婚し、大連に渡り、満鉄調査部で仕事をするようになる。ロシア語の実力を活かした山本のレポートは、高い評価を得た。
昭和19年7月、二等兵として応召し、翌年8月の敗戦でソ連軍の捕虜となり、満州からはるか西方のスベルドロフスクの収容所へ送られた。はじめのうちはロシア語の通訳として使われていたが、じきにソ連内務省から元特務機関員として目を付けられ、「民主運動」の標的とされるようになった。
昭和23年、スベルドロフスクの収容者たちの多くは帰国を許されたが、山本は許されず、極東のハバロフスクの収容所に移送された。
▼シベリアの強制労働収容所(ラーゲリ)と日本軍が戦時中に設置した捕虜収容所を比べてみると、貧弱な食事と過酷な労働の強制という面では、大きな違いはないようにみえる。
しかし厳寒期にはマイナス40度にもなる厳しい寒さや、ソ連政府の主張を盲目的に受け入れる活動家が育成され、「反動」を吊し上げる「民主運動」が収容所内で吹き荒れた点は、大きな違いだった。「民主運動」に《積極的かどうかを帰国の餌にしたために、ラーゲリでの日本人同士の吊るし上げや「反動は使い殺せ」と言った過重な労働を強制させるような悲劇を増加させることになった。》(『収容所から来た遺書』)
昭和25年、朝鮮戦争の勃発は収容所の日本人の絶望感を深めた。誰もが5年にわたる抑留生活で心身ともに疲弊し、笑いを忘れた無表情な顔に変わっていた。《虚無的な空気が居住バラックのなかを支配し、互いに相手を探り合う猜疑心から、同じ作業班にいてもよほどの必要がないかぎり、仲間と口をきかぬ者も少なくなかった。》
そういう中で山本幡男はセメント袋を綴じ、鉛筆書きで「文芸」冊子をつくり、信頼できそうな人間を選んで回覧しはじめた。また、俳句の会を密かにつくり、「アムール句会」と名づけた。
セメント袋を細長い短冊に切り、メンバーに配って句を書かせる。集まった句をセメント袋の紙に作者名を伏せて清記し、メンバーは回覧された句を見て良いと思うものをいくつか選ぶ。互選の句を山本が読み上げると、その句の作者が名乗りを上げる。
《思いがけない人物がその句の作者だったりして、一座に驚きの声や拍手の上がることも楽しかった。》
最後に撰者の山本が選句を発表し、作品の批評や観賞を述べた。
句会のときだけは、皆日ごろの労働の辛さを忘れた。《次の句会に投ずる句のことを考えると、単調で辛い労働も違ったものに感じられた。メンバーは次第に句会の楽しさにのめり込んでいった。》
▼昭和27年に、初めてラーゲリの収容者と故国の家族のあいだのハガキによる通信が許可され、山本も無事でいることを家族に伝えることができた。しかし翌年、彼はのどの痛みを訴えラーゲリ内の病院に入院する。
この年、長期抑留者のなかから帰国を許される者も生まれた。しかし山本の名前は第一次の帰還者名簿にはなく、病気は進行し、耳からおびただしい膿を出した。
昭和29年3月、アムール句会は200回目を祝ったが、山本はついに出席できなかった。5月になると声も出なくなり、会話は筆談になった。首が風船球のように膨らみ、患部が破れ異臭が漂っていた。
7月、山本の満鉄調査部での上司であり同じように抑留されていた佐藤健雄は、ついに意を決して山本に遺書のことを口に出した。「……誠にいいにくいことだけど、万が一、万が一を考えて、奥さんやお子さんたちへ言い残すことがあれば書いておいてほしいんだ。……」
山本はかすかに頷くと、目を閉じ、傍らのノートに鉛筆で、「明日」と書いた。
翌日、佐藤が病室を訪れると、山本はかすかに頷きながら粗末なノートを開けたまま差し出した。遺書は全部で4通あり、ノート15ページにわたって綴られていた。1通は「本文」とあり、他の3通は「お母さま!」、「妻よ!」、「子供らへ」となっていた。寝返りも打てぬほどの激痛に苛まれている山本が、わずか1日の間に15ページ、四千五百字もの遺書を書いた気力に、佐藤は胸を打たれた。
山本幡男は8月末に、仲間が作業に出されたあと、誰にも看取られることなく息を引きとった。
佐藤は4通の遺書を暗唱してもらうために6人を選び、受け持ち分の写しをつくらせた。しかしそれぞれの人物に、自分以外の誰が遺書のどの部分を暗記しているのかは知らせなかった。ソ連側の人間に発覚する危険だけでなく、日本人の口から密告されることを怖れた。
まもなく山本の書き残した遺書は、抜き打ち検査で見つかり没収された。
▼昭和31年(1956年)10月、日ソ共同宣言と通商議定書が調印され、日本人抑留者全員の釈放が急遽決定した。同年12月24日、ナホトカの港を発った引き上げ船・興安丸は26日早朝、舞鶴港に到着した。シベリアに抑留された人々の足かけ12年に及ぶ長い長い抑留生活は、ようやく終わった。
その翌年、大宮に住む山本の妻のもとに、便箋に清書された夫の遺書が届いた。また、妻のもとを訪れて事情を語り、清書した遺書を手渡す山本幡男のラーゲリ仲間もいた。こうして6人に分担暗唱された遺書は、一通また一通と無事に家族のもとに届けられたのだった。
(「極光のかげに」へつづく)
ARCHIVESに戻る