石原吉郎
【ブログ掲載: 2016年3月25日~4月1日】
▼ラーゲリでの体験をどのように語るか。その信じがたい不条理な体験を、どのように言葉にすれば他人に理解されるのか。
高杉一郎のように平明で明晰な言葉で叙述するとことは、一つの方法であったろう。しかし人間の感情の一切が無惨にも無視され、服従を強いられた自分の体験の質感にこだわりはじめると、どのように言葉を選び、どのように言葉を重ねようとも、それらは圧倒的な現実に遠く及ばないと感じられる。
夢魔のようにとりついて離れない体験の記憶と言葉の無力のはざまで、詩人となるということも一つの方法だったのかもしれない。
石原吉郎の詩は、詩人とならざるを得なかった者の忍耐や決断、あるいは誇りや勇気を静かに示している。
石原の詩集<サンチョ・パンサの帰郷>の最初に置かれた詩を、次に示す。
位置
しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み(たわみ)
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
もっともすぐれた姿勢である
▼石原吉郎は大正4年、静岡県に生まれ、東京外国語学校ドイツ部貿易科を卒業。昭和14年に応召。北方情報要員として露語教育隊に入れられ、1年半の教育を受け、ハルビンの特務機関(関東軍情報部)に配属された。昭和20年ソ連軍の捕虜となり、アルマ・アタやカラガンダで収容所生活を送る。
昭和24年、ロシア共和国刑法58条(反ソ行為)6項(諜報)で起訴され、重労働25年の判決を受ける。バアム鉄道沿線の密林の中の収容所に送られ、森林伐採や鉄道工事、採石などの労働に従事するが、栄養失調で衰弱はなはだしく、入院2回。昭和25年、ハバロフスクの収容所に移動。昭和28年11月、興安丸で舞鶴港に帰国した。
(石原は、バアム鉄道沿線の密林にある収容所で、おそらく高杉一郎とすれ違っており、ハバロフスクでは山本幡男たちと同時期に別のラーゲリに収容されていたようである。)
石原吉郎は帰国直後から詩を書きだした。すでに39歳だった。石原にとって詩とは、「混乱を混乱のままで受けとめることのできるただひとつの表現形式」であり、彼が散文によってエッセイを書けるようになったのは、帰国後15年も経ってからだった。
不条理な体験の前に、どのような鋭利な言葉も撥ね返され、どのような豊饒な言葉も芽吹くことはない。怒りも哀しみも悔恨もあきらめも、何もかもが無力であるとき、ひとは沈黙以外のどのような言葉を持ちうるのか。
石原の断言の形をとったメタファーは、圧倒的な無力感によく拮抗し、鮮やかな言葉の地平を切り開いているように見える。
納得
わかったな それが
納得したということだ
旗のようなもので
あるかもしれぬ
おしつめた息のようなもので
あるかもしれぬ
旗のようなものであるとき
商人は風と
峻別されるだろう
おしつめた
息のようなものであるときは
ききとりうるかぎりの
小さな声を待てばいいのだ
あるいは樽のようなもので
あるかもしれぬ
根拠のようなもので
あるかもしれぬ
目をふいに下に向け
かたくなな顎を
ゆっくりと落とす
死が前にいても
馬車が前にいても
納得したと それは
いうことだ
革くさい理由をどさりと投げ
老人は嗚咽し
少年は放尿する
うずくまるにせよ
立ち去るにせよ
ひげだらけの弁明は
そこで終わるのだ
▼石原吉郎の詩は体験の具体的な描写を離れているが、メタファーのきっぱりした口調は、読む者の頭にラーゲリの情景を想像させ、納得させる力がある。
ラーゲリの広場の指示された位置に整列させられ、逃亡を防ぐために5列縦隊で腕を組まされ、作業現場へ行進させられる毎日。感情を押し殺し、自分を無理やり納得させ、昨日につづく今日、今日につづく明日に耐えつづける。それでも時おり込み上げてくるものが無いわけではなく、自分の置かれた条件を無益と知りつつ考えることもある………。
――そういった収容所の生活が、筆者の脳裏に浮かぶ。
そういう読み方が適切なのかどうか知らないが、石原の詩がそうした想像の光景とまったく無縁なものでもないように思う。
筆者の好きな詩を、もう一つ引用する。
条件
条件を出す 蝙蝠の耳から
落日の噴水まで
条件によって
一挙に掃蕩されるが
最も過酷な条件は
なおひとつあり そして
ひとつあるだけだ
おれに求めて得られぬもの
鼻のような耳
手のような足
条件のなかであつく
息づいているこの日と
さらにそのつぎの日のために
だから おれたちは
立ちどまるのだ
血のように 不意に
頬と空とへのぼってくる
あついかがやいたものへ
懸命にかたむきながら
詩集<サンチョ・パンサの帰郷>所収
▼石原吉郎は帰国から15年ほど経ったころから、ラーゲリ体験を語るいくつかの文章を発表した。ラーゲリの日常や抑留者の生と死を分けたものについて、あるいは旧友・鹿野武一の生き方とそれが彼に与えた負い目について、石原は正確な言葉でつづった。
そのうちのいくつかを見ることにする。(『望郷と海』より)
≪強制労働の一日一日は、いうまでもなく苦痛であるが、しかも驚くほど単調である。そしてこの単調さが、この異常な環境の中へ、まさに日常性としかいいようのない状態を生み出していく。異常なものが徐々に日常的なものへ還元されて行くという異常な現実のなかで、私たちは徐々に、そして確実に風化されて行ったのである。≫
≪強制収容所の日常をひと言でいうなら、それはすさまじく異常でありながら、その全体が救いようもなく退屈だということである。一日が異常な出来事の連続でありながら、全体としては「なにごとも起こっていない」のである。収容所の一日がおそろしく長いという実感は、このような異常な事態がついに倦怠となり終わるほかない囚人の生態を直截にいいあてている。≫
そのような強制労働の日々で人々の生死を分けたのは、体力とともに精神的な要因だった、と石原は言う。
≪最初の淘汰は、入ソ直後の昭和21年から22年にかけて起こり、私の知るかぎり最も多くの日本人がこの時期に死亡した。死因の圧倒的な部分は、栄養失調と発疹チフスで占められていたが、栄養失調の加速度的な進行には、精神的な要因が大きく作用している。それは精神力ということではない。生きるということへのエゴイスチックな動機にあいまいな対処の仕方しかできなかった人たちが、最低の食糧から最大の栄養を奪い取る力をまず失ったのである。≫
そして石原は、アウシュヴィッツから生還したフランクルの、「すなわちもっともよき人びとは帰ってこなかった」(『夜と霧』)という有名な一節を引用し、≪いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰ははじまったのである。≫と書く。
▼石原は、「人間でなくなることへのためらい」と書いたが、彼の体験では飢えと渇きと排泄の欲望の中で、抑えるのが最もやさしいのは「飢え」なのだそうだ。「渇き」と「排泄」できない苦しさに比べれば、飢えの苦しみなどかわいいものだという。
囚人たちはラーゲリを移動する際、汽車に連結されたストルイピンカ(拘禁車)に収容されるが、少量の水と黒パンと一切れの塩漬け魚で3日間を過ごさなければならない。
ストルイピンカには便所がついているが、囚人たちの数に比べあまりにも少ない。
≪こうして、二十四時間にかろうじて一度まわってくる順番を、鉄格子にひしめきながら待つうちに、私たちはしだいに半狂乱に近い状態におちいった。こらえかねて留置室の床に排便した者は、ただちに通路に引き出されて、息がとまるほど足蹴にされたのち、素手で汚物の始末をさせられた。この拷問にもひとしい輸送日程は三日で終り、かろうじて私たちはペトロパウロフスクのペレスールカ(中継収容所)に収容されたが、わずか三日間の輸送のあいだに経験させられたかずかずの苦痛は、私たちのなかへ辛うじて支えて来た一種昂然たるものを、あとかたもなく押しつぶした。ペレスールカでの私たちの言動には、すでに卑屈なもののかげが覆いがたくつきまとっており、誰もがおたがいの卑屈さに目をそむけあった。≫
▼石原は、関東軍情報部で親しかった旧友・鹿野武一とラーゲリで再会したが、鹿野の姿勢に衝撃を受ける。鹿野は石原に、「君に会いたくなかった」と言った。
≪……鹿野と私の絶対の相違は、私がなお生き残る機会と偶然へ漠然と期待をのこしていたのにたいし、鹿野は前途への希望をはっきり拒否していたことである。≫
≪私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。≫
石原は帰国後、自分の「沈黙と失語」に対し、詩をつくることによって対応した。彼のラーゲリ体験はつまるところ、鹿野という友人の生き方への負い目として、また自分が生き延びたことへの負い目として受け止められ、反芻されることになった。
しかしそのような体験の総括は、他のラーゲリ体験者の目にはどのように映るものだろうか。
(「石原吉郎と内村剛介」へつづく)
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