石原吉郎と内村剛介

               【ブログ掲載:2016年4月9日】



▼前回、石原吉郎の帰国後の生が、自分の沈黙と失語への対応を軸に営まれ、ラーゲリから帰ってこなかった「もっとも良き人びと」への負い目として、収斂していった様子を垣間見た。
 石原が1977年11月に自宅で病死したのち、同様にラーゲリ生活を体験した内村剛介は石原を論じる文章を雑誌「現代詩手帖」に連載し、『失語と断念――石原吉郎論』(1979年)としてまとめた。内村は書く。

 ≪シベリヤが石原に与えた「ただひとつのこと」――それは、人間にとって裏切りとは何か、という問いであった。≫
 ≪石原はなるほど、日本へ帰って、日本で、日本語で、書いたりしたが、シベリヤに立ちつくしていたのだ。≫
 ≪自分が「生きて在る」ということが即他者の死なのである。自ら「生きる」とは他の「生」を裏切ることなのであり、この「裏切られた生」はしばしば「死」に通じていくだろう。………私たちの「生」に、「裏切りの生」に果して弁明はあるのか?それを問い続けるものが石原の詩である。≫

 石原吉郎の生と詩を、自分の生と重ね合わせるようにして受け止め、理解する内村だが、連載の半ばから論調は石原への批判に重心が置かれるようになる。大粛清の1930年代にラーゲリに囚われた、ロシアの詩人・シャラーモフやマンデリシタムの過酷な生と詩を持ち出し、石原のそれに対比させ、石原吉郎の「断念」や「失語」の甘さを論難する。だが筆者には、その批判がよく理解できない。批判とはたとえば次のようなものである。

 ≪シャラーモフがあえてしたような非在から存在へのブリッジを試みることなく断念を観想するといったことがあってはならない。現代ロシヤのこの意志的精進を知りつつ、それを他人事とし、その他人事をさとり顔に日本の娑婆に伝えるだけなら、石原よ、お前なんて、くそくらえなんだ。≫

▼内村は、石原の「一九五九年から一九六一年までのノート」と題する記述の一節を取り上げ、批判している。石原の記述は次のようなものだ。

 ≪日本がもしコンミュニストの国になったら(それは当然ありうることだ)、僕はもはや決して詩を書かず遠い田舎の町工場の労働者となって、言葉すくなに鉄を打とう。働くことの好きな、しゃべることのきらいな人間として、火を入れ、鉄を灼き、だまって死んで行こう。社会主義から漸次に共産主義へ移行して行く町で、そのようにして生きている人びとを、ながい時間をかけて見つづけて来たものは、僕よりほかにいないはずだ。≫

 内村は言う。コンミュニストの国には、「遠い田舎の町」のような「片隅」などない。コンミュニストの国で詩を書くとは、世間に背を向けてなされる行為などではない。背を向けるなど考えられないことだ。にもかかわらず、そのようにして生きている人びとを見た、と石原は言う。ウソだ!―――

 内村は初歩的な誤読をしている。石原は、日本がもしコンミュニストの国になったら、「遠い田舎町」で世間に背を向け、ひとり静かに詩を書こうと呟いたのではない。自分は詩を書くことをやめる、と語っているのだ。
 「公的領域」が無限大に拡大し、「私的営み」を押しつぶすような体制のもとでは、自分は言葉少なに鉄を打ち、働くことの好きな、しゃべることの嫌いな人間として、だまって死んで行く、と静かな決意を語っているのである。

 だが内村の批判を、彼の記述の他の部分から類推することはできるように思う。
詩人は「私人」であり、「私人」として公共に対し通すべき存在だが、同時に「公共の運命」を何ほどか予言するものであってほしい。ロシヤにおいてそういう役割を果たした存在として、内村はシャラーモフやマンデリシタムの例を挙げ、石原吉郎に不満をぶつけているようにみえる。
 しかしそれは、個人の資質を無視した「無いものねだり」というべきなのではないか。

▼内村剛介は大正9年栃木県に生まれ、昭和9年、14歳のとき満州にわたる。昭和18年、満州国立大学哈爾浜(ハルビン)学院を卒業。同年、関東軍に徴用され、敗戦とともにソ連に抑留された。その後11年間、20代半ばから30代半ばをラーゲリで過ごし、昭和31年末、引き上げ最終組の一人として帰国した。
 帰国後、商社(日商岩井)に勤めて対ソ連貿易に従事するとともに、評論を多数発表。北海道大学教授、上智大学教授を務め、2009年に亡くなった。

 内村は昭和42年に、『生き急ぐ――スターリン獄の日本人』という本を書いた。ラーゲリに囚われたひとりの日本人の体験記のような形をとっているが、体験記というには具体性が希薄であり、体験に基づく思想の表明というには明確さを欠いている。もちろんフィクションを志向したわけでもなく、政治的主張を韜晦したわけでもなく、全体として「独り言」のような色彩が強い。
 内村はあとがきに、次のように記している。

 ≪生きて帰ることがあればその声を伝えようと著者が約束した者のかずは双手の指にあまり、その中にはソビエト市民を多く含む。………ことばを成さぬ声をどのようにして伝えるか?伝うべきことがらはわれわれのヴォキャブラリーをまったく超えているし、一方それを聞く者はみな生き急ぎ、もはや人間の悲惨にも慣れて驚かなくなっているというのに。だが著者は伝えようと試みる。無益かもしれぬが、少なくとも死者との約束は果たすべきだ。≫

 内村が、伝えがたい声を伝えようと試み、自分の積年の思いを表現しようと試みた結果が、一気に書き下ろしたこの書物であることは間違いない。
 しかし筆者は内村の、晦渋にして冗舌、諧謔や嘲笑を交えた硬質の文体と呼吸が合わないらしく、読書のリズムに乗れない。彼の飛躍の多い表現が筆者の快適な理解のリズムを超え、もどかしさが山積みとなる。
 石原吉郎の、正確で丁寧な表現に努める湿度を保った文体と、内村剛介の、読者も自分も徹底的に突き放したシニカルで乾ききった文体。言葉による表現を拒む巨大で不条理な体験に、なおも言葉で挑むことは何を結果として生み出すか。二人の表現はその答えを示しているように思う。



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