日本人と中国人――尖閣諸島問題をめぐって
【2013年2月10日~3月24日】
▼『すぐ謝る日本人 絶対謝らない中国人』(金文学 南々社 2012年)という本を最近読んだ。
著者の体験から抽出した日本人と中国人の違いを、百の項目に整理し、1項目を見開き2ページで簡単に説明している。学習参考書のようなスタイルだが、手っ取り早く見当をつけたい向きには便利だし、内容的にうなずくところも多い。
いくつか例をあげる。
・初めて日本を訪れる中国人や韓国人は、日本人の割り勘の習慣に戸惑う場合が多い。中国や韓国で会食する場合、年長者や収入の多い者がひとりで払うのが一般的だ。
・日本では子どもの時から食事を残さないようにしつけるが、中国では食べ残すのが一種の習慣になっている。とくに客として招待された場合、料理をすべて平らげることはしない。料理が足りないことを意味する恐れがあるからだ。
・日本には聞き上手という言葉があるが、中国語にはそれにあたる言葉はなく、話し上手がもてはやされる。
・受験する子どもに日本では「頑張れ」と激励するが、中国では「緊張するな!焦るな!」と言う。韓国でも「心を解いて」と言う。
最後の「頑張れ」の指摘など、英語のTake it easy! を考え合わせると面白い。「頑張れ」は、世界的には少数派なのかもしれない。
韓国人の例がしばしば引かれるのは、著者が韓国系三世として中国瀋陽で生まれ、東北師範大学日本文学科を卒業し、その後来日したからである。
▼本の題名である「すぐ謝る日本人 絶対謝らない中国人」について、著者は次のような「ジョーク」を紹介する。
レストランで食事中、うっかり皿を割ってしまった。日本人はすぐ頭を下げ、申し訳ないと謝る。中国人は「言ってみれば、この皿の運が悪いよ、俺のせいじゃない」と弁解する。
著者によれば、この「ジョーク」は「現実に近いリアリティ」があるのだそうだ。
《非を認めてしまうと、自分の責任がつきまとう。このため心の中では分かっていながら、非をなるべく認めないのが中国人の一般的傾向である。》
《日本人は……すぐ謝ることで、事態を最小限でおさめようとする。これは日本人の美徳だし、常識であるが、世界に通用しない。
日本のように「すぐ謝る文化圏」は少数派だ。大多数は「謝らない文化圏」に属す。中国人はその文化圏の典型的人間である。》
《中国人は自己反省が極めて欠けていて、謝罪すべきところでも平然と自己弁解を述べる。一方、日本人はきわめて内向的で、自己批判的傾向が強い。戦後の日本人は、あの戦争への自己批判のあまりに、自己否定へ暴走した面もあり、それが結局、日本人の最近の退嬰化に直結してしまった。》
▼日本人と中国人の行動の違いについて、著者の指摘をもう少し続ける
・日本人と中国人が一緒に働く場では、両者の違いが如実に現れる。
日本人はイベントの前に、日程、時間、人員、用品のチェック、あと片付けにいたるまで詳細に打ち合わせし、万全の準備を整える。一方中国人は、人間のやることだから何とかなると考え、細部にこだわる日本人のやり方に不快感を覚えがちだ。
・中国人が日本に来て一番感心するのは「日本人が真面目すぎる」ことだという。
《これには、真面目な日本人に対する敬服と同時に、なぜあれほどまでに「クソまじめ」なのかという不可解な嘲笑の気持ちも含まれている。》
《中国では真面目で誠実であれば、周りから白眼視されたり、軽蔑されたりする可能性がかなり高い。》
・著者は日本の「一生(所)懸命」に対し、中国の「狡兎三窟」という言葉を対比する。これは「戦国策」にある言葉で、賢い兎が生き延びるのは、穴が三つもあるからだという意味だそうだ。
日本人は自分の土地を懸命に守ることを、人生の基本としてきた。しかし中国では、一か所に執着したらいつ何があるか分からないので、居場所を三つ用意しようと考えるのだという。
《安定した時にも、次の逃げ道を考えるのが中国人の発想である。》
▼中国人や韓国人は「人情」を大事にし、「日本人は人情味がない」と批判する。
彼らの言う「人情」とは、人びとがお互いの生活に深く関わりあうことを指すらしい。著者の表現によれば、「密着度の強いスキンシップ」ということになる。
《中国でも韓国でも親しい仲間になると、迷惑を掛け合うことが当たり前になる。友人の部屋に事前連絡なしで勝手に訪れたり、部屋に入って冷蔵庫の飲料を出して飲んだりする。するほうも、されるほうも当然のように受け止める。》
日本では他人に迷惑をかけないように、とまず気を使うが、中国と韓国では、「迷惑をかけることで親しくなれる」のだそうだ。
▼来日中の中国人、韓国人は、日本には牛、豚、魚、箸、針、包丁などの慰霊碑や供養塚があることを知って、「すこぶる驚き仰天する」という。
また日本では、戦争でいかに激しく闘っても、戦死した敵兵はすでに敵ではなく、同じ霊魂を共有する人間とみなす習俗がある。
しかし中国人、韓国人には「敵味方不倶戴天」という観念がある。自分たちに害を与えようとした敵の霊魂を拝み、慰霊するなどということは「到底ありえない」。
《敵が死ねば快哉を叫び、その死体に向かって、もう一発発砲するか、鞭を打つ。それによって敵への憎しみを心理的に晴らすことが出来るのだ。》
《日本人は敵方の霊を慰めることで心が慰められるが、中国人は敵方の霊まで徹底的に攻撃することで心が慰められる。》
▼まだまだ面白い指摘が、日本人と中国人の比較観察から出てくるのだが、このあたりで筆を止めよう。
こういう「国民性の違い」を理解することは、国家間に生じる現実の対立を理解し解決する上で、役に立つのだろうか。
昨年8月から急激に高まった尖閣諸島の領有権をめぐる日中間の対立に、日本人の多くはわけが分からず、中国側の対応を不快に思い、不安を感じてもいる。
尖閣諸島をめぐる歴史的経緯を見、中国側の主張とこれからの日本の対応を検討する中で、「国民性の違い」についてもあらためて考えてみたい。
日本政府は尖閣諸島について明治18年から数回の実地調査を実施し、清国に属する証拠がないことを確認したのち、明治28年(1895年)1月に日本領土に編入する決定をした。同年4月の下関講和条約により清国から割譲を受けた台湾、澎湖諸島とは別である。
翌年、政府は島を民間人(古賀辰四郎)に30年間無償で貸与した。古賀はここで螺鈿細工の原料になるヤコウガイを採取したり、アホウドリを捕獲して羽毛を採取したりする事業を行った。アホウドリが乱獲で激減した後は、ここを基地にカツオ漁を行い、カツオブシ工場を立て、明治末年には50人以上の漁民とカツオブシ製造の作業員が住んでいたという。
太平洋戦争の結果、沖縄は米軍に軍事占領された。日本は台湾や澎湖諸島を、ポツダム宣言に基づき中国に返還したが、尖閣諸島は旧沖縄県の行政区域に属するものとして、沖縄本島とともに米軍の施政権下に置かれた。
昭和27年4月、サンフランシスコ平和条約により日本は主権を回復したが、沖縄(尖閣諸島も含まれる)は条約第3条により引き続き米国の施政権下に置かれた。
昭和43年秋、ECAFE(国連アジア極東経済委員会)が、東シナ海に石油資源が豊富に埋蔵されている可能性を指摘。
昭和46年6月17日に署名された沖縄返還協定により、沖縄は日本に返還された。
昭和46年12月、中国政府が外交部声明で初めて公式に尖閣諸島に対する領有権を主張。
昭和47年3月、日本は「外務省基本見解」を発表。尖閣諸島が日本領土となった歴史的経緯を述べ、日本の領土であることを主張。
(尖閣諸島に関する事実経過については『日本の領土』芹田健太郎(2002年 中央公論新社)に拠る。古賀辰四郎の事業については、平岡昭利の論文「明治期における尖閣諸島への日本人の進出と古賀辰四郎」に拠る。)
▼前回、尖閣諸島に関する歴史的経緯を簡単に見た。
日本の主張は要するに、いずれの国家にも属していない(無主)の土地を「先占」により取得した、ということである。
「先占」が有効に行われるためには、国家がその土地を自己の領有とする意思を表示することと、実効的に占有することが必要だとされる。(『国際法講義 上 新版』田畑茂二郎 1982年)。
尖閣諸島は19世紀末に日本国土に編入されて以来、日本が継続して占有し、敗戦後は沖縄県付属の島として米軍の施政下に置かれていた。この間、中国、台湾から異議はなく、彼らが尖閣諸島を自国領だと主張しはじめたのは、70年以上経ち、東シナ海で石油埋蔵の可能性が言われ出してからである。―――これが日本側の資料と文献の伝える事実である。
▼中国政府は尖閣諸島(釣魚島)問題について、どのように主張しているのか、在日中国大使館のサイトから見てみよう。
在日中国大使が毎日新聞の書面インタビューで答えた内容やシンポジウムでの講演、中国外務次官が北京で日本メディアと行った質疑応答、外交部長補佐が中国国内の座談会で行った演説などが載っている。整理すると、彼らの主張は次のようなものだ。
1.釣魚島に言及した中国の文書は明の時代からあり、中国人がこれを発見、命名し、商人や漁民は航海の目印としていた。「無主地」ではない。
2.日本は甲午戦争(日清戦争)を利用して釣魚島を不法に窃取したが、第2次大戦後、「カイロ宣言」、「ポツダム宣言」に基づき、中国の版図に戻った。しかし米国と「琉球民政府」は勝手に管轄範囲を拡大して釣魚島を管轄下に置き、「沖縄返還協定」の中で日本への「返還区域」に入れた。
3.1972年の中日国交正常化交渉時に、釣魚島問題について「今後の解決に待つ」ことで合意した。1978年、中日平和友好条約を締結した際、「棚上げし、今後の解決に待つ」ことで了解した。
4.なぜ中国政府は日本政府の島の購入に強く反発するのか。日本は島を所有したことがないから、売買する権利もない。中国の領土主権に対する重大な侵害である。日本政府と石原都知事は共謀して、「国有化」を行った。これは中国の人びとの心を深く傷つけた。
5.中日関係を悪化させた責任は完全に日本側にあり、関係が今後どうなるかも日本側によって決まる。国交正常化と条約締結時の両国の合意と了解に早く立ち返り、問題を適切に処理するべきだ。
▼前回名前を挙げた『日本の領土』(芹田健太郎)などを参考にして、簡単にコメントしておこう。
1.明の時代に倭寇と闘った将軍・胡宗憲の著した『籌海図編』の図の中に、福建省の沿海の島々が記され、「釣魚島」の名も出てくる。しかしそれより新しい時代の「県史」(官製の地方史)などを見ると、「釣魚島」は福建省の行政範囲に含まれていなかったことが知られる。
芹田の考えでは、《(福建省沿海の島々が記されたのは)これらの島嶼が倭寇の出没する海域であるので、本土防衛上注意すべき区域であることを示しているに過ぎないであろう。》
《尖閣諸島が早くも明代に「中国の海上防衛区域」に含まれていたとしても、すでに述べた事情から現実に尖閣諸島に何らかの支配が及んでいたとは到底考えられない。》
漁民や商人たちが航海上の目印として利用していたとしても、それは自国の領土であることを保証しない。
《かりに発見から生じる原始的権原が中国にあり、その中国の権原が1895年(明治28年)に未成熟なものとしていまだ存在していたとしても、未成熟な権原は他の国家による継続的かつ平和的な主権の発現には優先しえない。》というのが、芹田の結論である。筆者もそれが妥当な判断だと考える。
▼2.ローズヴェルトとチャーチル、蒋介石が会談終了後に出した「カイロ宣言」(1943年11月)は、「満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還すること」を謳っている。
また日本が受諾した「ポツダム宣言」(1945年7月)は、「カイロ宣言」を履行するため、「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に極限せらるべし」という条項を持っている。(第8項)
そして日本が独立を回復するために連合国と締結した「サンフランシスコ講和条約」(1951年9月)では、領土について、「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」(第2条b)と定め、琉球諸島や大東諸島、小笠原群島、沖ノ鳥島、南鳥島などを、「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」(第3条)とした。
二つの宣言と条約を読む限り、日本と米国が「勝手に管轄区域を拡大」したというのは勝手な言い分であり、中国が「勝手に自国の版図と管轄区域を拡大」した主張をしていると、とらえるべきだろう。
▼ 尖閣問題に関する中国側の主張へのコメントを続ける。
3.尖閣諸島について、その帰属の問題を「棚上げし、今後の解決に待つ」ということで、日中共同声明時(1972年)に周恩来と田中角栄首相のあいだで合意され、また日中平和友好条約締結時(1978年)に鄧小平と園田直外相のあいだで合意された、と中国側は主張する。
この点に関して日本外務省の歯切れは悪い。
外務省でイラン大使などを務めた孫崎享によれば、読売新聞1979年5月31日付けの社説は、次のようにこの問題を論じたという。(『検証 尖閣問題』孫崎享編 2012年)
・尖閣諸島の領有権問題は、共同声明時にも条約締結時にも問題になったが、「触れないでおこう」方式で処理されてきた。つまり、日中双方とも領土主権を主張し、現実に論争が存在することを認めながら、この問題を留保し、将来の解決に待つことで日中政府間の了解がついた。
・それは共同声明や条約上の文書にはなっていないが、政府対政府のれっきとした約束ごとであることは間違いない。約束した以上は、これを順守するのが筋道である。
・今後とも、尖閣諸島問題に関しては慎重に対処し、けっして紛争のタネにしてはならない。
筆者はその読売新聞の社説を直接読んでいないので判断しかねるが、もし孫崎の引用したとおりの内容だとするなら、日本政府の外交交渉の姿勢と能力が問題とされなければならない。
「文化大革命」末期あるいは「文化大革命」終結直後の中国政府を相手に、圧倒的な経済力を誇る当時の日本政府が、なぜ理のある主張を通さなかったのか。なぜ将来の紛争のタネとなるような曖昧さを放置したまま、「平和友好」を謳うことを急いだのか。
▼鄧小平と園田直外相の交渉に外務省職員として同席した杉本信行は、両者のやり取りとその後の反省を次のように記している。(『大地の咆哮』杉本信行2006年)
園田外相一行は当時、自民党の条約慎重派議員から「尖閣諸島の領有権を中国側に認めさせること」を、条約締結の条件として念押しされていた。そこで園田は、交渉の少し前に起きた中国漁船による尖閣諸島の領海侵犯事件をとりあげ、再発は困ると鄧小平に言った。
鄧小平は、「ああいう事件を再び起こすことはない」と確約した。また領有権問題については、「いままでどおり、十年でも二十年でも百年でも脇に置いておいてもいい」と言った。
外務省は、日本が尖閣諸島を一貫して実効支配している現実を踏まえ、次のように考えた。
《中国はそれに対してチャレンジしない、何も触らないと表明した。日本としては、日中間にはそもそも尖閣諸島をめぐる領土問題は存在しないという立場だから、中国側が自分たちのものだと言い出さないかぎりは、それで結構だということになる。/したがって、そういうチャレンジをしないならば、尖閣問題はクリアされたことになる、というのがわれわれの解釈だった。》
しかし1992年、中国側は全人代で領海法を批准し、その中で尖閣諸島について自国の領海であると謳った。明らかに園田・鄧小平会談での合意を変更したのだ。
日本側は「認められない」と申し入れたが、言葉だけで、それ以上のアクションは起こさなかった。《私は、あのとき日本は自らの実効支配を逆に確保するような措置を取るべきだったと悔まれてならない。》と杉本は書いている。
要するに、園田直・鄧小平会談で合意されたという「棚上げ」とは、中国側が問題に「触れない」かぎり、日本としてもあえて実効支配している尖閣諸島の領有権問題を言い立てることはしない、という了解である。日中間の紛争のタネとしないために、日本の実効支配を変更するような動きをしないことを中国側に求める「合意」であり、尖閣諸島の「帰属が未決定」だというような「合意」ではない。
▼4.中国政府は野田内閣の行った尖閣「国有化」に、国を挙げて強く反発した。これが日本人にはまったく理解できないところだろう。
「尖閣諸島をめぐる領土問題は存在しない」というのが日本の立場だが、かりに「領土問題」が存在したとしても、それは日本と中国の間の問題であり、日本国内で所有権が移動したところで、それは国家間の関係を1ミリも動かすことはない。中国側は「所有していない土地を売買できるはずはない」と批判すればよいのであり、国を挙げて反発し、海洋監視船や航空機をくりかえし領海侵犯させ、示威運動をする理由になるはずがない。
▼5.「中日関係を悪化させた責任は完全に日本側にあり、関係が今後どうなるかも日本側によって決まる。」という言い方は、国際紛争時に常に用いられる常套句だから無視する。
「国交正常化と条約締結時の両国の合意と了解に早く立ち返り、問題を適切に処理するべきだ。」という点は、その「合意と了解」の解釈に大きな開きがあるとしても、日本政府も異議はないだろう。
尖閣諸島問題を「いままでどおり、十年でも二十年でも百年でも脇に置いておいてもいい」と語った鄧小平の言葉から離れ、現状を力ずくで変えようとしているのは日中どちらなのか。問題を適切に処理するために、両国の「合意と了解」に早く立ち返る必要性は高い。
▼尖閣諸島の領有権をめぐる日本と中国の主張をざっと眺め、簡単にコメントしてきた。次に、それぞれの主張の依拠する事実と論理が、国際法に照らしてどの程度説得力があるのか、少々面倒だが検討しなければならない。
前回紹介した『検証 尖閣問題』の中で、著者の孫崎享が奇妙な主張をしているので、これを批判的に取り上げながら議論を整理し検討することにしたい。
孫崎は「尖閣諸島は日本固有の領土であり、領有権問題は存在しない」という日本政府の主張に疑問を投げかけ、要旨次のように言う。
1.日本の領土は、日本が受け入れたポツダム宣言やサンフランシスコ講和条約を基礎として考えるべきものだ。
2.19世紀末に国土に併合した島は、《とても「固有の領土」とは呼べない》。また《尖閣諸島という海上交通の要衝で、相当の規模の島が、“無主物”であることはありえない。》
3.日本の主張は国際的に受け入れられていない。
したがって尖閣諸島は「日本固有の領土」とは主張できず、日中間の係争地と認識して紛争を避ける道を探るべきだ、というのが孫崎の主張である。
▼1の命題は、間違いではない。しかし孫崎がその命題を、尖閣諸島が日本固有の領土であるかどうかを議論すること自体無意味だ、と主張するために用いているのは間違いである。
たしかに日本が降伏の条件として受諾したポツダム宣言は、日本の領土に関し、「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と述べている。
孫崎はここから、島の帰属問題は連合国側の「決定」に懸っているのであって、「固有の領土」であるかどうかは問題ではない、と主張する。
しかしカイロ宣言は次のように言う。《(米、英、中の)三大同盟国は、日本国の侵略を制止し、罰するため、今次の戦争を行っている。/同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。/同盟国の目的は、(中略)満州、台湾、澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。》
「自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない」連合国側が、島の帰属を「決定」する際の最大の基準は、それが日本の「固有の領土」であるかどうかであろう。
日清戦争の結果割譲された台湾や澎湖島を、「盗取した(has stolen)」というのは穏当でないが、連合国側の戦争目的が正当であることを強調するために使われた表現としては理解できる。ということは、その島の歴史的由来を考えることは、孫崎の主張とは逆に、その帰属を決定する上でいっそう重要だということを意味するはずだ。
(ちなみに最近になって中国政府は、尖閣諸島を「日本が盗み取った」と口汚く叫んでいるが、これはカイロ宣言の文言を下敷きにしたものだろう。)
▼2点目の検討に移る。
孫崎は、《尖閣諸島という海上交通の要衝で、相当の規模の島が、“無主物”であることはありえない。》と言うが、なぜ「ありえない」のか。
前々回のblogで触れたように、釣魚島(尖閣諸島)の名は明代の書物にあらわれるが、明代、清代の「地方志」は、それが福建省あるいは台湾省の行政範囲に含まれていないことを示している。
《したがって各使録に登場する釣魚島などはあくまで当時の福琉間(福建省と琉球の間――筆者)の航海上の目標となった島嶼として記載されたとするのが、もっとも自然な見方であろう。》と芹田健太郎は書いているが、妥当だろう。
中国側も、釣魚島(尖閣諸島)を明代、清代に支配していたとはさすがに言えず、「漁民や商人たちが航海上の目印として利用していた」と述べている。
遅くとも19世紀後半には、「先占」は土地を現実に占有し支配しなければならないことが、国際法上確立していた。だから明治政府は、《明治18年以来、十年間に数回にわたり実地調査し、清国に属する証拠がないことを慎重に確認した後、明治28年1月24日に(中略)正式にわが国の領土に編入することとした」(1972年3月8日外務省基本見解)のである。
また、国土に編入したのが19世紀末であったとしても、以来70年間「継続的かつ平和的」に保有されてきたなら、島は他国から割譲されたものではない、「先占」によって取得したものとして、「固有の領土」と呼んでなんら差し支えないだろう。
孫崎の主張は、事情をよく知るはずの元外務省の高級官僚の発言として、理解に苦しむといわなければならない。
▼3点目。日本の主張が国際的支持を受けていないことが、玄葉光一郎外相の欧州訪問で明らかになっている、と孫崎は言う。
孫崎の引用する2012年10月20日付の朝日新聞の記事は次のように報じている。《玄葉光一郎外相が19日、仏英独三ヶ国の訪問を終えた。尖閣諸島問題で「強い国際世論形成力のあるG8の仲間」から日本の立場への協力を望んだが、手応えはつかめなかったようだ。背景には、対中関係も重視する欧州の現実的対応がある。》
この記事から読み取れるのは、東シナ海の小さな無人島の領有問題などで、中国との大切な経済的関係を損ないたくないという、欧州首脳の態度である。
中国は2010年の劉暁波のノーベル賞受賞に関し、「内政干渉、主権侵害」と非難し、ノールウェー政府に圧力をかけ、また各国が受賞式典に参加しないように働きかけるなど、常識の通じない国であることを遺憾なく世界に示した。
2012年9月に吹き荒れた反日デモと、暴徒化した一部の民衆による日系企業襲撃のニュースは、常識の通じない中国の「怖さ」をあらためて世界に知らせた。
だから欧州首脳の「現実的対応」は理解できるのであり、このことで「尖閣諸島は固有の領土」という日本の主張に道理がない、と言いたげな孫崎の主張が補強されるわけではない。
▼今年の1月1日の朝日新聞に、中国政府が1950年当時、尖閣諸島は琉球の一部と認識していたことを示す外交文書についての、小さな記事が出ていた。
問題の文書は、1950年3月に中国政府が作成した「対日和約(対日講和条約)における領土部分の問題と主張に関する要綱草案」で、そこでは尖閣諸島を琉球の一部として扱っていたのだ。
時事通信が昨年12月27日に、その文書の内容をコピーとともに報じたのに対し、中国側は、文書の存在を認めた上で、「署名のない参考資料を使って、誤った立場を補強しようとする企てだ」とホームページ上で反論した、という。
現代中国政治の観察者・遠藤誉(筑波大学名誉教授)によれば、1953年1月8日付の人民日報には、尖閣諸島を中国流に「釣魚島」と呼ばずに「尖閣諸島」と呼び、「琉球群島(沖縄県)」に所属すると書いた記事が出たという。(『チャイナ・ギャップ』(遠藤誉 2013年)
《琉球群島は我が国・台湾東北と日本の九州西南の海面上に散在しており、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ諸島、大隅諸島を含む、七組の諸島から成る。》
このように定義した上で、「アメリカ帝国主義」の占領に対して琉球人民が抗議し闘争していることを紹介し、琉球人民よ、がんばれ!とエールを送っている。
その後も中国は、「沖縄は日本の領土だ」と沖縄を施政下に置く米国に対抗する発言を続けたが、1971年にいたるまで尖閣諸島を沖縄から切り離して論じたことはなかった。
その他にも、戦後に台湾や北京で発効された地図が尖閣諸島を中国領の範囲から除外し、琉球群島の一部としている事例や、台湾当局が尖閣諸島を自国領として意識していなかった事例が、『日本の領土』(芹田健太郎 2002年)に紹介されているが、省略する。
要するにこれらの事例は、中国にとって尖閣諸島は基本的に関心の外にあり、明や清の時代のことはともかく、現在は沖縄の一部と認識していた、という事実を示している。
▼それでは日本は、尖閣諸島を自国領と強硬に主張する現在の中国に対し、どう対応するべきなのだろうか。
第一に、中国が本気で尖閣諸島を奪取する決意をし、そのためにあらゆる手段を使おうと決意している事実を認め、領土をめぐる対立が長期にわたって続くことを覚悟することである。中国の挑発に乗らず、挑発もせず、隙を見せて甘い期待を彼らに抱かせるような愚かな対応をしないことが肝要だ。
不快な相手だからといって、中国と一切接触を絶ってこれから日本が暮らしていくわけにはいかない。日本と中国がともに利益を得る関係、「戦略的互恵関係」に立ち戻れるように、辛抱強く道を探るべきである。
尖閣諸島については、中国側が主張する園田直と鄧小平の「合意」に立ち戻ればよい。
鄧小平が中国漁船による尖閣諸島の領海侵犯事件について、「ああいう事件を再び起こすことはない」と確約し、領有権問題について、「いままでどおり、十年でも二十年でも百年でも脇に置いておいてもいい」と発言したことはすでに紹介した。
中国側は、野田政権が尖閣諸島を「国有化」したことを「棚上げ合意」を破ったと非難するわけだが、日本側は1992年に中国が領海法を批准し、その中で尖閣諸島を自国の領海だと謳ったことに、抗議した。その後の中国漁民の領海侵犯事件にも抗議している。
中国側は力をつけた現在、本心では「棚上げ合意」を破棄したいと考えているのだろうが、交渉上無視することは不可能であり、両国が交渉を再開する適当な線だと思われる。
「棚上げ合意」を認めることは、領土について意見の対立が存在することを事実として認めることであるが、「尖閣諸島が日本固有の領土」という日本の主張を撤回することではない。
▼第二に、日本の主張を日本国内外に精力的に広める努力を、格段に強化するべきである。
この点で日本は、中国の見事な対応を見習わなければならない。
現代世界では、軍事行動に訴えることへの制約条件が増えた分、言論・宣伝による正当性の主張のウエートが増している。軍事行動がほとんど不可能な日本としては、なおさらである。ところが国内においてさえ、日本政府の主張は十分に理解されているようには見えない。
たとえば榊原英資が新聞紙上でこんな発言をしている。
《尖閣諸島を巡る問題の発端は石原慎太郎さんや野田政権の購入、国有化の動きにあった。波風を立てた日本自身が外交的解決に向けて、あらゆる努力をなすべきでしょう。》(朝日新聞2013年2月16日)
また千葉商科大大学院客員教授という肩書の橋山禮治郎という人は、やはり新聞で次のように書いている。
《尖閣諸島の帰属を、米ワシントンまで出掛けて行って公言した元知事もいた。平和裏に深めてきた日中間の政治、経済、文化の交流を破壊に向かわせた日本の行動は「愚か」の一語に尽きる。/「領土問題に手をつければ大変なことになる」と発言した在中国大使の真意も理解せず、売国奴扱いして交代させた民主党政権の浅慮も理解に苦しむ。》(朝日新聞2013年2月9日)
尖閣諸島を巡る日中間の「合意」が「問題棚上げ」にあったとして、その「棚上げ合意」を破ったのは日本、中国、どちらなのだろうか。
もちろん中国は、日本の「国有化」の動きが「合意」に違反すると言うのだが、日本政府に言わせれば、尖閣諸島を自国領海に組み入れた中国の法的措置(1992年)や、近年の中国漁船の領海侵犯こそ「棚上げ合意」に反するということになる。
榊原英資は尖閣諸島を巡る歴史的経緯のどこを見て、島の「国有化」が「問題の発端」などと言うのか。また橋山禮治郎はどうして「平和裏に深めてきた日中間の政治、経済、文化の交流を破壊に向かわせた日本の行動」などという、一方的決めつけをすることができるのか。
昨年6月、当時の駐中大使・丹羽宇一郎は「フィナンシャルタイムス」のインタビューに答えて、「尖閣諸島の購入が実施されれば、日中関係に重大な危機をもたらすことになる」と反対を明言し、官房長官は「政府の立場を表明したものでは全くない」と反論した。
中国側の考え方を政府に正確に報告することは、もちろん中国駐在の大使の大事な仕事である。だが、日本政府の考え方を中国政府や中国のオピニオンリーダーに精力的に伝え、「平和裏に深めてきた日中間の政治、経済、文化の交流を破壊に向かわせた中国の行動は『愚か』の一語に尽きる」と考える賛同者を増やす努力は、それ以上に大事な大使の仕事であるはずだ。丹羽宇一郎はそういう努力をどれだけ熱心に行い、どれほどの成果を上げたのか。
駐日中国大使の流暢な日本語をニュース番組で聞き、日本社会に入り込む精力的な行動を(中国大使館のホームページを通じて)見ていると、日本政府は言論・宣伝の分野ですでに圧倒的に不利な立場に立たされていることを痛感する。
▼中国側の主張を聞いていると、中国人と日本人の違いにあらためて驚かされる。
中国人の論争スタイルは、まず強い言葉で相手を非難し、自分の立場の正しさを大声で叫ぶことからはじまる。
論理的に整合しない部分があろうと、そのようなことは意に介さない。相手の立場や考え方への配慮など微塵も見せず、ひたすら相手を口汚くののしり、自分の言い分を言いつのる。
さらに言葉で世間(世界)に訴えるだけでなく、経済的な損得を匂わせ、自分の味方を増やそうとする。また、相手方の中から自分の言い分に理解を示すものを歓待し、味方に引き入れることにより、相手を孤立させ、有利な決着に持ち込もうとする。
日本人の場合、まず事実と論理に照らして自分の主張と立場を振り返るところから出発する。さらに自分の言い方や表現の仕方に、相手の性格や立場への配慮を欠いた面があったのではないか、と反省を進める。
そして相手がその主張の誤りを認めるなら、自分の側にも相手への配慮が足りなかった面があると言い、相手を傷つけず、表面的には相討ちのような形で問題を処理するのが大人の対応で望ましいとされる。
だから自分の言い分だけを言いつのる人間は、主張の内容以前にスタイルとして受け入れられず、軽蔑される。
国民性の違いを理解することは、国家間の現実の対立を理解し解決する上で役立つか、という問題意識からこの連載はスタートした。
尖閣諸島をめぐる現実の対立理由はともかくとして、日中の交渉や論争スタイルにそれぞれの国民性が顕れることは、確認できたといってよいだろう。
▼尖閣諸島をめぐる中国側の、予想を超える強い日本非難に驚いた日本人は、日本人特有の反応を示した。
昨年9月の国際会議で胡錦濤が野田総理に反対の意思を伝えた翌日に、日本は尖閣諸島の「国有化」を行い、胡錦濤のメンツをつぶした、これがまずかった、という反応がそのひとつである。
丹羽宇一郎は今年2月の講演で、「胡錦濤といえば日本で言うところの天皇陛下だ。これがやめてくれと言ったのに」と「国有化」の経緯を強く批判したという。(朝日新聞2013年2月20日)
あるいは、野田政権の行った「国有化」は島をめぐって不測の事態が発生することを避けるための措置なのに、「国有化」という言葉が誤解を招いた、「所有権移転」と言えばよかった、などという「反省」も一部にあった。
また、尖閣諸島をめぐり日中間の争いがあることを認めない政府の態度はかたくなで、相手が怒るのももっともだ、争いがあることを認め、話し合いに入るべきだ、という意見も多く見られる。
「人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか」。自分にいたらぬところがあったのではないかと、まず自らを振り返る日本人の姿勢は、その真面目さ、誠実さを表すものだが、ここで決定的に欠けているのは中国という相手に対するリアルな視線である。
明白なことは、中国政府が尖閣諸島を自国の領土として名実ともに支配する意思を固め、そのために日本に対して揺さぶりをかけ、その反応を注意深く窺っているということである。
もし日本が熱い紛争の起きることを望まないなら、相手の挑発に乗らず、挑発もせず、日本の実効支配をくつがえそうとする試みに付け入る隙を見せないことが肝要なのだ。そういう長期にわたる忍耐強い対応を覚悟し、着実に実行することで、はじめて中国政府は尖閣諸島問題を棚上げし、共存のための対話に応じることになる。
米国と連携することで、現在のところはまだそれが可能な力関係にある、と考える。
▼日本人の中国に対する親近感は、手元に資料がないので正確には言えないが、この10年間に急激に低下しているはずである。動物園のパンダの人気は相変わらずのようだが、中国および中国人に対しては、警戒感や恐怖心が広まっているように見える。
中国側はこうした日本の側の変化を、「日本社会の右傾化」として「説明」しようとする。たとえば中国外務省の幹部(外交部長補佐)は中国国内のオピニオンリーダーとの「座談会」で、次のような趣旨の発言をしている。(中国大使館のホームページに拠る。)
過去20年間、日本経済は低迷を続け、政権交代も頻繁で、政治は不安定化している。日本の右翼勢力は次第に一つの空気をつくりだし、すでに政界の風向きと政局の行方に影響を与えるまでになった。《日本当局は右翼勢力という禍の元を厳しく取り締まらないだけでなく、看過、容認し、はてはそれを「盾」にして周辺の隣国に挑発をかけ、視線と矛盾を外に転嫁しようとしている。》右翼勢力はなんとかして中日関係に面倒を起こそうと考え、釣魚島問題は中日関係を破壊する重要なきっかけとなった。これからも分かるように、この釣魚島問題の風波は完全に日本側が一手に起こしたものだ。―――
「右傾化」と呼ぶかどうかはともかくとして、「日中友好」を掲げてきた「親中派」と目される人びとが国民の信用を失い、中国の行動に批判的な言論が受容されるように国内の空気が変化したことは、確かである。自民党が圧勝した昨年末の総選挙で加藤紘一が落選し、鳩山由紀夫が立候補すらできずに政界を去ったのも、「親中派」の信用失墜と無関係ではない。この対中世論の変化を生み出したものが、ことあるごとに中国政府が示した威圧的な態度や詭弁、強弁にあることも、あらためて言うまでもないだろう。
この10年間に日中間を騒がせた問題を、思い出すままにメモしてみよう。
2002年5月 瀋陽日本総領事館への中国官憲の無断侵入と北朝鮮「脱北」者の逮捕。
2003年10月 西安の大学の文化祭で日本人留学生の演じた「寸劇」が、中国人への侮辱だとして日本人学生の「無差別襲撃事件」発生。
2004年7月 サッカー・アジアカップの会場で、中国人観客による日本国歌への激しいブーイングや日本人サポータへの威迫が発生
2005年4月 中国各地で反日デモ デモの暴徒化で日系スーパーが襲撃された。
2008年1月 中国製毒餃子事件 日本の検査で餃子からメタミドホスが検出されたが、中国側は中国内での混入を否定。(のちに認めた。)
2010年9月 中国漁船が尖閣諸島で停止を命ずる巡視船に体当たりし、拿捕される事件が発生。菅政権は中国政府の恫喝に屈し、逮捕した船長を釈放。
2012年9月 野田政権の尖閣諸島の「国有化」と中国の強硬な反発。中国各地で行われた反日デモの一部が暴徒化し、日系企業を襲撃。
公平を期すために、小泉首相による靖国神社参拝への批判が、2005年の反日デモの背景にあったことを、付け加えておいてもよい。
いずれにしても、中国に対する日本人の不可解な思いはつのり、「友好」意識は急激に冷めた。中国の軍備拡張に早くから警鐘を鳴らしていた平松茂雄や森本敏、江沢民が進めた狭隘な「愛国主義」教育の危険性を指摘していた古森義久や櫻井よしこ。彼ら彼女たちの中国への批判的な言論が存在したおかげで、多くの日本人は思考停止に陥らずに済んだ。
「日中友好」40年の歴史と「親中派」の言動が、危機に直面した際の中国理解にまるで役立たないことは、意外で遺憾なことなのか、それとも当然のことというべきなのか。
▼1990年代の日米経済摩擦が騒がれた当時、パーセプション・ギャップという言葉が使われた。認識された米国と実際の米国、認識された日本と実際の日本の間の隔たりが大きく、それが無用な摩擦を高めているという指摘である。
日中間のパーセプション・ギャップは、さらに大きいと考えるべきだろう。
西欧列強に半植民地化された歴史を持つ中国人にとって、領土問題はその敏感な部分に触れる問題である。中国政府は彼らに向かって自分たちの主張を浸透させており、日本の主張は彼らの耳に届いていない。
「誤解」を解けば問題は解決する、という日本人らしい思い込みをやめるとともに、それでも日本人と中国人の間に広く横たわる「誤解」やパーセプション・ギャップを、減らしていく努力を続けなければならない。その先頭に立つのは、「親中派」の人びとであるべきだろう。
日本政府も内外への言論・宣伝を強力に行わなければならない。そういう努力こそが、利害の対立する両国の軍事的衝突を避け、共存し、共に利益を得る関係へと道を開くことになる。
(了)
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