歴史の理解ということ
         (「『朝日バッシング』に思うこと二、三」の一部を改題・収録)

                    【ブログ掲載:2014年11月25日】
                      


『武漢兵站』(山田清吉著 1978年刊)という本が手元にある。
 著者・山田清吉は明治33年生まれで、大学卒業後、鉄道省東京鉄道局に勤めていたところ、昭和16年9月に召集された。42歳だった。彼は大正末期に一年志願兵として訓練を受け、予備役の少尉となっていたので、はじめ小笠原父島の要塞歩兵隊の小隊長にされた。まだ対米戦争の開始前で、道路工事をしている工兵隊の作業を手伝うのが毎日の仕事だった。
 道路工事の休憩時間に部下の兵士と話をすると、大工だった兵は妻子を実家に帰してきたと言い、牧場を経営していた兵は、女手では乳牛の世話ができないので全部売り払ってきた、と言う。著者は、官吏である自分は応召のあいだも俸給が出、後顧の憂いがないが、独立自営の人たちは生計の途が立たず、妻子を路頭に迷わせかねないのだと、厳しい現実に考え込む。
 読書好きの著者は作業や演習の合間に、知り合いになった軍医と文学談義を楽しんだり、部下に拾った貝の名前を教えたり星座の話をするという毎日を過ごすうち、華中・漢口の部隊への転属が発令された。
 昭和17年11月に長崎から客船に乗り、上海に向かった。しかし途中で魚雷に船を沈められ、冷たい海で5時間漂流したのち他の船に救助される。上海から揚子江をさかのぼり漢口へ向かう船も、米軍機の機銃掃射を受け、著者は脚に貫通銃創を負う。漢口の陸軍病院を退院し、転属先の部隊に着任したのは、翌年、昭和18年の1月、さらにその2か月後に漢口兵站司令部の慰安係長に転属した。
 
▼漢口は、南京陥落後に一時国民政府の首都だった都市である。昭和13年10月、日本の中支那派遣軍がここを占領し、第11軍の司令部を置いた。
兵站司令部は、日本国内から来る軍需物資や郵便物を受け取り、また前線の将兵の軍事郵便や傷病兵、遺骨を日本に送り出す中継点であり、駐留部隊や戦場へ向かう通過部隊に宿舎や輸送車両を提供する後方部隊である。酒保の経営や傷病兵の診療、火葬場の運営、俘虜収容所の管理もここで行っていた。著者の就いた慰安係の仕事は、演芸、映画、慰問団の取り扱いと料亭、食堂、特殊慰安所の管理とされていた。
 兵站司令官は著者に訓示して言った。「慰安係の仕事の中で一番面倒なのは特殊慰安所の監督指導だ。特殊慰安所を軍が施設として持っていることには、いろいろ意見はあろうが、現在のところ必要悪として認めなければなるまい。しかしその弊害を極力少なくする方法として、なるべく兵をそうした遊里に近づけないために、健全娯楽の施設を強化する必要がある。同時に慰安婦たちを泥沼から一日も早く救ってやるために、慰安所の不正をなくし明朗な管理を行っていきたい。君は直接の責任者として、この目的達成のために努力してほしい。」

 (著者・山田清吉は、内地に転出する同僚に託して留守宅に送った日記を記したノートと、家族にあてた軍事郵便をもとに、この『武漢兵站』を書いたという。しかし30年前の出来事や人名を克明に記すことができる、彼の記憶力には驚く。
 必ずしも読みやすい文章ではないが、読み手への効果を考慮することより実務的な正確さを重んじた記述は、記録として信頼性が高いと考える。出版された1978年が「慰安婦問題」が騒がれだす以前の時期だという点も、この手記の信頼性にとってプラスであろう。)


▼漢口特殊慰安所は、日本軍による漢口占領(昭和13年10月)直後に誕生した。兵站司令部の将校が漢口市内をあちこち物色し、高いレンガ塀で囲まれた住宅群を慰安所とすることに決めた。
 漢口陥落とともに、上海、南京で待機していた売春業者たちは慰安婦を連れ、続々と漢口を目指し貨物船で揚子江をさかのぼって来た。11月中には、予定した慰安所の建物はすべての入居が終わった。
 売春業者は2種類に分けられたという。ひとつは大阪の松島遊郭や神戸の福原遊郭の店が軍の要請により支店を出したもので9軒あり、もうひとつは朝鮮人の経営するもので11軒あった。日本人慰安婦130名と朝鮮人慰安婦150名が、ここで働いていた。
 利用時間は、兵は10時から17時、下士官は20時まで、将校は20時以降と定められていた。料金は幾度か改定され、山田清吉が着任した昭和18年頃は、将校100円、下士官50円、兵は30円だった。
 慰安婦の一日の稼ぎ高については、各店ごとに慰安婦個人別に接客数と金額が、毎日慰安係に報告された。この日計表を使って山田は各店の実地監査をやり、慰安婦の借金返済の原簿である個人別の「水揚帳」にも、不正が行われないように目を光らせた。
 店と慰安婦の稼ぎ高の配分は、食費や医療費や営業諸掛りを店の負担としたうえで、借金のある者は六分四分、借金のない者は折半とされていた。
 慰安婦たちの平均的な接客は、兵6、下士官1、将校1くらいの割合で、収入は1か月27~28日稼働として400~500円になった。前借金は平均6000~7000円ぐらいだったので、大体1年半ほどで借金を返せる計算であり、それ以上働けば多少の貯金もできて内地に帰れると、山田は慰安婦たちを指導したという。
 慰安所には診療所があった。担当の軍医が毎日詰め、いわゆる「検黴(けんばい)」も週1回定期的に行われた。
 
▼山田清吉は身近にいた慰安婦たちについて、「私は軍の必要上やむをえず犠牲になってくれた女たちにご苦労なことだと思う感謝の気持ちが先で、できるだけ手を貸してやりたいと考えるばかりであった。これは単なる憐憫や感傷ではなく、女たちに対する人間としての気持ちではなかろうか」と書いている。
 また、山田が「まことに興味ある適切な解釈」だと感じ、書中に引用した伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』の一節は、次のようなものである。

 《戦場的倫理観からいうと、売春行為というものは、それが美徳でこそあれ、けっして不道徳、または卑猥な行為であるとはいえないようである。
………兵隊というものは、自ら意志せずして戦場へ駆り出された素朴な庶民だし、戦場の女たちもまた、それと運命を同じくしている。つまり彼等同志は、生きている次元が同じであり、心の底辺に、お互いの同情と理解を用意している。ただ女たちの数があまりに不足していたために、戦火の陰に過酷な労働に圧しつぶされ、犠牲となって行ったのだ。
 兵隊も女も、どちらもかわいそうだったというよりほかない。》

 女性の立場を強調する現代では、いずれも男の側の勝手な言い分だと評される感想や発言であろう。
 しかし慰安婦は「性奴隷」だと決めつける主張や、「性暴力」という言葉を使って慰安所での売春と強姦を同一視するような主張は、正しいものだろうか。「性奴隷」や「性暴力」という言葉を起点に、日本政府の法的責任と関与者の法的処罰を求め続ける主張は、正しいものだろうか。

 石川逸子は岩波ジュニア新書『「従軍慰安婦」にされた少女たち』のなかで、《「従軍慰安婦」、つまり大日本帝国軍隊によって公然と長期的に強姦、輪姦された女性たち》とか、《世界に類例のない「慰安所」。将兵が公然と女性を輪姦できる場所》と書いている。
 また、クマラスワミの1995年の準備報告では、慰安婦問題を、《現代の武力紛争時の組織的強姦および性的奴隷制の加害者を訴追するための法的先例になる》としているらしい。(『慰安婦問題』熊谷奈緒子 2014年)
 しかしいかに強いられたものであるとしても売春は売春であり、強姦や輪姦とひとくくりにする主張が建設的な議論の役に立つとは思えない。

 吉見義明の『従軍慰安婦』(1995年)は、調査した事実を一応客観的にまとめた書物のはずだが、その中で「従軍慰安婦とは、軍のための性的奴隷以外のなにものでもなかった」、「従軍慰安婦制度という性的奴隷制」と書いている。
 しかし「奴隷のような生活を強いられた者」と「奴隷」は違う。それは「王侯貴族のような生活をする者」が「王侯貴族」でないのと同様であり、比喩はあくまでも比喩でしかないことを、ばかばかしいが強調しなければならない。問題が世界に広がる過程で実態から離れた言葉がひとり歩きし、問題をいっそう複雑に混迷させているからである。


▼「慰安婦問題」で熱心に日本の糾弾を続ける歴史家・吉見義明の比較的最近の著作に、『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(2010年)という小冊子がある。
 2007年にアメリカ下院で、「慰安婦」に関する日本批判の決議がなされようとしたとき、日本人有志がワシントンポストにThe Factsと題する意見広告を出し、下院の動きを批判した。吉見の小冊子は、この意見広告に対する反批判の形をとりつつ、吉見の主張をまとめたものである。
 吉見は戦前の刑法の「略取及び誘拐の罪」を持ち出す。「帝国外に移送する目的を以て人を略取又は誘拐した者や人を売買した者、移送した者」は2年以上の有期懲役だという規定である。「略取」とは暴行脅迫を手段として人を支配下に置くこと、「誘拐」とは騙して判断を誤らせ、他人を支配下に置くことだが、朝鮮人慰安婦を集めた女衒や慰安婦を受け取った遊郭の経営者たちは、皆この「略取及び誘拐の罪」を犯している。そして日本軍は慰安所を開設し、彼らの行為を黙認していたのだから、法的責任を免れない、というのが彼の論理のようである。
 
 吉見は、慰安婦たちの置かれた状況を、『漢口慰安所』(長沢健一 1983年)という書物を使って記述する。長沢健一は山田清吉の管理していた慰安所の軍医であり、互いの名前が互いの本に出てくる。吉見は次のように書く。

 《………ここで気づかされるのは現地の軍に、(そしてその一員である長沢軍医に、)軍の責任という発想がまったく欠けている点です。国外移送のための人身売買と誘拐は犯罪であり、したがってただちに契約書を破棄して、女性を自由にして日本に送り返さなければいけない、ということに軍側は気づいていません。》
 また、こうも述べる。
 《彼(著者の長沢軍医……筆者註)は気づいていないのですが、(慰安婦として連れてこられた女性が)きわめて違法な契約書に縛られて連れてこられたことを記述しています。なぜなら、当時でも、借金を売春によって返済するという契約は公序良俗に反し民法第90条により無効とされていたからです。》
 
 吉見義明はここで文字どおり検事役を務め、戦前の刑法や民法の条文を持ち出して、軍が法律違反に「気づいていない」ことを非難する。しかし筆者は、吉見が歴史家であるなら、この「気づいていない」という事実から、まず「時代」を引き出すという作業をすべきだろうと考える。
 
▼歴史家の仕事は、過去の世界を理解し、描き出すことだろう。過去の出来事を綿密に調べることはもちろん大切だが、それを時代の文脈の中で理解し、また当時を生きた人びとの思いを理解するのでなければ、過去の世界を描き出すことは出来ない。
 「慰安婦問題」を考える際に欠かせないのは、飢え死にの可能性さえ含む極度の貧困という時代背景である。極度の貧困という時代背景から問題を切り取り、現代に移して糾弾することは、気楽ではあるが歴史を理解することではない。
 慰安婦たちの悲惨な境遇に同情し、その改善に努力した山田清吉や長沢軍医のような「ヒューマンな感性を持っている人」でさえ、自分たちの行為が「違法」であるとか、「違法状態」に手を貸しているとは考えなかった。彼らにとって慰安婦たちの悲惨な境遇は、時代の多くの悲惨のうちの一つであり、眼前の問題を少しでも改善しようと努めることが、彼らに可能なすべてだった。

 「アジア女性基金」による「慰安婦問題」の解決法は、日本国家の「法的責任」を曖昧にしたまま、「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」として「お詫びと反省の気持ち」を表明したものだったかもしれない。しかし総理大臣の「お詫びと反省」の手紙と、国民の拠金・国庫の資金併せて1人500万円を「元慰安婦」に手渡すという解決法は、半世紀以上前の「歴史」に属しその事情も境遇もさまざまであった彼女たちに対する、可能で妥当な優れた方法だったと筆者は考える。
 日本の「法的責任」を糾弾しつづける吉見たち「正義に憑かれた人々」に対し、筆者は強い違和感を覚える。それは結局、彼らが「歴史」を理解せず、また法律の可能性・不可能性を理解せず、問題を安易に現代の法廷に持ち出して怪しまないところにあるのだと思う。

(終)

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