戦後七〇年の安倍談話について

       【ブログ掲載:2015年8月21日~9月18日】



▼8月14日に「戦後70年の安倍談話」が出された。安倍晋三は2度目の首相就任以来、「21世紀に相応しい未来志向の談話」を出すことに意欲を燃やし、それは「歴史修正主義者」である安倍が、「戦後50年の村山談話」や「戦後60年の小泉談話」を覆すものになるのではないかと注目されていた。
 中国政府や韓国政府から内容を牽制する発言や注文がたびたび出され、米国政府からも懸念する声が上がり、日本の歴史学者、国際法学者、政治学者たちも過去の首相談話を継承するよう求める共同声明を7月に発表した。安倍首相は「村山談話を全体として引き継ぐ」と言うが、「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「おわび」などの言葉が入るのか、入らないのか、といった表現の細部にも及ぶ詮索が毎日のようにマスコミ報道に流れ、「談話」をめぐる事前の騒ぎは蝉しぐれのようにかまびすしかった。

▼「談話」に関する筆者の関心や思いは、ぼんやりしたものだったが、整理すれば3点ほどになるようだ。
 まず日本を代表する位置にいる安倍首相には、愚かな発言をしてもらっては困る、と思っていた。70年前に終了した戦争が、「日本の自存自衛の戦争」だったとか「アジア開放のための戦争」だったというような、安っぽい「歴史認識」を語られては国民が恥ずかしい。
 日米戦争が日本の自衛のための戦争だったという側面は認めてもよいが、そこに至るまでの中国大陸での日本の侵略行為や、侵略行為を自分で切り上げることができないまま日米戦争に突入した日本政治の愚かしさは、弁護の余地がない。

 また筆者の思いの中には、「侵略」「植民地支配」「反省」「おわび」の字句を入れる、入れない、という一連の騒ぎに対する苛立ちや反発もあった。こういう騒ぎを一体いつまで続けるつもりなのか、もう戦後70年ではないか、いい加減にしてほしい、という不快な感情である。
 だがコトの経緯を振り返れば、これは安倍晋三自身が招いた問題だった。
 戦争終結から50年、60年、70年の節目ごとに、日本の首相が「談話」を発表し、過去への反省やら将来への決意表明やらを、して見せなければならない決まりなどどこにもない。しかし「戦後レジームからの脱却」を信条とする安倍は、「村山談話」を正しい歴史総括にあらためるべきだと考え、「戦後70年の安倍談話」を出すことに意欲を燃やした。ところが中国、韓国、そして何よりも米国からの懸念、反発を受けて安倍は後退し、迷走した。「村山談話」は安倍の「踏み絵」となったのである。

 もうひとつ、「談話」がこれからの日中、日韓の関係にプラスとなるようなものであることが望ましい、としきりに言われることについて、もちろんプラスに働くことが望ましいが、その点を度外れに強調することは疑問だと考えていた。
 「村山談話」はそのことを意図して出され、外交上もプラスの効果をもたらしたが、それから20年が経ち、日中、日韓の力関係も、それぞれの国民の他の国民への感情も変化している。20年前には新鮮な響きを持った同じ言葉であっても、20年後の二番煎じ、三番煎じとなればプラスの効果を期待するのはなかなか難しく、マイナスでなければよいというぐらいに考えるべきではないか。―――

 こういった筆者の事前の感想は、平均的日本人のそれを、それほど外れたものではないだろう。

▼発表された「戦後70年の安倍談話」は長いものだった。「村山談話」、「小泉談話」の3倍近い、400字詰めの原稿用紙で9枚ほどの長さである。
 全体は3つの部分に分けられ、初めの部分には敗戦までの日本の歴史がまとめられている。《………世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失って行きました。………》
 第2の部分では、先の大戦で《斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます》と語り出し、戦争の惨禍と戦後日本の不戦の誓いを述べる。
 《何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。》
 《我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。/こうした歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないものであります。》
 第3の部分は、これからの日本の採るべき道についての態度表明だが、その冒頭に「謝罪」はこれで止めにしたいと述べている。
 《日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。》
 そのあと、日本は過去の歴史を踏まえ、いかなる紛争も法の支配を尊重し、力の行使ではなく平和的、外交的に解決していくこと、核兵器の不拡散と究極の廃絶をめざすこと、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため世界をリードしていくこと、自由で公正な開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化すること、等々が述べられて終わる。


▼「安倍談話」の特徴は第一に、近代日本の歩みと世界の動きを述べ、その中に先の戦争を位置付けて語ったことである。百年以上前の世界には西洋諸国の植民地支配が広がっており、植民地となることへの危機感が日本の近代化の原動力となったこと、日本がアジアで最初に立憲政治を打ち立て、やがて日露戦争に勝利したことはアジアやアフリカの人々を勇気づけたこと、などが述べられる。
 しかし第一次世界大戦後、民族自決の動きが広がり、悲惨な戦争が二度と起こらないように国際連盟を創り、不戦条約を結んで戦争を違法化するという潮流が生まれたのに、世界恐慌が起こり、日本経済が大きな打撃を受けると、日本は経済的、外交的な行き詰まりを力によって解決しようとした。日本は世界の大勢を見失い、満州事変を起こし、国際連盟から脱退し、戦争への道を進み、70年前に敗戦を迎えることになった。―――
 日本の「歴史修正主義」者たちは一般に、西欧諸国によるアジアの植民地化の歴史を強調し、いっぽう日本を植民地解放の旗手に擬し、先の戦争をアジア解放のための戦いだと主張したがるようだ。しかし実態を見れば、それは遅れて来た帝国主義者・日本による「植民地再分配」のための戦争というほかない。戦後にアジアの植民地が次々と独立を果たしたのは、アジアの人々の「目覚め」とともに、植民地支配者・西欧諸国が戦争により疲弊し、日本が「大東亜開放の戦い」に敗北した結果なのである。
 安倍談話は「歴史修正主義」に組せず、おおむね妥当な線で記述を抑えているように見える。安倍晋三は、日本の開国以来の歩みと先の戦争の関係に触れることで、歴史を広い視野の中で理解することを人々に求めたのであろう。
 元駐日英国大使が、「日露戦争がアジアやアフリカを勇気づけたなど、ばかげている。記述は、歴史上の事実をごまかそうとする試みに思える。」と感想を述べている(朝日新聞8/15)が、19世紀段階で凍結されたような元英国大使の歴史観に驚く。

▼安倍談話の第2の特徴は、先行する「村山」「小泉」談話で使われた「侵略」や「植民地支配」、「反省」や「お詫び」というキーワードは盛り込まれているものの、主語を曖昧にぼかし、「日本のことを言っているのか一般論として言っているのか定かでない」(岡田克也民主党代表)点であろう。
 具体的に比べてみよう。
 《わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。》(村山談話)

 《事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に決別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、(中略)アジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。》(安倍談話)

 とにかく「安倍談話」は長い。この水で薄めたような冗長さは、「私」が「反省」「お詫び」の主体となることからひたすら逃げまくり、しかし非難を免れるために構文の主語を「我が国」や「私たち」に変え、文章のつじつまを合せようとしたことから来ている。
 談話は、戦後日本が平和国家としての道を歩んできたことを述べ、戦争中の行為への痛切な反省と心からのお詫びを「歴代内閣」が表明してきたことを述べ、それは今後も変わらない、と述べることで、「私」もそこに連なっていることを暗示する。しかし暗示するにとどまり、率直に自分の意思として述べようとはしない。
 なぜこのような回りくどい書き方をしたのか、といえば、安倍が彼なりの意地を見せ、自分のサポーターたちの期待を裏切るまいと努力したからだ、と言うことになろうか。

▼安倍談話の第3の特徴は、今後の対中国関係と対韓国関係に差をつけ、中国に対しては十分な配慮を示し、友好関係を続けていきたいというメッセージを送っているのに、韓国に対してはきわめてそっけない態度を取っていることである。
 談話は、多くの日本人引揚者が無事帰還できたことや、中国に置き去りにされた3千人近い子供たちが、無事に成長し日本に帰国できたことを取り上げ、「戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さん」の「寛容の心」を絶賛してみせる。しかし韓国については、「……インドネシア、フィリピンをはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み」という一節に、他の国々といっしょに一度だけ触れられているに過ぎない。
 これはもちろん、「偶々そうなった」ということではない。談話は字句の選択の適否から内容の量的質的バランスまで、慎重・綿密な計測・計算の上につくられたのであり、ここからは韓国政府に対する安倍政権の冷めた姿勢が読み取れる。

 安倍談話について検討してきた「有識者懇談会」の報告書は、韓国の対日政策について「理性と心情が交差する」と分析している。

 《第二次世界大戦後の70年を振り返れば、韓国の対日観において理性が日本との現実的な協力関係を後押しし、心情が日本に対する否定的な歴史認識を高めることにより二国間関係の前進の妨げとなってきたことがわかる。》
《1998年の日韓パートナーシップ宣言において、植民地により韓国国民にもたらした苦痛と損害への痛切な反省の気持ちを述べた小渕首相に対し、金大中大統領は、小渕首相の歴史認識の表明を真摯に受け止め、これを評価し、(中略)和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互い努力することが時代の要請であると述べた。にもかかわらず、その後も、韓国政府が歴史認識問題において「ゴールポスト」を動かしてきた経緯にかんがみれば、永続する和解を成し遂げるための手段について、韓国政府も一緒になって考えてもらう必要がある。》

 韓国の対日政策を「理性と心情が交差する」と表現する報告書の分析は、秀逸だと思う。そして報告書の分析も踏まえた安倍政権の韓国との距離の取り方は、適切なものと考える。

▼以上が筆者の感じた安倍談話の主な特徴だが、もうひとつ、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べたことを、先の「村山」「小泉」談話と比べたときの眼新しさとして、挙げておくべきかもしれない。
 「談話」は関係諸外国と日本国民双方に向かってなされたものだが、国民にとって最も理解しやすく、共感しやすいのは、おそらくこの部分であろう。
 談話は「謝罪はこれで打ち止めにしよう」と言う一方、用心深く次のように言葉を続けている。
 《しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。》


▼安倍談話が発表されると、米国政府はただちに、「大戦中に日本が引き起こした苦しみに対して痛惜の念を示したことや、歴代内閣の立場を踏襲したことを歓迎する」と賛意を表した。
 中国の外交部は、「日本は当然、戦争責任を明確に説明し、被害国の人民に誠実に謝罪し、軍国主義の侵略の歴史を切断すべきだ」という中国の原則的考えを述べたが、談話についての具体的な発言は控えた。
 韓国政府は有識者懇談会の報告書に対し、「戦後の韓日関係に関する一方的で強引なこじつけであり、両国国民間の和解にまったく役立たない」と反発していたが、談話については反発や批判をしなかった。韓国が「軽視」ないし「無視」されたという事実に、どう対応すべきか、判断に迷うところがあったのかもしれない。
朴大統領は安倍談話発表翌日の「光復節」の演説で、「われわれとしては物足りない部分が少なくないのも事実」だが、「日本の歴代内閣の立場が今後も揺るぎないものであると、国際社会に明らかにしたことは注目する」と触れるにとどめた。

 国内の反応はそれほど明瞭なものではなく、談話に対する賛否が鋭く対立するようなこともなかったようにみえる。
 もちろん村山・小泉談話と比較して、安倍談話からは「主体意識」が感じられず、侵略の責任という問題意識もない。「冗長で毒にも薬にもならない談話」(三谷太一郎)だとする批判の声はあった。
 しかし「戦後レジームからの脱却」に並々ならぬ熱意を懐く安倍晋三でさえ、日本の総理大臣として発言する場合は、「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」を表明しなければならなかったという事実に着目し、「国民的なコンセンサスの出発点になる」と評価する声(細谷雄一)もあった。
 安倍のサポーターたちは、概して肯定的に評価したようである。談話の内容は物足りなかったとしても、安倍晋三の努力は認めよう、といったところかもしれない。サポーターの一人、櫻井よしこは、「『侵略』『お詫び』という言葉が注目されていたが、日本国民が反省している気持を十分に表しながら、外の声に押され、安易な謝罪の道を取らなかったことは、日本のため、世界のためにも建設的だ」と感想を述べた。

 そういうなかで朝日新聞の社説は、「何のために出したのか」という表題を掲げ、異彩を放っていた。安倍談話は「戦後70年の歴史総括として、きわめて不十分な内容」と斬って捨て、談話発表に至るまでの安倍晋三の「迷走」ぶりを批判し、「出す必要のない談話に労力を費やしたあげく」、「解決が急がれる問題は足踏みが続く」。「いったい何のための、誰のための政治なのか。本末転倒も極まれりである」と書く。
 これほど感情的な非難をぶつける「社説」も珍しい。朝日新聞が感情を高ぶらせることの是非はともかく、安倍談話の評価を考えるために、問題をもう少し広い歴史の視野の中に置いてみたいと思う。

▼19世紀末までヨーロッパ社会では、戦争は「他の手段をもってする政治の継続」であり、戦況の優劣が明らかになれば、賠償金の支払いと領土の割譲によって決着をつける問題であった。けっして道徳的に非難したり、「謝罪」や「赦し」を求めたり求められたりする問題ではなかった。
 明治日本の戦った「日清戦争」「日露戦争」も、「他の手段をもってする政治の継続」としての戦争であり、戦いが終われば日本とロシアの将軍が合いまみえ、昼食を共にするような光景もあったのだろう。文部省唱歌に唄われた次のような光景は、かっての時代の「戦争」の性格と無縁ではない。

 ♪昨日の敵は今日の友 
  語る言葉も打ち解けて 
  我は讃えつ彼の防備 
  彼は讃えつ我が武勇(「水師営の会見」佐佐木信綱:作詞)

 「戦争」の終結したあと、ひとはどういう態度を取るべきかについて、M.ウェーバーは『職業としての政治』で次のように語っている。
 勝利した国が、「自分の方が正しかったから勝った」と主張するのは、「品位を欠いた独善」だし、戦争のすさまじさに精神的に参った人間が、「自分は道義的に悪い目的のために戦うことはできなかった」と自己弁護するのも同様だ。戦争が終われば両者は男らしく、戦争の原因となった利害の衝突をどうするか、将来に向けて話し合うべきである。
 《政治家にとって大切なのは将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。》
 しかし第一次世界大戦は、こういう古典的な戦争観に致命傷を与えた。武器の発達は巨大な破壊力となって世界を覆い、戦禍が広く国民生活全般に及ぶようになった結果、戦争は国際紛争解決の手段として「放棄」されることになり、「非合法化」された。1928年に欧米列強は不戦条約を締結し、日本もこの条約に加わった。
 さらに第二次世界大戦の敗戦国ドイツを支配していたナチが、露骨に侵略戦争を始めただけでなく、ユダヤ民族抹殺を組織的に実行したという特異な事情が、戦争決着のありかたを決定的に変えた。ドイツの指導者の戦争責任を問う法廷がニュルンベルグに開設され、ここでは通常の戦争犯罪を裁くだけでなく、「平和に対する犯罪」と「人道に対する犯罪」をも裁判の対象とした。
 極東国際軍事裁判所、すなわちいわゆる「東京裁判」でもこの考え方は踏襲され、A.平和に対する犯罪、B.通例の戦争犯罪、C.人道に対する犯罪、に問われた被告を裁いた。「戦争」はもはや現世的な利害の調整を行う「政治の継続」などではなく、宗教的情熱をもって敵を殲滅する場であり、戦後処理としての戦争裁判は、道徳的・宗教的色彩の濃厚な告発と断罪と復讐心を満足させる場となった。

 筆者は、ニュルンベルグ法廷で断罪されたドイツの対応について、ヴァイツゼッカー大統領の演説を参考にしながら考えてみようと思う。ヴァイツゼッカー大統領の演説とは、「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目になる」というフレーズで有名な演説である。


▼西ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、1985年5月8日にドイツ連邦議会において、ドイツ敗戦40周年を記念する演説を行った。
 その日は、ドイツが第2次世界大戦で無条件降伏をしてから丁度40年目に当る日だった。ヴァイツゼッカー大統領はこの演説のために各界各層の人々に直接会って話しを聞くなど、数カ月かけて準備を進めたという。演説は安倍談話の約5倍、50分ほどの長さである。(以下、引用は『荒れ野の40年』永井清彦訳 2009年 に拠る)

 演説は、まず1945年5月8日の歴史的意義について語りはじめる。
《われわれドイツ人にとって5月8日は、祝賀すべき日ではありません。》
 《たいていのドイツ人は国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり、無意味であったのみならず犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった、ということが明らかになったのであります。疲労困憊し、なすすべを知らず、新たな不安に駆られている、というのが大抵の人々の気持ちでした。》
 だが、日一日と過ぎていくにつれ、5月8日が解放の日であることがはっきりしてきた。ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制から、ドイツ人全員が解放された日なのだ、と言う。

 次いでヴァイツゼッカーは、演説全体の主旋律とでもいうべき部分に進む。
 《5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには真実を求めることがおおいに必要とされます。
 われわれは今日、あの戦いと暴力支配のなかで斃れたすべての人々を哀しみのうちに思い浮かべます。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で、捕らわれの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。………》

 このあと演説は、「哀しみのうちに思い浮かべる」人びとについて、さらに列挙する。虐殺されたロマ(ジプシー)、殺害された同性愛者や精神病患者、ドイツ占領地でのレジスタンスに加わり銃殺された人びと―――。
またドイツ国内の労働者や共産主義者のレジスタンスでの犠牲者、積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心を曲げるよりは死を選んだ人びと―――。
《はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みが続いております。(中略)今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲傷の念とともに思い浮かべているのであります。》

▼次にヴァイツゼッカーは、ユダヤ人のホロコーストについて語る。
この犯罪に手を下した者は少数で、公けの目には触れないようになっていたが、ユダヤ系の同胞が公然と憎悪を投げつけられる光景は、どのドイツ人も見聞きしていた。「シナゴーグの放火、略奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまるところを知らない冒涜」に、目を閉ざさず耳を塞がずにいた人びとなら、ユダヤ人を強制的に移送する列車に気づかないはずはなかった。
しかし、「余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていた」のが現実だった。
 あの時代を生きてきた人たちは今日、一人ひとり自分がどうかかわりあっていたかを静かに自問していただきたい。
《後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでしょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はない、という一事を理解せねばならぬのです。》

▼演説は次に、大戦後、東欧を追われたドイツ人について述べる。
 大戦後ソ連は、ポーランドとの国境線を西側に押し広げ、ポーランドは代償としてドイツの土地を割り当てられた。ポーランドは国全体を西方向に250キロ移動させられた形になる。
 ソ連が自国領としたポーランド東部にはロシア人が移住し、追い出されたポーランド人は元ドイツ領に移住させられた。それに先立ってドイツ人は、数百年間住み慣れた土地から根こそぎ追放されたのである。
 チェコスロバキアやハンガリー、ルーマニアなどのドイツ人も追放の目にあった。東欧各地から追放されたドイツ人は合わせて1200万人、追放され、見知らぬ故国へ逃れていく途中、飢えや地元民による報復などで命を失った者は、60万人とも200万人ともいわれている。(以上は、永井清彦の解説に拠る。)
 戦後のドイツにとって、ポーランドとの事実上の国境となったオーダー・ナイセ線(オーダー河とその支流ナイセ河)の認否の問題は、きわめて扱いの難しい課題だった。ヴァイツゼッカーは次のように述べた。
 何百万というドイツ人が西へ追放された後、何百万のポーランド人、何百万のロシア人が移動させられた。皆、意向を尋ねられることなく移動を強いられ、不正に耐えてきたのだ。不正をどのように見直し、それぞれのもつ請求権をぶつけあったとしても、彼らの身に起きたことについて埋め合わせをすることはできない。
 今では故郷を追放されたドイツ人の子孫は、ドイツに新しい故郷を見出し、東欧の古い墓地では、ドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっている。5月8日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びとに、「持続的な将来の安全を約束」し、「法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという戒め」を優先させねばならない。これこそヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる、本当の貢献である。―――

▼次に演説は、歴史の教訓をドイツは戦後の国家運営の基本方針として役立ててきたし、これからも役立てていくと述べ、いくつかの例をあげているが省略する。ただ、いまEUで喫緊の課題となっている「難民受け入れ」の問題にも触れている部分があるので、紹介する。
 《人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人々に対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人々に対し門戸を閉ざすことはないでありましょう。》
(―――シリアからの多数の難民がドイツを目指し、ドイツ政府が英・仏よりもずっと難民受け入れに積極的な姿勢を保持しているのは、単にドイツ経済の事情によるだけではない、と考えるべきなのだろう。)

 演説の最後に、ヴァイツゼッカーは次のように語る。
 《かって起こったことへの責任は若い人たちにありません。しかし、歴史の中でそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
 われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつけることが極めて重要なのはなぜか、このことを若い人々が理解できるよう手助けをせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。》
 そして若者たちに、他の人々への敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしてほしいと呼びかけ、国民に、あたうかぎり真実を直視しようと呼びかけ、演説を終わる。


▼ヴァイツゼッカー演説に対し、国の内外の多くの人が賛同したが、反対する者もいた。演説の内容をあらかじめ知った与党議員30人余りは、演説の日に国会を欠席して不満を示した。大統領が5月8日を「解放の日」と言い切ったことには、とくに反発が大きかったという。また、東欧から膨大な数のドイツ人が強制的に追放された問題や、オーダー・ナイセ線以東の土地がポーランドとソ連に奪われたことへの、不満や異議もあった。

 その年、西ドイツでは年の初めから、「敗戦40年」の議論が百出していた。歴史の細部にメスを入れられ、古傷を暴かれ、重苦しい論議が続くことに対し、もううんざりだ、という不満が多く聞かれた。ある政治学者は「5月8日と聞こえ出すと人々は耳を塞ぎたくなり、この日付けを見ると目を閉じたくなる」と書き、著名な歴史学者は、近い過去を論じあうことが国論の分裂を助長することに警告を発した。そういう雰囲気の中で行われた大統領演説だった。(以上、永井清彦の解説に拠る。)

 大統領演説のあと、官邸には2か月の間に4万通もの手紙が届き、演説に賛同するものが圧倒的に多かったという。「死者のことを心に刻もう」、「哀しみのうちに思い浮かべよう」と呼びかけたヴァイツゼッカー演説は、ドイツ現代史への向き合い方について国民の共通理解・共通認識をつくることに、一定の成功をみたと言えるだろう。

▼「ヴァイツゼッカー演説」と「安倍談話」を比較し、そこから何を理解するべきだろうか。
 両方とも第2次世界大戦の敗戦国の代表者が、敗戦の節目の年の記念日に行った「演説」や「談話」であり、現代史について国民に語りかけ、近隣関係諸国とのいっそうの「和解」を求めるという点では、同様の性格のものと言える。
 違いは、一つは語りかける対象にある。安倍談話は、(村山談話も同様だが)、日本国民と先の大戦を戦った関係諸国の双方に向けて語りかける。談話の中に、「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と国民に呼びかける部分と、「我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います」と、外に向かって語る部分が混在している。
 一方、ヴァイツゼッカー演説はドイツ国民のみを対象に語りかけ、その内容が関係国への「和解」のメッセージともなる、というスタンスを取っている。この点は微妙な違いのように見えながら、具体的な表れとしては大きな差異となる。

 違いの二つ目は、安倍談話では「反省」や「お詫び」、「侵略」や「植民地支配」の言葉が入るか入らないかが注目の的となり、結局はすべて挿入されたのだが、ヴァイツゼッカー演説にはそういった言葉は、一つもないことである。
「強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人」や「戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連、ポーランドの無数の死者」を心に刻もう、という呼びかけはあるが、侵略戦争への明確な謝罪の言葉はない。
 また、心に刻み、哀しみのうちに思い出す対象は、「戦いと暴力支配のなかで斃れたすべての人びと」であり、つまり心に刻む死者としては、「加害者」であるドイツ軍兵士もレジスタンスで捕えられ銃殺された占領地の「被害者」も、同等なのだ。現在の日本をとりまく政治環境なら、感情的な反発の声があがって少しも不思議はない。
 これは演説を、ドイツ国民に呼びかける形でまとめたことによるのだろう。自国民を演説の対象とする以上、死者を誠実に心に刻もう、歴史の真実を直視しよう、と呼びかけることはできるが、「お詫び」や「謝罪」の言葉は入る場所がない。

 日本では、ヴァイツゼッカー演説の「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目になる」という言葉が、有名になった。この言葉は、「歴史の真実を直視し、率直に謝罪するドイツ」というイメージを広め、他方、「歴史の真実を直視せず、侵略戦争の反省も謝罪もしない日本の政治家たち」を批判する、という対比の中で、幾度も引用されてきた。
 だが、そのような対比の構図が誤まった単純化、あるいは意図的誤解であることは、上に見てきたとおりである。ヴァイツゼッカー演説からは、国民に〈死者を心に刻もう〉と呼びかけることで、ドイツ現代史への向き合い方について国民の共通理解を創りだした、優れた政治技術をこそ学ぶべきなのだ。

▼前々回、戦争は第一次大戦後、「他の手段をもってする政治の継続」から倫理的、宗教的な罪悪に変わった、と筆者は書いた。そして同様の変化として、「歴史認識」が「他の手段をもってする国際政治の継続」、「有効な外交手段」となったのが、21世紀の現実政治のようである。「正しい歴史認識を持て」という牽制や恫喝の言葉が、外交の場で近年便利に用いられている。
 「謝罪を続けたくないなら、……安倍氏がここで潔く謝罪し、国民とアジア諸国民との間に横たわる負の連鎖を断ち切る――こんな決断はできなかったのか」と朝日の社説(8/15)は書くが、この主張は間違っている。「歴史認識」を使った牽制や恫喝は、日本政府および国民に対して有効である限り、くりかえし使用されるだろう。歴史の問題は歴史の問題として、政治や外交の場から自由な議論が可能な「文化」の場へ移すよう努めることが、不毛な国民対立を招かぬ正しい対処法なのだ。

 安倍首相が批判されるべきは、談話の「主語」をぼかし、「村山談話」から「後退」した点にあるのではない。自ら好んで「歴史」を政治のテーブルに持ち出した行為こそ、非難されなければならない。
 同様に批判されるべき動きが自民党内にあることを、ひと月ほど前の新聞が報じていた。稲田自民党政調会長が、東京裁判で認定された事実や憲法制定過程へのGHQの関与などについて、検証する組織を党内につくることを検討している、というニュースである。(8/9読売新聞)。
 歴史を政治のテーブルに持ち出していじりまわし、「正しい歴史」と称して自己満足にふける愚行は、許されるべきではない。それが、「談話」騒動を見ていて筆者が懐いた感想のひとつだった。

 「談話」騒動についての二つ目の感想は、政治の批評は、安倍内閣の現実に採用している政策を対象として、国内・国際政治の場におけるその効果をリアルに論じるべきだ、という点である。
 メディアの中には、安倍晋三個人の歴史観や性格や政治信条を、過剰に問題にする傾向がある。それが安倍晋三という政治家の「不徳」の致すところなのか、「本懐」なのかは知らない。しかし政治ジャーナリズムにとってそれは安易な誤まった傾向であり、日本の政治にとって無用な空騒ぎであることは確かであろう。

▼余談だが、筆者は1990年の夏、所用でベルリンへ行き、市庁舎を訪れたことがある。
 まだ東西ドイツの再統一が行われる前だったが、「ベルリンの壁」は前年の11月に崩壊しており、市内では「壁のかけら」や東ドイツの軍服、東ドイツの通貨といった「土産物」が路上で売られていた。
 訪れた市庁舎で案内の係員は、壁に架けられたドイツの地図を指さし、××色に塗られたところが現在東ドイツとなっている5州、××色に塗られたところがポーランドに占領されているドイツ領だ、と説明した。オーダー・ナイセ線以東の土地のポーランド領併合は、平和条約によって最終決定したものではないと否認する態度が、「国際政治」の厳しさを教えていて感銘深かった。

 1990年の秋、東西ドイツは再統合された。ヴァイツゼッカー演説から5年後だった。

(おわり)

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