ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
【ブログ掲載:2017年4月28日~5月5日】
▼英国のBBC放送が、「21世紀の偉大な映画百選」を発表したという話を、少し前に新聞で読んだ。そのベスト100の第4位に、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』が入ったということだった。
ちなみにベスト100の第1位は、デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』、第2位はウォン・カーウァイの『花様年華』、第3位はポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』だと、紹介されていた。
その話を思い出し、近くのTSTAYAを覗くとどのDVDも置いてあったので、3本とも借りて観ることにした。
『マルホランド・ドライブ』は、ハリウッドを舞台にした現実と幻想の入り混じった話で、監督はいかにも才人という印象だったが、映画自体は面白いと思わなかった。
『花様年華』は、香港の妻ある男と夫ある女の「一線を越えない情事」を、洒落たタッチで描いた小品である。鈴木清純の『夢二』のテーマ音楽が、この香港映画の主題歌であるかのように嫋嫋と奏でられ、また「キサス・キサス・キサス」などのラテン音楽が、効果的に使われていたのが興味深かった。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は『There Will Be Blood』であり、題名に関する日本の配給会社のこの手の手抜きは大いに問題だが、映画自体は力のこもった良い作品だった。
▼『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公・ダニエル・プレインビューは、「山師」である。金鉱を探して野山を歩き、穴を掘る。映画は、竪坑の底で主人公が独りでつるはしを振るい、ノミを使う場面から始まる。ダニエルはやがて金鉱を発見し、まとまった金を手に入れる。その資金を元に、彼は人を雇い、石油の発掘に乗り出す。
20世紀初頭のニューメキシコには、岩ばかりの荒れ地が広く広がっていた。ダニエルは8歳ぐらいの息子を連れて、荒れ地のなかの貧しい牧場主の家を訪れ、土地を買いたいと交渉を持ちかける。石油がにじみ出ている、という情報が手に入ったからである。牧場主は売ることに同意するが、その息子・イーライはダニエルが石油目当てであることを見抜き、教会の建物を広げるために1万ドルを寄付することを条件として出す。交渉はまとまり、ダニエルは石油を発掘するための資器材と労働者を呼び寄せ、事業を開始した。
町の人びとは、イーライの主宰する「第三の啓示教会」の信者だった。ダニエルが教会を覗くと、イーライが足腰の悪い一人の老婆に近寄り、あなたのなかの悪魔を追い払うと言って、祈祷の叫び声をあげていた。そして、悪魔は去ったと言って老婆を立ち上がらせ、一緒にダンスをしてみせると、会衆からハレルヤとアーメンの歓声が上がった。
労働者たちが油井の掘削をしていると、突然、石油がガスとともに吹きあがり、作業をやぐらの上で見ていた息子が吹き飛ばされた。事務所の窓から事故を目撃したダニエルは息子の救出に走り、油にまみれた子供を抱きしめる。やがて噴出した石油に火がつき、火はやぐらを包み、やぐらは燃え落ちる。ダニエルは油井の口をニトログリセリンを爆発させて塞ぎ、石油の噴出を止める。
息子は、衝撃で耳が聞こえなくなっていた。ダニエルは息子をサン・フランシスコの寄宿学校に入れ、手話の家庭教師をつける。
▼ある日、ダニエルをヘンリーという男が訪ねてきて、自分は腹違いの弟だと名乗った。痩せた、人生をあきらめたような、弱々しい感じの男だった。話を聞いたうえで、証拠を示すように求めると、ヘンリーはダニエルの妹からの手紙を示した。
「………それで、何が望みだ?」
「何も………。少し金をくれたら、どんな仕事でもする………。」
夜、暖炉の火を見つめながら、ヘンリーがダニエルに、「父さんと不仲だったと聞いたが?」と、話を向けた。
「……どうしても家にはいられなかった。詳しくは言いたくないが……」と、ダニエル。そして逆にヘンリーに聞いた。
「君は妬み深いか?人を妬むか?」
「……多分、違うと思う。」
「私は競争心が強い。他人に成功させたくない。人を嫌悪している。」
「……競争心は消えた。働いても成功しない。あらゆることに失敗し、俺はもうどうでもよくなった………」
「兄弟なら同じ資質があるはずだ。私は人を見ても好きになることがない。十分な金を稼ぎ、すべての人々から遠ざかりたい。……私には人の最悪の部分が見える。その人を見ただけで悪の部分が分かる。……君が来たのは新しい始まりだ。一人では仕事を続けられない。」
ダニエルはそれから後、ヘンリーを連れて交渉ごとの席に臨むようになった。汲み上げた石油を運ぶために、パイプラインを引く契約をユニオンオイル社と結ぶことに成功し、ダニエルは明るい日差しのなかで、ヘンリーと一緒に海で泳ぐ。
しかし二人で女遊びに出かけた夜、ダニエルの心にふと疑念が湧く。彼は寝床で横になったヘンリーにピストルを向け、生家の隣の農場の名前は何か、と低い声で言った。忘れた、と答えるヘンリーだったが、ついに観念して、あんたの弟は結核で亡くなったのだ、と言った。彼からあんたの話をよく聞いていたので、彼に成りすました。彼の日記も役に立った、と白状した。
ダニエルは引き金を引き、ヘンリーを殺害し、森の中に埋めた。ヘンリーの持ち物の中に弟の日記があり、そこに挟まれていた弟の写真を見つめ、ダニエルは涙を流す。
▼1920年代の終わり、ダニエルは広い豪邸に独り住んでいた。酒とたばこを四六時中手放さない生活は、ダニエルの心身を蝕んでいた。
結婚した息子が、手話の家庭教師を連れて久しぶりに父親のもとを訪れ、妻と一緒にメキシコに行き、自分の事業を始めるつもりだと言った。自分の油田を掘ってみたい。
ダニエルは、お前は私の商売がたきになるというのかと、敵意をむき出しにした。とんだ過ちだ。どうしてそういうことをするのか。
息子は、事業のやり方が自分と父さんとは違う。父さんにはパートナーではなく父親でいてほしい、と言う。
ダニエルは息子を酔った眼で睨みつけ、お前は私の子ではない、と言い放った。お前が分からん。血のつながりもない。お前は籠に入れられて砂漠に捨てられた孤児だった。オレは土地を買うための小道具として、お前を育てた………。
青ざめた顔で屋敷を去る息子へ、ダニエルは狂ったように叫び続けた。お前は使いものにならないろくでなしだ。ケチな商売がたきだ。籠の中のろくでなしだ………。
屋敷のなかのボーリング場で酔いつぶれているダニエルを、訪ねてきたイーライが起こす。イーライはきちんとした聖職者の身なりをし、ダニエルにひとつの取引を持ち掛ける。自分の信者の土地の石油の権利をダニエルに与えるようにするから、教会に多額の寄付をしてほしい、と。彼は投資に失敗して借金を負い、ダニエルとの取引に活路を見出そうとしていたのだ。
ダニエルは同意してもよいと言いつつ、条件をひとつ付けた。君が、自分は偽預言者だ、神は迷信だ、と宣言することが条件だ。
イーライがダニエルの求めるまま、自分は偽預言者だ、神は迷信だ、といく度か声に出した後、ダニエルは言った。君の信者の土地には石油などない。その土地の石油は周囲の土地の油井から、すでに吸い取ってしまったのだから―――。
うろたえるイーライをダニエルはあざ笑い、自分は偽預言者だ、神は迷信だと、さらに大きな声で言え、と迫った。逃げるイーライにボーリングの球を投げつけ、ボーリングのピンをこん棒のように振り回してついに撲殺する。
執事がボーリング場を覗いた時、レーンに悄然と座り込んだダニエルは一言、「終わった」とつぶやいた。
▼この映画の一番の魅力は、ダニエル・プレインビューという強烈な個性を持つ主人公を造形したところにある。
ダニエルは弟の名を騙ったヘンリーを殺し、赤ん坊の時から息子として育てた青年に、「お前はオレの子ではない」と罵声を浴びせ、深い因縁で結ばれたイーライを撲殺した。何が主人公に、ここまで破滅的な行動をとらせたのだろうか。
ダニエルが、自分は競争心が強く、人間嫌いだと語る場面がある。しかし彼の他人に敗けまいとする強い競争心、あるいは異常なまでの意志の力が、彼の金鉱発見を可能にし、石油の発掘を成功させたのである。また彼が見せた幼少年期の息子に対する愛情が、「商売の小道具」にするためのいつわりの表現だった、というようにはとても見えない。
にもかかわらずダニエルは、成功への強烈な欲望と、その陰に育んだ自己破壊的な凶暴な情念に突き動かされ、事業を成功させるとともに破滅への坂道を転がり落ちていく。
ダニエルを突き動かしていたものは、たしかに成功への強烈な欲望であっただろう。だが同時に彼は、それと自覚することなく、慰めや安らぎを与えてくれる自分の家族を、狂おしく求め続けていたように見える。
だから弟だと名のるヘンリーが現れ、そう信じたとき、自分のパートナーとして遇したのである。明るい日差しのもと、弟と二人だけの海で泳ぐダニエルは、いかにも幸福であり満足そうだった。
自分が裏切られたと知ったとき、彼は躊躇なくヘンリーを射殺するが、彼をそのとき満たしていたのは、人を殺したことへの怖れではなく、やっと手に入れた肉親を失った悲しみの感情であったにちがいない。
ダニエル・プレインビューは類型学的に言うと、オーソン・ウエルズが監督し自ら演じた『市民ケーン』の主人公に、似ていると言えるだろう。
もちろん若きオーソン・ウエルズが意欲的な映像手法を駆使した『市民ケーン』と、オーソドックスなリアリズムで描き切った『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』について、違いの面を強調することもできる。にもかかわらず、事業の巨大な成功にも心の空洞を埋めることができず、親しい人間関係を自分から破壊し、広大な屋敷で孤独のうちに亡くなった主人公・ケーンの物語は、ダニエル・プレインビューの物語と見事に重なり合う。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、21世紀の新しい古典と呼ぶにふさわしい傑作であり、主人公を演じたダニエル・デイルイスの名演技は特筆に値する。
▼映画の画面に現れる岩だらけの荒れ地と、そこでの厳しい労働や貧しい暮らしを見ていると、奇蹟を売り物にする新興宗教に人びとが惹かれるのも無理はない、という気持ちになった。アメリカの宗教事情をよく知るわけではないが、その原理主義的な宗教が、開拓時代の厳しい生活や風土と関わることは、理解できるように思った。
自覚することのないまま心の「救い」を求めていたダニエルに、「第三の啓示教会」がもし慰めを与え、自己破壊の衝動を癒すような手を差し伸べることができたなら、彼はおそらく頼もしい教会の支持者、擁護者となったに違いない。しかしイーライの教会は、そういうものではなかった。
だからダニエルは自分をあざ笑うかのようにイーライの宗教をあざ笑い、イーライを自分の破滅の道連れにしたのである。
題名の「There Will Be Blood」は、聖書の「出エジプト記」の一節だという。エジプトに拉致されていたイスラエルの民が、故郷に帰ることをエジプト王は許そうとしない。エホバはモーゼに、次のように命じた。
イスラエルの民がエホバを拝み、故郷に帰ることを王が認めないならば、杖で河の水を撃て。そうすれば河の水は血に変わり、魚は死に、臭くて飲めなくなる。エジプト全土で水は血となり、木も石も血でおおわれるであろう―――。
この「血」の寓意は何なのだろうか。荒れ地から掘り出した「石油」のことなのか。
水が変化した「血」とは、文脈からは「飲めないもの」、「役に立たないもの」、「人々を苦しめ害をなすもの」を意味するようだが、それがいたるところにあるとは、どういうことなのだろうか。
聖書解釈の素養のない筆者には、意味不明である。日本の映画配給会社は原題名にとらわれず、ふさわしい題名を付けるべきだったと思う。
(おわり)
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