小沢一郎
【ブログ掲載:2011年6月13日〜7月29日】
▼小沢一郎を巡り、あいかわらず民主党内で帰依する者と忌避する者がせめぎ合っているようだ。これから菅首相の後継総理の選出で、せめぎあいはさらに進行するだろう。
小沢は昨年6月に、鳩山の首相辞任に合わせて党幹事長職を離れた。その直後、菅直人の首相就任を阻もうとして果たせず、9月には民主党代表選挙に自ら立候補して、菅に敗れた。
つい先日は、自民・公明の提出する菅内閣不信任決議案に賛成するよう傘下の議員たちに号令をかけたが、結局戦いの場をつくれず、またもや敗れた。
小沢の率いる議員グループは、民主党内最大の人数を誇り、「運動部」体質の強い規律を持つと言われる。だから、かっての自民党における「田中軍団」・「経世会」のように、キングメーカーとして大きな力をふるっても不思議はないのだが、小沢に対する反発や不信感、恐怖心がそれを上回って強いために、中小グループの連携に勝てなかったということらしい。
▼小沢一郎の「わかりにくさ」について、考えてみたい。
小沢は竹下内閣の官房副長官、海部内閣当時の自民党幹事長として、内政・外交に力をふるった。「剛腕」といわれ、また日米構造協議の相手方からは、「タフ・ネゴシエーター」と評された。
しかし小沢の性格については、正反対の証言がある。他の政治家との話し合いには側近が同席し、自分は喋らずに側近が代わって話しをする、とか、側近でも小沢の考えに反対の意見を述べると疎んじられ、そのあと連絡がとれなくなる、といった話である。(『竹下派 死闘の七〇日』田崎史郎)
小沢の側近だった中西啓介の話として、次のような証言がある。
「小沢さんは普通の人と違って、1の次に2、そして3,4,5、と順々に説いて、だから結論はこうだ、なんてことは言わない。1の次にいきなり10、つまり結論を言い、2や3を聞くと途端に不機嫌になって、口を利かなくなる。2から9まではおまえらで考えよ、というわけだ。そして、途中の解釈が小沢さんの考えと違うと相手にされなくなる。それを冷たいとか、秘密主義だとか恨む人間も多いのだが、小沢さんは意地悪でも秘密主義でもなく、無精で口下手、それにおそろしく“はにかみや”なのです。」(『崩壊自民の裏のウラ』田原総一朗)
反対意見を忌避する心理は、どのように言いつくろおうと性格の弱さを示すものだ。タフで剛腕な政治家イメージとはおよそかけ離れたひよわな実像が、ここにはある。
▼小沢の「わかりにくさ」の原因は、その政策についてもいえる。
かって田中角栄の秘書を務めた早坂茂三は、「自民党内で自分で法案をつくれるのは、小沢ぐらいだ」と述べ、小沢の緻密な政策形成能力を高く評価した。
その小沢が考えを世に問うた『日本改造計画』(1993年)は、政治家の著書としてよくある「生い立ち」の記でも政治活動の体験談でもなく、また政策を並べて国民の支持を訴えた本でもない。一言でいえば、日本の政治の現状を批判し、政治のリーダーシップを回復する必要性を訴えたもので、そのためには国民の意識を世界に通用するものに変えなければならないと説き、「自己責任」を強調した。
しかし、日本政治と国民の体質改善を鋭く説いた著作と、民主党が小沢の下で掲げ総選挙に臨んだマニフェスト(専業、兼業を問わない農家の所得補償、高速道路無償化、子ども手当の支給、高校教育の無償化、必要財源16.8兆円は予算の組み替えにより捻出する、等々)とは、どのようにつながり、あるいはつながらないのか?
小沢が原理・原則を重んじる政治家と見られているがゆえに、この政策的な転向?は「わかりにくさ」を倍増させる。
▼『日本改造計画』について、もうすこし具体的に見てみたい。
この書物のひとつの顕著な特徴は、小沢一郎個人に関する話題が徹底的に除かれていることである。これはいわゆる「政治家本」としては異例なことだ。唯一の個人的エピソードは、小沢が米国アリゾナ州のグランド・キャニオンに行って驚いたという話で、まえがきの最初に書かれている。
深さ千二百メートルの大渓谷に、転落を防ぐ柵がない。大きく突き出た岩の先端に若い男女がすわり、戯れている。日本なら当然柵が施され、「立ち入り禁止」の立札があちこちに立てられ、管理人が事故の起こらぬように目を光らせているはずだ。大の大人が、レジャーというもっとも私的で自由な行動さえ当局に安全を守ってもらい、当然視している。自己責任の原則が通用しない状況は、事故防止の話だけでなく社会全体にいえる、と小沢はいう。
日本の社会は、多数決ではなく全会一致を尊ぶ社会である。全員が賛成して事が決まる。一人でも反対がいれば、事は決まらない。しかし日本型民主主義では、内外の変化に対応できなくなった。政治、経済、社会のあり方や国民の意識を変革し、世界に通用するものにしなければならない。……
▼小沢は変革の方向性として、三点を挙げる。
第一に、政治のリーダーシップを確立すること。第二に地方分権。第三に規制の撤廃。『日本改造計画』でもっとも力を入れて語られているのは、第一部の政治の改革についてである。主張を列挙してみよう。
・首相官邸の機能強化のために、補佐官制度を導入する。
・与党と内閣の一体化のために150〜160人規模で与党議員が政府に入り、官僚による答弁は廃止する。
・日本の戦後政治の「ぬるま湯構造」を改革するために、小選挙区制度にする。
・政党に対して公的資金を支出するとともに、政治資金の流れを公開するよう義務付ける。
・地方分権基本法を制定し、国と地方の役割分担を明確にする。全国を三百の「市」にし、権限も財源も委譲する。中央の事務量を減らし、官僚は対局的観点から政策を考えられるようにする。……
これらの改革を通して政治のリーダーシップを回復し、政治のダイナミズムを取り戻さなければならない、と小沢は主張した。
今これらの改革の主張を見て、実現したものの多いことに驚かされる。 小選挙区制は細川内閣の時に小沢の主導で実現したが、その後の自民党内閣でも多くの主張が取り入れられ、実施された。「真の自由主義社会をつくるためにも私たちの生活を快適なものにするためにも、いまこそ規制緩和、規制の撤廃をはからなければならない」という小沢の主張は、小泉純一郎のスローガンとされ実施された。
▼いわゆる「政治家本」はゴーストライターが書き、政治家本人は自分の「著作」を読んでいない場合さえある、と揶揄される。しかし『日本改造計画』の内容は、政治家小沢一郎の出版当時の考えを率直に述べたもの、と考えて良いはずだ。
御厨貴のこういう証言がある。《私が小沢さんと初めて会ったのは……『日本改造計画』のお手伝いをしたのが縁だった。幾人かの学者たちと一緒に1年ほどお付き合いをした。小沢さんもよく勉強会に来ていたし、私も彼の事務所までインタビューに出向いた。担当したのは小沢さんの歴史観。好きな歴史上の人物を聞いたりした。》(朝日新聞2010.9.16)
このようにして作られたこの著作の内容が、時代の要点を押さえた優れた主張であって少しも不思議はない。しかし小沢は細川内閣時のわずかな時間を除いて政権から排除され、かっての自分の主張は敵対する自民党内閣によって次々と実施された。小沢は13年後に出版した著作『小沢主義』(2006年)では、微妙に主張を変え、あるいは重点の置きどころを変えている。
▼『小沢主義』(2006年)は『日本改造計画』に比べ、新鮮さもなく内容も軽い。
前著が自分の考えを十分な検討を経て提出したものだったのに比べ、新著には勉強の跡も見えず、本来なら当然なされるべきかっての自分の主張の総括も見られない。
新味らしきものは、前著では触れなかった「選挙の重さ」について1章を割き、「どぶ板選挙」の重要さを語った部分ぐらいだろう。
新人政治家の第一の仕事は、さまざまな人々のところに飛び込み、話に耳をかたむけ、抱えている問題を知ることだ。政治家は地道な選挙活動によってこそ鍛えられ、本物の国民の代表になる。自分が信じていることを実行するためには、選挙に強いことが大前提であり、外部の組織頼み人気頼みの政治家にはそれが難しい。―――小沢の今日の問題意識が、いちおう正直に語られている。
▼『小沢主義』を語る小沢の前には、足掛け5年にわたる小泉純一郎の政治があった。小沢は小泉の政治について、どう語っているか。
《小泉政権の下、日本は「格差」の目立つ社会になった。》《東京などの都市部と地方の格差はどんどん広がっている。》《トヨタなどの世界的企業がある一方、大多数の日本企業は厳しい経営環境でもがき苦しんでいる。》
《なぜ、このような社会に日本は変貌してしまったのか。その根源には、小泉首相の「強者の論理」による国家運営がある。》
《もちろん、自由競争は人間にとってかけがえのない価値であり、原則である。……競争のない社会は進歩も発展もない。しかし……同時に、一定限度の安定した生活を送ることができるセーフティネットの仕組みも絶対必要で、それを考えるのが政治の大事な役割というもの……》
《小泉改革なるものは、多くの人たちに痛みを与え、その一方で特定の者にだけ利益をもたらすもので、およそ本来の改革とは似ても似つかぬもの》
小沢は一応はかっての主張である「自由競争」の意義を認めつつ、重点をその弊害を見つめ強調する方に移動させた。その主張は、「富」の分配には関心大有りだが、「富」を作り出すことについては見識も関心もない小政党のそれに近づいた。
▼『日本改造計画』が出た1993年に、日本の税収は54兆円、国債残高は193兆円(うち赤字国債は61兆円)だった。『小沢主義』の出た2006年には、税収は49兆円、国債残高は532兆円(うち赤字国債は288兆円)である。
日本のGDPは、1993年に484兆円、2006年に507兆円である。
要するに、日本経済が成長せず、税収が低下し、社会の高齢化とともに医療、年金、福祉、介護などの経費が増加し、財政を圧迫する。小泉政権の下で行われた地方財政の「三位一体の改革」や公共事業の削減は、これらに頼るところの大きい地方社会に打撃となったが、財政の自由度が低下したなかで、どのような政権も同様の措置を取らざるを得なかったはずである。
だから、日本経済の立て直しと日本政府の財政再建が、政治のメイン・テーマでなければならない。社会のセーフティネットを整備するためにも、先立つものが必要であり、日本経済の立て直しと財政再建は必須の条件である。
しかし『小沢主義』のどこにも、日本経済再建の議論はない。『日本改造計画』で主張されていた、「消費税の税率を10%にし、所得税・住民税を半分にする」ことで、「勤労者に働く意欲を起こさせる」という提案も、どうなったのか分からない。
▼具体的な政策について、小沢の主張を少し見てみよう。
90年代の初め小沢は、世界の自由貿易体制の恩恵を受けて発展してきた日本は、率先して国内市場を開放し、それをテコに他国にも市場開放を迫るという発想に立つべきだ、と主張していた(『日本改造計画』)。背景には当時の日米経済摩擦や、EUの統合が一段と進んだことがあった。
その主張は2000年代に入っても基本的に変わらない。
日本の農産物の品質は世界のトップクラスであり、国際競争力がないわけではない。農産物の輸入を自由化しても、必要な対策を講じれば日本の農業は十分やっていける、と小沢は言い、対策として市場価格が生産費を下回る場合にその差額を農家に支払う「不足払い」方式を提案する。
自分の支持者の多くは農業関係者だが、農産物の輸入を自由化する必要性をきちんと説明し、理解を得ている。既得権益を失うことになる農協や農水省からは目のカタキにされたが、支持者は少しも離れなかった、と小沢は書いている(『小沢主義』)。
▼国内農業の保護を行う場合に関税に頼れば、消費者が高い農産品を購入するという形で保護のコストを負担することになる。
一方、関税に頼らず農家への補助金という形で保護を行うなら、輸入品の国内価格は関税分だけ下がり、国内農産物の価格も下がる。
現在、ヨーロッパも米国も、自国の農業保護を補助金方式で行っている。
小沢の主張した「不足払い」方式は、「戸別所得補償制度」の名前で民主党の方針とされ(民主党マニフェスト2009)、2011年度から本格的に実施されようとしている。
▼ところで昨年10月の臨時国会で、菅首相は所信表明を行い、「環太平洋パートナーシップ協定交渉等への参加を検討」すると述べた。「参加を目指す」と言い切れず、歯切れの悪い表現になったのは、党内のTPPに反対する議員たちを無視できなかったからだ、と解説された。
TPP(環太平洋パートナーシップ協定)とは、2006年にブルネイ、チリ、ニュージーランド、シンガポールの間で発効した経済連携協定を母体として、現在交渉が進められている広域経済連携協定である。例外なき貿易自由化を目指し、モノの関税撤廃にとどまらず、サービス貿易、投資、労働、知的財産権など広範な分野で国際ルールを創ろうとしている。
これに日本が参加し、農産物の輸入を自由化することに反対する与党議員120人が、10月21日に国会内で会合を開き、政府に慎重な対応を求める決議を行った、と報じられた。会合に参加した議員たちは、菅政権に反対するグループに属するものが多く、政局がらみの動きという解説もあった。会合の代表になった山田正彦前農水相も、小沢グループに属している。
▼しかし、民主党政権が農家に「所得補償」という名の補助金を出すことを決めたということは、関税措置を全面的に見直し、貿易自由化をテコに新しい農業政策に取り組むという意思表明でなければならない。所得補償もします、関税も続けます、などというデタラメが、国民一般に向かって説明できるはずがない。
この問題について、小沢一郎の声は少しも聞こえてこなかった。小沢の理念や政策からすれば、当然TPP参加にむけて配下の議員たちを説得しなければならないはずだが、政治理念よりも政局的思惑が優先したのだろう。
▼小沢一郎の外交・防衛面の政策を見てみよう。
小沢は、湾岸戦争(1991年)で試練にさらされた日本の政治と冷戦後の世界を見ながら、《日本はどんな努力をしてでも国際社会の平和と安定と自由を維持しなければならない立場にある》と考える。そして、《日本外交の基軸は今後とも日米であり、その関係を時代の変化に対応させつつさらに発展させる》ことを基本としながら、日本の外交・防衛面の考え方を一新する必要性を強調した。(『日本改造計画』1993年)
当時、「国際貢献」という言葉が流行ったが、《国際貢献とは実は、日本が生き残るための活動に他ならない。国際社会のためでもあるが、日本のためのものでもある。》
日本が真に国際国家となるためにはどうすればいいか。《何も難しく考えることはない。「普通の国」になることである。》
「普通の国」とは何か。国際社会で当然とされていることを、当然のこととして自らの責任で行うことであり、日本国内でしか通用しない理屈を振り回したりしない、ということだ。
そして、《「普通の国」になるためには、政治が自己改革すればよいというわけではない。国民自身も国際社会における日本の立場をはっきりと認識し、意識改革をすることを求められている。国民も国際社会で通用する「普通の国民」に脱皮しなければならない。》と小沢は主張した。
小沢の「普通の国」の主張は、その後、気分としては国民の間に理解され、憲法第9条を支持する気分とバランスを取って棲み分けているように見える。
▼小沢は、自衛隊について、受け身の「専守防衛戦略」から脱却し、能動的な「平和創出戦略」へ転換する必要があると主張する。具体的に、どういうことか。
自衛隊を日本の自衛活動を行う軍隊と、国連に提供し国連の指揮のもとに海外で活動する「国連待機軍」とに再編成する、ということになるらしい。
小沢の考えでは、現在の憲法の下でも「国連待機軍」が海外で武力行使を伴う活動を行うことは、十分可能だという。なぜなら、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」ことは憲法の求めるところであり、国連の指揮のもとに行われる活動は、日本国民が永久に放棄した「国権の発動たる戦争」ではないからだ。
このような憲法の「意欲的な解釈」が可能かどうか、多くの憲法学者は否定的であろう。たとえば芦部信喜は、《いかに国際貢献という目的であっても、憲法9条の改正なくして、現状のままの自衛隊が部隊として(とくにPKFに)参加する出動を認めることは、法的にはきわめて難しい》と書いている。(『憲法』岩波書店)
しかし憲法論はともかく、小沢は日本の針路として国連中心主義で行くべきことを強調し、その考えは2005年に行われた長時間のインタビューでも変わっていない。
▼「キーパーソンが語る証言90年代」という雑誌の連載企画があり、それが2006年に『小沢一郎(政権奪取論)』(朝日新聞社)という本にまとめられている。五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行の3人が質問し、それに小沢が答えたものだ。質問者名は明示されていないが、外交・防衛の部分は五百旗頭真の質問であろう。かなり踏み込んだ質問が試みられている。
小沢が「国連の決定はすべて尊重してしたがう。アメリカの戦争には行かないが、国連のPKOには参加する。」と発言すると、質問者は「しかし、なんでもかんでも国連にゆだねるというのはどうでしょうかねえ。振り返ってみると、国連も結構、間違えていますからねえ。」と挑発する。
小沢「たとえ間違っていても、多数で決めたことはしょうがないんです。(中略)民主主義は多数が正義なんです。それ以外に方法がない。」
質問者「国連安保理で特定国に拒否権があるなど、国際政治には国内政治と違って『力』の要素が強いですよ」
小沢「常任理事国が拒否権を行使したら、総会にかければいいんです。たとえ常任理事国といえども、筋の通らない主張はみんなの支持を得られない。」
質問者「アメリカが国連に対する影響力は対決的です。国連は多数で決める正当性を持っているかもしれないけれど、軍事力に象徴される力はアメリカが持っている。だからアメリカは国連に反して戦争をすることがある。その場合、小沢さんは日米同盟ではなく、国連の方につくんですか」
小沢「いや、僕はアメリカにいう。『こういうやり方をしているからアメリカは失敗ばかりしているじゃないか』ってね。(笑) 以下略」
質問者が常識的な国際政治のパワー・ポリティクスの視点から語るのに対し、小沢の発言はすこし発想を異にしている。「法学的思考」とでもいうのか、国連という組織のあるべき位置づけを考え、それに基づいて論理が組み立てられているように見える。
国連は、国際秩序を維持し創造する手段としての面を持つが、同時に構成する各国がその利害を主張し自国の政策を進める手段という面もある。
小沢の国連に関する発言には、「国連が決めたからといって、何でもかんでも必ずやれという意味ではないです。憲法上問題ないということに加え、日本の政策としてやった方がいいということが、国連の活動に参加する条件だ」という常識的なものも見えはするが、少々ナイーヴに過ぎるような印象を与える。
このインタビューで残念な点は、質問者が小沢に中国との関係をどうとらえ、どう付き合っていくのか、という質問を向けていないことである。質問者が用意した項目の中に、このやっかいな隣国との関係についての質問がなかったとは考えられないが、どうしたことだろうか。
▼初めの問い、小沢の「わかりにくさ」に議論を戻し、そろそろ閉めることにしよう。
だがその前に、小沢の「政治力」について、少し検討しなければならない。
小沢がその力を発揮し成功させた第一の事件は、1993年の政権交代である。
宮沢内閣不信任案が可決され、衆議院が解散された後の総選挙で、自民党は222議席から223議席へ1名増、社会党は134議席から一挙に半減して70議席となった。公明党は51議席、民社党15議席、社会民主連合4議席だった。
一方、自民党を飛び出した小沢グループ「新生党」が55議席で20名増、「さきがけ」は13議席で3名増、初めて国政選挙にのぞんだ「日本新党」は35議席を獲得した。
この結果、自民党は圧倒的な数を誇る第一党ではあったが過半数に達せず、「さきがけ」や「日本新党」と連立を組む必要が生じた。
小沢はいち早く自民党を除く各党の責任者に接触し、反自民連立政権の展望を示し、細川護煕を担ぐことで「さきがけ」と「日本新党」を取り込み、土井たか子を衆議院議長にすることで社会党を黙らせ、ついに政権交代を実現した。
▼小沢が力を発揮し成功させた第二の事件は、2009年の政権交代である。
2003年に民主党と自由党が合併し、「一兵卒として」民主党に加わった小沢は、2006年に前原誠司が偽メール事件で党代表を退いた後、菅直人を破って党代表に選ばれた。3年後の2009年5月に公設秘書が建設会社からの違法献金事件で逮捕され、代表を辞任したが、1週間後に選挙担当の代表代行に就任した。
同年8月30日の総選挙で、民主党は議席を3倍に伸ばし308議席を獲得、一方、自民党は議席を3分の一に減らし、119議席となった。小泉以降の3人の総理大臣が、いずれも1年そこそこで交代したり交代を党内から求められるという事態に、国民が呆れ愛想を尽かした、というのが原因の一半であろう。同時に、「政権交代・生活が一番」のスローガンを掲げ、小選挙区で自民党現職を破るために、‘川上から’地道に選挙活動を続けるように新人候補者を徹底指導した、小沢流選挙の勝利ともいえる。
1993年の政権交代が、熟していない条件の下でのきわどい奇襲攻撃によって実現したものであるのに対し、2009年の政権交代は、正面から挑んだ総力戦による圧勝だった。
▼こうした小沢の実力と実績は、まぎれもなく現在の日本の政界で群を抜いている。
しかし政権を奪取する力が、国を統治する十分な力に転嫁するかどうかは確かでない。一番の問題は日本の政治の環境が大きく変わり、また小沢の本来の主張は政敵の手によって、半ば実施されてしまったことである。
小沢の本来的な志向は、グランド・キャニオンの挿話に見えるように、個人が自立し、自らの責任において意思決定し行動する社会である。小沢はそのために日本の政治の体質を抜本的に変えなければならないと説き、また国民自身が変わることを要求した。
しかし小沢の主張が颯爽と輝いたのは、90年代初めという日本経済の短い‘爛熟期’である。その後の日本経済の「失われた10年」あるいは「失われた20年」を経て、日本の政治の背景は大きく変わった。国民は自信と展望を失い、視野はより内向きになり、現状にしがみつく意識は強まった。
小沢は政策を、なし崩し的に転換した。財源の手当てなしに、高速道路の無料化、すべての子供たちへの手当の支給、農家の所得補償などの歳出拡大をマニフェストに掲げ、実施を約束した。自己責任や自由な競争の意義を説くことよりも、その弊害を語る方に重心を移し、農産物の輸入自由化を阻止しようとする配下の議員たちの運動を、黙認ないし承認した。
小沢は『小沢主義』(2006年)のなかで、ルキノ・ヴィスコンティの映画『山猫』に登場するシチリア貴族の‘意味深な’セリフを紹介している。
「変わらずに生き残るためには、みずから変わらなければならないのだよ。」
小沢はこのセリフを、日本人が経済的繁栄を維持しつづけたいなら、自己変革の勇気をもって現状に立ち向かわなければならない、と呼びかける意味で引用しているのだが、皮肉なことに、小沢自身の主張や行動の弁明として聞く人の方が多いのではないだろうか。
▼さて、小沢の「わかりにくさ」の問題に戻ろう。
「わかりにくさ」は小沢の掲げる政策の変化によるところもあるが、カギとなるのはやはり彼の性格の問題である。
小沢は自分の性格について、『小沢一郎(政権奪取論)』のインタビューで興味深いことを述べている。
小沢の実父・小沢佐重喜は、戦前、苦学して弁護士資格を取り、国会議員になった。
《おやじがエスタブリッシュメント層に反感を持っていましたから、僕もそれを引き継いでいましたね。いずれ、今の体制を変えて新しい日本を創りたいというような気持ちがありました。》
《マスコミや世間から見ると、自民党のエリートに見えたかもしれないけれど、本当にそうだったらあの程度のいさかいで僕は自民党を出ません。あの程度のことは、ちょっと談合すれば解決できる。》
「あの程度のこと」とは、金丸信の失脚後、「経世会」の会長の座を小渕恵三と争い、敗れたことを指す。その様子は『竹下派 死闘の七十日』(田崎史郎)に描かれているが、敗れた小沢・羽田グループは宮沢内閣不信任案に賛成し、自民党を離党するのである。
著者の田崎史郎は、小沢の能力のひとつとして、スローガンを作るのが実にうまい、という。九十年代の「政治改革」の実態は衆議院の選挙制度の改正であったが、選挙制度の改革と言わず「政治改革」を標榜したため、反対者は難しい立場に立たされた。
小沢が竹下派(経世会)の跡目争いに敗れ、派閥を割って出たときは、これを「改革派」と「守旧派」の対立であると言い、権力闘争を政治改革をめぐる対立にすり替えて見せた。
だから上のインタビューでの小沢の発言を、あとづけの合理化の言葉として受け取ることも可能であろう。しかし、それですべてきれいに片付くかどうか―――。
小沢は、海部首相辞任のあと金丸信に総理になれと言われたが、断ったという。
《朝から晩まで説得された。僕が断ると、「お前は何だ」と言って怒られた。「一日でも総理大臣になりたいというのが政治家じゃないか。それを何でお前は俺が言うのに断るのか」と言って。しかし、本当に自分はまだ総理になる準備をしていなかった。突然、出ろと言われても無理だ、というのが本当の気持だった。》(『小沢一郎(政権奪取論)』)
そして次のように言う。《利口な人なら自民党に残っただろうね(笑)。僕は派閥では、事務局長、事務総長、そして会長代行をやった。金集めもした。だから、自民党に残っていたら、派閥会長に小渕さんがなっていようが、ほかのだれがなっていようが、そんなこととは関係なく、キングメーカーとして権勢をふるえて、きっと左うちわだったろう。(笑)》(同上)
90年代以降の自民党を見れば、小沢の「左うちわ」は確実だったであろう。自民党の本流として育ちながら、自民党の分裂・打倒に執念を燃やす小沢の軌跡はわかりにくいが、小沢は、体制への反逆心のため、「利口」には振る舞えなかったという口ぶりだ。その言葉をどの程度信用すべきなのか、案外、小沢一郎自身にもわからないことなのではないか。
権力を渇望しつつ破壊衝動にも突き動かされる、小沢という人間の悲劇的性格を仮定しなければ、その「わかりにくさ」は解けないのかもしれない。
▼小沢一郎に期待する声は、根強く存在するようである。しかし筆者は二つの理由で、期待外れに終わると予想する。
ひとつは前回までに述べた、小沢と時代のずれである。
2年前の総選挙で、小沢は戦術的に「国民の生活が第一」というスローガンを掲げた。それは、小泉内閣が進めた規制緩和・自由競争主義に不安を抱いた人々の心を一時的につかんだかもしれないが、そこから積極的な展望は開かれない。
小沢の「剛腕」はたしかに群を抜いているが、「政治力」は抽象的に存在するものではない。それは、時代や状況との適合的な関係、政策と環境の合致する中でこそ発揮されるものである。小沢のかっての「タフ・ネゴシエーター」としての活躍も、90年前後の好調な日本経済と、実力者・金丸信の全面的なバックアップがあってはじめて可能であった。
もう一つの理由は、小沢が自由闊達な議論ができないという点である。
小沢に関する複数の「証言」が、小沢は率直な議論が苦手だ、という趣旨のことを語る。
筆者は小沢一郎に関する1回目のブログで、側近だった中西啓介の証言を引用したが、もうひとつ「小沢をよく知るある議員」の評言を紹介する。
「小沢さんは強いように見えて実は非常に弱い性格だ。自分の気持ちを相手に伝えて断られた時のショックに耐えられず、相手がどう言うか怖くてしょうがないんだ。だから直接言えない。言わないのではなくて、言えない。小沢さんの心はいわば、フラジャイル(壊れやすい、もろい)なんだ。小沢さんの心はどうにもならないほど傷つきやすい。その淋しさを権力を持つことで埋めようとしている。」(『竹下派 死闘の七十日』田崎史郎)
「おそろしく“はにかみや”」(中西啓介)で「どうにもならないほど傷つきやすい」(小沢をよく知る議員)というこれらの証言の、真偽を判定する直接の手立てを筆者は持たない。しかし鳩山内閣のとき、小沢幹事長の「意向」はつねに側近を通じて伝えられ、時には側近が「意向」を読み誤ったりしていた喜劇的な「状況証拠」を併せ考えるなら、「小沢は自由闊達な議論ができない」と断定して誤りではないだろう。
自由闊達な議論ができないとどうなるのか。議論を通しての創造的な政治が行われないということであり、小沢が「マニフェストは変えるな」とひとこと言えば、それをオウム返しに繰り返すような人間しか、周囲に集められないということである。
また小沢が首相の座に就いたとして、外交防衛に関して見たように、小沢独特の「法学的思考」による国際関係理解が、率直な議論をはばかる政府内の空気と合体して、国際関係に危うさをもたらすことも起こりかねない。
小沢が今後首相の座に就くかどうかはわからないが、その「剛腕」によって問題が解決し、日本の展望が開かれるだろうという期待は、空しいまま終わるに違いない。
▼小沢は歴史書を好んで読むという。有田芳生が、何か良い本はありますかと尋ねると、ケ小平の娘・毛毛が書いた父の伝記(『わが父 ケ小平 文革歳月』を薦めた。(Blog「有田芳生の『酔醒漫録』」2011.7.20)http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2011/07/post_3397.html
小沢は昨年の暮れ、ある建設関連会社の忘年会でもケ小平の伝記を読んでいると挨拶し、次のように語ったという。
「ケ小平は私と同じ68歳の時、文化大革命で地方に飛ばされていた。それに比べれば今の自分はまだましだ。その後、ケ小平がどうなったかご存知ですよね。」
(終わり)
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