いわゆる慰安婦問題について
【ブログ掲載:2012年9月16日〜11月11日】
1.
1960年代後半のアメリカ社会を吹き抜けた、「ブラックパワー」と呼ばれた運動があった。黒人(アフリカ系アメリカ人)の公民権運動以来つづく差別撤廃、地位向上の運動だが、そのとき耳にしたいまだに忘れられないスローガンがある。
「BLACK IS BEAUTIFUL!」。
ひとは人種差別の誤りであること、不正であることを理性で判断し、わりあい容易に主張できる。しかし「美意識」や「好み」といった感性や感情に支配される領域で黒人を受け入れることは、当時のアメリカの白人にとって容易なことではなかっただろう。また黒人自身にとっても、社会と自分を支配する価値意識に抵抗することは、ずいぶんと困難だったはずだ。
「BLACK IS BEAUTIFUL! 黒人は美しい!」。
根本的な価値の転倒をワンフレーズに凝縮したスローガンを耳にして、私はいたく感じ入った。人種差別意識からの解放という困難な課題の解決は、黒人女性たちが自分のちじれた頭髪をコテで伸ばしたりせず、アフロスタイルを堂々と誇示すること、自分たちの美しさを自覚することから始まる。
「革命」とはこういうことなのだ、と思った。
韓国人と日本人の関係についても、私は漠然と同様の考え方をしていた。
日本人が韓国人に対していかに友好的に振る舞い、過去の植民地支配について反省の意を示したとしても、韓国人が経済的に豊かになり、日本人に心理的に身構えなくても済むようになるまでは、複雑な感情から解放されるのは難しいだろう。それにはそれなりの時間がかかる。
だから2000年代に入り、韓国の一部の企業が日本の有名企業を凌駕するほど発展し、韓流ドラマや韓流スターが日本の茶の間で受け入れられるようになったのをみて、ようやく複雑な感情に煩わされずにお互いに接することができる条件が整ったと思った。
それだけに、8月半ば(2012年)の李明博(イ・ミョンバク)大統領の竹島上陸や「従軍慰安婦」に関する発言、それに対する韓国社会の反応には強い失望を覚えた。
2.
2012年8月10日に李韓国大統領は竹島に上陸した。
13日に韓国国会議長らを招いた昼食会で彼は、「日本が『従軍慰安婦』問題の解決に消極的なので行動で見せる必要を感じた」と述べ、竹島上陸の背景に「従軍慰安婦」問題があったことを明らかにした、と報じられた。(朝日新聞8/14)
14日に教職員を対象としたセミナーで彼は、「天皇陛下が韓国を訪問したいならば、独立運動をして亡くなられた方々のもとを訪ね、心から謝罪すればよい」などと述べた、と伝えられた。
17日、野田首相は李大統領あてに、その竹島上陸や天皇の謝罪要求発言について遺憾の意を伝える親書を送った。しかし韓国政府は受け取らず送り返すことを決定。韓国大使館員が23日に外務省を親書を返しに訪れたが、外務省は門を閉じて構内に入ることを拒否。韓国は親書を書留郵便で返送した、という。
また、野田首相は23日の衆院予算委員会で、李大統領が発言した天皇の謝罪要求について、「そうとう常識から逸脱している。理解に苦しむ。謝罪と撤回をすべきだ」と不快感を示した。
27日の参院予算委員会で野田首相は、「従軍慰安婦」に関する「河野談話」について、「強制連行の事実を文書で確認できず、日本側の証言もなかったが、いわゆる従軍慰安婦への聞き取りから談話ができた。わが政権も(河野談話を)踏襲する。」と答弁した。
この発言に対し、28日の韓国主要紙は河野談話を否定する動きとして伝え、朝鮮日報は「河野談話まで否定にのり出した日本」と見出しを付けた。東亜日報は「野田『慰安婦の強制動員』までも否定」と書き、「歴史の歪曲」の動きとして伝えた。
李大統領はその後、天皇の謝罪を求める自分の発言について、自分の真意が伝わっていないと不満を語ったらしい。
9月5日の朝、日本に詳しい韓国人有識者を朝食会に招き、意見交換を行った際、「歴史問題については首相が何度もお詫びするより、日本で最も尊敬されている天皇陛下が訪韓してお言葉を述べれば容易に解決されるという意味だった」と説明したという。(読売新聞ウェッブサイト9/9)
そして慰安婦問題の解決について大統領は、「日本は法律や原則に固執しすぎている」と言い、「法律、法律と、どうしてあんなに原則に固執するのか。話し合いで解決できる問題なのに」と述べたという。(朝日新聞9/9)
竹島の領有権問題について、日本は韓国に国際司法裁判所に共同提訴するよう提案し、韓国は拒否した。そこで日本は単独で提訴する準備を進めている。一方の国が拒否すれば審判を行うことが出来ないが、提訴したという事実は残る。つまり係争中の島であることを国際社会に訴える効果はある、と日本政府は考えているようだ。
3.
領土領海をめぐる紛争は、国境を接している国々の間で容易に起こりうる問題であり、古典的かつ普遍的問題である。それに対し慰安婦問題は、1990年代初めから発生した特殊な現代日本の問題である。
慰安婦問題の「問題化」に際しては、「問題」を告発する日本の弁護士や活動家、学者たちの「活躍」や、詐話師・吉田清治の「慰安婦狩り」の「体験談」が大きな役割を果たしたとされるが、そのことはしばらく措き、日韓関係という視点からこの問題をすこし考えてみたい。
まず問題の経緯を年表風に記しておこう。
1990年11月 韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)結成
1991年8月 元慰安婦として金学順名乗り出る
12月 35人の韓国人軍人軍属犠牲者への補償を求め、東京地裁へ提訴
(このなかに3人の元慰安婦も含まれていた)
1992年1月11日 朝日新聞の「スクープ報道」
慰安所の設置や慰安婦の募集に日本軍が関与していた資料が防衛研究所 の図書館に所蔵されていたと報じた。
1992年1月14日 宮沢首相 記者会見で「軍の関与を認め、お詫びしたい」
1992年1月16日 宮沢首相訪韓 抗議デモ相次ぐなか、ノ・テウ(盧泰愚)大統領 との会談や韓国国会での演説で「謝罪」をくりかえし、「真相究明」を 約束して帰国
1992年7月 加藤紘一官房長官、第一次調査結果を発表
「政府は関与したが、………強制連行したことを裏づける資料は見つか らなかった。」
1993年8月 第二次調査結果の発表 河野洋平官房長官「談話」を発表
「………慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。………政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負わされたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。」
1994年8月 「平和友好交流計画」に関する村山首相談話
「………いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた 問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気 持ちを申し上げたい」
1994年12月 「アジア女性基金」を設立することで与党3党(自民・社会・さきが け)が合意。
慰安婦問題について、「我国としては、道義的立場から、その責任を果 たさなければならない」として、「元慰安婦の人たちに対してお詫びと 反省の気持ちから国民的償いを表す」ことを表明
1995年7月 「アジア女性基金」設立
しかし設立前から韓国挺対協は「法的責任を回避しようとする不道徳で 欺瞞的なもの」と強硬な反対意見を表明、内外の支援組織も次々に同調 して、あくまで国家補償で行けとするキャンペーンを強めた。
1997年1月、「アジア女性基金」は7人の元慰安婦へ「償い金」を支給したが、支援 団体と韓国のマスコミは「買収工作」と非難し、受け取った7人の名前 を公表。嫌がらせ現象が続発した。
韓国挺対協や支援する日本の弁護士は、慰安婦問題を国連の場にも持ち 込んだ。
1994年3月 国連人権小委員会はクマラスワミを任期3年の特別報告者に任命。
1996年2月 人権委員会に報告書が提出され公表
1996年4月 人権委員会で報告書は「留意」扱いとなる。
(「留意」というのは、そういう報告があったと聞き置く程度の意味で拘束性はない―――秦郁彦)
韓国歴代政権は慰安婦への賠償請求を対日外交問題としてこなかったが、ノ・ムヒョン(盧武鉉)大統領は方針を転換し、「日本軍慰安婦など反人道的行為に対して日本政府の責任を追及する」と決定した。
2006年、挺対協は韓国政府が慰安婦の賠償を日本側に求めないのは違法だとして提訴。
2011年8月、韓国憲法裁判所が、韓国政府が慰安婦への賠償請求を怠っていることを「憲法違反」と判断。
2011年12月 挺対協はソウルの日本大使館前の道路上の一部に慰安婦をモチーフにした「少女像」を設置。(団体は1992年以来毎週水曜日に大使館前で抗議集会を行ってきたが、それが1000回になるのを記念して設置したという。) 日本政府は抗議したが、韓国外交通商省は「われわれは元慰安婦の方々に少女像を移動しろという立場にない」と拒否した。
以上の経緯と説明は、90年代のものは秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社1999年)に拠り、2000年以降の動きは産経新聞の記事とYou-Tubeに投稿されたニュース番組を参考とした。
上の経過の中で重要なポイントとなるのは、宮沢内閣の官房長官・河野洋平が発表した「談話」である。
秦の著書によれば、「談話」の翌日の朝日新聞は社会面の見出しに「苦心の末、〈強制〉盛る」と掲げ、次のような解説記事を載せた。
《韓国政府は「〈強制性〉の認定と〈謝罪〉に絞り、そこは譲れない」としていた。発表文の表現をめぐり、相手の顔色をうかがいながら進めた調整のやり方には批判の意見もある。》
韓国側の反応は、「報告書を評価する」というものだったと、新聞各紙はこの「政治的決着」の結果を伝えた。
4.
慰安婦問題はこの20年間、火山のように幾度も噴火と休止をくりかえしている。そのたびに「問題」を告発する側と告発運動を批判する側の言い分を、断片的に聞かされてきたように思う。どこでそれほど対立しているのか興味がないわけではなかったが、両者の言い分を自分で調べてみる気にはなれなかった。
しかし5年前(2007年)、アメリカ合衆国下院で日本政府への慰安婦に対する謝罪要求決議案なるものが提出され、可決されるという騒ぎのあったとき、いくつか関係する本を読んでみた。
読んだのは秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社 1999年)、吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書 1995年)、吉見義明・川田文子『「従軍慰安婦」をめぐる30の嘘と真実』(大月書店 1997年)、石川逸子『「従軍慰安婦」にされた少女たち』(岩波ジュニア新書 1993年)の4冊である。
秦郁彦は日中戦争史を中心に日本帝国陸海軍の活動を幅広く研究対象とし、慰安婦問題についても事実調査を踏まえて告発運動の主張を批判する文章を発表してきた学者である。しかし『慰安婦と戦場の性』は、慰安婦問題の発端からアジア女性基金の設立と活動までの経緯を客観的にまとめたもので、問題を考える際の有用な参考図書である。
吉見義明は問題を告発する側の中心的な学者だが、『従軍慰安婦』は一応研究者としての立場で書かれた本である。しかし編著者として名を連ねている『「従軍慰安婦」をめぐる30の嘘と真実』の方は、運動家としての情熱がほとばしり出たような本で、「性暴力」「性奴隷」といった言葉が紙面に踊り、運動の批判に対し30項目にわたって反論を試みている。「告発派」の主張や論理を知るには便利な書物といえる。
『「従軍慰安婦」にされた少女たち』は、中学生や高校生を対象にどういう書きかたがされているのかという興味から覗いたものだが、これについては後で別に触れることにする。
筆者が秦と吉見の本3冊を読んで印象に残ったのは、事実関係について少なくとも日本の研究者の間では、考えがほとんど変わらないのではないかということだった。
5.
《「官憲による奴隷狩りのような連行」が朝鮮・台湾であったことは、確認されていない。また、女子挺身勤労令による慰安婦の動員はなかったと思われる。》
《吉田清治さんは、『私の戦争犯罪』(1983年)という本の中で、軍の動員命令により、徴用隊10名の一員として朝鮮の済州島にいき、現地の陸軍部隊とともに、華中(中国中部)方面に送る慰安婦として205名の女性をつかまえ、「女子挺身隊」の名目で輸送した、と記している。(中略) 私たちは、吉田さんのこの回想は証言としては使えないと確認するしかなかった。》
二つとも『「従軍慰安婦」をめぐる30の嘘と真実』(以下、『30の嘘と真実』と略す)における吉見義明の記述である。
「従軍慰安婦」が1990年代になって問題にされた一番の理由は、国家権力が若い娘を強制的に連行し、兵士の性欲処理のために酷使したという事実があったと主張されたからである。それは戦時といえども明らかな犯罪ではないか。そのようなことが事実として本当に行われたのか?
日本の国家権力が戦時中、若い女性をつかまえて強制的に慰安婦にしたという主張を支える有力な柱が、吉田清治の「証言」だったわけだが、秦郁彦は済州島で実地調査を行い、吉田証言がデタラメであるという結論を出す。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』、同『昭和史の謎を追う 下』1993年)。吉見義明も上の記述で、それにほぼ同意した。
また韓国社会では戦時中、女子挺身隊と慰安婦を混同するような流言が飛んでいたといわれ、1992年1月の宮沢首相の訪韓時にも韓国のマスコミは一斉に、「小学生まで挺身隊に動員され、慰安婦にされた」と報道した。
しかし吉見は「女子挺身勤労令による慰安婦の動員はなかった」と言い、女子挺身隊と慰安婦を明確に区別する。女子挺身勤労令は戦争遂行のために軍需工場に女性を勤労動員する勅令であり、実際に内地の工場に動員されたのは「計二千人前後」という規模だったのではないかと秦は推測している。
要するに、「戦時中日本の官憲が若い韓国人女性を強制連行し慰安婦にした」という慰安婦問題の一番の論争点は、名乗り出た元慰安婦の「証言」の問題を別にして、ほぼ一致した結論にいたっている。
6.
元慰安婦たちの証言は、全体に「“真偽”を判断しかねる情報が多い」(秦)という。
挺対協が1993年に刊行した元慰安婦19人の証言集の「証言」は、活動家たちが韓国各地を訪ね歩いて集めたものだが、秦によれば、親族、友人、近所の人など目撃者や関係者の裏付け証言がまったく取れていない。「傍証をとるチャンスはあったと思われるのに皆無なのは、最初からその気がなかった、むしろ回避したと考えてよいのではないか。」(『慰安婦と戦場の性』)
19人のうちの多くは、「日本に行けば金になる仕事に就ける」などという言葉に騙されたり金で売られたりして慰安婦になったと証言しているが、6人は「強制連行」とおぼしき方法で慰安婦にされたと挺対協は考えている。しかし秦の読後感ではそれぞれ不審な点があり、「官憲の仕業とは思えない」。
吉見義明は「証言」について、『30の嘘と真実』で次のように書いている。
《たしかに、元慰安婦の証言では、話すたびに細部が変わることがよくある。また、記憶があいまいな部分も少なくない。だからといって、全く信用できないというのはおかしい。(中略)
元慰安婦の場合、50年以上前のことだから、記憶が薄れていたり、記憶違いの部分は当然ある。本当につらい記憶は、無意識のうちに消去されている場合もある。そうしなければ生きていけないからである。また、往々にして誇張して語られる場合もある。というのも、たとえば、前借金でしばられてつれて行かれたとか、だまされてつれて行かれたといっても、それはおまえが悪いと言われて被害が無視されるという状態がこれまで続いていた。そうだとすれば、官憲によって暴力的に連行されたといいかえるケースもあり得るからである。》
だから大事なことは、証言の信用できる部分と信用できない部分を区別し(「史料批判」)、信用できる部分を積み上げて事実に迫っていくことだ、と吉見は主張する。
このことについて、秦をはじめ告発運動を批判する人たちに異論はないだろう。それよりも、「官憲によって暴力的に連行された」という「証言」がどのような事情から飛び出すのかを考察した発言として、注目すべきであろう。
7.
つぎに慰安所の設置と軍の「関与」の問題である。
「いまだってソープランドひとつつくる許可を得るにも警察や保健所など公共機関は関与している。慰安所だって軍が関与しているのは当然じゃないか。」という小林よしのりの発言に対し、川田文子は次のように書く。
《 ………慰安所と軍の関係は「関与」というような生やさしい関係ではない。(中略)そもそも慰安所制度を考案したのは軍であるが、ソープランドを考案したのは警察や保健所ではない。軍人の士気の高揚、反日感情抑止のための強姦防止策、性病予防、軍の機密漏洩防止、などの必要から、慰安所設置の具体的施策は現地軍が策定し、陸軍省もこれに指示を与えた。》(『30の嘘と真実』)
この点についても、告発運動を批判する人々のあいだに異論はないのではないか。つまり、慰安所制度は日本軍が創りだしたもので、具体的な慰安所の経営や慰安婦の募集・管理は民間業者が実施していたが、軍は慰安所を監督しその運営にも関与していた、ということについて、大枠で考え方の一致を見ているといってよいだろう。
それではどこで「告発派」と告発運動を批判する人々は対立するのか。
8.
前回、「戦時中日本の官憲が若い韓国人女性を強制連行し慰安婦にした」という事実はなかったということで、「告発派」と告発運動を批判する人々はほぼ一致している、と書いた。これを一言補足しておきたい。
というのも「告発派」は、「広い意味での強制連行」はあったと言い、強制連行がなかったという人たちは強制連行という概念を「意図的に狭く限定している」と、批判しているからである。吉見義明は次のように書く。
《強制連行とは本人の意志に反してつれていくことである。このように広い意味での強制連行には、@前借金でしばってつれていくことや、A看護の仕事だとか、食事をつくる仕事だとか、工場で働くとかいってだましてつれていくことや、B誘拐・拉致などもふくまれる。
Aのだましてつれていくケースを強制連行にふくめるのは、慰安所についたとき、むりやり慰安婦にされるからである。最初から暴力的に連行するよりもこの方がかんたんに移送できた。官憲が直接やっておらず、業者がやった場合でも、元締めとなる業者は軍が選定し、女性たちを集めさせていたのだから、当然軍の責任になる。業者がやったこのようなケースがあったことについて、否定する者はいないだろう。》(『30の嘘と真実』)
あらためて言う必要もないことだが、日本語で「強制連行」といえば、女性を力づくで拉致し連れ去ることである。だから吉見の分類する@やAは、「本人の意志に反して連れて行くこと」であるが、「強制連行」ではない。
「強制連行」はすべて「本人の意志に反して連れて行くこと」であるが、「本人の意志に反して連れて行くこと」が即ち「強制連行」なのではない。それは、ソクラテスは人間だが、人間すなわちソクラテスではないし「広い意味での」ソクラテスでもない、というのと同様である。
日本語の意味を意図的に混乱させる議論は聞き苦しい。かりに告発運動を進める上でそれが有利であるとしても、無理な主張は長い時間の審判に耐えられるものではない。
「@やAのような形で本人の意志に反して慰安所に連れてこられた女性たちも多数いた」といえば、無益な論議は一つ減るのであり、事実を明らかにすることを望む人々のあいだにそれを望まぬ人はいないだろう。
9.
「強制連行」という日本語をめぐる問題は、「告発派」と告発運動を批判する人々の対立点のひとつであるが、それはより深いところにある心理の違いの顕れともいえる。
その、「より深いところにある心理の違い」を考える上で参考になると思われる文章を、少し長いが引用し、検討してみたい。吉見義明が『30の嘘と真実』に書いているもので、「軍と慰安所の関係は、たとえていえば文部省とその庁舎内にある食堂の関係と同じだ」という主張への反論である。
吉見は、この「文部省食堂論」は慰安所の運営に「軍の深い関与があっても軍の責任はないという説をつくりだすために考案された」のだが、考案者の意図に反して、「慰安所問題の本質をあぶりだすことになった、ヤブヘビになった」という。
《文部省が本省内に食堂をつくって業者に経営させても、なんの問題もない。直営してもかまわない。だが、問題になっているのは慰安所であり、食堂ではない。かりに、戦争中に文部省が庁舎内に職員専用の慰安所をつくって、業者に経営させたとしたら、大問題になっていただろう。
軍が戦地に慰安所をつくり、業者に経営させたことも、じつはこれと同様の問題だった。軍が占領地に軍人・軍属専用の食堂をつくり、業者に経営させてもなんの問題もない。直営でもかまわない。作戦行動にあたり、日本軍は食料の補給を十分にしなかったために戦地で各部隊は住民の食料・野菜・家畜・炊事用具などを徴発(略奪)することになった。炊事車も、レーション(携帯口糧)も用意しなかったために、略奪者の集団になったことが問われているほどなのだ。(中略)
このように、食堂の設置と慰安所の設置とはまったく別の問題である。ダイコンやニンジンは、どんなに切りきざんでも問題はないが、女性はモノではなく、侵してはならない人権がある。この違いがわからないようでは、人権意識が問われるだろう。》
5年前に上の一節を読んだとき、意味がつかめず、二度、三度、読み返した記憶がある。
意味が解らなかったのは、「かりに、戦争中に文部省が庁舎内に職員専用の慰安所をつくって、業者に経営させたとしたら、大問題になっていただろう。/軍が戦地に慰安所をつくり、業者に経営させたことも、じつはこれと同様の問題だった。」のくだりである。
文部省内に慰安所をつくったとしたら、もちろん「大問題」になるだろうが、それは不適切な場所に不要な施設をつくることだからである。しかし戦地にはその施設が必要だった。少なくとも戦時日本の軍指導者と政治指導者はそう判断した。いったい何が「同様の問題」なのか。
「文部省食堂論」は、軍と慰安所の法的位置関係についての説明ないし弁明である。最近の行政用語を使えば、慰安所は「公設民営」の施設であるから、軍はもちろん設置者・監督者としての責任はあるが、責任追及はそうした法的関係を認めたうえでなされるべきだ、と主張するものだろう。
ところが吉見の文章から窺えるのは、慰安所はいついかなる時代、いかなる状況下にあってもけっして許されない女性の人格に対する犯罪行為だ、という強い思いである。それが「慰安所問題の本質」であり、「公設民営」であろうが「公設公営」であろうが、慰安所の開設を企画し実施した時点で、日本軍と日本政府は慰安婦の人権侵害について全面的に有罪だと考える。そのように読まなければ、上の文章は理解できない。
そして話がそのような「信念」のレベルになれば、「告発派」と告発運動を批判する人々の対立は、容易に解消されることはないだろう。
筆者は、歴史の理解の仕方として「告発派」の主張、あるいはフェミニズム色の濃い主張に賛成できない。彼らは歴史の事象を、現在の彼らの価値基準で「ダイコンやニンジン」のように切りきざんで怪しまない。切りきざむことは容易であろうが、容易なことをしていったい何になるのか、と思う。
10.
辺見庸の『もの食う人びと』という紀行文集のなかに、「ある日あの記憶を殺しに」という一文がある。
1994年の1月、ソウルの日本大使館前で葬儀用のチマチョゴリを着た元慰安婦の女性三人が、包丁を胸に刺し自殺を図ろうとして刑事たちに取り押さえられた。
お金目当ての狂言でしょう、パフォーマンスでしょう、という者が多かったらしい。韓国の新聞は「割腹未遂」事件と報じたが、掲載を見合わせた社もあり、日本の新聞に載った記事は驚くほど小さかったという。
事件を目撃した辺見は、彼女たちの話を聞こうと思い立ち、会う。三人のうちの一人・李容洙(イ・ヨンス)は、日本人・辺見を見て激高して日本語で泣き叫んだ。「あんた、テンノーヘーカここへ連れてきなさい。うちの手を取って謝ってほしいのよ。ホソカワ連れてきてよ。ひざついて謝ってほしいよ。」
辺見は、自分は日本と日本人の誰の代表も代弁もしたくない、と考える。自分は自分だ、と自分に確かめる。謝るでもなく頭を垂れ、もう自殺はやめてください、と頼んだ。
李は自分の胸に手を当てて、「うち、ここに病気あるよ。日本がうちらの話をちゃんと聞いてくれたら治るのよ」という。
ああ、記憶のことだ、記憶を殺したいのだ、と辺見は思う。
食堂でビビンパプとテンジャンチゲを食べながら李容洙が辺見に語ったところでは、彼女は一九四四年秋に「軍服姿の男に連れられ」、故郷の大邱を後にした。大連から上海に向かう船には、日本の将兵多数と朝鮮各地から「連行された」少女が乗っていた。李は船酔いし、トイレで吐いているときに軍人に犯された。ほかの少女たちも船内で次々に犯されたという。
一九四五年に入って到着した台湾の慰安所では、客は特攻隊員ばかりで、明日にも死ぬ運命の隊員たちは荒れに荒れていた。しかしそんな日々だったのに、李には恋人ができる。
「星を見ていうのよ。あの小さく光っているのがトシちゃん(李)とおれの星。明日おれが出発したら、あれが一つ落ちるよ。トシちゃんは死ぬな。絶対に。うちにそう言ったよ」。
李はビビンパプを食べ終わり、お辞儀をし、じつに美しい日本語で言った。
「たいへんおいしゅうございました。」
李容洙(イ・ヨンス)は韓国内で活動するだけでなく、支援団体の招きで来日して各地で講演し、米国でも2007年2月に日本への謝罪要求決議に関する下院の公聴会に出席し、元慰安婦として証言している。この公聴会での証言で、彼女は次のように語ったという。(秦郁彦『現代史の虚実』2008年 に拠る)
1944年秋、16歳のとき、女友達に誘われ、母に黙って家をスリッパでそっと抜け出した。数日前に見かけた日本人がいた。人民軍のような服に戦闘帽をかぶり、3人の少女が一緒だった。合流して5人になり、駅から列車で平壌を経由して大連へ向かった。途中で帰りたいと泣いたが拒否された。
大連から船に乗り、上海に寄ったあと台湾へ向かったが、途中で爆撃に会い、船に一発命中した。大混乱の最中、同船していた日本兵にレイプされた。これが最初の性体験だった。
新竹の慰安所ではトシコと名のり、毎日4〜5人の兵士に性サービスをした。そのうち性病にかかり、なじみの特攻パイロットにうつしてしまったが、彼は「君の性病は明日突っ込む僕へのプレゼントと考えるよ」とやさしかった。
秦によれば、挺対協に彼女が名のり出たときのヒアリング結果には、「国民服と戦闘帽の男から赤いワンピースと革靴をもらい、嬉しかった。即座についていった」という話が出ているが、そのほかは基本的に公聴会の証言と同じだという。辺見庸の聞いた話も、ほぼ同様である。要するに、彼女は「女衒」の手引きで家出し、彼らの手で慰安婦として売られたのである。
彼女が家出したのは、極貧の生活から抜け出たかったからであろう。また、毎日客を取らされる慰安所の生活は、悲惨で苦痛に満ちたものだったろうし、何とか生きながらえて戻った韓国での戦後の生活も、過去を隠して生きなければならない彼女にとって、苦しいものだったと想像される。
しかし歴史を見るときに大切なことは、過去のひとつの場面を同時代の広がりの中で考えることであり、それを切り取り、現在の世界に横滑りさせて評価することではない。元慰安婦たちの苦痛や悲惨は、同時代の人々の苦痛や悲惨との比較の中でとらえ、評価しなければならない。
徴兵され、死者の6割以上が広義の餓死だったという日本の兵士たち(藤原彰『餓死した英霊たち』2001年)の悲惨な状況や、原爆や焼夷弾を浴びて殺され逃げ惑った多くの無辜の民の悲惨さがあった中で、なぜ慰安婦たちの悲惨さだけが声高に、戦後も半世紀を過ぎるという時期になって取り上げられなければならないのか。そういう声に出されぬ疑問が、告発運動を批判する人たちだけでなく、告発に戸惑いを感じる人々の中にはあるだろう。
それに対する答えとしては、慰安婦たちは被害者であり、日本の兵士は加害者であり、原爆や焼夷弾を浴びた人々は加害者を送り出した国民だから当然の報いだ、という身も蓋もない韓国ナショナリズムの主張以外、予想できない。
慰安所は、現代人にとって胸を張って説明できる種類の施設ではない。その上、自分の意志で流れてきた娼婦以外に、貧しさのために売られ、騙され、慰安婦にされた女性が多くいたと指摘され、その「生き証人」が目の前で「ひざをついて謝ってほしい」と泣き叫ぶなら、ひるまぬ日本人はいない。しかしそこで踏みとどまり、情を抑えて法的責任の決着をつけ、謝罪すべきは謝罪し、問題を最終的に終われせることが、国家を担う者の仕事である。
日本の法的責任は、「日本の官憲が朝鮮半島に住む若い娘たちを組織的に強制連行したかどうか」という点に関わる。「告発派」やフェミニストたちが主張するような、「慰安所という女性の人権を無視した施設」を設置したこと自体を理由に、日本の法的責任を問うことは不可能だし、慰安所を監督していた事実から法的責任を導き出すことも困難だろう。しかし問題を法的責任の有無に限定することも当時は政治的に困難な状況であり、名のり出ている慰安婦たちへの具体的対応も含め、問題の決着を韓国政府との間で明確に行うことが、求められていた。
日本政府がどのように問題を解決しようとしたかは、あとで検討する。
11.
本論の筋から少しそれるが、日本政府の対応の問題を検討する前に、『「従軍慰安婦」にされた少女たち』(石川逸子 岩波ジュニア新書 1993年刊)について触れておきたい。
この本は、著者の分身とおぼしき女性が中学生と高校生の姉妹に「従軍慰安婦」についてのレポートを書き送り、それを読んで姉妹が驚き、考え、成長していくという形で進行する。
レポートは慰安婦と名のり出た人々の語る体験談が主たる内容で、それに女性(著者)のコメントが付く。著者はお茶の水女子大学史学科の卒業で、公立中学の社会科教師をしていた人のようだが、この本には「史料批判」らしい手続きを踏んだ形跡はなく、証言の信憑性を検討した様子も見られない。驚くような残虐な話や信憑性を疑われるような話が、これでもかと言わんばかりに盛り込まれている。
たとえば前に触れた吉田清治の「慰安婦狩り」の証言だが、彼女は「済州島の少女狩り」という見出しをつけて、9ページにわたり事実としてレポートしている。しかし石川がこの本を刊行する1年前に、秦郁彦は済州島で現地調査した結果を雑誌に発表し、吉田証言は虚構、つくり話と書き、新聞でも報じられた。秦の雑誌掲載の文章は、その後『昭和史の謎を追う 下』(1993年刊)に収められ出版されたが、刊行は石川の本の出版される3か月以上前である。石川は吉田証言の真偽について考える十分な機会があった。
また、慰安婦として韓国で最初に名のり出た金学順(キム・ハクスン)という女性だが、母親が彼女をキーセンに売り、養父に連れられ中国にわたり慰安婦となった、と挺対協でのヒアリングで語っている。彼女の話は話すたびに変わり、慰安婦になった事情も明瞭でないが、秦は「現地で転売されたのかもしれない」と言い(『慰安婦と戦場の性』)、吉見義明も「養父に売られた可能性があるとみるのが自然だろう」と言う。(『30のウソと真実』)
ところが石川逸子は、《17歳のとき、日本の警官が部落の人といっしょにきて、「挺身隊に行けばお金がもうかるし、天皇陛下の命令だから行かなくてはいけない」といい、むりやり日本軍のトラックにのせられる。おなじ部落のすこし年上の友人も連行されていて、どこへいくかわからないまま………汽車にのせられ………またトラックに運ばれて………着いたところは弾丸が飛んでくる危険な戦場にほど近い、まっ暗な中国人の家だった。/そしてその家で、軍服を着た日本人将校に学順さんは犯された。》と書く。
金学順は支援団体に招かれて来日し、東京水道橋のYMCAアジア青少年センターで聴衆を前にそう語ったらしい。石川はその話を事実として疑うことなく採用したのだが、このことは慰安婦と名のり出た人たちの話を、「史料批判」の手続きなしに信用してはいけないということを示している。
この本に載っている次の話の信憑性はどうだろうか。
《………北朝鮮のもと「慰安婦」金英実さんの証言によれば、「慰安所」では朝鮮語を使うと殺す、といわれてきた。しきり一つへだてたとなりの部屋には「トキコ」という同朋の少女がいたが、ある日、軍人が「出てこーい」とどなり、みんなが部屋から出て行くと、トキコを軍人がすわらせていて「トキコは朝鮮語を使っていたから殺す」といった。まさかおどしだろうと思ったが、軍人はその場でトキコの首を切りおとしたという。》
筆者はこの石川逸子という元社会科教師が、慰安所という施設の仕組みをどれだけ理解していたのか、はなはだ疑問に思う。
慰安婦は、慰安所の経営者が周旋人などから買い入れた「商品」である。大事な商品を理由もなく毀損されれば、経営者は当然軍当局に訴え出るだろう。「トキコの首を切った軍人」は軍駐屯地の秩序維持を任務とする憲兵隊に逮捕され、営倉に送られ、軍法会議を経て刑を執行されることになる。そのような割に合わない行動を「軍人」が本当にとるだろうか、という疑問を彼女は少しも懐かなかったのか。
石川は、《「従軍慰安婦」、つまり大日本帝国軍隊によって公然と長期的に強姦・輪姦された女性たち》とか、《世界に類例のない「慰安所」。将兵が公然と女性を輪姦できる場所。》などと書いている。ひょっとして彼女は、極端に誇張された自分の表現に逆に影響されて、日本軍の駐屯地を「むきだしの暴力が支配する無法地帯」とでも思い込んでいるのではないか。
戦闘地域や占領地内での強姦や略奪、非戦闘員の殺人などの不法行為が、適切に罰せられないケースが多くあったとしても、それは軍当局が規律維持の意志を持たないということではない。軍隊が戦闘行動を行うためには、なによりも規律の維持が不可欠なのであり、明らかに違法な殺人を人々の面前で行えば罰せられるということは、すべての兵士が自覚していたはずである。
筆者は以上の理由により、上の証言は信憑性がないと判断する。
他の例だが、吉見義明も北朝鮮の元慰安婦(金大日)の証言について、「なんとも非現実的である。北朝鮮は誇張を排し、事実に基づく厳密なヒアリング記録を出すべきだろう」と述べていることも、付け加えておこう。(『30のウソと真実』)。
『「従軍慰安婦」にされた少女たち』という本は上に見たように、怪しげな「事実」が元慰安婦たちの口から語られるままに盛り込まれているという問題があるが、それを取り扱う著者の姿勢にも問題がある。
石川は韓国挺対協の幹部二人の発言を紹介する。
《(金)学順さんは日本にとって救いの人です。彼女は、人間が人間らしく生きるため過去を率直にあやまり、真の友好がはじまることを願って、その恥部をさらすために来られたのです》(金慧媛)
《日本人女性は韓国人に対しては加害者だけど、女性という点では被害者だ。「従軍慰安婦」でなかった日本の女性たちは、天皇のために喜んで死ぬ「天皇の赤子」を産む「赤子生殖器」にされたのだから、両国の私たちは歴史に新しい章を開くために必要な経験をもっているのです》(尹貞玉)
石川はこれらの発言を「明晰な歴史観」と言い、「かえりみて日本の女性である私は恥ずかしかった」と書く。
石川にとって、旧日本軍はひたすら悪逆非道、大日本帝国は強欲非情で、その犠牲になった慰安婦たちに許しを請うことこそ「誠実」のあかしということらしい。そういう薄っぺらな歴史観と未熟な人間観しか持たないから、挺対協指導者の誇張された発言の前に拝跪することになる。
悲劇は多くの場合、人々の悪意よりも善意によってもたらされる。故人が語ったように、「地獄への道は善意で舗装されている」のだ。
子どもは社会や歴史や人間の生について知識も経験も少ないから、善意を謳い正義感をあおるような話に容易に煽動される。適切な指導者がいれば、これを真似してはいけない歴史記述の見本として、つまり反面教師として読むことも可能かもしれないが、多くの子どもがそういう環境に恵まれているわけではない。
子どもに有害な図書というべきだろう。
12.
前節では『「従軍慰安婦」にされた少女たち』という本を、批判するためにのみ取り上げる結果になった。批判を書いているうちに長所が見えてくることもままあるのだが、この本にかぎっては救えるところがなく、後味が悪い。
口直しに一つのエピソードを添えて終わりにし、話を前に進めたい。
鶴見俊輔が研究者の質問に答える形で語りおろした『期待と回想 上・下』(晶文社 1997年刊)という本がある。
鶴見は「女性のためのアジア平和国民基金」の呼びかけ人にもなっているが、「きょうは最後に『慰安婦の問題』を置きたいと思って、ここに来たんです」と話し始める。
《慰安所は、日本国家による日本をふくめてアジアの女性に対する凌辱の場でした。そのことを認めて謝罪するとともに言いたいことがある。》
《十八歳ぐらいのものすごいまじめな少年が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で四十歳の慰安婦を抱いて、わずか一時間でも慰めてもらう、そのことにすごく感謝している。そういうことは実際にあったんです。この一時間の持っている意味は大きい。
私はそれは愛だと思う。私が不良少年出身だから、そう考えるということもあるでしょう。でも私はここを一歩もゆずりたくない。このことを話しておきたかった。》
鶴見は1943年、二十一歳のとき海軍軍属としてインドネシアのジャワ島へ赴任し、英語放送の翻訳などに従事したが、戦闘には参加せず、結核を悪化させて帰国した。そのとき味わった同世代の兵士への負い目を、半世紀のあいだ抱え続け、ようやく口にすることができた。
鶴見の思いは、告発団体の運動家たちの雄たけびの前に完全に無視されるか、非難される種類のものだ。語られることで他の人々の思いや記憶と響きあうことはあっても、歴史記述の表通りでは一銭の価値もないものだろう。
しかし口に出せば非難を浴びるであろう無防備な発言を、世間の思惑を意に介さず公けにしたことは、彼の強さと潔さを示している。筆者は鶴見俊輔を見直した。
13.
話を本論に戻す。
1990年代初めに韓国で燃え広がった「従軍慰安婦問題」への対応を迫られ、日本政府が出した声明がいわゆる「河野談話」であった。少し長くなるが、その主要な部分を引用する。
《………慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、監理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意志に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多くの苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。(以下略)》
「河野談話」は宮沢内閣の官房長官・河野洋平が、1993年(平成5年)8月4日、慰安婦に関する政府の調査結果の発表時に出したものである。その翌々日、8月6日には国会で細川護煕が首班指名され、細川政権が誕生した。自民党が結党以来初めて野に下るという情勢の中で、河野とすれば「慰安婦問題」に政治的決着をつけ、政権を引き渡そうと考えたのであろう。だから上の「談話」には、役人が書いた部分と河野が手を入れた部分が、あまり整合のとれないまま盛り込まれているように見える。
《慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり》と書かれた次のパラグラフにも、
《慰安婦の出身地については、……朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、監理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意志に反して行われた》
という文章が現れる。しかし役人は一般に、こういう無駄な繰り返しのある大雑把な文章は書かない。後ろの一節は、河野洋平が問題の決着を図るために韓国政府の要望を入れ、挿入した部分と考えるのが妥当だろう。
問題は、河野の意に反して「問題」が決着しなかったことである。というよりも、「問題」をいっそうこじらせるきっかけを作ってしまった。
14.
「河野談話」(1993年)は、《………本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多くの苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。》と述べた。
その翌年、村山首相は「平和交流計画に関する談話」(1994年)を発表し、「戦後50周年にあたる明年」から「日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらく」ための「平和交流事業」を実施すると述べた。その中で「慰安婦」の問題にも触れ、河野談話と同様、次のように語っている。
《いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。》
《………過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国との相互理解の一層の増進に努めることが、わが国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。》
一国の内閣官房長官と総理大臣が、深い反省とお詫びの気持ちを対外的に公表した。そして「女性のためのアジア平和国民基金(略称:アジア女性基金)」を設立し、国民からの募金を主体とする「民間基金」により元慰安婦の救済事業を行うこととした。
慰安婦に関する告発団体の主張は、事実とは認められないものが多い。しかし韓国では元慰安婦が、自分は強制連行された「生き証人」だと申し立てている。そもそも慰安婦問題は、現代の価値観に照らして擁護することが困難な慰安所という制度に関わり、感情的な非難の声が上がれば冷静な議論や検討など不可能になる種類の課題であった。そういう事情や日本政府の置かれた環境などを考え合わせるなら、上の政府の「お詫びと反省」および「アジア女性基金」の設立は、精一杯の対応と評価してよいように思う。
しかし韓国挺対協は「アジア女性基金」について、「日本が法的責任を回避しようとする不道徳で欺瞞的なもの」と反発し、あくまで日本の「国家補償」を要求した。「アジア女性基金」からの償い金を受け取らぬように元慰安婦たちに働きかけ、受け取った元慰安婦7人を吊し上げた。
「アジア女性基金」は、韓国以外では元慰安婦三百数十人に償い金と総理大臣のお詫びの手紙を手渡したが、韓国では7人以外に渡すことができず、2007年に解散した。
日本社会での紛争なら、「誠意」を見せれば相手も受け入れる。「誠意」を受け入れず「誠意」に悪乗りして自分の主張を拡大するようなら、「世間」から厳しく非難される。
河野官房長官や村山総理大臣、そして彼らを補佐する役人たちは、日本社会と同様に「誠意」が通じ問題が終結することを期待したのだが、それは韓国人には通じなかったというわけだ。
15.
なぜこのようにややこしい問題が、戦後半世紀も経ってから発生し、解決しないどころか世界に広がりつつあるのか。
問題をややこしくした関係当事者たちの役割を検討・整理し、これからの問題の扱い方を考えて本稿を終わりにしたい。
第一は、問題の告発者・告発団体であるが、初めに火をつけ、火をおこして回ったのは日本の活動家たちだった。吉田清治のような「詐話師」もいるが、日本の戦争責任に関心のある人々やフェミニズムの活動家たちが多く関わった。慰安婦問題はフェミニズムの運動にとって格好の素材を提供し、フェミニズム運動は慰安婦問題をファッショナブルなテーマにした。
韓国の告発団体、たとえば挺対協の場合、秦郁彦の言うように、その過激な主張はフェミニズムと韓国ナショナリズムが結びついたものといえる。平たく言えば、韓国人女性が日本の男たちの性の慰み物になったことは、どのような事情であっても不当であり、けっして許さない、という強烈な感情である。
第二に日本のマスコミ、とくに朝日新聞が、「問題」が問題化する方向で熱心に取り上げ、ジャパンタイムスがそれを不正確に翻訳した記事にすることで、外国メディアに歪んだ情報とイメージを提供した。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』参照)
第三に、日本政府の危機感の乏しい拙劣な対応が問題を拡大した。慰安所の設置に軍や政府が関与していないかのような発言をし、批判の高まりの中でそれを修正することで、政府の信用を自ら貶めた。
また河野談話が「政治的決着」を図る目的からとはいえ、「………当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、監理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意志に反して行われた」と、慰安婦の「強制連行」を事実と認めるかのような発言をしたことは、大きな禍根を残した。
第四に韓国政府の、「世論」に押されるままずるずると日本への要求を拡大する態度は、きわめて問題が大きい。
韓国政府ははじめ、日韓条約によって植民地時代の請求権問題は「完全かつ最終的に解決」しているから、元慰安婦への補償を政府レベルで要求することは難しいと判断していた模様である。金泳三大統領は、日本に物質的補償は求めない、韓国の予算で生活保護支援を行うと発言した。
「アジア女性基金」が償い金を支給すると決めたときは、これに反対した。挺対協が強硬に反対したからだが、元慰安婦には韓国政府が「支援金」を支給する、これは慰安婦問題が両国関係の発展にこれ以上障害にならないようにするための措置だ、という態度をとった。
しかし告発団体の執拗な運動の前に、盧武鉉政権は方針を転換し、「日本軍慰安婦など反人道的行為に対して日本政府の責任を追及する」と決定した。
昨年8月、韓国憲法裁判所は挺対協の求めに沿って、韓国政府が慰安婦への賠償請求を怠っていることは憲法違反、という判決をくだした。
韓国政府は世論と憲法裁判所の判断に押される形で、日本に慰安婦問題の協議と解決をせまるようになった。
16.
最近、ニューヨークのタイムズスクエアに、「性奴隷として働くことを強いられた韓国女性たちは、日本の心からの謝罪を待っている」という大広告が、韓国の民間団体の注文で掲げられたという。(2011/10/6朝日新聞デジタル版)
また2年前、韓国系米国人が多数住むニュージャージー州のある市では、公立図書館に「慰安婦の碑」が建てられ、今年5月のニューヨークタイムスには、ナチスによるユダヤ人虐殺を引き合いに、慰安婦への適切な謝罪をしていないと日本政府を批判する全面意見広告が、出されたという。
2007年に米国下院本会議で、「日本政府に謝罪を求める決議」が採択されたことには、すでに触れた。
この本会議決議を阻止しようと、日本人有志がワシントンポスト紙上に出した意見広告は、逆に決議への賛同者を増やす結果となったらしい。秦郁彦は米国の友人から、「いまのアメリカで、人権、フェミニズム、アジア系マイノリティの三点セットに公然と逆らう勇気の持ち主はいない」と言われたという。(秦郁彦『現代史の虚実』2008年)
2007年にはオランダ下院、カナダ下院、EUの欧州議会も、同趣旨の決議を採択している。
「われらは………国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という日本国憲法前文の宣言とは反対に、「不名誉な地位」に置かれる事態が徐々に進行しているように見える。
それでは、「結果として、旧日本軍が女性を組織的に強制連行して『性奴隷』にしたといった誤解」(読売新聞社説)を世界に広めた「河野談話」の見直しを行うべきなのだろうか。
もちろん誤解を招く不適切な発言は、見直されるべきだろう。しかしその時期と訂正の仕方は、慎重に判断されなければならない。なぜなら問題はすでに「強制連行」の有無ではなく、それも含めて「慰安所制度」自体の道徳的非難に広がってしまっているからである。誤解を除くための見直しが、新たな誤解(反省しない国・日本)と非難を招くだけに終わる危険性はけっして小さくない。
それとともに「河野談話」の「誠意」が、問題の終結をもたらすのではなく、問題を長引かせ拡げる結果となったことについて、深刻な反省がなければならない。
朝日新聞社説はこの「河野談話」見直しの主張に対して、「枝を見て幹を見ない態度」と批判する。(2012年8月31日)そして、米国下院や欧州議会の、日本政府に謝罪を求める決議採択に触れ、「自らの歴史の過ちにきちんと向き合えない日本の政治に対する、国際社会の警鐘である」と述べる。
こういうナイーブ(素朴)な国際政治理解、あるいは素朴を粧った物言いは、慰安婦問題が政治の問題であって道徳の問題ではないという点をあいまいにし、絡めている点で、きわめて有害といわなければならない。また日本の外交が情報・宣伝の戦いに敗北したという真に反省すべき事実を覆い隠し、その改革を遅らせる役目をはたすことになる。
17.
韓国の政治や社会の観察者・研究者によれば、韓国人の民族的特性のひとつは、リアルな現実認識がニガテで、どうあるべきかの「名分論」に走りたがる傾向だという。
李氏朝鮮で繰り返された「党争」の歴史はさて措き、現代の韓国政治で巾を利かせる反米・反日の主張や、軍事政権の独裁は激しく非難するがそれを上回る北朝鮮の独裁には口を拭う「民主化勢力」のメンタリティーにも、彼らの特性は生きているといえよう。
何故韓国人は「反日」の主張を、ことあるごとに繰り返すのか。
「韓国における反日感情の基本は日本に対する民族的コンプレックスである」と韓国社会の観察者の一人は言う。(黒田勝弘『韓国人の歴史観』平成11年)
《歴史的には中国文化圏における先輩でありながら後輩の日本に後れを取り、支配されたという屈辱。そしてその屈辱からの脱出(解放)を自力でやれなかった悔しさ。しかも一九四五年以降、解放された韓国と敗戦の日本として出発しながら、さらに日本の風下に立たざるを得ない悔しさは想像にあまりある。》
だから慰安婦問題は、彼らが「道徳的優位」に立てる絶好とテーマであり、「たとえ政府がまた政治決着しても、決して世論はこのカードを手放さないだろう。」(黒田勝弘) そして韓国の対日外交は、これまでつねに世論主導であった。
黒田が上の書物を書いた時から13年が経ち、短い時間であるが、この間、日本と韓国の力関係は微妙に変化したように思う。韓国が力を伸ばし、日本が力を落とした。
韓国人が自分の力と文化に自信を持ち、その自信が不毛な反日感情を消し去り、互いの利益をリアルに考えることを可能にするよう期待したい。
日本政府は慰安婦問題について、日本の認める事実と日本のとってきた措置について広く発信しつつ、韓国世論に引きずられる韓国政府の外交を、つよく批判するべきだろう。
外交は他の手段をもってする戦いである。相手が「歴史の過ち」を指摘されると弱いと知れば、敵は何度でもそのウイークポイントを突いてくる。
道徳的主張を粧う不毛な恫喝に対しては、お互いの共通の利益を見据えた地点から適切に反撃し、非生産的な議論をはやく無効にしなければならない。それが韓国人との友好を創りだす道だと考える。
(おわり)
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