いわゆる「歴史認識」について
     【ブログ掲載:【2013年8月4日〜9月14日】





1.
 先週末から今週にかけて、日韓関係に関わるニュースが多かった。

 先週末の7月27日に、韓国出身で日本に帰化した呉善花という拓殖大学教授が、親族の結婚式に出席するため仁川空港に着いたところ、入管職員から入国を拒まれるという事件があった。呉善花女史は理由を問い糺したが、「上からの命令」というだけで明確な説明はなく、そのまま夕刻の日本行きの便まで待機させられたという。
 翌日の韓国のマスメディアは、日本のニュースを引用する形でこの事件を報道したが、呉善花女史について「韓国を卑下し日本を美化する著述・評論活動の先頭に立ってきた」などと批判的に紹介するだけで、入国拒否の問題性を批判する態度はなかったらしい。

 翌28日夜は、ソウルでサッカーの東アジアカップの日本対韓国戦が開催されたが、韓国側の観客席に「歴史を忘れる民族に未来はない」とハングルで書かれた横断幕と、安重根、李舜臣の肖像の描かれた巨大な幕が掲げられた。韓国サッカー協会は前半終了後のハーフタイムにこれらの幕を撤去したが、幕を掲げた韓国サッカー代表チームの応援団「赤い悪魔」は、抗議のため後半の応援をボイコットしたという。
 主宰者のアジアサッカー連盟から説明を求められた韓国サッカー協会は、31日、「日本の応援団が競技開始直後、大型の旭日旗を振り、韓国の応援団を強く刺激したことが(横断幕を掲げた)発端になった」とする文書を提出した。また、その文書の中で旭日旗について、「韓国国民にとっては、歴史的な痛みを呼びおこす象徴だ」と主張した。

▼7月30日、米国ロスアンゼルス近郊のグレンデール市の公園で、「従軍慰安婦」の像の除幕式が行われた。チマ・チョゴリを着た少女が椅子に座るブロンズ像で、一昨年ソウルの日本大使館前に設置されたものと同じデザインである。市議会では韓国系市民の陳情を受け、「すべての戦争被害者のために」という趣旨で設置を決めたのだという。

 同じ7月30日、韓国・釜山の高裁で、戦時中に広島の軍需工場に動員され被爆した元徴用工5人の遺族が三菱重工業に起こした損害賠償請求訴訟の判決があった。裁判長は原告らの個人請求権を認め、三菱重工業に一人当たり約710万円の支払いを命じた。
 同様の訴訟の判決は7月10日にもソウル高裁であり、被告の新日鉄住金に元徴用工へ一人当たり約900万円の賠償を命じている。
 1965年の「日韓基本関係条約」締結時の協定により、両国およびその国民の間の「請求権に関する問題」は「完全かつ最終的に解決された」とされ、日本政府も韓国政府もこの条約と協定の上に協力関係を築いてきた。しかし「個人の請求権を認める」という韓国の裁判所の判決は、協定の明文に反するものであり、日韓両政府の関係をさらに困難な袋小路に追い込むことになる。

▼4件のニュースはいずれも、悪化している両国の関係をさらに悪化させる出来事を伝えており、気分のいいものではない。
 しかしそもそも何が問題なのか、何をそれほど韓国人は怒っているのか、理解できないという思いが、日本人の側にはあるはずだ。「日本人の歴史認識がけしからん」と怒っているのだと説明されても、「歴史認識」など日本人のあいだでも、やれ「自虐的だ」、「反動的だ」、「人間不在だ」、「非科学的だ」、と批判の応酬が連綿と続いている問題である。国民や国の代表者がいわれなき侮辱を受けるような明白な行為があったのならともかく、「認識」の違いなどが国と国との友好関係を壊し、国民こぞって抗議するような問題になるとは、とても思えないと日本側は考える。

 言葉の通じない現実に、海峡のあちら側ではいよいよ憤激を増し、海峡のこちら側ではいよいよ不快感をつのらせるという、不毛な対立の穴に両国民が落ち込んでいるとするなら、ここはマスメディアの出番であろう。
 韓国人の考えを説明し日本人の疑問に答える人間を日本のマスメディアに登場させ、逆に日本人の考えを説明し韓国人の疑問に答える人間を韓国のマスメディアに登場させる。激昂している韓国人が日本人の話を冷静に聞く保証がないとするなら、両者の言葉を「通訳」できる人間を、広く世界に求めればよい。
 無教養な政治家の「信じられないほど間違った」お粗末な発言を批判する時間とスペースがあるのなら、その力をもっと言論の意味の回復というマスメディア本来の職務のために使うべきなのだ。

2.
 先月末、産経新聞の「正論」欄に載ったジェームズ・E・アワー(ヴァンダービルト大学日米研究協力センター所長)という人の一文(7月26日)は、筆者の目に留まった数少ない貴重な「通訳」レポートだった。

 アワー氏は朴大統領の支持者である韓国政界の長老の招きで6月にソウルを訪れ、韓国の政治家、政府当局者、経済人たちと面会した。
 彼は、1998年に小渕首相と金大中大統領が共同声明を出し、「過去の問題に終止符を打ち前に進む」と述べたが、韓国人の考えがなぜ様変わりしたのか、と質問した。会った韓国人の大半は、自分たちの姿勢は1998年当時から変わってはいないと言い、現在の自分たちの態度は、慰安婦問題や安倍政権の高官たちの靖国神社参拝、竹島に対する日本の立場といった歴史問題に対する日本人の無神経さのせいなのだ、と答えたという。
 アワー氏は慰安婦問題や靖国参拝問題について、自分の考えを話した。自分の考えについては一文の中に語られているが、韓国人の反応については書かれていないので、ここでは省略する。
 「韓国人と話し合って最も厄介な問題は竹島だった。」とアワー氏は書いている。彼が「最も厄介な問題」と書いたのは、彼自身が理解できないでいる問題という意味だろう。それは日本人にとっても同様である。
 韓国が現に実効支配しており、日本はその現状を変えるような動きをしていないにもかかわらず、なぜ韓国人はこぞって神経質に騒ぎまくるのか。半世紀前の日韓基本関係条約の締結当時も合意できなかったような問題、つまりお互いに合意できないという事実を認めあっている問題を、なぜ性急に問題として掲げ、解決を迫らなければならないのか。

 《私は、日本に有利な法的根拠ゆえ竹島に関する日本の見解は変わりそうにないとしつつ、日本が竹島から韓国兵を駆逐すべく自衛隊を派遣することはけっしてないと思えるのになぜ、韓国はこの問題について心配するのをやめないのかと聞いた。返ってきた唯一の答えが、竹島が間違いなく韓国に帰属することに日本人は同意すべきだと韓国人は考える、というものだった。》

 日本人はアワー氏の「通訳」のおかげで、韓国人の「思い」を僅かとはいえ知ることができる。その子どもじみたメンタリティに驚きつつも、そういう国民性なのだという、ある種の「理解」を持つことができる。
 また韓国人たち自身も自分たちの「唯一の答え」を自覚することで、あるいは冷静さを取り戻すきっかけになるかもしれない。

▼日本人と韓国人の間の「通訳」の役割がいっそう求められるのは、戦時中の徴用工が日本企業に対して起こした損害賠償請求訴訟の判決についてである。
 韓国人徴用工たちの請求が韓国の高裁で認められ、敗訴した新日鉄住金や三菱重工業は上告する方針だというが、韓国の大法院(最高裁)で勝訴する可能性は小さいと見られている。というのも、大法院は昨年春に「個人の請求権」を認める考えを示し、審理を高裁に差し戻したのであり、その差し戻し審の結果が今回の原告勝訴の高裁判決だからである。
 大法院で上告が棄却されたり原告勝訴の判決が出れば、新日鉄住金や三菱重工業は賠償金を支払うことが求められ、それを不当として応じなければ、韓国内の財産差し押さえという事態も生じかねない。それは只でさえ沸き返っている韓国人大衆の感情をさらに煽り立て、また日本人の「嫌韓感情」を刺激し、両国民の理性的な対話をいっそう困難なものにするだろう。

▼ここからは「法解釈」といういささか面倒な分野に入るが、「乗りかかった舟」で行けるところまで行ってみることにする。
 日韓両政府は1965年に「日韓基本関係条約」を結び、外交関係を開設したが、条約と同時に4つの協定を締結した。そのうちのひとつが「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」である。
 この協定は4条から成る短いもので、第1条は日本が韓国に対し10年間に3億ドルを供与し、2億ドルを長期低利で貸し付ける、という「経済協力」に関する条文である。第2条は「財産と請求権に関する問題解決」を図るための条文、第3条は協定の解釈や実施について両国間に紛争が生じたときの措置、第4条は批准書の交換をできるだけ早く行うべきこと、効力は交換の日に発生することが述べられている。
 問題の第2条は3項から成るが、要点の理解に不要な部分を除き、そのまま以下に引用する。

《1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、………完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
 2  略
 3 ………一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日(註:この協定の署名の日)以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。》

3.
 日本の法体系の中で、「条約」は憲法には劣るが法律には優位するものと解されている。憲法98条第2項は、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と定めている。
 現在の大韓民国憲法は「条約」について、「憲法に基づいて締結し、公布された条約および一般的に承認された国際法規は、国内法と同等の効力を有する。」(第6条第1項)と定めているが、ほぼ同様の趣旨と解してよいだろう。「憲法に基づいて」とは、大統領による締結と批准、国会による同意、という手続きを経ることを意味する。

 前回、日本と韓国のあいだで結ばれた、「請求権」の問題が「完全かつ最終的に解決された」ことを確認した「協定」の条文を紹介した。
 この協定を間違いなく実施するために、当時の日韓両政府は「議定書」をつくり「交換公文」を交わし、さらに「協定」の解釈に齟齬が生じないように「合意された議事録」をつくって発表している。「合意された議事録」の中には協定第二条に関し、次のような記述がある。

 《(g)同条1にいう完全かつ最終的に解決されたこととなる……請求権に関する問題には、日韓会談において韓国側から提出された韓国の対日請求要綱(いわゆる八項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって同対日請求要綱に関しては、いかなる主張もなしえないこととなることが確認された》

 韓国の対日請求要綱には、「被徴用韓人の未収金」、「戦争による被徴用者の被害に対する補償」、「韓国人の対日本政府請求恩給関係その他」などが列挙されている。要するに当時の日本政府は、「完全かつ最終的に解決された」という協定の条文に解釈の相違が生まれないように、これまで韓国が要求してきたような事柄は当然すべて含まれますよ、と具体的に念を押し、韓国政府もそれを認めたわけである。だからそのことの是非はともかく、法の解釈としては、韓国人元徴用工の言い分を取り上げる余地はない。
 しかし韓国の裁判官は、原告の徴用工に勝訴の判決を下した。判決の本文も内容の解説も接する機会がないので分からないのだが、新聞記事によれば、「日本の国家権力が関わった反人道的不法行為に対する請求権が日韓請求権協定の対象に含まれると見るのは困難で、原告らの個人請求権は消滅していない」という理屈らしい。(朝日新聞7月31日)。
 韓国の裁判官も、日本と韓国のあいだの「請求権」の問題が半世紀前に「完全かつ最終的に解決された」ことは認めざるを得ないが、「反人道的不法行為に対する請求権」は別だ、と言いたいらしいのだが、こういう「ヘ理屈」は韓国人の名誉となるものではないだろう。

▼ところで、「協定」で解決したのは国家間の請求権問題であり、個人の請求権問題は未解決だという議論は、以前からある。
 たとえばある論者は、国家間で清算が問題になる権利には、@国の在外財産や請求権、A国民の在外財産や請求権に対して国が発動する外交的保護権、B個人の在外財産や請求権の3種類があると言い、「協定」で「完全かつ最終的に解決された」のは@とAに過ぎず、Bは残っていると主張する。(『戦後補償の論理』高木健一 1994年)
 たしかに「協定」は、個人の請求権を国内法的な意味において消滅させたというものではないから、個人の請求権は存続しているという解釈は可能だろう。しかし個人の権利を保障する国の外交的保護権を放棄すると約束したことは、個人の請求権は実現の保障を持たないということであり、抽象的な意味の権利にとどまるということである。
 さらにそのことは、外交的保護権を放棄した国家が自国の個人の権利に対し、何らかの補償を行うべきだということも含意している。韓国政府が1971年に「対日民間請求権申告に関する法律」をつくり、1974年に「対日民間請求権補償法」をつくって、国民の日本に対する請求権について補償を行なおうとしたことは、そのことを意味している。
 「協定」は韓国政府だけでなく、韓国の裁判官をも「国内法と同等の効力を有する」ものとして拘束する。裁判官がその内容に不満を持ち、韓国人元徴用工が何の補償も得られぬまま放置された現実に義憤を抱いたとしても、反日感情の盛り上がりに悪乗りし、「解釈」により「協定」をひっくり返すことは、到底認められるものではない。
 それは自国民に十分な補償を行ってこなかった自国の恥を、さらに上塗りするものである。

 現在の日韓関係を規定する「協定」の検討は、いちおう以上で終わる。韓国内での「反日感情」の高まりにより、日本と韓国の法的関係まで揺らぎはじめたわけだが、その「反日感情」そのものを次に検討のマナイタに乗せることにする。

4.
 韓国人の「反日感情」を理解する方法のひとつとして、朴裕河(パク ユハ)という韓国人の書いた『反日ナショナリズムを超えて』(2005年)という本を取り上げる。
 朴女史は高校卒業後に来日し、日本の大学、大学院で日本近代文学を専攻、現在はソウルの世宗大学日本文学科の教授を務めている。夏目漱石の『こころ』や大江健三郎の『万延元年のフットボール』、柄谷行人の『日本近代文学の起源』などの翻訳があるという。
 この本の原著は2000年に韓国で出版されたもので、「世紀末の韓国精神分析」という副題が付いていたことからもわかるように、中で取り上げられているのは90年代の韓国人の行動や著作や発言である。それから二十年近くが経過したわけだが、2013年の韓国社会の空気と意味を理解する上で、効能は少しも落ちていない。

 『反日ナショナリズムを超えて』は韓国人の読者を対象に、韓国人の日本人に対する誤解や偏見を指摘し、その原因に遡って批判した本である。著者は、「1990年代の韓国で反日意識を高めることに最も寄与した」事件として、「鉄杭」事件を取り上げる。
 「鉄杭」事件とは次のようなものである。ソウル近郊の山の頂上で、ある山岳会の会員が「日本帝国主義者が打ちこんだ」という長さ45センチ、直径2センチほどの鉄杭を発見し、引き抜いた。彼は組織をつくり、本格的に鉄杭を探し回る作業を始めた。
 92年の光復節の日の新聞に、「日本帝国主義者がわれらの名山の脳天に打ち込んだ鉄杭を引き抜く」、「これらの鉄杭はわが同朋の精気を遮断するために打ち込んだもの」で、これは「日本帝国主義の悪賢い『風水侵略』」だ、という紹介記事が載った。某大学教授は「この作業を国民全体の運動にまで拡げ、日本帝国主義者による侵略の残滓を取り除き、民族的な誇りを高めるきっかけにしたい」と語ったという。
 95年に「鉄杭除去作業」は、金泳三大統領の下で進められた「民族の精気を回復する運動」の一つに指定され、政府主導のもとに奨励されることになった。
 日本の統治下にあった朝鮮で、朝鮮人の反抗を怖れた日本帝国主義者は、朝鮮民族に優れた指導者が生まれないように、山河の「脈」に鉄杭を打ちこんだ、つまり鉄杭が民族の精気を破壊した、という「妄想」が生まれた。この「妄想」は新聞やテレビを介して国民の間に広がり、国民的な「真実」として定着した。こうした一連の動きに疑念を持ち、事実の確認を進めたジャーナリストは、朴女史の知るかぎり一人だけだったという。
 鉄杭は地図か海図を作成するためのものだった、と考える学者もいたが、新聞には、「日本は韓国を侵略するために歴史、風水地理などを熱心に研究した。……日本帝国主義者は鉄杭を位置標識のように偽装したかもしれないが、実際の目的が精気の抹殺にあったことは明らかである。」と断定する声が掲載された。―――

 日本人にとっては、なんとも挨拶のしようのない「事件」である。「風水」という民間信仰に日本への屈折した被害者意識が加わるとき、「妄想」はとめどなく「真実」として拡大する。事実関係をまず確認するべきマスコミは、「民族の精気」や「民族の誇り」という言葉に感応し、熱に浮かされたように鉄杭除去事業を煽り立てた。著者は次のように批判する。

 《……韓国マスコミのこうした姿勢が、韓国人の90年代における反日意識を高めることにつながっていった。それが日本と深くかかわる事件であるとき、事実関係を確認するための追跡・追求をしない安易な姿勢、有無を言わせぬ告発と糾弾、はなはだしくは、国民の感情を代弁しているように見せかけながら、その実あらたな非難の声をつくり出そうとする感情的な記事……。》

▼『反日ナショナリズムを超えて』で取り上げられている論点は数多いので、次にその中から「日本の謝罪」の問題について見ることにする。
 1998年に金大中大統領が日本を公式訪問する直前に、「大学教授100名による政策への提案」が青瓦台に提出されたが、その中に「日本の反省と謝罪がない状態での日皇(天皇)の訪韓、および日本文化の開放に反対」するというくだりがあった。日本が反省も謝罪もしていないという認識は、ほとんどの韓国人に共通するものだ、と著者は言う。
 しかし、「実際には、1990年代だけでも、韓国の大統領の訪日、もしくは日本の首相の訪韓など、両国首脳が公式に顔を合わせるたびに反省と謝罪はあった。」と著者は書く。
 90年に盧泰愚大統領が日本を公式訪問した時には、海部首相が「謙虚に反省し、率直に謝罪申し上げたい」と語り、92年に宮沢首相が韓国を訪問した際は、「心より反省の意と謝罪の気持ちを表明する」と語り、翌93年に細川首相は韓国を訪問し、「われわれの行ってきたことを謙虚に反省し、この機会に陳謝申し上げたい」と語った。
 95年には村山首相が「戦後50年の談話」の中で、「歴史の真実を謙虚に受け止めてあらためて痛切な反省の意を表し、心より謝罪の気持ちを表明する。」と語った。
 そして98年に日本を訪問した金大中大統領は、小渕首相とともに「21世紀に向けた日韓パートナーシップ」をうたう共同宣言を発表した。この中で小渕首相は「痛切な反省と心からのお詫び」を述べ、金大統領は小渕首相の表明を評価し、「両国が不幸な過去を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させる」ためにお互い努力しよう、と語っている。
 著者は、新たに発足した韓国政権が自らの正当性を裏づける、という狙いもあって、日本からの謝罪の言葉を求めたのではないか、と書いているが、時候の挨拶でもあるかのように「反省と謝罪」が繰り返されている。個人と個人のあいだでは、「反省と謝罪」は相手の心に届くかどうかが最も大事な点だが、国民と国民、国家と国家のあいだでは、それが期待できない場合も多い。それは割り切るしかないだろう、と筆者は考えるが、朴女史は次のように書いている。

 《もとより韓国側にしてみれば、過去の出来事は二言や三言の謝罪の言葉と引き換えに忘れてしまうには、あまりにも大きな痛みを伴うものであった。しかし、日本人が自分なりに繰り返してきた謝罪さえも受け入れようとはしない韓国人の料簡の狭さが、韓日関係をいつまでも過去の歴史に縛りつけてきたこともまた確かであった。赦すということは、謝罪の言葉を受け容れることから始まるのではないだろうか。》

5.
 日本あるいは日本人に対する韓国人の評言やイメージを、『反日ナショナリズムを超えて』からいくつか拾い出してみる。

 ・日本人は集団的には大きな力を発揮するが、個人の創造性ではわれわれに劣る
 ・日本人はチームワークを発揮する時は立派だが、一個人として見ればみすぼらしい
 ・韓国は文の文化であり、日本は武の文化である
 ・朝鮮の「党争」では言葉が先にあったが、日本では刀が先にあった
 ・日本には技術はあるが文化はない
 ・日本人は裏表があって狡猾
 ・残忍で怖い

 彼らの評価が、否定的なもの一色であることにも目を見張るが、それ以上に彼らの日本批判の情熱に圧倒される。90年代の韓国人は日本や日本文化について、どれほど理解していたのだろうか。
 韓国国内で日本の歌謡曲や映画を視聴できるようになったのが、98年の解禁以降であることを考えても、彼らが日本人と日本文化について豊富な知識や体験を持っていたとは考えにくい。にもかかわらず、日本人が韓国にほとんど関心を向けなかったのとは逆に、韓国人たちは日本に強い関心を持ち、日本人と日本文化は劣っており、自分たちの方が優れていることを熱心に言いつのり、彼らの世界で盛り上がっていたらしい。
 その熱心さは、日本人が日本社会や日本文化を、西欧社会や西欧文化との比較の中で定義し理解しようと、傾注してきた努力にも匹敵するといえようか。

 朴女史は、異文化を批評する際の心得について言う。
 たとえば「日本人は残忍で怖い」というイメージの背後には、家族の死という韓国人なら誰もが慟哭するような場面で、日本人は悲しいという感情を率直に表現しない、という事情がある。
 「慟哭」は韓国人にとって死者への礼儀であり、また生者の人間関係の上でも必要な儀式である。悲しみをできる限り激しく表現することが、韓国では儀式としての美徳なのだ。
 一方、日本では、他人の面前で自分の感情をさらけ出すことは、恥ずかしいことと考えられてきた。涙を見せまいとするのはそのためである。
 つまり韓国人と日本人とは、他者に対する距離感覚が基本的に異なる。韓国人は距離を置かないことに慣れ親しみ、日本人はいくらか距離を置く気楽さを好む。
 どちらを普通と感じるかは、個人の資質と個人が属する共同体の慣習によって決まるのであり、優劣の問題ではないと考えることが大切だ。―――

▼朴裕河(パク・ユハ)の『反日ナショナリズムを超えて』は、彼女自身が韓国で「親日派」の烙印を押される危険を冒し、また日本の「歴史修正主義者」たちを喜ばす危険性を知りつつ、出版された。筆者がこの本を取り上げたのは、われわれの知らなかった韓国人の民族意識の高揚とその歪みについて教えてくれるからであり、記述や分析の質が高く、信用が置けるからである。
 人々の交流の増加に逆行して、韓国内で近年高まった「反日感情」の背後には、上に見たような日本に関する否定的な評言やイメージの蓄積があるのだろう。それは無知や「説明不足」から発生する単純な誤解ではなく、慣習の違いから生じる感情の行き違いでもなく、屈折した自尊心に根ざす複雑で厄介な思いなのだ。
 韓国人の屈折した自尊心の問題を考えるために、彼ら独特の思考のクセが顕れる「歴史」認識の問題を、つぎに取り上げたい。

▼韓国人は「歴史の見直し」や「歴史の清算」が好きらしい。たとえば盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下で「親日反民族行為真相糾明に関する特別法」や「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」などが作られた。
 「親日」とは、韓国では「植民地時代に日本政府に協力して民族を裏切った者」を指す言葉だが、前者の法は、日本の統治下の行政機関や軍隊で一定の地位にあったり、警官や憲兵として独立運動家を弾圧した韓国人などを、調査し認定するというものである。また後者の法は、反民族行為者と認定された者の子孫が所有する土地や財産を、没収することを可能にするものである。
 こうした植民地時代の「親日糾明」は韓国社会では、「政権の道徳性や理想を表すものとして、ある程度歓迎され」たという。(『日中韓ナショナリズムの同時代史』2006年 所収の玄武岩論文)

 
 日韓併合条約が締結されたのは1910年であり、「親日反民族行為真相糾明に関する特別法」が公布(2004年)された94年前のことである。韓国が日本から独立を回復したのは1945年であり、ここから数えてもすでに59年が経過している。「歴史の清算」と称してこの植民地時代の「裏切り者」を暴き出し、オトシマエを付けようという彼らのエネルギーには、心底驚かされる。しかしその驚きは別として、この隣国の動きには、どうしても理解できない点がいくつもある。
 なによりも日本統治下の36年という1世代にわたる時間の長さを、どう考えるのかという問題である。
日本の植民地支配に正面から抵抗した勇気ある人々もいただろうが、多くの韓国人は、息をひそめるようにして暮らしていたことだろう。能力のある者の中には、迷いを持ちながらも植民地権力の中に地位を得て、「近代化」を進める仕事に就いた者もいただろう。
 韓国が植民地に転落した歴史の経緯とその政治責任は、厳しく問われるべきことだが、そのことと後世の人間が植民地下に生きた人々を裁くこととは、別の事柄である。遅く生まれた者が遅く生まれたという特権により、苦しい時代を生きた人々を裁くことが許されると考えるべきなのだろうか。
 一過性の占領期間とは異なる36年間という時間の長さに対する感受性が、彼らの「歴史」の質を決定する。
 第2に、国家が「歴史」を定めることに対する彼らの疑いの無さが、筆者には理解できない。国家による「歴史」の認定は、個人が過去の事実を掘り起こし、「親日・反民族行為」を告発したり批判したりすることと、基本的に異なる。体制が替われば、また新たな国定の「歴史」が作られることを承認することになるわけだが、戦後の日本人の感覚からすると、愚かしく、また怖ろしいことのように思える。
 第3に、これらの行為を指して彼らは「過去の清算」、「歴史の見直し」と称しているわけだが、これが本当に「過去に結末をつける」ことになるのだろうか。
 韓国人は、なぜ韓国が植民地支配を受けることになったのかを省みるよりも、支配された歴史の痕跡を消し、忌まわしい記憶を忘れることに力を注ぐ、と朴女史は批判しているが、この問題はまたあとで取り上げよう。

6.
 最近、NHKテレビで「トンイ」という韓国の連続ドラマを観ている。再放送だということだが、賤民の身分から身を起こし、やがて朝鮮王朝の王の側室となった女性を主人公に、陰謀あり、権力闘争あり、活劇ありの歴史ドラマで、魅力的な悪役の設定が利いてなかなか楽しめる。
 そのドラマの中に、「ナミンが王宮を牛耳っている」とか、「今こそソインの力を結集しなければならない」といった台詞が、しばしば出てくる。「ナミン」とは「南人」、「ソイン」とは「西人」のことで、いずれも両班(ヤンバン)の派閥を指す。
 朝鮮王朝は朱子学イデオロギーを統治の基礎に置く一君万民の支配体制を敷いたが、体制を支える支配階級が両班である。
 「両班」は元は官僚を意味する言葉だが、官僚登用試験である科挙を受験可能な人々は裕福な地主階級に事実上限られ、それは婚姻を通じて再生産され、支配階級を指す言葉となった。人事権を握るポストをめぐって16世紀に東人と西人に分裂し、その後東人は南人と北人に分かれ、北人、西人もさらに分裂していく。派閥の名前に東人、西人、南人とあるのは、派閥のリーダーが都の東側に住んでいた、西側、南側に住んでいた、というところから来ているという。

 朝鮮の歴史を解説した本を開くと、次のような説明がある。
この派閥(朋党)は《政治的な党派というよりはむしろ、学派や地縁血縁といった両班の人間関係全体が構成要因となった。両班であれば通常どれかの朋党に属し、朋党は、師弟、同郷の同族、親子関係などによって継承され、朋党間の争い、つまり党争は長期化し、朝鮮社会に大きな影響を与えた。》(『朝鮮史』武田幸男編 2000年)
 一般の政治的対立なら、ある時期の政治的状況から発生し、その状況が終われば終息するものだが、朝鮮王朝の党争は子や孫の代にも引き継がれた。その原因としては、党争の当事者たちが「政治家」ではなく、朱子学のイデオロギーで武装した「儒教文化人」だったことが大きい、とされる。政治的な争いなら妥協できるような問題でも、学問的な装いを持った理屈で互いに武装すると、対立は抜き差しならないものとなる。(『物語 韓国人』田中明 平成13年 参照)

 現代の韓国人は彼らのこうした過去の政治史を、それほど否定的にはとらえていないように見える。両班は宮中のポストを争い、激しい党争を繰り返したわけだが、党争に敗れれば地方の地主かつ知識人として、帰る場所があった。その「儒教文化人」としての面を取りあげて理想化し、「在野にあって高い学識があり、原則を守り、礼儀正しく人格高潔な人々」(「ソンビ」と呼ぶらしい)の国こそ自分たちの国だ、と彼らは考える。
 「日本はサムライの『武』の文化の国であり、韓国はソンビの『文』の文化の国だ」とか、「日本人の生死を決めたのは大義ではなく上役や君主だったが、朝鮮人は君主のためでなく大義のために殉じた」というような発言は、彼らが両班の支配した朝鮮王朝時代の政治を、肯定的に受け止めていることを示している。
 しかし筆者は、この「儒教文化人」的イメージを通して「政治」を見るという彼らの伝統を、自分たちの弱点として自覚することが大事なのではないか、と思う。

▼韓国がなぜ日本の植民地に転落するという歴史をたどったのか、日本との比較の中で考えてみよう。

 韓国と日本の大きな違いは、その地政学的位置である。幕末の日本が開国を求める諸外国の要求に頭を悩ましても、海に囲まれた島国だったのに対し、韓国は大陸にあり、清国やロシアと地続きの国境で接していたという地政学的条件の違いは、たしかに大きい。 しかし両者の「政治体制」や「政治」というものの理解の仕方の違いは、さらに大きいと考えられる。
 江戸期の日本は「幕藩体制」という名の「地方自治制度」を採っており、これが幕末期に各藩が時代に適応するべく競い合い、各地で武士階級の力を解放することを可能にした。そして西郷隆盛が主導する反幕府の武闘路線が穏健派の公武合体論を抑え、幕府軍をきわどく打ち破ることで、新しい政治体制、すなわち明治政府を創りだすことに成功した。
 イデオロギー的には「天皇」という古いシンボルを再生させ、利用できたことは大きいが、強い対外的な危機意識の下、倒幕・佐幕のいずれの側も政治的リアリズムを共有していた。「尊王攘夷」のスローガンを掲げてスタートした運動は、国民の力を古い身分制度から解放し、新しい国民国家を形成したときには、「尊王」だが「文明開化」を謳歌する体制に変身していた。しかしそのことを、原理的に否定する者はいなかった。

 一方、朝鮮王国は儒教を国教とし、前近代的な中央集権体制を採っていた。19世紀後半の多難な時期、朝廷では国王の実父である大院君と妻である閔妃の一族が権力を争い、これに国内の改革をめぐる対立や攘夷派(衛正斥邪派)と開国派の対立が絡んだ。危機意識を持つ者にとって、ダイナミックな体制転換を政治的に行える可能性はなく、「近代化」はただ宮廷革命として進めるしかなかった。国民の力を古い桎梏から解放し一つにまとめあげること、つまり国民国家をつくりあげることは、きわめて困難だった。
 衛正斥邪派の指導者は、《聖賢の「道」を守ることこそ「国」の存亡を超えた絶対的な行為であるとして、儒教文明の絶対的護持を峻烈に説いた》 (『近代朝鮮と日本』趙景達 2012年)というが、そういう考えの持ち主が支配層となり宮廷政治にたずさわっていたのが、朝鮮の「政治」だったわけである。いがに「高い学識があり」、「人格高潔」であろうと、「国」を滅ぼしても「道」に殉ずることが正しいと言うような人間は、政治にたずさわってもらっては困ると考えるのが、近代国家の常識である。
 政治のリアリズムを欠く伝統が支配するなかで、王権内部の政争を続け、農民の反乱を抑えるだけの力を持たず、外国(清、日、露)の介入を招いたのが、朝鮮の近代史だった。

7.
 話が長くなったので、議論を整理しつつ、そろそろ終わりにしたい。

 前回、幕末・明治期の日本人は、危機の中で国民の力をまとめ近代国民国家を創り出すという、広い意味での政治的能力を持っていたと述べた。他方、同時期の韓国人は、同様の危機の中にあって宮廷内の対立を解決できず、近代国家の創出に失敗したが、これには韓国の置かれた困難な環境の問題だけでなく、政治にたずさわった人々の能力や考え方が大きく関係したはずだ、という種類のことを述べた。
 幕末・明治期の日本の政治指導者たちは、西欧諸国と日本の国力の差を冷静に認識し、若者を留学に送り出し、優れた技術や制度を精力的に導入した。慎重で柔軟な政治的リアリズムが、対外政策を統御していた。
 他方、韓国の場合、最初の欧米留学生を送り出したのが1883年(明治16年)ということからも判るとおり、欧米の進んだ技術や制度を導入することに消極的であり、自分たちの置かれた条件を直視せず、頭の中の論の正しさを振りかざす人々が、長く支配した。

 こうした韓国人の歴史の負の遺伝子は、現代まで確実に受け継がれてきたようである。
 彼らが現在、日本の「歴史認識」を問題にしたり、「親日反民族行為真相糾明に関する特別法」を制定して「歴史を正す」ことに夢中になる背景には、彼ら独特の思考癖があるように見えるのだが、要約するとそれは次の3点になる。

1.正しい歴史は、ただ一つである
2.正しくない歴史認識は糺されるべきであり、歴史を正すことは道徳的にも正しい
3.正しい歴史認識を持つことが「政治」には欠かせない

 だから正しくない歴史認識を持ち、それを広める著述活動をしているような人間(呉善花女史)を入国させないのは当然であるし、大統領が「日本は正しい歴史認識を持つべきだ」と言って、政府同士の「話し合い」を頭から拒むことさえ、当然ということになる。
 しかしそのような自分たちの思考ヘキを自覚し、自国の近代史を冷静に対象化し、その「弱さ」を知ることこそが、負の歴史を克服すること、つまり彼らの好きな言葉で言えば「歴史を清算する」ことになるのである。屈折した自尊心や被害者意識をいつまでも引きずることは、けっして「歴史を清算する」ゆえんではない。

▼「歴史」について触れた田中明という人の言葉を、記しておきたい。田中は1926年生まれ、小中学校時代をソウルで過ごし、戦後、朝日新聞の記者になった。1965年の日韓基本関係条約締結のときソウルに派遣され、以後、本格的に韓国語を学び、朝鮮文学を専攻する。1979年に新聞社を退社し、拓殖大学教授を勤めた。

 《人はよく「歴史は繰り返す」というが、そんなことはない。一人の人間にとって歴史は一回こっきりのものである。戦争で最愛の人を失った人間の嘆き悲しみは、それが取り返しのつかぬ事実であるがゆえに深いのである。そこには敗者復活戦などありえない。歴戦の勇士が寡黙であるのは、命をかけてきた彼の経験が、彼以外には伝達不可能のものであり、手柄話などでは覆うことができないからである。(中略)
 私は1965年、記者として解放後の韓国を初めて訪れたとき、悠揚迫らざる態度で親切に取材に応じてくれた人が、あとで大の反日家であると知らされ、驚いたことが一再ならずあった。
 あとで気づくのだが、あの時の大人たちには、いま反日を語ることは、いまなお自分たちが日本の影響下にあることを認めるようなものだから拒否する、といった凛然たる気概があった。それは日本にやられたという、一回こっきりの取り返しのつかぬ歴史に対する痛切な思いがあったからであろう。あのとき、あの人たちがもし日本糾弾の言葉を投げかけてきたならば、私は無条件で頭を垂れたであろう。しかし、あの人たちは、そんなことをしなかった。そこには誇り―――倫理の高みが感得された。敗北の歴史を日本攻撃の道具に得々とあげつらう饒舌家にはないものである。》(『遠ざかる韓国――冬扇房独語――』  田中明 2010年)

 「悠揚迫らざる態度」で田中記者を親切に遇してくれた「大の反日家」の大人たち――それが韓国人が自分たちの自画像として思い浮かべる現代の「ソンビ」なのだろう。政治にたずさわる人間類型としては難があるとしても、韓国人が理想的自画像としてとらえ誇ることは、十分理解できる。
 現在の「饒舌」な韓国人たちは、上の田中明の言葉をどう聞くのだろうか。

▼最後に、日本人と韓国人はこれからどう付き合っていくのかという問題について、『朝日vs産経 ソウル発』(黒田勝弘 市川速水 2006年)という新聞記者の対談本を参考に、考えてみよう。
 朝日新聞ソウル支局長の市川速水は、次のような発言をしている。
 「………実際、理屈が通じないと思うことが多いですよ。民主化して、経済的にも精神的にも余裕が生まれたのに、対日観だけは昔と変わらない。変わって欲しい、日本のこともわかって欲しい、日本はどれだけ多元的意見が共存しうる社会で、政治家がたまに妙なことを言っても世論全体がそうなのではない。自浄能力を持っている社会だと僕は信じたい。でも韓国の人はそうは見ない。………とくに韓国のマスコミはすごい。それがマスコミの存在価値だと言わんばかりに騒ぎ立てる。だから韓国政府も反応せざるを得なくなる。韓国マスコミと韓国政府が一緒になって相乗効果を生んでいる。」

 産経新聞ソウル支局長の黒田勝弘は、「日韓の人々の交流も増え、現代の日本のイメージ、日本の情報も広く流入している。その結果、相対的に過去の日本のイメージから来る日本否定の感情は後退した」と言いつつ、次のように言葉を続ける。
 「ところが、それとは対照的にメディアや外交、政治指導者のモノの考え方では依然として反日ナショナリズムは『元気の素』になっていて、反日をやると国民と一体になれると思い込んでいる。従ってことあるごとに、対日ナショナリズムを出そうとする。」
 「彼らは日本に何かモノ申す、批判、糾弾することで何らかの利益が得られると思っているんですね。それは必ずしも金儲けということではなく、国家、民族としての日本に対する優越感であるとか、日本を道徳的に低い存在と見ることによる満足感、快感といったこともそうですね。彼らは日本を批判することで元気が出るんですよ。」
 
 二人の記者が、韓国のマスメディアや政治指導者の態度を情けなく思い、ウンザリしている様子が読み取れる。
 過去の支配・被支配という「歴史」に寄りかかってモノを言いたがる韓国人の態度は、それに照応する日本人の贖罪意識と謝罪の言葉という「受け皿」を期待できるかぎり、終りそうもない。「善意」の日本人の安易な態度は、結果として韓国人をスポイルし、日韓関係を不健康な状態にとどめてきたと言えるようだ。
 これを健康的で生産的な関係にあらためるためには、「歴史」を十分わきまえた上で、お互いに「普通の国」「普通の隣人」として付きあうように、意識的に努力することが必要だろう。隣国の隣人が、自分たちの「歴史認識」は「普遍的」で「道徳的」だと頭から思い込んでいるとするなら、それは特殊韓国的発想にすぎないと率直に教えるのが、親切というものだと思う。

(終)

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