『職業としての政治』あるいは天声人語子の判断力と品位について
           
 【ブログ掲載:2013年5月26日〜6月9日】



1.

▼朝日新聞のコラム「天声人語」(2013年5月19日)が、次のようなことを書いていた。
 直接的には日本維新の会の橋下徹の「従軍慰安婦」に関する発言を批判したものだが、安倍首相の言葉や閣僚の靖国参拝なども含め、「多くのことが積み重なって、日本の政治家の歴史観、人権観が疑われている」と。それに続く部分は、以下のようになっている。

《▼政治家の資質ということを考えざるをえない。マックス・ウェーバーの『職業としての政治』によれば、政治家にとって決め手となるのは判断力である。対象を冷静に距離を置いて見るべし。「距離を失ってしまうこと」は政治家の大罪だ。一連の発言はまさにその過ちを犯している。▼ウェーバーは戦争を道義的な意味で終わらせる筋道にも触れている。「品位のない憎悪と憤激」が繰り返されるうちは、戦争は「埋葬」できない。それは「品位によってのみ」可能になるのだ、と。▼判断力も持たなければ品位も欠く。そんな政治家に日本の将来は託せない。危なくて仕方がない。》

 天声人語子はマックス・ウェーバーの有名な著作から「判断力」と「品位」という言葉を取り出し、それを使って橋下徹の発言や安倍首相等の「歴史認識」を切れ味鋭く批判してみせた。だがウェーバーは、ほんとうに天声人語子を喜ばすようなことを述べていただろうか。
 筆者がむかし読んだ記憶では、逆に天声人語子が青ざめるような主張だったはずだが、と思い、脇圭平訳の『職業としての政治』(岩波文庫)を取り出してみた。

▼ウェーバーは1919年1月に、第一次大戦の敗戦国ドイツの騒然とした雰囲気の中で、この講演を行った。
 ウェーバーの文章は補足と言い換えが多く、その該博な知識の赴くまま話題が宗教や歴史の細部に入り込むことが多いため、話の筋を見通すのが容易でないが、一応三つの部分に分かれる。
 第一に、国家とは、政治とは、支配の正当性とは何か、といった基礎的概念について取り扱った序論の部分。
 「国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」、「政治とは、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」という、政治の基礎的概念についてのウェーバーの定義が示される。
 次に、歴史上現れた「職業政治家」の例として、僧侶、宮廷貴族、官吏など、さまざまな形と機能について具体的に述べた部分。(この部分は退屈である。語っているウェーバー以外、聴衆はみな我慢を強いられたことだろう。)
 最後が結論部分だが、まず政治家に必要な資質を問題にし、「現実」に献身する「情熱」とそれを成し遂げる「責任感」、そして「判断力」を挙げる。

 《ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまりザッヘ(事柄、仕事、問題、対象、現実)への情熱的献身》のことであり、《今は亡き私の友ゲオルグ・ジンメルが「不毛な興奮」とつねづね呼んでいた、例の精神態度のことではない。》
 《情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。》
 《燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題である。》

 ここまではごく常識的な議論であり、というよりも、多くの機会に引用、言及されるためにすでに人々の常識となっている議論であり、天声人語子の引用した「判断力」も「距離を置いて見ること」も、別に問題はない。

2.
▼それでは「品位」について、ウェーバーはどう語っているのか。天声人語子によれば、「戦争を道義的な意味で終わらせる」ものは「品位」であり、「品位」によってのみ戦争は「埋葬」されうると、ウェーバーは語ったという。先の戦争を埋葬する「品位」とは、日本の政治家たちが「戦争責任」を認め、「侵略」を反省し、「正しい歴史認識」を持つことだと天声人語子は言いたげなのだが、それは正しいウェーバー理解なのだろうか?

 「戦争」の終結したあと、ひとはどういう態度を取るべきかについて、ウェーバーは次のように言う。 
 勝利した国が、「自分の方が正しかったから勝った」と主張するのは、「品位を欠いた独善」である。戦争のすさまじさに精神的に参った人間が、「自分は道義的に悪い目的のために戦うことはできなかった」と自己弁護するのも同様だ。
 戦争に敗れたとしても「男らしく峻厳な態度をとる者」なら、《戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任―――これが肝心な点―――にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。これ以外の言い方は全て品位を欠き、禍根を残す。》

 19世紀後半の西欧世界に生きたウェーバーと、その百年後の世界に生きるわれわれの違いのひとつは、「戦争」についての受け止め方だろう。
 「戦争」は国際連盟の設立(1920年)や不戦条約(1928年)の締結により、国家の政策手段として行うことが禁止され、「違法化」された。しかしそれ以前は、戦争を「決闘」のようにとらえ、交戦国のいずれか一方を正または不正ということはできないとする見方が支配的であった。
 戦争は、平時の政治では処理不能な問題を片づける政治の延長にすぎず、戦争終結によりまた平時の政治に戻ることが期待された。
 古典的な「戦争観」は、第一次大戦の甚大な被害と悲惨の経験と、それをはるかに上回る第二次大戦の経験を経て大きく修正されたのだが、ウェーバーの上の発言が古典的な「戦争観」に拠っていることは明らかだろう。彼のいう「品位」も、彼の「戦争観」を前提に理解しなければならない。


▼ウェーバーの発言をさらに引用する。
 《戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪や憤激が再燃して来る。戦争の道義的埋葬は現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神(リッターリッヒカイト)、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは、実に双方における品位の欠如を意味する。》
 《政治家にとって大切なのは将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに。解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。》

 敗戦後のドイツの言論状況にあっては、「品位」は「倫理」の反対のものとしてあり、「倫理」は「品位の欠如」を意味するというウェーバーの発言を、天声人語子は読み飛ばしたのだろうか。
 戦争は終わったのであり、そのあるがままの現実を現実として受け入れ、これからの世界に責任を持つ「男らしく峻厳な態度」こそ、望ましい品位ある態度であり、感傷や感情に流され、「心情倫理」に淫する態度は、「品位の欠如」だとウェーバーは考える。
 太平洋戦争終結の「数十年後」に韓国人慰安婦を発掘し、「品位のない悲鳴や憎悪や憤激」を再燃させ、「過去の責任問題の追及に明け暮れる」ことが、ウェーバーにとっていかなる評価となるか、あらためて言及するまでもない。


▼もちろんウェーバーのいう「品位」よりも、「倫理」の方を自分は大事にしたいと考える人間がいても、おかしくない。戦争の惨禍の大きさに直面し、ふたたび戦争を起こさないために原因と責任を究明しようと考える人びとは、それを不要といわんばかりのウェーバーの態度に、強い疑念と反発を感じることだろう。
 また「従軍慰安婦」を発掘し、積極的に問題にしてきたフェミニストたちから見れば、「男らしく峻厳な態度」や「騎士道精神」を称揚するウェーバーのマッチョ感覚は、唾棄すべきものだろう。それはそれでよい。
 しかしウェーバーの言葉だという触れ込みで、ウェーバーの主張とは反対のことを述べるのは、やめるべきだ。ウェーバーを、常識的な甘いヒューマニストとして取り扱い「埋葬」してしまうのは、いかにももったいない。
 「政治」が「道徳問題」や「歴史認識問題」という奇怪な形をとりがちな現在、「政治」を「政治」として行うべきことを強調したウェーバーの主張の意義は、あらためて見直される必要がある。

3.
▼一国の外交が他国との利害の調整という軌道から外れ、他国の「道徳的非難」や「歴史認識」を主題にすることは、けっして健全な姿ではない。その外交の変質が、大衆の妄執や盲信とそれに迎合する政治家の打算によって主導され、「品位のない悲鳴や憤激」が猛威を振るうとき、ダメージは相手国のみならず自国をも直撃することだろう。
 筆者は近年の韓国の対日外交を念頭において書いているのだが、日本の政治にもこれと同質といってよい困った動きがある。たとえば安倍総理が唱える「戦後レジームからの脱却」というスローガンである。
 「戦後レジーム(体制)」の意味内容は明確でなく、よく分からないのだが、戦後の社会民主化の諸政策や「農地解放」、「財閥解体」といった経済社会の巨大な変革を、問題にしているわけではないようだ。それらの戦後社会を実質的に形成した制度とは別に、どこに「戦後レジーム」があるのだ、とヤジを飛ばしたくもなるが、ヤジはしばらく控えよう。
 安倍晋三は要するに、ここ20年ほど日本の論壇の一部を賑わしてきたいわゆる「東京裁判史観批判」の主張に共感し、その思いを「戦後レジームからの脱却」というスローガンに込めたのだろう。戦後の日本人の精神生活を、占領軍の検閲と洗脳の影響下にあったとして否定的にとらえ、日本国憲法を否認し、日本の伝統文化を再興することで「日本をとりもどす」と安倍は主張する。
 しかし日本の「現在」は、論者の好き嫌いに関わらず、戦後68年の時間の堆積の上にある。日本の「現在」に危機感を抱く場合にも、「保守」の政治家なら「戦後レジームからの脱却」などという空疎な物言いを避け、環境の変化と国民意識の変化を見ながら、注意深く政策転換を進めていくことだろう。
 憲法改正が日本の「現在」に必要なら、具体的にその問題点と改正の利害得失を論ずればよいのであり、「東京裁判」や憲法制定過程の米国の意図に遡って不当性を訴える必要はない。
 日本は旧戦勝国とサンフランシスコ講和条約を締結することで、戦後の独立を果たした。「東京裁判」すなわち「極東国際軍事裁判所」の裁判を受諾することも、講和条約に規定されており(第11条)、かりに政権が「東京裁判」の問題を取り上げるとすれば、問題は国内向けの自己満足で済まなくなる。
 つまり安倍晋三は、みずから好んで「歴史認識」問題を政治の世界に引き込んだように見えるのだが、それは韓国で盛り上がっている「歴史認識」問題同様、生産的な政治のために有害なものだ。

▼それにしても橋下徹の「慰安婦」発言や「米軍も風俗を利用したらよい」という発言は、何だったのだろうか。
 橋下徹大阪市長は5月13日の「囲み取材」で、「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、どこかで休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰だってわかる」と発言したと報じられた。
 その後、「橋下氏『慰安婦、必要だった』」と見出しが付けられたことについて、「僕が」ではなく「当時」が必要としたという趣旨なのに、それを省いて報道したのは誤報だと主張した。
 政党の代表者とはいえ地方都市の市長にすぎない橋下徹に、なぜ記者は「慰安婦」問題について質問するのだろうか。また橋下徹はなぜ、ぺらぺらと質問に答えて見せるのだろうか。
 記者やカメラの前で記者の質問に当意即妙に答える「囲み取材」(「ぶら下がり」)を、橋下は意見表明の場、支持を広げる場、政敵をやり込める場として積極的に活用してきた。橋下の率直でわかりやすい物言いは人気を集め、大阪地域での橋下人気の源泉のひとつとなっている。
 しかし「慰安婦問題」の過去の経緯と広がりを知るなら、安易な覚悟で手を付けるべき問題でないことは、容易にわかる。橋下は「問題」について多少の知識があったとしても、弁舌さわやかに喋りたいという欲望を徹底して抑えるべきだった。
 ウェーバーが『職業としての政治』で述べた次の言葉は、橋下徹によく当てはまる。

《だから政治家は、自分の内部に巣食うごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とは卑俗な虚栄心のことで、これこそいっさいの没主観的な献身と距離――この場合自分自身に対する距離――にとって不倶戴天の敵である。》

▼慰安婦問題について、筆者は以前このブログで考えを述べているので、ここで繰りかえすことはしない。(「韓国人との友好」2012年9〜11月)
 ただこの問題をややこしくしている日本と国外の認識の違い、とらえ方のズレについて、意識する必要があるように思う。

 日本での問題のとらえ方は、橋下の発言にもあるように、次のような柱からなっている。
 慰安婦制度は当時の戦地で必要とされていたし、公娼制度の存在した当時の日本の社会も、その必要性を認めていた。しかしそれは現在の社会通念に照らせば否定されるべき、女性の尊厳を傷つける制度であり、慰安婦も自ら応募した者以外に、家族に売られ業者に騙され、自分の意志に反して働かされた者がいたことも事実だろう。だから日本は総理大臣が「談話」を発表して反省とお詫びを表明し(1994年8月「村山談話」)、「アジア女性基金」を集め、元慰安婦たちに村山談話とともに届けようと努力した。
 ただ、若い女性を国家権力が拉致し強制的に慰安婦にしたとすれば、それは戦時といえども立派な犯罪であり、許されざることだ。しかし幸いなことに、そのような日本国家による「強制連行」はなかった。(「あった」ことを示す「証拠」は、元慰安婦本人の申し立てを除けば無く、申し立ての内容は信頼性に欠ける。)
 だから日本での議論は、「強制連行」の有無の問題に集中することになる。

 ところが国外での問題のとらえ方は、慰安所を軍の管轄下に設置したこと自体を国家の犯罪と見なすもので、慰安所で女性たちが「性奴隷」として管理されていた事実に関心を集中する。それが実定法上の犯罪に該当したかどうかはともかく、現在の人権意識に照らし不当であることを強調する。国際社会は、自分がいかに立派な原則(たてまえ)の上に立つか、を競い合う場所だからだ。
 許されざる「犯罪」の線引きの仕方が異なるのだから、橋下の雄弁もこの厄介な問題では失点を重ねる結果に終わったのは当然といえる。


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