ダーティ・ハリー
                     【ブログ掲載:2016年4月26日】

 

▼最近NHKのBS放送で、毎週1作ずつ「ダーティ・ハリー」のシリーズを放映し始めたので、毎回録画して見ている。先々週は第1作で1971年の制作、ハリー・キャラハンというサンフランシスコ市警の刑事を主人公にしたアクション映画である。
  先週は第2作で1973年の制作、今週の第3作は1976年の制作で、後続作品がつぎつぎと作られたということは、米国で人気を博した証拠であろう。主人公・ハリー役のクリント・イーストウッドは、このシリーズを跳躍台にして超一流の映画スターの座を獲得した。 

 第作は「スコーピオ」と名乗る殺人犯が連続殺人を予告し、それをネタに市長に20万ドルを要求する話である。予告通り少女を誘拐した殺人犯に対し、ハリーはその棲家を突きとめ、逮捕に向かう。銃撃戦の末、脚を撃たれて倒れた若い男を逮捕しようとすると、男は医者を呼べ、弁護士を呼べ、自分にはその権利があると泣き叫ぶ。ハリーは男の脚の傷を踏みつけて、少女はどこだと問う。

 少女は死体で発見され、ハリーは検事局に呼び出される。検事はハリーに言う。
 「………殺人未遂にならず君は運が良かった。容疑者の寝床に押し入り暴行を加えるとは……。医者も弁護士も呼ばせなかった……人権を考えなかったのか?」
 あんな男にですか?と驚くハリーに、検事は「彼は退院しだい釈放だ」と言う。
 「釈放?」
 「起訴はできん。容疑者の家の捜査は違法、それで得た証拠品は裁判で認められない。捜査令状がいる。」
 「少女を救うためだった」
 「少女の生命への配慮は法廷も認めるだろう。だが警官による暴行は言語道断だ。今回の少女殺しは、自白も物的証拠もすべて無効になる。容疑者の権利が侵害されたのだ。」
 「あの少女の権利は、誰が代弁するのですか?」
 「検事の私だ。君ではない。」 

 釈放されたスコーピオは、その後しばらくしてスクールバスを乗っ取り、子供7人の命と引き換えに金とジェット機を用意するように、また市長に要求する。市長はその要求を呑むが、ハリーは単独でスクールバスを待ち伏せ、殺人犯の男を射殺する。映画は、ハリーが星形の刑事バッジを川に投げ捨てるところで終る。

 

▼第2作では、何度も起訴されながら巧みに有罪を逃れ、社会的非難を浴びているギャングのボスや労働組合の幹部などが相次いで殺される事件が、サンフランシスコ市警の管内で発生する。
  ハリーはそれが交通課の若い警官たちによるものではないかと疑う。彼らは正義感に燃え、射撃の腕を磨き、法の裁きを免れている悪人たちに天誅を加えているのではないか。
 殺人課の上司に自分の推理を説明した後、ハリーは駐車場で白バイに乗った若い警官3人に囲まれる。

 「今週は10人以上殺したな。来週は?」とハリー。
 「また10人」
 「英雄のつもりか?」
 「本来なら投獄されるはずの人殺しを駆除しているだけです。暴力の是非を論じる段階は過ぎました。ほかに方法はないんです。あなたならわかるはずだ。味方になるか、敵になるか……」
 「見込み違いをしているぜ……」

 若い警官たちは黙って去るが、ハリーは自宅の郵便箱に爆弾を仕掛けられ、あやうく殺されかかる。若い警官たちを操っていたのはハリーの上司だった。
 上司はハリーに、拳銃を突き付けながら言う。
 「町の安全を守るために自警団をつくり、悪には悪をもって報いているだけだ」
 「結構なことだが、殺人は行き過ぎだ。警官が処刑を始めたらエスカレートする ばかりだ。信号無視で処刑するとか、犬のションベンを理由に隣人を処刑すると か。」
 「ハリー、お前は優秀な警官だが、今の法制度にしがみついている。」
 「今の法制度を憎んでいるさ。だが変わる日が来るまでは支持する。」

 ハリーは隙を見て拳銃を奪い取り、追ってきた若い警官たちを倒し、彼らを壊滅させる。 

 第3作は、「人民革命軍」を名乗るベトナム帰りの男たちが武器、爆薬を入手し、市長を拉致し、身代金を要求する話である。ハリーはペアを組まされた女性刑事とともに男たちのアジトを急襲し、市長を救出するが、女性刑事は撃たれて死ぬ。怒りに燃えたハリーは、主犯の男の逃げ込んだ小屋に対戦車ロケット砲を放ち、小屋ごと吹き飛ばす。

 

▼第1作も第2作も米国社会の苛立ちを反映していると、筆者は40年前に思った。

 人権を守るためには司法審査が公正に行われることが重要だが、それだけでなく、権力機関に公正な手続き(due process of law)を順守させることが有効だとされる。しかしそうして定められた複雑な手続き過程は、優秀な法律専門家を金にもの言わせて雇える者や悪知恵に長けた者に有利に働き、当初に目指された公正さからは程遠い結果が生まれる。
 警察組織のなかでは、実際の事件の解決能力よりも、法的手続きやマスコミから批判を受けないことにまず頭を巡らす者が、出世するようになる。―――

 そういう社会の状況への苛立ちが人びとに鬱積していたからこそ、「ダーティ・ハリー」は大ヒットしたのだ、と思った。ベトナム戦争を背景にして、銃犯罪の増加など米国社会の荒廃が進んでいる、というのが当時の筆者の理解だった。
 その理解は必ずしも誤りではないが、米国社会の荒廃の原因はより多く「過剰な競争社会」に求めるべきなのだろうと、その後思うようになった。
 「競争」はたしかに輝かしい成功者を生み、その成功が社会に還元されることで、人びとはその恩恵を受けるだろう。だが社会の経済的格差が一定の臨界点を越え、無力感が人びとを支配するなら、社会は荒廃せざるをえない。
  しかし「競争」やその基礎にある「自由」の観念は、米国の社会形成の原理そのものであり、もしすべての人がその「過剰」を痛感していたとしても、米国社会が米国社会であるかぎり、止めることは不可能なことがらではないのか。

 

▼米国はいま大統領選挙の予備選挙の真っ最中である。共和党では泡沫候補と見られていたドナルド・トランプが首位を走り、民主党では本命ヒラリー・クリントンが優勢であるものの、民主社会主義者を名乗るバーニー・サンダースに追い上げられている。
 共和党をトランプに乗っ取られようとしている「共和党主流派」は、何とかトランプの大統領候補指名を阻止するために、対立候補の支援に躍起になっている。
 この予備選挙を通じてうかがえるのは、人びとの既成政治家への不信感の強さであり、米国エスタブリッシュメントへの反発であり、経済的格差是正への欲求であり、そしてそれとは180度向きを逆にする小さな政府への信仰だと、多くの人が指摘する。
  国際政治への関心と理解は縮小し、誰が大統領の座についても社会の対立解消のために、内政により多くの力を割かなければならない。このことは国際政治を今後、より不安定なものにするだろう。 

大統領選挙が映し出す米国社会は、「ダーティ・ハリー」が撮られた当時に比べ、苛立ちや鬱憤がいっそう深まり、分裂はいっそう進行しているように見える。



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