江藤淳  (「アメリカと私」を改題

     【ブログ掲載:2016年11月18日~12月30日】


 

▼このブログで少し前に、『アメリカは見つかりましたか――戦後篇』(阿川尚之 2001年 都市出版)という本を取り上げた。アメリカで仕事をしたり留学したりした戦後の日本人16人について、それぞれのアメリカとの関わり方を阿川が紹介しながら批評した読み物である。
 16人の中にはアメリカと幸福な関係を持った者もいれば、アメリカになじめず批判的な意識を持続させた者もいる。このブログでは前者の例として、ソニーの盛田昭夫と児童文学者の石井桃子を紹介し、後者の例として都留重人、小田実、西部邁のケースを検討し、さらにアメリカに対して何ら身構えることもなく気負いもない「新世代」の村上春樹を取り上げた。
 しかし取り上げるべくして取り上げていない特異なケースが、まだ残っている。江藤淳の場合である。
 なぜ特異なのか。江藤はアメリカと十分に望ましい関係をつくりながら、その後なぜか強烈な「反米」論者に転じたように見えるからである。

▼江藤淳は1962年8月から1964年6月まで2年間、妻と二人、アメリカ東部のプリンストンという大学町で暮らした。昭和7年(1932年)生まれの江藤は、日本では「三田文学」に発表した評論「夏目漱石論」(1955年)以降の文芸批評により、文壇的地位を確立していたが、アメリカでは無名の一青年に過ぎなかった。
  彼の1年目のプリンストン大学での地位は、「ロックフェラー財団研究員」という身分であり、「何でもしたいことをしてよい」ことになっていた。しかし江藤は、これは「お前にもし能力があるなら何かしてみるがいい、なければ昼寝をしていても文句はいわない」という意味であり、「心理的に負担の大きな要求」だと受け止めていた。
  江藤が財団に提出した書類では「18世紀英文学研究」をテーマに掲げていたが、彼はアメリカで英文学の研究をやるというような「つまらない悪趣味」はすぐに放棄する。ウイリアム・フォークナーを研究することも考えるが、アメリカの「ディープ・サウス」に根を下ろしているフォークナーの作品に近づくのに、プリンストンは理想的な場所とは思えなかった。F・スコット・フィッツジェラルドは手ごろな研究テーマのように見えたが、日本の文化の中で育った自分がフィッツジェラルドを内側から理解できるかどうか、確かではなかった。 

江藤淳は2年間の体験を日本に帰国後、「アメリカと私」という文章にして発表するが、プリンストンに着いてからの12カ月、自分は「社会的な死を体験」していたと表現している。あちこちで催される新来者歓迎のパーティーで、あなたはいま何をやっているの?と聞かれるたびに江藤は答えに窮し、自分が「死んで」いることを思い知らされた。
  単に研究テーマを決められないというだけではなく、「アメリカ」というものを捉えあぐね、自分の求めているものが何なのか、確かな自信を持てないでいたのである。
 自分が本当に「無意識のうちに捜し求めていたのは、結局自分の核――プリンストンに来て以来、無限に気化していくように思われた、自分自身の核だった」と、江藤はのちに振り返って「アメリカと私」の中で書いている。 

▼しかしやがて大小いくつかの事件が起こり、江藤は「死んでいる」状態から徐々に恢復しはじめる。
 一つは黒人学生メレディスの大学入学をめぐり、連邦政府とミシシッピ州が正面から対立した事件である。メレディスの州立大学入学拒否を違法とした連邦裁判所の判決に対し、ミシシッピ州知事はあくまでも無視する態度に出た。しかし大統領は法の威信を守るために連邦軍部隊を動員し、州知事を逮捕するよう国防長官に行政命令を出すに至り、州知事は屈服した。
 江藤は、人種問題を通してアメリカという国への理解を深めるとともに、その州が連邦から分離しようとする遠心力の根深さに目を見張り、それを押しとどめる連邦政府の強力な力の存在にも感銘を受ける。「米国で、力は正義だという思想が支配的だというのではない。しかし、この国で『正義』を行っているのは、ほかのなんであるよりも、力であった。」
 この「発見」に江藤は興奮を覚える。自分の米国に対する視線に「はじめて焦点ができた」ように感じた。
 また江藤は、メレディス事件と相前後して起こった「キューバ危機」で、アメリカが人種問題の混乱にもかかわらず急激に団結する姿を目撃する。二つの事件は、「それまで懸命に手さぐりしてもよくつかめなかった米国という国の輪郭と構造を、にわかに手に取るように浮かび上がらせて見せた」と江藤は思う。

  第三の「事件」は、プリンストン大学で開催された「日本・その将来と期待」という学会だった。「東京にいたときには思いもよらなかった角度から、日本という国の輪郭」が鮮やかに描き出され、江藤は「ひとつの力(power)である日本が、はじめて他者との明確な関係の中に置かれているのを見た」と考える。
 その学会の日の前日、江藤は、渡米前に出版された『小林秀雄』が新潮社文学賞を受賞したという電報を受け取った。この知らせは、「二つの国のあいだにいる自分が、ほかならぬ日本語の文化の樹液を受けて生きていることを、あるひそかな誇りとともに、思い知らせた。私のなかには、自分が何であり、今どこにいるのか、という感覚が、ようやく蘇りつつあった。」 

 アメリカという国が凹凸のある立体的な姿でリアルに見えてくると、日本という国のありようもあらためて浮き彫りになり、そして日本という国に属し、それ以外の存在の仕方はありえない自分の姿も明らかに見えはじめる。その体験は、江藤に取り、自分のアイデンティティの危機を通してつかみ取ったものだったから、いっそう鮮やかだったであろう。
 そうした時、江藤夫妻に住まいの世話をしてくれた明治維新の研究者・マリアス・ジャンセン教授が、「東アジア研究プログラム」でスピーチをするように江藤に声をかけた。江藤はまる1週間を費やして「小林秀雄に関する紹介的ノート」と題する英文の草稿をつくり、40分ほどの話をした。「下手な英語」にもかかわらず聴衆は敏感に反応し、スピーチは受け入れられたと江藤は感じた。 

▼長々と江藤淳がプリンストンで陥った精神的混乱と、そこからの恢復過程について紹介した。なぜなら「アメリカと私」の読みどころは、「アメリカ」という圧倒的存在が江藤淳という鋭敏な批評家の精神に及ぼした巨大な影の問題であり、この影と格闘しやがて勝利をおさめる批評家の思索と奮闘のドラマであるからだ。 

江藤淳がプリンストンでの1年目を終わろうとしたとき、1年間の研究休暇を取って日本へ行く助教授の代わりに、大学院と大学で日本文学の講座を担当しないかという声がかかった。江藤は単なる「お客」ではなく、助教授待遇の客員講師という正規の教員として、自分の腕で生活費を稼ぐことが可能になった。
 教師としての江藤の指導は、学生たちから高い評価を受け、学生クラブの名誉会員にも選ばれた。温かさの残る日本社会になじめないものを抱いて生きてきた江藤は、かえって「米国社会の過酷さの中に、自分の感情にしっくりするものを見出していた」。しかしそれでも江藤は、「日本」を忘れるわけにはいかない、自分は「日本」へ帰らねばならないと思った。
 ハーバードやエールやコロンビアなどの大学から来た講演依頼をこなしながら、大学院生の卒業試験に立ち会い、あわただしく帰国の準備を進めた。アパートを引き払い、江藤夫妻は最後の晩はマリアス・ジャンセン教授の家に泊まった。「アメリカと私」は、以下のような別れの朝の描写で終る。 

 ≪………バスの発車が迫っていた。マリアスは、私の手をしっかり握り、「また必ず帰ってきてくれたまえ」といった。私は黙ってうなずいた。何かいったら、感情を押さえられなくなりそうであった。それからマリアスは、家内を抱いて接吻した。バスが動き出すと、マリアスとマリアの父と子が、まるで日本人のように、いつまでもじっと立ちつくして、見送っていた。さようならマリアス、さようならマリア、さようならジーン、さようならプリンストン。≫ 

 いささか「おセンチ」ではあるが、アメリカという国で真剣勝負を挑み、堂々と勝利をおさめた若者の感傷と満足感をうかがうことができる。

 (つづく)

▼「アメリカと私」に描かれた江藤淳は、全力で「アメリカ」に挑戦し、「アメリカ」を理解し、また日本への理解を深めた。アメリカの大学人サークルで認められ、互いに認め合う幸福な関係を作り出すことにも成功した。難しい問題に全力で挑み成功したという体験は、若者にとって誇らしく、生涯にわたって続く幸福な記憶であるだろう。
  だから江藤の「アメリカ体験」のなかに、米国への感情的な反発や屈折した思いを見出すのは困難である。
 しかしにもかかわらず、1990年代の江藤は、日本で米国批判を行う急先鋒になっていたらしい。「らしい」というのは、筆者が90年代に日米双方で高まった「日本批判」や「嫌米」論議に当時関心が薄く、この辺りの記憶がないからである。
 阿川尚之の『アメリカが見つかりましたか』の記述から、当時の日本と江藤の「反米論調」の様子を見てみよう。

 「反米論」自体は、明治以来少しも新しいものではない、と阿川は言う。しかし戦後それは、主として左翼の主張だったのだが、冷戦の終結後、右からのアメリカ批判が強くなされるようになった。
 90年代は、それまで前途洋々に見えた日本経済が不況に落ち込んだこともあり、反米論調は「余裕を失ってヒステリックな調子さえ帯びて」いた。「そうした右からの米国批判を行う言論人のなかで、論調の激しさと、影響力の大きさと、その双方において際立つのは、評論家江藤淳」だった。
 たとえば、と阿川は「文藝春秋」(19981月号)に掲載された「日本第二の敗戦」という記事を取り上げる。これは江藤の談話を同誌の記者がまとめたものだが、阿川の紹介する内容は次のようなものだ。 

 ≪日本は敗戦後アメリカによる言論統制によって、独立国の民としての魂を奪われ、アメリカの呪縛からいまだに解放されていない。しかし日本はこの第一の敗戦に加え、今や第二の敗戦を経験しつつある。
 なぜならソ連の脅威が去ったにもかかわらず、日米同盟の再確認がなされ、日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)が策定された。また、橋本内閣の行革、規制緩和は国民が求めたものではなく、アメリカから押し付けられたものだ。日本は軍事面だけでなく、経済面でもアメリカの言いなりになり、その軍事的、経済的空間に取り込まれてしまった。こうして日本は再び連合国の占領を受けつつある。
  日本は第一の敗戦で焼け野原の廃墟となったが、第二の敗戦でもバブルがはじけ、株券は紙くずとなり、戦後の繁栄は幻だったことが分かった。この第二の敗戦から今度こそ主体的に立ち直らなければ、日本は敗戦だけで済まず、やがて亡国に至るであろう。≫

▼阿川は上の江藤の議論について、次のように言う。
 「かなり荒っぽい議論でちょっとついていきかねるが、アメリカに一方的にしてやられた、それが悔しくてたまらないという、すさまじい情念のようなものが伝わってくる。一体この希代の評論家が抱く反米感情は、何に由来するのだろうか。」
 筆者も阿川のとまどいと疑問に賛同する。かって二年間のアメリカ生活の最後に、こみ上げてくる惜別の感情を押さえつつ、「さようならプリンストン」と叫んだ若者の姿はここにはない。何が江藤をこのように変貌させ、苛立たせ、無理な議論をさせているのだろうか。 

阿川は江藤がのちに語った次のような挿話を紹介し、プリンストンの日本学者と江藤のあいだの「感情的対立」に原因を求めている。挿話とは、江藤が石川好との対談(『文藝春秋』19908月号)で語ったものだが、江藤の『アメリカと私』を読んだ彼らのあいだから、「生意気だ」、「なんであんな本を書いたのか」といった批判の声が上がり、直接言われたこともあったというのである。
 阿川は次のように書く。
 ≪そのことは、江藤がプリンストンという空間を愛していただけに、言いようのない後味の悪さを残しただろう。自分はアメリカで勝負して勝った。アメリカはその自分を認めた。懐が深いではないか。そう評価したのに、実は少しも受け入れられていなかった。それが分かった瞬間、江藤のアメリカを思う気持ちは一挙に醒めた。そもそもアメリカに批判的であった自分が、この国を肯定的に評価したのは油断であった。そのことが腹立たしい。アメリカよおごるな。アメリカに負けるものか。こうして江藤淳は再びアメリカとの戦いを始めた。そう解釈できるような気がする。≫

▼「アメリカと私」のなかに、ヴィリエルモ助教授という日本文学の研究者が登場する。日本語を流暢に操り、江藤に「私は大正14年生まれの大正っ子です」と初対面の挨拶をした男である。

彼は江藤に、どうして日本人は「外人」を仲間に入れてくれないのでしょう、と嘆いて言った。自分は浴衣を着たり下駄をはいたり、難しい敬語を勉強したりして、一生懸命に日本を愛した。けれども「外人」はいつまでたっても「外人」でしかない。………
  江藤は考える。日本は一民族一国家という均質な、まるでプライベート・クラブのような国である。そこにはヴィリエルモ氏のような「親日家」を不幸にする、「執拗な拒否の力」が隠されている。日本人が外国人に対して示す心遣いや親切、礼儀正しさや敬意にもかかわらず、「『外人』は日本では、いわば丁重に人種差別されていた」。
 それに対してアメリカの社会は、西洋文明の外側にいる自分のような者まで呑み込んでいく同化力を持っている。ここではいわば人種差別することによって、すべての人々を内部に受け入れている。………
 「ヴィリエルモ氏の不幸な誤解は、氏が、人は米国人になれるように日本人になれるという前提から出発したところにあった」と、江藤は思う。

「アメリカと私」の中で、江藤はヴィリエルモ氏を知的に軽く見ており、それを隠すそぶりも見せない。だからヴィリエルモ氏がそれを不快に思い、反感を抱いたとしても、不当とは言えないだろう。
  だがその点を別にすれば、「アメリカと私」は60年代初めのアメリカ社会で力いっぱい活動した若者の体験報告として、あるいは思索の記録として、知的刺激に富んだ優れた読み物である。「生意気だ」と批判する声が聞こえたとしても、著者は恥じることなくそれを一蹴することができたはずである。
  このことは大事な点だと思う。親しかったはずの人びとからの無理解な批判や非難は身にこたえるものだが、それでもそれが誤解であり、非が相手にあると信じられるならば救いはある。しかし自分の側に非があり、そのことを素直に認めることができないとき、往々にして反発は内向し、大義名分をかざした形の意趣返しが起きやすいからだ。
  江藤はプリンストンの一部の学者たちと感情のもつれを生じ、彼らの狭量に失望し、腹を立てた。しかし彼は、反発を内向させる必要もなく、また問題を「アメリカ」全体への反感として拡大する必要もなかったはずである。
  また仮に「アメリカ」全体への反感が江藤に生じたとしても、それが歴史や国際政治の見方に投影され、怨念に満ちた言葉で「第二の敗戦」が語られるというのは、われわれの理解をはるかに超えている。 

筆者は、江藤が「反米論者」に変貌した原因に関する阿川尚之の判断に、同意できない。プリンストンの一部の学者たちとの感情のもつれは、一つのエピソード以上のものではないのであり、江藤の変貌の原因は、彼の生い立ちと資質の中に求めなければならないように見える。

(つづく)

▼前回、「江藤の変貌の原因は、彼の生い立ちと資質の中に求めなければならない」と書いたところで終ったが、まず彼の2年間のアメリカ体験の意味と質を、確認するところから始めるのがものの順序であろう。

  江藤淳が「アメリカと私」に書くところによれば、彼はアメリカに来るまで、「無意識のうちに米国を避けていた」。彼は求めればその機会があったにもかかわらず、「米国人と交際しようとは思わなかった」し、「あまりアメリカ映画を見ず、アメリカ音楽を聞かず、英語放送を聞かなかった」。
  それは要するに「心理的自己防衛」であり、「自分のどこかしらによどんでいる米国に対する恐怖、あるいは屈辱感で米国人や米国文化をいろどり、それに自分で勝手に反発していた」のだと江藤は考える。だが米国人もアメリカ合衆国も、自分の個人的感情のいかんにかかわらず、そこに存在するのである。「私は、まずこの事実を受け入れなければならなかった」。
  この自己分析は冷静かつ的確だといえる。江藤は、自分の中に敗戦の屈辱感や敵国に対する恐怖感があり、それがアメリカ的なものに対する無意識の反発となっていたことを自覚し、「他人を自己の投影としてではなく、純粋の他人として理解すること」の大切さと難しさに考えをめぐらせた。 

また江藤は、プリンストンで「自由」を感じている自分を発見した。自分が外国人であるということを忘れず、表現が感情的なものになることを避ける礼節を忘れなければ、「米国に気がねする」必要は少しもなかった。「米国批判イコール反米と考える事大主義者は、さすがにここにはあまりいなかったし、明治以来の日本の外交政策を弁護しても、それを『戦後民主主義』に対する冒瀆と考える感情論者もいなかった」。
  江藤は、「米国の異質な社会のなかで、かえって自分が欲するままに日本人でいられる」と感じ、「東京の生活のなかでは意識の底に隠されていた自分をとり戻すにつれて、私は、逆に、米国の社会に、より深くうけいれられはじめた」と、体験を受け止めた。 

以上の江藤の記述は、かって自分が無意識のうちに避けてきた「アメリカ」に直面し、異文化の壁と「敗戦国民」という屈折した思いを乗り越えた体験の骨格を、的確に描き出している。

▼「アメリカと私」は、江藤がアメリカから帰国した年の9月から「朝日ジャーナル」誌上に連載したものだが、江藤はアメリカに滞在しているあいだも、折を見ては日本の新聞や雑誌にレポートを送っていた。それらの記事は「アメリカ通信」としてまとめられ、単行本『アメリカと私』(1965年)に収録された。
 アメリカから送った最後の「通信」は、江藤のアメリカ体験の思想的総括というべき「国家・個人・言葉」と題する文章である。 

 江藤は自分の2年間のアメリカ滞在の体験を、鴎外、漱石、荷風の外国体験と比較しながら考える。そして明治時代に比べ今日の日本で、「国家と個人のきずな」が「著しくゆるやかに」なっていることを思う。
 しかしそれは戦後の現象というわけではない。明治末期に『白樺』派の作家たちがあらわれて個人主義倫理を唱えて以来、知識人を国家に結びつけるきずなは、「一貫してゆるみにゆるんできた」。「一九三〇年代後半から敗戦までの『国家主義』とは、この現象に対する反動、ないしはいらだちではあっても、きずなの回復を意味しはしなかった」。
 だがそのように考えつつ江藤は、この「きずな」の衰弱、言い換えれば国家意識の衰退に困惑し、義憤を覚える。自分は国家意識の希薄化を、「近代化」と経済成長の、あるいは戦後の「平和主義」と「民主主義」のもたらした個人解放の表れとして、礼賛する気持ちにはとてもなれない、と思う。そして次のように言う。
 「いずれにせよ、二年間の米国生活を通じて、私は戦後の日本をきわめて異常な状態にある国とながめざるを得なかった。それは国家であることをためらっている国家であり、民族の特性を消去することに懸命になっている民族である。」

だが、にもかかわらず自分を日本に結びつけている「きずな」がある、と江藤は感じていた。それは「言葉」である。「私は、万葉以来明治・大正にいたる日本文学の総体が、私に向かって来るのをしばしば感じた」。
 大学院や学部の学生に英語で「日本文学史」を講義し、その準備のため短期間に多数の古典を集中して読んだ経験は、江藤に自分が日本語によって生き、生かされている事実を、鮮明に自覚させたことであろう。

▼上にあげた「通信」の文章には、それ以降の江藤の文筆活動を特徴づけるすべての要素が出そろっている。
 江藤はアメリカという手ごわい相手に真剣勝負を挑み、堂々と成果を上げたが、真剣勝負の同じ眼を日本に向けたとき、戦後日本の特殊な姿が明らかに見えた。アメリカという「特殊な世界」を理解しようと努力することで、日本という「より特殊な世界」への理解が進んだのである。
  その理解はまた江藤にとって、自分が日本で感じていた違和感を肯定し、より広い文脈に位置づけてくれるものだった。「普遍」的であることを標榜しつつ、実際はかなり特殊で人工的な戦後日本の思想空間に対し、江藤は自分の批判的立場をはっきりと見定めることができた。 

「アメリカと私」や「アメリカ通信」に見る江藤淳には、渡米前の心理のこわばりが消え、緊張感のなかにも伸びやかな自信や達成感がうかがえる。それは「アメリカ」との幸福な関係であり、やや過激に走りたがる性向は見えるにしても、無理な心理の力みは見られない。心理的な負い目を他者への攻撃性によって合理化するような、不健康な不自然さがないことに留意しておきたい。

 (つづく)

▼江藤淳には、幼年期の記憶から批評家・江藤淳が誕生するまでを描いた「戦後と私」(1966年)、「文学と私」(1966年)という自伝的エッセーがある。このエッセーに拠りながら、彼の生い立ちを見てみよう。 

 江藤は昭和7年に、新宿の大久保百人町で銀行員の家庭に生まれた。父方の祖父も母方の祖父も海軍の将官であり、このことは江藤の誇りであるとともに、自分を祖国に繋ぐ強い「きずな」として意識されることになった。
 江藤は生母を、5歳になる前に病気で失う。やがて父親は再婚するが、幼くして生母を失った喪失感は江藤の一生を支配した。
 ≪………今から思えば母の死は、私と世界をつなぐ環が全く失われたことを意味したのである。この母性の環は、元来子供を周囲の世界と肉感的に和解させる役割を持つものなので、それが失われたことは私と世界との和解をむずかしくした。世界は私の前でひとつの謎となり、安息のかわりに不安と焦立ちが、無言の理解のかわりに自分を周囲に理解させることの困難が、一度におしよせてきた。≫(「文学と私」)
 江藤は学校に上がる前から、ルビを頼りに自由に本を読むことができた。小学校の集団生活に耐えられなかった彼は、ランドセルを置いたまま家に逃げ帰り、納戸で冒険小説を読みふけった。そのうち生母から感染したと見られる結核性の病気により、小学校を休学する。学校を休む口実ができ、江藤はひそかに凱歌を挙げた。

  江藤は疎開先の鎌倉で終戦を迎えた。大久保百人町の家は5月の空襲で焼けていた。鎌倉で戦後3年ほど暮らしたのち、父親は家を売り、江藤少年を連れて北区十条の社宅に移り住んだ。そこは「場末」であり、江藤は「東京」に帰ってきたという感じがしなかった。「ひとつの階層から他の階層に転落するということは辛いこと」だと感じながら、彼は世界の文学書を読みあさっていた。
 江藤の結核は、何度かぶり返した。日比谷高校3年の時に1年休学し、慶應大学2年の時にも喀血し、死にかけた。しかし療養中に書いて友人の同人雑誌に乗せた「マンスフィールド覚書補遺」に、「三田文学」編集長の山川方夫(まさお)が注目し、山川の勧めで「夏目漱石論」を書いたことが人生の転機となった。 

▼江藤にとって「戦後」とは、病気と貧困と階層を転落したという屈辱感に満ちたものだった。かっての国家秩序が崩壊し、その国家秩序につながっていた自分たち家族が、猥雑な「戦後」の無秩序のなかに投げ出され、取り残されていく現実への反撥や無力感が少年の心を満たし、文学という虚構の世界だけがかろうじて彼を支えていた。
  失われた世界は二度と戻ってこないという悲しみの感覚は、自分の生母の喪失感とも重なり、世界を見る江藤の色調を決定した。
  次に引用する文章は、江藤がアメリカから帰国した翌年、ふと思い立って自分が幼年期を過ごし、戦災で焼失した大久保百人町の家の跡を見に出かけた時のものである。江藤は街の変貌に茫然となる。茫然としたのは昔日の一切が影も形もなくなっていたからである。 

≪そのかわりに眼の前にあらわれたのは温泉マークの連れ込み宿と、色付きの下着を窓に干した女給アパートがぎっしり立ち並んだ猥雑な風景であった。………私がショックをうけたのは土地柄が一変し、ある品格をそなえていた住宅地が猥雑な盛り場の延長に変わり果てていたからである。これが私にとっての「戦後」であった。………自分にとってもっとも大切なもののイメージが砕け散ったと思われる以上、「戦後」は喪失の時代としか思われなかった。
  そう思うことが私情であることを私は否定しない。お前の祖父がつくり守ったという明治日本が民衆を圧迫したという声がおこることを私は否定しない。お前の父親が舶来のネクタイをして馬に乗っていたとき、特高警察に拷問されていた人間がいることを私は否定しない。お前が戦後なにを失ったとしても、民衆は多くのものを得たと主張する者のあらわれることを私は否定しない。要するに、「ざまあみろ、いい気味だ。なにが国家だ」と叫ぶ声の少なくないことを私は少しも否定しない。
  しかしそのすべてをうけいれてもなお、私のなかにある深い癒しがたい悲しみがあり、それはどんな正義や正当化によってもぬぐえないということを私は否定できない。………
  戦後二十一年間、そういう私情によって生きてきたことを私は今は隠そうとは思わない。≫(「戦後と私」)

 抑制を取り払い「私情」を全開にした上の文章は、後年の江藤の活動を十分予感させる。

▼アメリカから帰国した江藤淳は、「文芸批評」の仕事を続けながら次第に文筆活動を歴史の分野に広げていく。
  祖父の事績を通じて早くから懐いていた「明治国家」への強い関心は、自分のルーツを母から祖母、祖父、曾祖父へと辿る文章『一族再会』として、1967年から雑誌に掲載された(単行本刊行は1973年)。また夏目漱石の生涯と事績を綿密に実証的にたどる『漱石とその時代 第一部・第二部』(1970年刊行)は、1966年に書き始められている。
 「明治国家」への関心は、やがて山本権兵衛を描いた歴史小説・『海は甦える』(1973年~1978年執筆)や、NHKテレビで放送されたドキュメンタリー・ドラマ『明治の群像――海に火輪を』(1976年)の原作・脚本を、執筆することともなった。
  江藤の戦前・戦中・戦後の日本現代史への関心は、「明治国家」への関心の当然の延長といえよう。あるいは日本現代史への強い問題意識の下に、まず「明治国家」の研究が行われ、その下地の上にいよいよ戦争と敗戦、占領期の日本の調査・研究に着手されたというべきかもしれない。江藤のこの分野での最初の成果は、『もう一つの戦後史』(1978年)として公刊された。

 『もう一つの戦後史』は、戦争末期の「和平工作」から占領期を経て「講和条約締結」にいたる時期の、政府の当事者の証言を江藤がインタビューで引き出した記録である。登場するのは鈴木貫太郎内閣の書記官長・迫水久常、GHQとの折衝を担当した「終連」の曾禰益、日本国憲法制定過程を知る法制局の林修三、講和条約締結に随員として参加した外務省の西村熊雄など13名で、月刊誌「現代」の19771月号から12月号まで連載された。
  その後江藤は「占領史」研究に没頭し、『忘れたことと忘れさせられたこと』(1979年)、『一九四六年憲法――その拘束』(1980年)、『閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』(1989年)のいわゆる三部作を発表するにいたる。それらは一言でいえば、「いかにしてアメリカは占領期に日本を骨抜きにしたか」を実証しようとするものなのだが、三部作に入る以前の江藤の姿を、『もう一つの戦後史』から見ておくことにする。

 (つづく)

 

▼『もう一つの戦後史』の最初のインタビューは、鈴木貫太郎内閣の書記官長・迫水久常へのものだが、江藤は開口一番、次のような趣旨の発言をしている。

これまで「戦後史」は、「民主化」の歴史として語られてきたが、自分はこういう見方に疑問を感じている。明治の歴史を調べているうちに、明治時代とは江戸期の世界像の崩壊の歴史にほかならないことを理解したが、同様に、「戦後」とは明治憲法下の世界像の崩壊の歴史と、とらえる見方もありうるのではないか。―――

 この発言に、二つのことがらを読み取ることができるように思う。一つは、「戦後史」を「獲得」の歴史としてではなく、旧世界の崩壊・喪失の歴史、つまり「敗戦史」としてとらえたい、という江藤の強い思いである。それは前回紹介した「戦後と私」というエッセーにも吐露されていた思いであり、江藤のなかで変わることなく持続していたことが分かる。
  もう一つは、その後彼がしきりに主張するようになる、「戦後史」を民主化の歴史とするのは、占領軍の検閲によってつくられた虚像だとする考えは、まだ固まってはいなかったらしいということである。しかし1年と経たないうちに、それは江藤の固い信念となる。 

『もう一つの戦後史』の最後のインタビューは、講和条約交渉にかかわった外務省の西村熊雄へのものだが、西村は米軍占領期を振り返り、次のように言う。 

 西村 「………あの六年間の苦しさは、いまの四十代、三十代の人たちにはおわかりにならないと思います。言論の自由も思想の自由も結社の自由も、何にもない。自由をすべて奪われているうえに、あれはああしろ、これはこうと指図を受ける。処罰はいつどこからくるかわからん、いいことでもやれといわれてやるのはうれしくない。政府も国民一人ひとりも悩んだあの六年間の苦しみは、忘れられません………。」
 江藤 「いまご指摘のあった占領時代に言論、集会、結社の自由がなかったということは、事実として確認しておかなければならないことだと思います。これについてはとくに左翼系等の歴史家が誤った解釈を流布させているように思います。日本が戦争に敗けて、内務省の検閲と特高警察、憲兵隊がなくなったから自由になったといいますけれども………」
 西村 「そうじゃないでしょう。」

  この西村熊雄の発言を、「この連載の掉尾を飾るにふさわしい重い言葉」と歓迎した江藤は、西村の言葉を踏まえて次のように自分の考えを述べる。
 「考えてみれば、まさしくこれが“戦後”の本質だったのである。」
 「それは『苦しい』時代であり、いかなる意味においても輝かしい『解放』の時代などではなかった。日本人は敗戦と引き換えに自由を得た、という通説があるが、これほど実情とかけ離れた議論はない。」
 「いうまでもなく占領時代には、GHQによる検閲が実施され、言論機関は戦時中と同様に厳格に統制されていた。この状況の下であらゆる報道機関は、新聞、雑誌、放送の別なく、一面においては占領政策推進の道具として動員され、その反面GHQ との協力関係の密接さを競わざるを得ぬ立場に立たされた。」 

▼このブログでいま、江藤淳の仕事の全体を論じるつもりはない。江藤が「アメリカ」を体験し、幸福な関係を持ったにもかかわらず、後年、「米国批判を行う言論人のなかで、論調の激しさと、影響力の大きさと、その双方において際立つ」(阿川尚之)ようになった、その変貌の問題に絞って検討を進めているつもりである。
 しかし江藤の「アメリカ批判」は、彼の「戦後日本」に対する複雑な感情や批判と密接に結びついているように見える。したがって検討はおのずと彼がのめりこんだ「GHQによる検閲」の研究や、彼の「戦後認識」の妥当性の問題に付き合わざるを得ないのである。 

江藤は、雑誌『諸君!』の1979年4月号から10月号にかけて(7月号を除く)、「忘れたことと忘れさせられたこと」という論文を連載した。(同年中に単行本として発行された。)昭和20816日から1031日までの朝日新聞の記事を材料に、「敗戦直後の日本人が降伏と占領をどう受け止めていたかを探り、同時に占領軍の言論統制が、どのような過程で新聞の紙面に刻印されて行ったかを跡付けようとし」たものである。江藤の主張は次のようなものだ。
 「先の大戦で日本は無条件降伏した」という通念が日本社会に流通しているが、これは誤りであり、陸海軍は「無条件降伏」したが、日本はポツダム宣言に書かれた条項の下で降伏したのだ。ポツダム宣言を受諾した日本は、その各条項を誠実に履行する義務を負うが、受諾された宣言は日本のみならず連合国をも拘束する性格のものだ。
  ところがトルーマン大統領はマッカーサーに、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである」という内容の通達を出し、宣言を一方的に歪曲した。GHQは不都合な記事を搭載した新聞各紙に業務停止を命じ、検閲を受けて業務を再開することができると通告した。
 江藤は書く。「この時期以降占領時代を通じて、日本の新聞には自主的な言論を行うべき自由がなかった。それは占領政策伝達のラウド・スピーカーでなければ、占領政策への意識的・無意識的迎合でしかありえなかった。」

▼江藤は、占領軍の検閲が実施される前の時期の記事と、検閲が行われるようになってからの記事を、具体的に示し比較している。検閲が実施されるまでの紙面には、日本の降伏がポツダム宣言の諸条件に拠るものであることを前提にした主張が掲載されていることを確認する。
  また来日した米英のジャーナリストの観察を引用し、彼らは「日本人の異常な平静さ」、「静けさ」に、一様に驚いたと江藤は述べる。帝国議会を参観した特派員は、日本では敗戦の原因について多く論じられているが、戦争責任そのものについては何ら論じられていない、と打電した。「日本は物的には敗れたが、精神的には敗れていない」という観察もあった。 

江藤は「日本人の異常な平静さ」について、長い戦いの後の虚脱や放心状態であったかもしれないが、日本人は政府と国民が一体となってよくまとまり、恥を知り、誇りを失っていなかった、と考える。しかしアメリカの当局者には、これは警戒すべき危険な兆候と映じていたと、江藤は言う。アメリカの国務長官は9月2日に、要旨次のような声明を出した。
  日本の物的武装解除は目下進行中で、日本の戦争能力を完全につぶすことができる。しかし日本国民に戦争ではなく平和を希望させる「精神的武装解除」は、ある意味で物的武装解除より困難だ。≪精神的武装解除は銃剣の行使や命令の通達によって行われるものではなく、過去において真理を閉ざしていた圧迫的な法律や政策のごときいっさいの障害を除去して、日本に民主主義の自由な発達を養成することにある。≫
 江藤はこの声明の背後に、敗戦後も平静なまとまりを崩さない日本人への「報復への恐怖」と「異文化への薄気味悪さ」を読み取る。それゆえアメリカは日本人の誇りを打ち砕き、日本人のセルフ・イメージを根底から塗り替える「精神的武装解除」を実施せねばならず、そのために利用されたのが日本の新聞とラジオであり、学校教育だったというのが、江藤の「占領史」研究の結論である。
  GHQ918日付で「日本に与へる新聞紙法」を発表し、108日からは新聞通信の事前検閲制度を東京5紙にまで拡張した。江藤は書く。「こうして日本人のセルフ・イメージを破壊し、国民相互のあいだの不信感を増大させ、あたう限り国内分裂を拡大しようとする占領軍の組織的な計画は、着々と整えられて行った。」

 (つづく)

 

▼江藤淳の主張は、一見、実証的で論理的なように見える。戦争の終結は、日本軍の「無条件降伏」であるが日本国家の「無条件降伏」ではなかった、という解釈は正しいし、占領軍が検閲を実施したことも間違いない事実である。しかし彼の主張には、少し立ち止まって考えてみると、よくわからない部分、おかしな部分が多いことに気づく。
 たとえば日本人は検閲により、国家の「無条件降伏」を信じ込まされたという主張だが、占領軍との折衝にあたる人々は、当然それがポツダム宣言の条項を受け入れた降伏であることを理解し、「条件」の解釈を巡って相手と交渉したはずである。だがポツダム宣言の条項が、「日本政府は国民のあいだの民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし」というような広漠としたものであり、「日本の国家統治の権限は、宣言の条項を実施する連合国最高司令官の制限のもとに置かれる」と降伏文書に明記された以上、折衝に当たった人々の困難は格別であったろう。
  また仮に一般の国民が、「日本はポツダム宣言の条項を受け入れて降伏した」と理解していたとして、そのことで日本の戦後の歴史にいったいどのような変化が生じたというのだろうか。歴史の進行への具体的影響という面で考えるなら、江藤の指摘はほとんど現実の意味を持たないのである。

 「言論、宗教および思想の自由、基本的人権の尊重」をうたったポツダム宣言にもかかわらず、占領軍は巧みに検閲を行い、日本の新聞やラジオはこれに抵抗するよりは進んで占領軍の意を迎えた、という江藤の批判に対しても、議論は分かれるように思う。
 占領軍は「民主化」を促進すると判断した記事や言論は自由に流通させる一方、「占領政策」の障害となると判断された記事や言論は、検閲によって「除去」した。戦前、戦中の日本の国家行為を擁護するような発言は、「民主主義的傾向の復活強化に対する障害」として「除去」されたのである。
 また、「太平洋戦争史」という記事をつくって新聞各社に送り、読者がこれを読むことで、日本人がどのようにして「軍国主義」により悲惨な目にあったかを、理解させるように働きかけた。
 それらはたしかに占領軍による日本の旧体制に対する言論の抑圧であり、思想的介入だったといえる。しかし国民一般に対して持つ意味は別であり、それは占領軍が撤退し、日本が主権を回復したのちに明らかになったはずである。つまり力によって押し付けられた思想や観念は、力が消えたあとには容易に姿を消すのであり、力が消えたあとまで残る思想や観念は、力による強制に根拠を置くものではないという単純な真理によって、「戦後の自由」の意味が試されたのである。

▼江藤は「占領軍による検閲・言論統制」という事実から、戦後日本の「歪められた言論空間」を言い、「歪められた思想空間」を問題にし、次のように主張する。
 「われわれは真実を忘れ、かつ忘れさせられて来た。そして巧妙に仕組まれた忘却のうちに安住しながら、偽りの歴史によって今日まで生きて来たのである。」(「忘れたことと忘れさせられたこと」)
 「今日私どもの意識を漠然と、しかしかなり執拗に拘束しているタブーを一度全部解き払ってみないと、本当に自由にものを考える人間にはなれない」。(「戦後の再検討」)
 つまり、戦後日本の「思想空間」は占領軍の言論統制によって歪められ、にもかかわらず歪みを歪みと認識できない人びとの「言論」が支配的であるため、「歪んだ思想空間」が継続している、と彼は言いたいのである。
 江藤はこう主張することで、自分が日本人の認知能力や判断能力を貶めていることに気づいているのだろうか。日本人の認知能力や判断能力は異常に低く、検閲によって容易にだまされ、検閲体制が撤廃された後もだまされていたことに気づかない、と言っているのに等しいのだから。 

だが、揚げ足取りのような批判はやめておこう。筆者の江藤の主張に対する基本的な違和感ないし批判は、江藤の主張するような方法で「歴史」を語ることはできないという点にある。つまり、アメリカ占領軍の意思ないし悪意が日本の戦後史を貫徹していると彼は言うわけだが、「歴史」とはそのような単純な過程であるはずがないのだ。 

▼高坂正堯に『大世界史』シリーズ(㈱文藝春秋)の一巻として、戦後日本の歴史を書いた『一億の日本人』(1969年)という著作があるので、占領期の記述をいくつか拾い出してみる。 

 ≪………「自分が戦争をやった」として責任を明確にし、その立場を頑固に主張するひとびとがほとんど皆無にちかかったのは、奇妙であり、さびしくさえあることであった。/しかし、その軽薄さと無責任さが表裏一体になって、日本人の柔軟な適応力と強靭な生命力が存在したのであった。大多数のひとびとはそれまで彼らが精いっぱい努力してきたことに、救いと誇りとを感じていた。≫ 

 ≪こうして、戦後の日本には、無責任と軽薄さと適応力と生命力の混合物がうずまくことになり、そこから、再生へのエネルギーがうまれたのである。たしかに、それは、「あたらしい出発」として理想化できるほど、過去に対するきびしい反省のうえにたつものではなかった。しかし、それは同時に決して空虚なかたまりではなかった。………とはいえ、戦後の復興と再建は、日本人の適応力と生命力とによってすべて説明されるものではない。そこに占領軍の進駐とそれによる改革という大きな衝撃がくわわったことを忘れることはどうしてもできない。それは日本人の心をいっそうはげしくゆさぶり、その意欲をいっそうかきたてることになった。≫

 ≪………アメリカ人に傲慢さを感じたひとびともあった。しかし、米軍将兵は全体としてまさに「紳士的」であった。満州におけるソ連軍の行動や、日本が占領した地域においておこったことに比べれば、不祥事件の数は比較にならなかった。≫

≪………ひとびとは、戦時中に日本の指導者たちが躍起となってつくりあげようとした「鬼畜米英」というイメージが誤りであることを実感した。/そして、彼らは日本の指導者たちがどうしてこれほど文明の高い国民に対して戦争をしかけようという考えになったかを不思議に思いはじめたのである。負けたのは当然のことであり、よくまあ三年八カ月ものあいだ戦いつづけることができたものだ、という奇妙な誇りのような感情とともに、ひとびとはアメリカと戦ったことのおろかしさを痛感した。≫

≪マッカーサーの大きな権威と、米軍将兵と日本人とのあいだの友好関係――それは占領を成功させた基本的要因であった。なぜなら、米軍はただ単に勝者として、敗者日本を武装解除するという普通の目的で日本にきたのではなかった。米軍は勝者であるとともに、改革者として、日本の社会をほとんど根本的につくりかえるという目的をもって日本にやってきたのである。≫

≪………占領軍による改革という事実には、いくつかの矛盾と多くの困難が存在した。それは、歴史上ほとんどこころみられたことがない壮挙であったがゆえに、困難もまた大きかったのである。しかし占領軍はアメリカの完全な勝利、その「至上の権力」にもとづくマッカーサーの権威、そして、日本人のアメリカ文明へのあこがれから生じた占領軍との友好関係のおかげで、日本の改造という仕事に有効にとりくむことができた。≫

▼アメリカ占領軍の意思があり、日本の指導者たちの意思があり、日本国民一般の生活があり思いがある。日本を取り巻く国際政治は急速に対立を深めていたし、占領軍のなかにも考え方の対立は明瞭にあり、それは日本の指導者たちについても同様であった。つまり多くのさまざまな要素が歴史をかたちづくるのであり、占領軍による検閲もその要素のなかの一つではあるが、それ以上のものではないことは、あらためて強調するまでもないことだろう。
  国民一般が、「鬼畜米英」のイメージは誤りだと感じたのは、米兵の犯罪や乱暴が検閲によって隠されていたからではないし、アメリカと戦ったおろかしさを痛感したのも、言論統制によって「自由にものを考える」ことをタブーとされたからではない。今風の言葉でいえば、国民は敗戦後に持ち込まれた米国の文化・文明に接し、大きな「カルチャー・ショック」を受け、そのことによって集団的に「転向」したのである。
 だからこう言ってもよいだろう。日本の指導者たちは先の大戦に武力で敗北したあと、いわば「文化の力」でもアメリカに敗北したのだ、と。「文化の力」でも負けたという事実を認められず、国民一般が集団的に「転向」したすべての原因が「検閲」にあるかのように主張する江藤が、アメリカ占領軍の「悪意」を立証するべくいかに精力的に努めても、「偽りの歴史」像を磨き上げることにしかならない。

 占領下における西村熊雄の「苦しさ」が本物であったとすれば、国民の感じた「解放感」も本物だったのである。

 (つづく)

▼江藤淳の「戦後史」研究が、アメリカへの反感へと一挙に進んだ様子を、前回見た。そして江藤の主張が無理スジであり、彼が創りだそうと試みる「歴史」こそ「偽りの歴史」にほかならないことを述べた。
 江藤のアメリカへの反感が奇妙なのは、アメリカの占領政策がソフトで巧妙で、多くの日本人がそれを歓迎したことへの反発をバネにしている点にある。彼の屈折した感情は、結局日本が戦争に敗北したことへの悔しさに行きつかざるを得ない種類のものなのだが、そちらには向かわず、ひたすらアメリカ占領軍と占領下の日本人がつくりだした「戦後」への嫌悪、反発の念として発揮されることになった。

それでは江藤の主張は日本の論壇で、どのように受け止められたのだろうか。
 戦前・戦中の日本の政治を批判的に捉える戦後の歴史意識に対し、それを「東京裁判史観」と呼んで反発する一部のひとびとには、大いに歓迎されたようである。江藤の主張は、彼らの思いに理論的な根拠を提供した。江藤が『閉ざされた言語空間』(1989年)のなかで採り上げたGHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」という言葉は、その構図の分かりやすさと真実らしさゆえに、便利に使用されるようになった。
 しかし論壇の主流からは、「無視」されたのではないだろうか。というのは、江藤自身が論壇の冷ややかな態度に苛立ち、反発する文章を書いているからである。

▼江藤に『批評と私』(1987年)という著作がある。その巻頭に置かれた「ユダの季節」という文章は、これが「アメリカと私」という瑞々しい文章を書いた同じ人間の筆になるものとは信じられないほど、内容のない緊張感を欠いたエッセーである。粕谷一希、中島嶺雄、山崎正和が新聞・雑誌に載せた文章の片言隻語を取り上げ、「責任不在の雑文」、「奇妙できな臭さのただよう文章」、「無内容で、現実遊離を露呈した文章」などとしきりに難癖をつけるのだが、難癖をつける意図がなかなか見えない。
 しかしやがて、ははん、と理解できたのは、彼らは「私語」を交わし「徒党」を組んでいる、と江藤が言い出したからである。中島が粕谷の短文を持ち上げ、粕谷が山崎の文章を称賛し、山崎が理事をしているサントリー文化財団が中島の著作に文化賞を出したというように、「この『徒党』の構造は円環を成しているらしい」と江藤は言い、さらに次のように主張する。
 「私語」は≪「徒党」の外にいる人びとの言論を故意に無視し、黙殺しようとする作用を伴う。それは電話の会話で、カクテル・パーティの立ち話で、雑文や「論壇時評」や「私の紙面批評」の行間に秘められたかたちで、間断なく行われている検閲機能そのものの謂である。すなわち「私語」とは、もっとも効果的に内在化させられた自己検閲のシステムにほかならない。≫
  そして江藤は、この「自己検閲のシステム」の実例だとして猪木正道の例を引く。江藤が『一九四六年憲法――その拘束』を書いて、憲法制定過程が占領軍の検閲によって秘匿された事情を明らかにしたとき、猪木正道は日本記者クラブの講演でそのことに触れ、「当り前じゃないですか。占領軍が検閲しない例がありますか」と語り、記者たちの「肯定的な笑い」を誘ったという。 
 筆者が、ははん、と合点したのは、江藤が猪木の「放言」と記者たちの「笑い」に傷つき、反論するために長々と粕谷一希や中島嶺雄、山崎正和に難癖をつけ、批判の準備を整えたうえで猪木発言を槍玉に挙げたらしい、ということだった。
  しかし自分の主張を認めない者は、認めるのが怖くて「自己検閲」しているのだと言い、彼らは「徒党」を組んで主流の「外に出ようとする者を排除、抹殺」しようとしている、と真顔で言われるなら、猪木のようにでも言葉を返すしかないのではないか。猪木正道の「反語」と記者たちの「肯定的な笑い」は、その意味で十分「批評」たりえているのである。

▼江藤の「戦後史」研究に見る過激な疾走を、どうとらえるべきなのだろうか。筆者は、「鋭敏な知性の平衡を欠いた暴走」と見るのが適当だと考える。
 鋭敏にものごとや事件の要点を捉え、全体像を開示して見せる江藤の筆さばきの鮮やかさには、誰をも驚かす力がある。しかし時としてそれは関連のないもののあいだに関係を妄想し、両者を結び付け、一つのストーリーに仕上げるという「過ち」を犯し、彼の華麗な弁舌能力が「過ち」をさらに後押しする結果を生む場合もある。
 たとえば江藤の次のような発言が目についたので、彼が間違った議論をいかに整然と述べるか、という実例として引用する。 

≪………地方分権、地方分権と言葉ばかりが先走りしていて、たとえば神奈川県などは外国籍の人間でも職員に登用する、国籍条項を考慮しないとか、規制といえば何でも「悪」みたいなことばかりいっている。それは地域の特殊性で、そういう措置が必要な自治体もあるかもしれない。ただ、その自治体が三割自治を続けていながら勝手なことをするのを認めるのを地方分権と称するとすれば、とんでもない話です。勝手なことをしたい自治体は、まず地方交付税交付金を全額返上しなければならない。
 地方交付税交付金は総額十五兆円ある。これを一文も使わなければ、日本の国家財政は即座に健全になる。そのかわりに地方自治体は、それぞれの特殊性にあわせて地方税を徴税する。そうすると贅沢な庁舎を建てたりなんかしなくなる。結構なことじゃないですか。国から地方自治体に金なんかやることはない。そもそも国は貧乏をしている。貧乏している親からたくさん小遣いをもらって、やりたい放題のことをやって、日本国民でもない人間を職員にするなどということを放任するのは、どうかしている。そんな現実はありえない。≫(『国家とはなにか』1997年)

ここに書かれているのは、ほとんどデタラメな議論である。地方自治体が外国人を職員として雇用することの是非という問題と、日本の国税と地方税のあり方の問題とは、まったく何の関係もないからだ。
 ところが江藤は聞きかじったことがらを結び付け、手前勝手なストーリーに仕上げ、「地方分権」の主張を批判して見せる。問題を、親から小遣いをもらっている息子が好き勝手なことをやるなら、小遣いをやるのをやめてしまえ、といった与太話のレベルに引き下げ、自分の主張が間違っている可能性について疑ってみようともしない。
 「三割自治」という言葉の使い方だけを見ても、江藤が国庫補助金制度や地方交付税制度について無知であることは歴然としているが、筆者は「だから文芸批評家は勉強してから発言しろ」と言いたいわけではない。江藤の議論には、彼が鋭敏であるがゆえの切れ味の鋭さと平衡を崩す危うさが共存しており、特に「戦後史」に関するものについては注意しなければならない、ということを言いたいのである。

▼さて、江藤淳が「反米」論者となった理由は何か、という本稿の初めの問いに戻る。
 江藤は、自分が日本の「戦後」に対して抱いていた反感・嫌悪の感情が、「戦後史」の研究を通じて歴史上の根拠のあるものだと確信した。その結果、その悪感情は「戦後」を生み出した当時のアメリカ占領軍に向けられ、そして現在の日本とアメリカにも向けられるようになったのではないか、というのが筆者の一応の結論である。
  なぜ、アメリカ占領軍への悪感情が、現在のアメリカにまで向けられるのかといえば、かっての占領・被占領の屈辱的な関係構造が、現在に至るまで継続していると江藤の眼には映ずるからである。
  かって江藤は、「戦後」の正義を「私情」を拠点に狙撃することを試みた。………自分は「戦後」を喪失感と悲しみいう「私情」によって生きて来たことを、隠そうとは思わない。しかしそもそも文学とは、「私情」を語るものであって正義を語るものではないだろう。文学が正義を語りうると錯覚した時、作家は盲目になり、おそれずに「私情」を語れなくなった。そこにいわゆる「戦後文学」のおかした誤りがあった………
  そう語っていた江藤が、何を思ったか、戦後の「正義」を糾弾する新たな「正義」を主張しはじめた、というのが彼の「戦後史」研究を起点とした騒ぎだった。彼の主張する新たな「正義」は、その強烈な「私情」によってあらかじめ染め上げられ、歪んでいるのだが、江藤が意に介する様子はない。

 

(おわり)

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