ハクソー・リッジ

                     【ブログ掲載:2017年8月4日】


▼先日、「ハクソー・リッジ」という映画を見た。新聞の広告に、「世界一の臆病者が英雄になった理由とは」というキャッチコピーがあり、広告の写真から戦争映画らしいということは分かったが、それが沖縄戦の映画だとは思わなかった。それがどういう内容の作品であるか知ったのは、あるウェッブサイトを見たからだが、偶然にも『沖縄の証言――庶民が語る戦争体験』(名嘉正八郎・谷川健一編 1971年)という本を読んでいたところだったので、見てみる気になった。 

 辞書を引くと、「ハクソー hacksaw」とは「(金属を切る)つるのこ、弓のこ」、「リッジ ridge」とは「山の背、尾根」のこと、と出ている。沖縄戦が熾烈に戦われた浦添村の前田高地を、「のこぎりで切ったように切り立った断崖」という意味で、アメリカ兵がこう呼んだのだ。
  前田高地は、日本軍(第32軍)の司令部の置かれた首里の北方3kmにあり、首里防衛線の要の位置にあった。映画は、この激戦地での実話だという。

 

▼映画の主人公・デズモンド・ドスは、米国バージニア州の田舎町で育った信仰心の篤い青年である。彼の信仰心には、父親の影響もあったのだろう。父親は第一次大戦に出征して友人を幾人も亡くし、彼自身は無事に帰還したが、息子に戦死した友人たちのことを語り、酒におぼれる生活を続けていたからだ。
 太平洋戦争が始まり、主人公の周辺でも出征する若者が増え、主人公も陸軍を志願する。入隊し、同僚とともに兵舎で寝起きし、厳しい訓練が開始されるが、主人公のある「主張」が部隊を揺るがすことになる。 
 「殺すなかれ」の戒律に忠実でありたいと願い、衛生兵として人を救いたいと心に決めていた彼は、銃を手にすることを拒否したのである。上官の批判や説得、仲間の蔑みやいじめにも彼は屈せず、武器を手にしないという自分の考えを頑として曲げない。とうとう軍法会議にかけられるが、ここで「良心的徴兵拒否」者として認めるという助けが入り、衛生兵として戦地に出発する。 

 現実のデズモンド・ドスは、グアム島やレイテ島での戦闘を経たのち、沖縄の戦闘に参加したようだが、映画の主人公の戦場は、いきなり沖縄の「ハクソー・リッジ」から始まる。行く手に断崖絶壁があり、崖下の米軍基地の兵士たちは、ここはあらゆる地獄をひとつに集めたようなところだと、到着した主人公に言う。断崖の上には日本軍が塹壕を掘って陣取り、砲撃や空爆に耐えて米軍の進行を阻んでいた。
 断崖にはロープでつくった巨大な網がかけられ、米軍兵士はこの網を頼りに崖をよじ登り、日本軍の兵士と数度の白兵戦を闘った。しかし銃や手榴弾、銃剣や火炎放射器を使っての肉弾戦では、米軍は物量にものを言わせて日本軍を圧倒するわけにもいかず、戦闘ののち、夜は崖下まで撤退することを余儀なくされていた。
 「ハクソー・リッジ」の戦闘が始まってから17日目の5月5日、米軍部隊は崖下に撤退したが、主人公・ドス二等兵は崖の上にひそかにとどまり、動けずに残された負傷兵の体をロープで縛り、下に降ろす作業を独りで始めた。一人降ろし終えるとロープを引き上げてまた一人を降ろし、一晩でドスは75人の救助に成功したという。
 米軍はその4日後、ようやく「ハクソー・リッジ」から日本軍を駆逐し、占拠することに成功した。 

ドス二等兵はその後負傷して帰国したが、大統領から名誉勲章を授与された。

 

▼国内でただ一つ地上戦の戦場となった沖縄戦は、昭和20年3月下旬、米軍が那覇から40㎞西にある慶良間諸島に上陸したときに始まる。
 4月1日、米軍は沖縄本島中部に上陸。日本軍(第32軍)は司令部を首里城地下に築き、首里に向かう米軍と各地で抗戦したが、5月末に首里を撤退、司令部を摩文仁に移した。
 6月23日、第32軍の牛島司令官と長参謀長が摩文仁の丘で自決。米軍の掃蕩戦が完了したのは6月末だった。

沖縄戦の最大の特徴は、戦闘に巻き込まれた民衆の被害が極めて甚大なことである。当時47万人ほどであった沖縄本島の人口のうち20万人近くが亡くなった。生き残ったのは、本島とその他の島々合わせて30万人である。
 民衆は米軍の空爆や砲弾から逃れるために、沖縄特有の大きな墓を壕として利用したり、ガマと呼ばれる自然壕を利用して身を守ろうとした。それでも地上戦の戦火が近づけば、安全な場所を求めて移動しなければならず、空爆や砲撃に晒され、流れ弾に当たって倒れる者も多く、食べ物も飲み物もない状態が続き、命を落とす子どもも多かった。
  敵の捕虜となるよりも、家族とともに自決する道を選んだ人びともあった。また、日本軍によって「スパイ」の容疑で処刑されたり、同じ壕に避難した日本軍兵士によって、泣き声を抑えるために嬰児が殺されたりしたケースもあった。

 

▼しかしこの映画には、民衆はいっさい登場しない。沖縄における戦争がどのように行われたのか、戦争を俯瞰する視点もない。徹頭徹尾、英雄的行為を行ったドス二等兵の物語であり、そのことを語るために強調されるのが戦場の凄惨さである。
 砲弾で兵士の手足が吹っ飛ぶ場面がある。火炎放射器の炎に包まれて地下壕から兵士が転がり出る場面がある。人間の原形をとどめぬ死体や、内臓がむき出しの死体が散乱する場面がある。凄惨な戦場のド迫力に圧倒され、目をそむけるが、映画自体は「迷いがない」という印象だった。
 戦争映画に限らず、優れた映画について、筆者がしばしば感じるのは、言葉にならないある種の「迷い」だった。忘れたい、沈黙したい圧倒的な記憶があり、しかし忘れさせない力、沈黙させない力が他方に働き、二つの力の葛藤、せめぎあいが戦争体験の底にあり、ドラマを成立させる。
 どのように語るにしても割り切れなさは残るし、言葉にならない部分は残る。それを表現しようとするから、戦争映画は「迷い」がふと感じられる映像になるのかもしれない。

 

映画の配給会社は、この映画が日本軍が米軍に無惨に殲滅されるという内容であることを考えて、沖縄戦の映画であることを伏せて宣伝したようである。しかしこの映画から、現実の歴史としての沖縄戦を想起し、複雑な感情を抱く観客は、さほど多くないのではないか。筆者もどちらかといえば主人公の側に、つまり米軍側に感情移入して、戦闘場面や負傷兵の救出場面を観ていたように思う。
 配給会社は、観客が日本軍に感情移入して不快な気分になるかもしれないなどと、心配する必要はなかったのである。なぜならこの映画は初めから終わりまで「勇敢なドス二等兵の物語」であり、現実の歴史としての沖縄戦は、ただ場所を提供したに過ぎないからである。
  汚れた戦場で、ただ一人汚れていない衛生兵を主人公にして「戦争」を切り取ったという、作品としての単純さ、淡泊さ、「迷いのなさ」が、筆者にはもの足りなかった。映画「ハクソー・リッジ」に対する筆者の評価は、したがってかなり低い。



▼前田高地(ハクソー・リッジ)での沖縄戦に参加した外間守善の証言をたまたま読んだので、参考までに添付する。(「世界」2007年6月号掲載のインタビュー記事「沖縄は『捨て石』だった」)
 証言者の外間守善は「沖縄学」の研究者、沖縄文化の紹介者として著名。インタビューの聴き手は「世界」編集部。文中の「裁判」とは、「岩波・大江裁判」を指す。(「沖縄戦における『集団自決』について」参照))
 外間は1945年3月、19歳の時に現地招集され、4月から5月初め、沖縄戦の関ヶ原ともいわれた前田高地の激戦を闘った。800人から1000人いた大隊は、9月3日に投降したときには僅か29人になっていた。3月に入隊した沖縄の初年兵は外間も含めた9名、名簿さえ残っていないという。

「前田高地では、相手のアメリカ兵士は海兵隊でした。彼らも若くて、私たちが銃剣で突っ込んでいっても逃げませんでした。前田高地は小さな丘で、その目と鼻の先に米軍がいて、若者同士が取っ組み合いのようにして戦ったのです。前田高地にある為朝岩の周りをグルグル回って追いかけっこしているようでした。銃を撃っても当たらないので手榴弾を投げ合ったり、相手の投げた手榴弾を投げ返したりしました。最後は石まで投げました。アメリカ兵にも家族や友人がいるだろうに、なぜここで死ななければならないのか、可哀想にも思いましたが、とにかく、殺さなければ殺される。そして、こんな狭いところで1000人もの兵隊が死んで行ったのです。本当に思い返すのも嫌なんです。」

 「私は月4日の日本軍の総攻撃の日に右手右足に銃弾と手榴弾の破片を受けて負傷しました。その瞬間、それまでに経験したことのないような熱さが全身を貫きました。血みどろになりながら銃弾を自分で足から取り出し、何もないので粘土を貼り付けて包帯を巻きましたが、兵士としては役に立たなくなってしまったのです。」

 「前田高地では、首のない死体をたくさん見ました。両足のない死体もあった。私の戦友は両手で大八車の取っ手をしっかり握ったままで死んでいた。それから、自分たちの斬り込みの任務を報告しに本部に帰って来て、報告を終えたとたんに息を引き取った沖縄の初年兵もいた。そこまでして、自分たちの任務に忠実であろうとしていた。皆、そういう教育を受けて来たんです。/本土の教育よりも沖縄の教育の方が、もっと徹底して日本人になる教育だった。日本を守るため、沖縄を守るため、戦わなければならない、という考えだったのです。/私は一度も逃げようと思いませんでした。死んでもいいと思っていました。何度も斬り込みに行きました。あるとき私は白兵戦でアメリカ兵の腿を銃剣で突き刺したことがある。するとアメリカ兵は刺されながら、私に抱きついて首を絞めたのです。気が遠くなって、もうおしまいか、と思ったとき、仲間の兵士が来て、アメリカ兵の頭を銃剣で割って私は助かった。戦場では相手が憎くて殺したくて殺すんじゃない。やむをえない、殺さないと殺されるから殺すんです。きっとアメリカ兵も同じだったと思う。」


―――裁判で原告たちは、住民の自決は軍の足手まといにならないための「清い死」だったと主張していますが、外間先生が体験された戦場の死は「清い死」だったでしょうか

 「清い死とは思えません。兵隊は可哀想でしたよ。/住民はもっと可哀想だった。子供を連れた女や老人が、艦砲が落ちる戦場をさまよっていました。壕には日本兵が一杯で、追い出されていたのです。沖縄の人は方言しか話せない人もいて、何人かの住民がスパイと見なされて殺された。南部では、沖縄の女性がスパイだと捕まってきたのを、私が通訳して助けてあげたことがある。中部では、やはりスパイといわれて引きずられてきた老人を助けました。/戦友は皆死にました。私は自分が生き残るとは思えませんでした。どうやって生き延びたか、まったく覚えていません。部隊に置き去りにされたけれど、先に出ていった部隊が全部やられてしまって結果的に後からついていって助かったこともあるし、逆に敵の方に突っ込んでいって生き残ったこともある。戦場では、どうしたから生き残れた、ということはないのです。生き延びたのは、まったくの偶然としか思えません。」




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