母の死
              【ブログ掲載:2018年2月16日】


▼先週、母が亡くなった。大正10年生まれの96歳、4月が来ると97歳だった。
 十分高齢だが脚はわりあいしっかりしており、亡くなった日も筆者の弟に連れられて、昼食に出かけた。家から300メートルほどのところに回転寿司屋があるのだが、そこまで自分の脚で歩き、魚のアラや骨でダシを取った「あら汁」を食べ、鮮魚の握りを一つ食べ、そこで眠るようにして息を引き取ったらしい。医学的には、「誤嚥による窒息死」ということになるが、傍にいた弟もしばらく気づかず、うつむいている母に「そろそろ帰りましょうか」と声をかけてはじめて異変に気がついたというぐらい、静かで穏やかな死に際だった。
 

▼母は和歌山で、兄弟人の上から番目に生まれた。すぐ上と下に兄と弟がおり、その下に妹が人いた。母親がわりあい早く亡くなったので、祖母の手で育てられた。
  家は紀ノ川のほとりの地主であり、戦前の大蔵省の高級官僚の娘である母は、「お嬢さま」に育つ資格充分だったのだが、それらしい華やかな雰囲気はまるでなく、社交はきわめて不得手、きまじめで冗談一つ言わない、ある意味で不思議な人だった。
 和歌山の女学校では成績の良い優等生だったということだが、授業を真面目に受け、それを記憶するよう努力したということだろう。けっして状況に合わせて機転を利かしたり、機知に富んだ会話を楽しんだりするような、柔軟な頭脳の持ち主ではなかった。教師の勧めで東京の私立「自由学園」に転入したが、ここでの教育が彼女に大きな影響を及ぼした。
 当時の「自由学園」は創立者の羽仁もと子、吉一夫妻が健在で、「生活即教育」という彼らの理想とする独創的な教育を行っていた。とくに羽仁もと子は、生徒の資質を見抜いて力づけるカリスマ的な能力を持つ人だったようで、当時生徒だった人たちの受けた感銘を、筆者は直接間接に聞いている。母も、その愚直な資質を長所として力づけられた生徒の一人だったのだろう。母の「自由学園」の教育への信頼は、父親への尊敬の念とともに、終生揺らぐことがなかった。

 戦後母は、父親の勧める男と結婚し、3人の子を育て、7人の孫、11人の曾孫を持った。一時期、知人から頼まれて幼児教育の手伝いをしたり、市の依頼で「民生委員」の仕事をしていたことはあったが、基本的には主婦としての生活に満足していた。
 そして夫が亡くなってからの12年間、独りで暮らし、愚痴をこぼさず、弱音を吐かず、他人に頼らない生活を続けた。

 

▼母の暮らしぶりは質素だった。戦中戦後の世の中全体が貧しかった時代の暮らしぶりを、豊かな時代になっても変えることはなく、子どもたちが「もう少し贅沢をしたら」と勧めても、けっして耳を貸そうとしなかった。他所から菓子折りなどもらえば、包み紙や紙の箱は丁寧にしまいこみ、「三年経てば世に出る」というのが口癖だった。
 母はほとんど本を読まなかった。読むのは、『婦人之友』『明日の友』という雑誌と新聞だけだった。ただひとつの例外として筆者が記憶しているのは、晩年になって有吉佐和子の『紀ノ川』を読んでいた姿だけである。
  母から好きな俳優や歌手、ひいきの相撲取りの名前を聞いたこともなかった。TVで大相撲を見ているときに、どちらが勝つと思うか尋ねると、困ったような顔をし、どちらをひいきするのも悪いというように、口を濁すのが常だった。

 家ではいつも服の上に、割烹着を着ていた。家の中は、年寄りの住まいには珍しくきれいに片づけられ、掃除が行き届いていた。掃除をするとき、ときどき鼻唄らしきものを口ずさむことがあったが、それは流行歌などではなく、「自由学園」でむかし習った第九の合唱だったり「ハレルヤ」の一節だったりした。

King of kings
 Lord of lords
 And He shall reign forever and ever
 Hallelujah!
 Hallelujah!

 

▼母は90歳を過ぎてから、二度骨折を体験した。一度目は3年前、母が9394歳の時で、庭で転んで左手首を折り、右膝にヒビが入った。医者は左手にはギプスを巻いてくれたが、膝は固定すると寝たきりになるからと、ギプスを巻かなかった。母は、外出時は車椅子におとなしく座るなどしながら、結局か月ほどで直してしまった。
  二度目の骨折は昨年の1月だった。家の中で転び、左の脚の付け根の部分を折り、医者は二つに折れた大腿骨に金属のプレートを副えて、長いビスで留める手術を施した。母は手術後リハビリ専門の病院に移り、2カ月ほどまじめにリハビリに取り組んだ。リハビリは歩行訓練だけでなく、簡単な計算や記憶力を試すような頭の体操も含まれていたが、母は嫌がらずに若い理学療法士や作業療法士の指示に従っていた。
 手術後しばらくは、さすがに母も憔悴した様子だった。しかしリハビリ訓練を受け、退院して自宅に戻ると元気を回復し、杖も突かず、「シルバーカー」と呼ばれる手押し車も使わずに、歩けるようになった。
 90歳を超えた高齢者が、二度の骨折を乗り越えて日常生活に復帰することは、それほど容易なことではないだろう。しかし母は、ごく当たり前のこととしてそれを成し遂げた。

 

▼母の一生を考えるとき、思い出す文章の一節がある。森有正が大塚久雄との対談で語った挿話である。

 コレージュ・ド・フランスの有名な学者が、田舎で亡くなった友人の葬儀に出かけ、葬送の辞を述べた。
  その友人は小学校を出るとすぐに農夫になったのだが、第一次世界大戦が起こり、召集され、戦線で片腕、片脚を切断する重傷を負った。残りの腕と脚も、切断は免れたものの普通には使えない状態で、その友人は農夫を続けるためにどうすればよいかを真剣に考えた。そして義手と義足をはめ、身体の合理的な動かし方を研究し、懸命にリハビリに励み、工夫を重ね、ほとんど普通の農夫並みに働くことができるようになった、という。
 それから50年、男は働き続け亡くなった。友人の学者は、「こういう友だちを持ったことを光栄に思う」と会葬者に語った。

 森有正はこの話を紹介しながら、フランス人とは、ものごとを合理的に考え、合理的と認めたことを実現していく、デカルトを典型とするような人々だ、と言う。この亡くなった友人の生き方は、デカルトを読むことのないまま、デカルトの言ったことを全部やってしまっている。つまり彼は、「デカルトを読む必要のない人間」だった。―――(大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』1978年) 

  筆者は以前この話を読んだとき、「デカルトを読む必要のない人間」という言葉に、感じ入ったのだと思う。筆者の記憶の中では、学者は友人の農夫の葬送の辞で、次のように述べたことになっていた。「フランスはデカルトを生んだことを誇りとするように、デカルトを読む必要のない庶民を持ったことを誇りとする」。―――
  今回読み返してみて、これは自分の記憶の誤りで、友人の学者の「名セリフ」など書かれていないことに気付いたが、「こういう友だちを持ったことを光栄に思う」という言葉の趣旨は、同様のものであるだろう。

母は本を読まず、もちろんデカルトも読んだことはなかっただろうが、「デカルトを読む必要がない人間」のうちの一人であったことは確かである。母は他人に頼らず、自分で考えて正しいと思ったことを、ひとりでやり抜く勇気があった。
 しかしそれは、母の弱点であったかもしれない。母は他人の気持を推し量ることが、ひどく苦手だったのだ。「社交」とは、他人が何を考え、自分をどう思い、何を期待しているかを察することの上に成り立つものだが、母はそのような心理作業ができず、自分がそうすべきだと考えれば、他人の目を気にすることなく迷わず行動したのである。 

母は晩年、周囲への感謝の念を常に口にするようになり、また曾孫たちに囲まれながら、「お父さんはあんなに子供が好きだったのだから、生きていたらどんなに喜んだことだろう」と、亡夫に思いを馳せていた。喜怒哀楽の感情をあまり表さない人だったが、なすべきことをすべて終え、満足の思いで逝ったのではないかと思う。



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