判決、ふたつの希望

                     【ブログ掲載:2018年9月14日】

 

▼「判決、ふたつの希望」(2017年)という映画を観た。レバノンとフランスの合作映画で、監督はレバノン人のジアド・ドゥエイリ、原題は「侮辱」である。 

 自動車の修理工場主であるトニー・ハンナ(46歳)は、「レバノン軍団」というキリスト教系政党の熱心な支持者で、集会にも参加している。妻は身重で、ごみごみした都会から自然豊かな郊外に移りたいと考えているが、夫のトニーは賛成しない。
 もう一人の主人公ヤーセル・サラーメ(61歳)は、道路工事の現場監督として部下からの信頼も厚い。パレスチナの難民キャンプで、妻と二人で暮らしている。
 道路工事の最中、突然アパートの3階から作業員の頭上に水が降ってくる。トニーの家の配水管が道路に向けられていたのが原因であり、ヤーセルは配管を改修するよう頼むが、トニーは受け付けない。ヤーセルは、トニーがいないときに新しい配水管を取り付け、道路に水が降らないように改修する。それに気づいたトニーは、力まかせに新しい配水管を叩き壊す。そして道路に降りて行ってヤーセルと口論し、ヤーセルはトニーに向かっておもわず「くず野郎」と罵った。
 現場所長に説得されて、ヤーセルはトニーの修理工場に行き、「言葉が過ぎた」というようなことを歯切れ悪く言うが、トニーは敵意むき出しで謝罪を受け入れず、「シャロンに抹殺されればよかったんだ」と言う。その言葉を聞いたヤーセルはトニーを殴り、トニーは肋骨の骨を折る。

 

▼ヤーセルは、トニーへの暴行で逮捕され、起訴された。(筆者は刑事事件の裁判として見ていたが、その後の展開を見るとトニーの提訴した民事事件のようだった。)法廷で裁判官は、なぜヤーセルがトニーを殴ったのか質問するが、二人ともその事情を語ろうとしない。
 判決は、証拠不十分で無罪だった。激昂するトニーは裁判官に喰ってかかり、廷吏によって法廷から引きずり出される。
 トニーは控訴し、やり手の老弁護士に弁護を依頼する。一方、ヤーセルも若い女性弁護士を代理人に立て、控訴審が始まる。女性弁護士は、ヤーセルがトニーを殴ったきっかけが、「シャロンに抹殺されればよかったんだ」という言葉だったことを明らかにし、ヤーセルの行為を弁護した。その言葉は、傍聴していたパレスチナ難民たちの憤激を買い、またそのことが報道されることで、キリスト教徒レバノン人たちの反発を招くことになった。
 一方、老弁護士はトニーの過去を調べ、彼がパレスチナ難民のムスリムに抱く悪感情が、理由のあるものであることを明らかにしようとした。彼が6歳の時、住んでいたダムール村はムスリムの民兵団に襲われ、村民は虐殺され、彼はかろうじて生き残ったのだった。法廷で映される映像は、トニーに耐え難い過去の記憶を呼び戻すものであり、彼はコードを引き抜いて止め、黙って外に出て行った。 

市民どうしの街角のささいなトラブルは、レバノン社会の過去の傷を暴き立て、社会を揺るがす大問題に発展した。マスメディアはこの裁判を大きく報じ、街頭ではレバノン人のキリスト教徒とパレスチナ難民のムスリムの対立感情がエスカレートする。ある夜、トニーの自動車修理工場は放火され、危ういところで火は消し止められた。
 二人には、自分たちのトラブルが社会の対立や分断に拡大することへの、戸惑いも見える。相手の侮辱に対し謝罪を求めるのは当然と思いつつ、自分の頑固さに困惑しているような様子も見えないわけではない。
 法廷から帰ろうと、二人はたまたま隣り合わせに停めた車に乗る。しかしヤーセルの車のエンジンがかからない。トニーは行きかけるが、ミラーでヤーセルの車の様子を見て車を降り、黙ってヤーセルの車のボンネットを開ける。そして外れていたコードを繋ぎ、エンジンをかけるように言い、エンジンがかかったのを見て黙って去って行った。 

控訴審判決は裁判官の間で判断がわかれ、2対1でトニーの勝利となった。――

▼筆者は、イスラエル建国やパレスチナ難民の発生の事情は、ある程度理解していたが、中東という地域についての知識はそれ以外、ほとんど持ち合わせていなかった。レバノンの内戦が1975年から1990年まで15年間続いたというようなことなど、まるで知らなかった。
 1967年の第三次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西岸を占拠したため、パレスチナの抵抗勢力の多くはヨルダン川東岸のヨルダン王国に逃れ、そこからイスラエル軍への武装闘争を継続した。ヨルダンでは自国の体制が不安にさらされたため、1970年9月にパレスチナ人組織を徹底的に弾圧した。(「黒い九月事件」と言われる。)このためPLO(パレスチナ解放機構)は本部をベイルートに移さざるをえず、一部のパレスチナ人たちもレバノンに流入した。
 パレスチナ・ゲリラは、今度はレバノンから「対イスラエル闘争」を進めたため、レバノンはイスラエルの攻撃、侵略を頻繁に受けることになった。レバノンには「マロン派」などのキリスト教徒が多数住んでいるが、彼らはパレスチナ人が国内にいることを「厄災」と見なし、「パレスチナ人へのレジスタンス」を主張するようになる。

 1975年の内戦の発端は、マロン派民兵によるパレスチナ人の子どものスクールバスへの襲撃だった。以後、各地のパレスチナ難民キャンプへの攻撃が行われ、他方、パレスチナ・ゲリラとムスリム民兵による報復攻撃も相次いで行われた。トニーの生地ダムール村の住民虐殺も、その一つだった。
 内戦の頂点は、1982年6月のイスラエル軍による地上軍の侵攻だった。イスラエル軍は、ムスリムが多数住み、PLOが本部を置いていた西ベイルートを包囲した。PLOはレバノン政府の要請を受け入れ、西ベイルートから撤退した。しかし内戦終結を目指し、イスラエルから距離を置き始めたマロン派の政治家で、大統領に選出されたバシール・ジュマイエルが何者かによって爆殺されると、その夜イスラエル軍は西ベイルートに侵入した。イスラエル軍は、《曳光弾を絶えず打ち上げて照明を提供しつつ、マロン派民兵組織にサブラ、シャティーラの難民キャンプで3日間にわたる大虐殺を行わせた。死者数は2千人とも3千人とも言われる。この民兵らは以前にイスラエルで軍事訓練を受け、この日は「これからジュマイエル大統領の仇を取るんだ」と吹き込まれてキャンプに連れてこられ、パレスチナ人を襲撃したことが虐殺加害者の証言から明らかになっている。PLOはすでに撤退していて、キャンプを守る者はいなかった。》(東京外語大教授・黒木英充の解説)

 この時の一連の軍事作戦を指揮したのが、イスラエルの国防相アリエル・シャロンだった。「シャロンに抹殺されればよかったんだ」というトニーの言葉は、三十余年前の難民キャンプでの大虐殺をヤーセルに想起させるに十分なものだった。―――

▼映画「判決、ふたつの希望」は、上のような生々しい歴史を背景につくられている。筆者は映画を十分満足して観ていたのだが、魅力の一つはこの映画が中東世界や国際政治の現実について、多くのことを教えてくれることだったと思う。
 「パレスチナ難民」とは、遠く離れた日本では単なる同情の対象だろうが、同じ土地の上で否応なく関わり合いながら生きなければならない人びとにとって、それは何なのか。また、難民問題はEUを大きく揺るがし、加盟各国とも難民排斥を主張する極右政党が議席を伸ばしているが、その問題もこの映画の示唆するところと無縁ではないだろう。国家が分断され分裂することの悲劇は、どのように騒いでも国家的まとまりだけは微動だにしない極東の島国に暮らすわれわれには、想像を絶するものだ―――。
 もう一つの魅力は、主人公二人を演じる役者の演技だった。思い出したくないつらい過去を持ちながら、愚痴をこぼさず誇り高く生きている頑固で無骨な男を、二人の役者はそれぞれ見事に演じていた。特にヤーセル役の初老の男の、もの言わぬ演技が光っていた。 

ジアド・ドゥエイリ監督が語る言葉もまた、光っている。
 「レバノンに希望を見出せるのかどうか、実はわかりません。現在の中東は、歴史上、一番の暗黒時代だと思います。そうしたなかで映画作家に何ができるのか。僕は、映画が解決案を提示できるとは思っていません。唯一できることは、自分自身を見つめ、そこから物語をつくり、観客と共有すること。観客をある旅に誘うことだと思っています。映画で社会を変革することはできないけれど、いくらかの貢献はできると考えています。」

 

(おわり)

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