布哇(ハワイ)旅行
         【ブログ掲載:2016年10月28日~11月11日】

▼先週から今週にかけて、初めてハワイに行った。4泊6日、定番の観光旅行である。
 筆者はこれまで「常夏の島・ハワイ」に、わざわざ出かけるほどの魅力を感じたことがなかった。また、どこへ行っても日本人客でいっぱいという話を聞くと、それだけで意欲は削がれ、以前家族がハワイに遊びに出かけた際も、口実を設けてひとり日本に残ったりした。「志操堅固」と言えば聞こえは良いが、ずいぶん頑なだったのである。
 2年ほど前、ハワイで高校のクラス会を開こうと思いついた。ハワイには同級生のO君が住んでいるし、2年後には高校卒業50年になる。呼びかけたところ10人ほどが手をあげ、今回の旅行となったのである。
 「現地集合、現地解散、現地の行動は自由、ただし全員が参加する夕食会を持つ」ということにしたので、幹事として気も楽だったし、実務上も楽だった。

午前9時前にホノルル空港に着いた。顔写真を撮ったり指紋を取ったりという、他の国では見られない厳重な入国審査に少し時間が取られた。アメリカ本土の空港の入国は、さらに煩雑なのかもしれない。
 ワイキキへ行く途中アラモアナ・センターに立ち寄り、バスの時刻表と4日間乗り放題のチケットを手に入れ、正午にホテルのロビーで仲間4人と落ち合った。他の仲間は一日早く到着したり、別のホテルに泊まったりしている。

昼飯を食べに行き、ビールを飲んでやっと一服。その後、ダイヤモンドヘッドへ行った。
 ダイヤモンドヘッドはオアフ島の南東部にある230mほどの「山」である。古い火山の噴火口を囲む外輪山のうち一番高いところが頂上であり、周囲には海と平地しかないから眺望は著しく良い。曇り空からときどき日が差した。

【ダイヤモンドヘッドから望む太平洋】

【ダイヤモンドヘッドからワイキキの街を望む】

【噴火口の中の登山道。左右はススキの原のように見えるが、ススキではない。その奥が外輪山。】

【アメリカねむの木が、噴火口内の駐車場のわきで巨大な枝を広げていた】

 夜、ハワイ在住のO君にわれわれが無事付いたことを知らせ、明日からの行動の予定を打ち合わせる。時差ボケ解消のために、早々に寝た。

▼ハワイ二日目の朝、同部屋のY君はゴルフに出かけたので、A夫妻と3人で小一時間ほど散歩した。ホテルから1ブロック南へ歩くとカラカウア通りに出、その先の高級ホテル群の向こうは砂浜と青い海である。朝の海岸には人影も少ない。


 朝食後、バスでダウンタウンへ出かけた。







▼飲茶の店で昼食をとり、ワイキキへ戻ることにした。筆者は途中でバスを降り、一人でマキキ教会を見に行った。
 曇り空からときどき細かな霧状の雨が降った。傘を開く間もなくすぐに上がり、日が差しはじめるのだが、またすぐに霧状の雨にもどり、これが何度も繰り返される。土地の人間はこれを「シャワー」と呼び、天候の良い7、8月でもよくあるのだという。
 マキキ教会を建てた奥村多喜衛牧師は19世紀末にハワイに渡り、半世紀以上のあいだ日系人の社会的精神的指導者として活動した人物である。(奥村多喜衛については ARCHIVESに項目あり。)

 奥村が故郷の高知城を参考にして建てた「聖城マキキ教会」は、すぐにわかった。入口が閉まり、人けがなかったので、「シャワー」を避けながら写真を撮り、引き上げることにした。

【教会に城の建築はふさわしくないという批判に対し、奥村牧師は聖書・詩篇の「神はわが避難所、敵から守る堅固なやぐら」という言葉を示し、反論したという】

 

【マキキ教会と道路を挟んでマッキンレー高校がある。その敷地内のアメリカねむの木】

夕方、海辺の高級ホテルのバーで旅行参加者が顔を合わせた。浜辺で打ち上げられる花火を見た後、場所を変えて食事。ビーフ・ステーキを食べるが、可もなく不可もなくといったところか。

【高級ホテルのプールサイドから日没時の海を眺める】

【ミス・ハワイのコンテストが終ったあとか?バーへ向かって歩いていると美女たちが現れたので撮らせてもらった】

 

▼三日目はパール・ハーバーへ行くことを予定していた。朝の時間を節約するために、ホテルの下に入っている食堂で朝食。クリームとイチゴが乗ったパン・ケーキを頼んだが、ふわふわしていてとても不味い。どのガイドブックにもパン・ケーキは、ハワイの名物のようにでかでかと写真入りで紹介されているのだが、どうしたものか。

 A夫妻はO君の車で半日ドライブに出かけ、筆者はY君と二人でバスに乗った。しかし途中で財布を忘れてきたことに気づいた。
 前の晩、ズボンの尻ポケットから出したような記憶があるが、それからベッドサイドのテーブルの上に置いたのか、部屋の金庫に入れたのか、まるで覚えがない。ドル札はポケットに持っているので今日の行動に支障はないが、心配を抱えながら半日を過ごすのも気持ちの良いものではない。今ならまだ、室内の掃除は取り掛かっていないだろう。そう考えて、引き返すことにした。
 Y君と別れ、部屋に戻ったが、財布はテーブルの上にも金庫の中にもなかった。探し回った末に、洗面用具を入れている小さなバッグを覗くと、なぜかその中にあった。年寄りの物忘れと突飛な行動には、我ながら苦笑するしかなかった。

▼結局筆者は、予定より1時間半遅れてパール・ハーバーに着いた。ここにはアリゾナ記念館や戦艦ミズーリ記念館、潜水艦や航空機の博物館などがあり、一帯が公園のようになっている。
 アリゾナ記念館は、1941127日早朝の日本海軍の攻撃とその後の戦闘で亡くなった人びと2400人を追悼する施設である。戦艦アリゾナはその時沈没したアメリカ戦艦のうちの1隻であるが、今もなお乗組員1200人の遺体を残したまま真珠湾の海底に沈み、記念館はその船体の真上に建てられている。
 見学は、数十人ずつ見学者が集まったところで、まず当時の国際政治や日本軍の攻撃の様子を説明する20分ほどの映画を見せ、そのあと海軍のシャトルボートに乗せて記念館まで運ぶ。記念館の中に見学者を入れることもあるようだが、われわれの回は周囲を回っただけで桟橋に戻った。
 戦争へ至る歴史とハワイでの戦闘をもの語る資料館を、ゆっくりと見て回った。真珠湾攻撃がどのように行われ、それに対し米軍側がどのように行動し、あるいは行動できなかったか、事実を客観的に述べるというスタイルで一貫しているように見えた。
 「真珠湾攻撃」と一言で言われるが、日本海軍の攻撃はハワイにある6か所の飛行場に対しても行われ、それらの総称として「真珠湾」が使われていることを、筆者は初めて知った。
 また、山本五十六の主導した航空機主体の攻撃戦術が、それまでの戦艦主体の海戦の常識を一変させたとも述べられていた。
 真珠湾攻撃によりアメリカの太平洋艦隊は壊滅的打撃を受けたが、日本軍の損失は潜水艦と飛行機併せて65人の戦死者を出しただけだったこと、しかし米海軍は6カ月後のミッドウエーの海戦に勝利し、戦争の帰趨を決定したことなどが、淡々と説明されていた。
 「卑怯な不意打ち」などという言葉はなく、日本の爆撃機の「大胆な攻撃 bold attack」、山本五十六の「大胆不敵な冒険 daring gamble」といった、敵を称賛するかのような表現が使われていることが、印象に残った。

【白い記念館の真下、水面下2.5メートルのところに戦艦アリゾナが沈んでいる】

▼スタートが遅れたために、すでに12時をかなり回っていた。戦艦ミズーリ記念館にも行く予定だったが、それは取りやめワイキキに戻った。高級ホテルの浜辺のビーチ・バーでビールを飲み、遅い昼食をとった。

 あとで顔を合わせたY君の話では、彼はアリゾナ記念館には行かず、戦艦ミズーリ記念館と航空機博物館に行ったのだという。
 ミズーリ号の名は、筆者は降伏文書の調印が行われた場所として知っているだけだったが、戦艦として沖縄海戦に出撃しており、特攻機の攻撃を受けている。特攻機のほとんどは敵艦に到達する前に撃ち落されたが、一機だけ体当たりに成功したものがあった。ミズーリの指揮官は戦闘終了後、その飛行士を礼をもって弔うよう指示し、四散した遺体を縫い合わさせ、水葬にしたという。
 ミズーリ記念館にはその飛行士の写真も展示してあった、とY君は感銘を受けたという面持ちで言った。

【ワイキキビーチ。10月末でも日光浴や海水浴の人出は結構ある】

【ワイキキビーチ】

▼夕方、旅行参加者全員が集合する夕食会を、米軍専用といわれるホテルのビーチ・バーで持った。ハワイ在住のO君が手配してくれたのである。全員で13名、中に4組の夫婦があり、初めての顔と久しぶりの顔が入り混じり、会は和やかに盛り上がった。しかし生憎の「シャワー」に見舞われたので、会場を別の場所に移して食事をとった。

【ムードたっぷりなビーチ・バーだったが、あいにくのシャワーで退散】

 夕食会終了後、O君夫妻が自宅に呼んでくれたので、全員喜んでお邪魔することにした。アラワイ運河の近くの彼の家まで、徒歩で幾らもかからなかった。
 高層マンションからの夜景は、素晴らしかった。窓を開けておくと気持ちの良い風が通り、エアコンはあるが夏も冬も使ったことがない、とO君は言った。彼はすでに米国籍を持ち、日本国籍も持っているらしい。「レンホウさんと一緒」と、日本の最近のニュースにも明るいところを見せた。
 

▼四日目は少しのんびりしようと、A夫妻とY君と4人でカイルア・ビーチに出かけた。アラモアナ・センターでバスを乗り換え、そこまではたいへん順調だったのだが、うっかりカイルアを乗り過ごし、終点から引き返す羽目となった。
 カイルア・ビーチはオアフ島東部の海岸で、ワイキキから車で30分の距離である。その美しさは全米有数のものという話だったが、たしかに浜辺の樹々と白砂とエメラルド色の海のつくりだす素朴な景色は、いつまで眺めていても見飽きることがない。
 浜辺の砂は、砂というより粉というべききめの細かさで、手ですくってみてその感触に驚いた。
 海の上にたくさんのカイト(凧)が舞っていた。

 

【カイト(凧)に引っぱられる力でボードを水上スキーのように走らせている人が何人もいた。日本に帰って調べてみたら、カイト・ボードと呼ばれるスポーツらしい】

▼軽い昼食を浜辺近くの食堂で済ませ、バス停まで10分ほど歩いた。途中で「トランプ」と書かれたポスターを見た。大きな字の「トランプ」の下に、少し小さな字で「ペンス」とあり、「アメリカを再び偉大にする」と書かれていた。これが今回の旅行中に見た唯一の大統領選挙のポスターだった。
 もう少し歩くと、住宅の新築工事をやっていた。かなりの豪邸と言える大きさで、プールも備えられていた。だが、一年を通じて温かなハワイの美しい海辺近くで、なぜプールが必要なのか、不思議に思った。
 アメリカ人の「高級住宅」の観念が、彼らを縛っているのではないか、と考えた。「高級住宅」であるかぎりプールは備わっていなければならず、プールがなければ住宅に高い値を付けることができない、といったわれわれには理解できないアメリカ人の「常識」が、そこに介在しているように思った。 
  同じようなことは、アメリカの政治にも言えるのではないか、と筆者の考えは勝手に進んだ。アメリカほど資産格差、所得格差の激しい国で、なぜ格差是正、所得の再分配の主張が堂々と出てこないのだろうか。なぜ、「茶会」のような逆向きの運動ばかりが、盛り上がるのだろうか。ヨーロッパや日本の政治では考えられないことである。
 アメリカでは伝統的に「自助・自立」を尊ぶ精神が強いから、というのが予想される回答だが、その「自助・自立」が動かすべからざる一種のイデオロギーとなって、アメリカ人の思考を縛っているのではないだろうか。そしてそのイデオロギー支配のもとで追い詰められた人びとが、出口のない状況を打ち破ってくれるものとして「アンチ既成政治家」に期待しているのが、「トランプ現象」なのではないか………。
 (不幸なことに、アメリカ社会の「政治」に対する憤懣は臨界点に達していたらしく、「トランプ大統領」を生み出してしまった。同時に行われた議員選挙を通じて共和党は上下両院の多数を制したから、本来なら大統領の政策を実行できる条件が整ったわけだが、ハイパー・ポピュリストのトランプの政策に、議会の賛同を得られるものは多くはないだろう。
 しかし国際政治に関心も経験もなく、最も不向きな性格な人間がアメリカ大統領になることで、世界が不安定化し、既成秩序を破る側を喜ばせることは避けられないだろう。困ったことである。)

 

【浜辺近くの食堂に、オバマ大統領が立ち寄った時の写真が飾ってあった】

▼帰りのバスの終点、アラモアナ・センターで3人と別れ、土産をいくつか買い、ホテルに帰った。
 ワイキキを中心としたハワイの魅力とは何だろうと考えると、結局「テーマパーク」と同質の楽しさ、面白さということになるようだ、と思った。
 日常を離れた豪華で贅沢なパラダイスを演出する、舞台装置としての高級なホテルやブティックやショッピングセンター等々。そこは日常生活とはまったく別のモノサシが支配する場所だから、日本人観光客の多くは3~4日の短い滞在期間に、熱に浮かされたように金を使うのだ。

 夜、われわれの部屋に10人ほど集まり、軽く飲んで旅行の打ち上げ。参加者は皆それぞれ満足そうな面持ちだったが、筆者もひと仕事無事に終える満足感に浸った。〈ハワイ〉という体験も悪くはなかった、と思う。それが予期した以上に充実した時間となったのは、旧友たちと一緒に過ごした時間だったからであろう。

 

▼帰りの航空機の座席は一番後ろの列だった。客室乗務員の作業スペースとトイレの近くなので、頻繁に人が横の通路を通る。
 ひどい席になりましたな、と隣の男が声をかけてきた。機内は肌寒いのに半袖のTシャツ姿で、かなりの年配のように見えた。お一人ですか?と話を向けると、ハワイが好きでよく一人で行くのだと言った。
 ………でももう飽きた。いま76歳ですが、買いたい物もないし、食事も油っこくて美味くない。日本食が一番………
 ………初めてハワイに行ったのは1ドル360円の時代だった。外貨の持ち出し制限がありましてね、あまり買い物をして帰ると日本の税関で捕まってしまう。ガイドが、ギャンブルで儲けたと申告すればよいと知恵を付けてくれた………
 ………泳ぐのが好きなんで、プールで泳いで、あとは一日ホテルの窓から外を眺めていました………

 「もう飽きた」という彼のつぶやきには、もう十分遊んだからという思い以外に、自分の老いが重ねられていたかもしれない。見ず知らずの男の言葉には、どこか胸に響くものがあった。
 芭蕉の名句をもじって一句が頭に浮かんだ。

おもしろうてやがて哀しき布哇かな

(終)

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