光市母子殺害事件
               【ブログ掲載:2012年3月9日~3月30日】



 「原発」についてのblogを続けていたので、取り上げるのが遅くなったが、先月2月20日に「光市母子殺害事件」の最高裁判決があった。
 事件の発生は1999年の春。翌年、山口地裁が犯人の少年に無期懲役の判決。検察側が控訴したが、その2年後に広島高裁は控訴棄却を言い渡した。検察側は上告し、2006年に最高裁は二審判決を破棄し、高裁に審理を差し戻した。
 広島高裁では2008年に死刑の判決を出し、弁護団が即日上告、その結論が今回の判決「上告棄却」だった。少年の死刑が確定した。
 この事件の裁判の行方ほど、社会的な関心を集めた裁判は近年なかった、といってよい。
 被害者は若く美しい母親と
1歳にもならぬその娘であり、加害者は18歳になったばかりの「少年」だが、抵抗する母親を殺し、死姦し、泣きやまぬ幼児を殺し、それでも罪の意識の希薄な男だった。
 被害者の夫であり父親である本村洋は、現在の法制度、裁判制度の下で被害者がいかに不当な扱いを受けているかを、切々と社会に訴えた。事件後に、被害者の名前はマスコミを通じて社会に一方的に晒されるのに、加害者の名は「少年」であることを理由に伏せられること、少年犯罪について被害者の「知る権利」は一切認められていないこと、そもそも刑事訴訟法のなかに「被害者の権利」の言葉はなく、被告人の権利が種々保障される中で、被害者はまるで無視されていること………。
 本村も参加して結成された「全国犯罪被害者の会」の活動は世論を動かし、遺族傍聴席を確保したり、公判記録を閲覧・コピーする権利を定めた犯罪被害者保護法が生まれた。犯罪被害者が法廷に立ち、自分の意見を陳述することも認められるようになった。
 また「少年法」も改正され、16歳以上の少年による重大事件は家裁の審判ではなく、刑事裁判にかけられることが原則となり、少年審判でも重大事件の場合は、被害者の傍聴が認められるように変わった。

 


 この裁判ほど善悪の役どころの明確なドラマは、珍しいだろう。

 主役はもちろん妻と娘を失い、彼女たちを守れなかったことで自分を責めながら不条理と戦う若い夫であり、悪役は犯人の少年とその弁護団、そして犯罪被害者を無権利状態に放置する日本の法制度、裁判制度である。
 「反省の情が芽生えている」と認定した一審判決に反論するために、検事は控訴審に犯人の少年が知人に送った手紙を提出し、読み上げた。 

《犬がある日かわいい犬と出会った。……そのまま「やっちゃった」、……これはつみでしょうか》 

《無期はほぼキマリでして、7年そこそこで地上にひょっこり芽を出す》 

《知ある者、表に出すぎる者は、嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよアケチ君。》 

《ま、しゃーないですわ今更。被害者さんのことですやろ?知ってま。ありゃーちょーしづいてると、ボクもね、思うとりました。……でも、記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんのなら好きにしてやりたいし》………。 

マスコミの報道は、この新たな証拠を大きく取り上げ、世論は沸いた。諄々と正義を説く本村洋の立派な態度と雄弁は、世論の圧倒的な共感を呼び、この控訴審では叶わなかったものの、上告審では「審理差し戻し」の判決を引き出すことに成功し、差し戻し控訴審でついに死刑判決を勝ち取った。
 勧善懲悪劇は大団円を迎え、観客席の国民は胸をなでおろし、溜飲を下げた。今回の再度の上告審は、すでに結論が出され世論が満足したドラマの、いわばエピローグにすぎなかった。最高裁の裁判官たちは国民の見守るドラマを台無しにするような勇気を、とても持ちえなかったであろう。 

このドラマの中で、犯人の少年とならんで際立った悪役を演じたのは、21名の大弁護団である。彼らは最高裁が「無期懲役」という高裁判決をくつがえし、「死刑」判決を出すかもしれない動きを見せた後に、それまでの弁護士に替わり手弁当で少年の弁護を引き受けた。
 彼らの多くは「死刑廃止」論者だといわれるが、従来の「相場」を超えて犯人の少年の死刑を求める世論に対する反発や危機感が、彼らを突き動かしていたのだろう。しかし筆者には、彼らを突き動かす「死刑廃止」の主張がよく分からない。

 

3.
 死刑廃止運動を積極的に行っているアムネスティのサイトを覗いたら、寄せられた質問に答える形で自分たちの考えを述べているページがあった。

 質問者は「光市母子殺害事件」を例に、次のように言う。 

―――極端な悪事をした人間はやはり極刑に処するというのが何度考えても妥当だと思います。(中略)被害者の遺族、Mさんの身になってください。人間だったらとても死刑廃止なんてことは言えないと思います。それを言うんだったらこういう極端な悪人がなぜ命を助けられねばならないか、なるほどという納得のいく説明をすべきだと思います。(以下略) 

 アムネスティの回答は次のようなものだ。 

―――(前略)女性を強姦して殺し、なおかつ年端も行かないその子どもの命まで奪う、こんな人間は殺してやりたい。私だってそう思います。(中略)
 でも、殺してやりたいと思うことと、実際に殺して良いかは、別の問題です。
 もし、あなたの友人の家族が殺されて、友人が犯人をその手で殺そうとしたらあなたはどうしますか?お前の気持ちはよく分かる。殺してしまえ。俺も手伝ってやる。と言うでしょうか。それとも、お前の気持ちはよく分かる。でも殺してはいけない。我慢しろ。と、止めるでしょうか。(中略)
 いかに極悪非道な行いをした人間であるからといって、私達にその人間の命を奪う権利があるでしょうか。死刑が、それ自体、またあらたな殺人であることは、否定のしようがありません。死刑を認めるということは、私達が殺すということです。自分が殺すということです。私達は、なぜ殺人を犯してもよいのですか。その殺人を誰かに(刑務官に)押しつけても良いのですか。
 死刑は、悪人に彼が犯した罪と同じ目にあわせるだけだと言われるかもしれません。では、暴力犯は皆で殴ってよいのですか。放火犯の住居は燃やして良いのですか。轢き逃げ犯は轢き殺して良いのですか。(以下略)    (回答担当:T)

 こういう幼稚で浅はかな「説明」をされては、挨拶に困る。世の死刑廃止論者もさぞ迷惑なことだろう。
 アムネスティのT氏の頭のなかでは、私刑(リンチ)と国家の刑罰が同じようなものとみなされ、私刑(リンチ)否定の論理が類推適用されて国家の刑罰否定の論理となるらしい。しかしあらためて説明するまでもなく、私刑(リンチ)否定の論理こそ国家の刑罰制度を導き出すのであり、それが近代国家の原則である。
 T氏はしきりに、「死刑を認めるということは、私達が殺すということです。自分が殺すということです。」と言いつのる。しかし国家の刑罰として死刑制度を認めることと、「私達が人を殺す」こととはまったく別のことだ。

 

4.
 死刑廃止は世界の趨勢だと言われる。

 1966年に『市民的及び政治的権利に関する国際規約』(以下、「国際人権規約B規約」と略す)が、国連総会で採択された。1948年の『世界人権宣言』は、人権に関しすべての国が達成すべき基準を示すものだったが、「国際人権規約B規約」はそれを受け、批准国に対し法的拘束力を持って実施を義務付けるものだった。
  その第6条1項は、「すべての人間は生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保護される。何人も、恣意的にその生命を奪われない」という。
 しかし、死刑廃止までは踏み込まず、死刑は最も重大な犯罪にのみ科することができるが、18歳未満の者に科してはならず、妊娠している女子に執行してはならない、と規定するにとどまっていた。
  1989年の国連総会で、いわゆる「死刑廃止条約」が採択された。これは正式には、「死刑の廃止を目的とする『市民的及び政治的権利に関する国際規約』の第二選択議定書」という名称の規約である。「国際人権規約B規約」に付属する形をとりながら、これを締約した国に適用される別個の条約である。
 「第二選択議定書」は初めて、「死刑廃止」を締約国に義務付けるものとして規定した。 

《第一条 1 何人も、この選択議定書の締約国の管轄内にある者は、死刑を執行       されない。
       2 各締約国は、その管轄内において死刑を廃止するためのあらゆる必       要な措置を取らなければならない。》 

 つまり、死刑の廃止という「理想」をいきなり掲げても国際的コンセンサスは得にくく、かりに規約が成立しても多数の国が参加することは期待できないという状況の下で、国連は巧みに二段構えの戦術をとり、「死刑廃止」の支持を広げてきたということだ。
 アムネスティによれば、この「第二選択議定書」の締結国は昨年1227日現在、73か国だという。しかし日本は、「国際人権規約B規約」は締結したが、「第二選択議定書」は署名も批准もしていない。
 筆者には、「死刑廃止」に邁進するこの国連の動きが、どうも納得がいかない。

 「国際人権規約B規約」の前文には、「これらの権利が人間の固有の尊厳に由来する」という文言があるから、「人権」を「人間の尊厳」という観念によって基礎づけ、この観念から「死刑廃止」を主張していることがわかる。
 しかし「人権」は「犯すことのできない永久の権利」(憲法11条)であるとしても、絶対無制限であるわけではない。B規約の「前文」もこの規約が、「個人が他人に対しおよびその属する社会に対して義務を負う」という認識のもとにあることを、明記している。
 他人や社会に対する義務を果たさず、他人の「人権」を侵害した人間について、その身体が拘束され法に従って処罰されること、つまりその「人権」が制約されることは、当然のことである。いかなる程度に処罰するかは、国家社会の決めるところであり、「人間の尊厳」という観念から一律に「死刑廃止」の結論を導き出して良いとは思われない。 

 また、「人間の尊厳」と「人命の尊重」は、混同されてはならないと思う。「人間の尊厳」の観念は、社会の文化に深く根ざしているのであり、世界の趨勢などという軽薄な理由で判断を動かすべきものではあるまい。
 「7年そこそこで地上にひょっこり芽を出す」ような判決に対し、遺族が「人間の尊厳」への侮辱を感じ、強く反発したのは当然と思われる。


5.
 「人間の尊厳」について、もう少し考えてみよう。

 中山義秀に『少年死刑囚』という中編小説がある。1950年(昭和25年)に発表されたもので、数え年18歳だった2年前に地裁で死刑判決を受けた少年の手記、という形をとっている。 

 少年は父親が外で作った子どもで、母親を知らず、祖父母に育てられる。幼少時から盗癖があり、祖父母を嘆かせた。昭和20年に強盗を2度やり、函館刑務所に送られる。
  昭和22年秋、仮釈放。しかし、空腹で倒れそうになっていた少年に親切に声をかけ、自宅で芋まで食べさせてくれた老婆を、もっと食糧にありつきたい思いから殺してしまう。さらに金品を盗もうと祖父母の家に忍び込み、気づかれて祖父母といとこ夫婦をナタで惨殺、証拠を隠すために家に火をつけたところで逮捕された。
  死刑の判決が出たのち、「死の恐ろしさとそれを待つ苦痛」から逃れるために、自分でも読めるような読み物を欲しいと、教誨師の僧侶に頼む。教誨師は歎異抄を勧めた。少年は暇にまかせて親鸞の教えを読み、教戒師の説明を聞くうちに、阿弥陀仏へ帰依するようになる。そして少しずつ死の重荷が軽くなり、心が明るくなり、早くこの世を旅立ち彼岸の浄土へ行きたい、と願うようになった。
 死の悩みから救われるとともに、少年は気力を取り戻し、快活になり、身体も丸々と太ってきた。 

《私は今、自分の体内が光り輝くやうな気持で生きてゐる。阿弥陀さまが私の中に住んで居られるからだ。私はいつ刑場にひきだされてもいいように、監房内を塵一つ落ちてゐないやうきちんと片付けておく。私は一日もはやく、祖父母の待ってゐる極楽へ、飛んでゆきたい思いでいっぱいだ。憎みも争いも苦しみもない、楽園の浄土界。そこにほんたうの私の生活がある。
 私の処刑は朝のうちに行はれる、ということを知ってゐる。朝になると雀が、私の監房の窓辺に飛んでくる。私がそこへ飯粒を置いておくからだ。私がゐなくなれば、雀は失望するに違ひない。それが私のこの世にのこす、唯一つの心がかり………南無阿弥陀仏。》 

 少年の手記はそこで終わっている、と中山義秀は書く。そして後日談を付け加える。
 刑務所の視察に訪れ、少年の微笑と明るく輝く表情に感動した婦人代議士が、2年後のある偶然の機会に、少年がまだ生存していることを知らされる。あのようによい子供を、むざむざ殺したくないという人々の計らいで、刑一等が減じられ、無期囚として労役に服しているということだった。
 さっそく少年に会いに出かけた婦人代議士は、愕然とした。 

《まるまると肥ってゐた彼が、再び見違へるばかり瘦せおとろへ、人に咬みつきそうな凶相に変ってゐたからである。
 楽しい憧れをもってあの世に旅立たうとしていた少年は、ふたたびこの世にひきもどされて絶望してしまった。彼は閉ざされた獄舎の生活に、何の希望も見出しえなかった。
 少年ははるばると訪ねて来てくれた婦人代議士にたいし、涙を浮かべて訴へた。
 「なぜあの時、私を幸福に死なせてくれなかったのでせう。あれから2年あまり経ちますが、私は毎日生きてゆくのが苦しくてならんのです。(以下略)」》 

 団藤重光によれば、この小説は「ノン・フィクション」だという。中山義秀は刑務所事業の外郭団体「矯正協会」の人のはからいで、受刑者や死刑囚の手記を見せてもらい、この小説を書くに至った。団藤が婦人代議士のモデルの女性に尋ねたところ、「まるまると肥ってゐた彼が、再び見違へるばかり瘦せおとろへ、人に咬みつきそうな凶相に変ってゐた」のも事実だという。(団藤重光『死刑廃止論』1990年) 

 多くの死刑囚は、死の恐怖に恐れおののいているかもしれない。しかし少数とはいえ、死刑判決を受け自分の死と向き合う中で、立派な心境にいたる人間もいる。
 被害者遺族もまた、犯人を死刑にすることが正しいことなのかどうか、さまざまに迷い悩みながら、結局死刑を求める人々もいれば、犯人を憎み続けることに耐えられなくなり、犯人を赦した方が死んだ家族も救われるのではないか、という結論にいたる人々もいる。
 「人間の尊厳」という観念は、それらのすべてを視野に含んでいなければならない。人間の多くの苦悩や葛藤を視野のうちに含んでいるからこそ、そこで得られた結論は尊重に値するのだ。だから筆者は、加害者の生命の保護のみに小児病的に執着し、それを正義として少しも疑わず、国連を通じて各国に強要する動きには、不健康な傲慢さを感じ賛成する気にはなれない。
 「人間の尊厳」を掲げて死刑廃止を主張することも、「人間の尊厳」を守るために加害者の死刑を求めることも、理屈としてはいずれも成立するのだろう。
 結局これは、その社会が正義や公平や人間の尊厳をどう考えるかという問題であり、それぞれの答えを模索していくしかないのである。 

本村洋は、死刑判決確定後の記者会見で語った。
 「ずっと死刑を科すことについて考え、悩んできた13年間でした。」
 「遺族としてはたいへん、満足しています。ただ決して、嬉しさや喜びの感情はありません。厳粛に受け止めなければならない。」
 「勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者なんだと思う。」
 「(被告は)眼前に死が迫り、自分の死を通して感じる恐怖から自ら犯した罪の重さを悔い、かみしめる日々が来るんだと思う。そこを乗り越えて、胸を張って死刑という刑罰を受け入れてほしい。」

 迷いぬき考えぬいた人間の言葉の重さに、筆者はただうなずくだけである。

 

6.
  死刑廃止を主張する論議の中で筆者が唯一理解できる理由は、誤判の問題である。

 最高裁判事を務めた団藤重光が死刑廃止を主張する一番の理由も、それである。(『死刑廃止論』1990年)
 団藤は最高裁で白鳥事件の再審請求を担当し、再審事由を従来の基準よりも緩やかにしたいわゆる「白鳥決定」と呼ばれる判決を出した。それまでの再審請求では、「無実の明らかな証拠」がなければ再審は認められなかった。それを確定判決の事実認定に「合理的な疑い」が生じた場合にも、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則を適用し、再審開始を認めることとしたのである。
 「白鳥事件」自体は抗告棄却となったが、その後再審が認められ死刑囚が無罪になるケースが、免田事件、財田川事件など4件も短期間に起こった。そのことは団藤に、大きなショックを与えた。もしも「白鳥決定」で再審の基準を緩和していなければ、4人はおそらく無実のまま死刑を執行されていたに違いない。「白鳥決定」以前に再審の請求をしたにもかかわらず棄却され、死刑になった人は相当数いるのではないか。明治以来のことを考えたら、たいへんな数になるだろう。人間が人間を裁く以上、誤判の可能性はつねに存在すると考えなければならない。……… 

 日本とならんで、死刑を廃止していない数少ない先進国のひとつであるアメリカでも、誤判の問題は指摘されている。 

 《1990年代にはDNA鑑定の到来で、罪のない人々が凶悪な犯罪の罪を着せられてきたことが、続け様に判明した。無実とされたものの多くは、死刑囚房に入れられていた。2003年5月の時点で、死刑情報センターの算出によると、合衆国で死刑判決を受け、後に法的に無実とされたものは108名にのぼった。》
(『極刑』スコット・トゥロー)
 

 もちろん誤判があってはならないのは、殺人事件であろうと痴漢事件であろうと変わりはない。(『それでもボクはやってない』周防正行!)
 しかし、と団藤はいう。
 《万一誤判があった場合の救済の点で、決定的な違いが出てくる。死刑執行後の再審で無罪になって遺族に刑事補償が与えられても(刑事訴訟法4条3項)、それが何になろう。懲役刑などの場合でも、失われた青春は再び戻って来ないが、生命とは比較すべくもないのである。》 

 誤判はあってはならない。だから誤判をゼロに近づけるための様々な仕組み、たとえば取り調べの可視化とか、検察の持っている情報を検察に不利なものも含めてすべて開示するといった制度をつくることは必要だろう。しかしそれでも論理的には、誤判はゼロにはならない。誤判の可能性を突き付けられて、たじろがない死刑必要論者はいない。
 しかし、一般論として誤判の可能性がゼロではないことと、個別具体的な事件についての判断は別であるべきだろう。制度として死刑の存廃問題を考えることと、実務の問題として死刑の執行を考えることは、切り離して考える余地があるように思われるがどうだろうか。

 

7.
 光市母子殺害事件の裁判劇を見ていて、弁護士を見る社会の眼が変わったことを強く感じた。

 われわれが見慣れている戦後の法廷劇は、国家権力に弾圧される無実の被告を弁護士が助け、苦心の末救い出すというものだった。弁護士は社会正義を背負って権力と対峙するのであり、観客の感情移入は当然被告や弁護士の側にあった。
 「八海事件」を扱った今井正の『真昼の暗黒』や、「徳島ラジオ商殺人事件」を扱った山本薩夫の『証人の椅子』などを昔観たが、なかなか見ごたえのある作品だったと思う。警察・検察側の汚いやり口への怒り、正義の主張が受け入れられない悔しさ、それでも垣間見える未来への希望など、観終わった後の充実感は、権力と闘う主人公や弁護士との一体感から生まれたものだった。
 しかし「光市母子殺害事件」裁判劇では、観客のシンパシーは悪と闘う被害者遺族や検事とともにある。弁護士は憎むべき悪に味方して荒唐無稽な弁論を展開する「社会の敵」であり、嘲罵の対象である。 

 なぜ、このような転換が起こったのか。
  戦後社会に支配的だった「進歩的言説」が、見る影もなく力を失った時代の変化に理由を求めることは、半分は正しく半分は誤まりだろう。罪を犯した少年は社会の犠牲者であり、その背景を理解しなければならないといった安易な議論は、とっくに信用を失い、「人権派」という揶揄にさらされていたが、この裁判における弁護士たちの言動も、「進歩的言説」の信用をさらに失墜させる原因になったからだ。
  また、一時の感情に流される大衆の気まぐれや、異質なもの・逸脱したものに不寛容さを増した社会の側に問題がある、と捉えるのも正しくない。殺人事件の被害者家族の苦しみや怒りへ正当な光が当てられ、なかでも少年犯罪の被害者家族が立たされてきた制度的な不条理が大きな問題とされたとき、「人権」を声高に叫んできた弁護士たちも制度に加担してきた責任を問われた、ということである。
 しかし弁護士たちにそのような自覚は薄い。少年の弁護団の中心となって活動した安田好弘は、次のように言う。 

《被告人である少年は、検察官によって少年法「改正」に利用され、最高裁によって死刑の拡大に利用された。》
 《家裁は、少年の精神発達が未熟であるとし、少年の矯正可能性と要保護の必要性を認めている。つまり本来なら、少年院で適切な矯正保護的なケアと教育が行われるべきであった。》(『死刑弁護人』安田好弘2008年) 

彼らは少年の弁護活動をしたことについて、批判されるべきではない。しかし、被害者遺族の言葉をまともに受け止められない彼らの感性の欠落とルーティン化された思考は、批判されねばならない。
 被害者遺族の知らないところで「少年院でのケアと教育」の決定がなされ、遺族は一言の発言も許されないという従来の不条理な制度について、彼らは無関心であったばかりでなく、改善に反対の行動すらとった。
 社会の不正や不条理に対する彼らの感度の低さは、それを社会的に期待される職にいる者として、十分非難に値すると思われる。

 

(終)

 

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