否定と肯定
                    【ブログ掲載:2017年12月29日】


▼「否定と肯定」(監督:ミック・ジャクソン)という映画を観た。「ホロコースト」に関する「論争」をめぐる実話の映画化である。
 デボラ・E・リップシュタットは、米国のアトランタのエモリー大学で、現代ユダヤ史とホロコーストについて教鞭をとる大学教授である。ホロコーストを否定しようとする人々について詳細に調査し、1995年に『ホロコーストの真実』という本を書いた。その中でデイヴィッド・アーヴィングという歴史学者を、ヒトラー信奉者、ホロコースト否定者だと批判したところ、アーヴィングは、名誉を傷つけられたと、リップシュタットと本の出版社を訴える裁判を起こした。映画はこの裁判を法廷劇として描いたものである。
 アーヴィングがリップシュタットを提訴したのは、イギリスの裁判所だった。イギリスの裁判では、米国や日本のように名誉棄損を訴えた側に挙証責任があるのではなく、訴えられた被告側が無実であることを証明する責任があるのだという。また弁護士は事務弁護士(ソリシター)と法廷弁護士(バリスター)に分かれ、事務弁護士は全体の戦略を考え、調査や書類作成を担当するが、法廷には立てず、法廷で被告の利益を代表して発言するのは法廷弁護士である。
 リップシュタットは、皇太子妃ダイアナの離婚交渉にも関わったというやり手の事務弁護士・アンソニー・ジュリアスに弁護を依頼し、ジュリアスは法廷弁護士のリチャード・ランプトンをはじめ、十数名の弁護士からなる弁護チームをつくりあげる。一方アーヴィングは、弁護士を立てず、自分自身が法廷に立つと裁判所に届け出た。
 ジュリアスの方針は、法廷を激しい感情の行き交う場ではなく、あくまでも事実の有無を中心とする理性的な手続きを通じて、リップシュタットの著作の内容の正しさ、すなわち彼女の無実を証明することだった。彼はそのために、陪審員抜きの裁判を希望すると、裁判長に申し出た。その理由を尋ねるアーヴィングにジュリアスは、あなたが数十年かけて調べてきた歴史の事実について、陪審員が短時間で理解し、正しい判断をすると期待できるだろうか、と問いかけ、アーヴィングは陪審員抜きの裁判に同意する。
 ジュリアスはまた、リップシュタットを法廷に立たせないこと、ホロコーストの被害者たちを法廷に呼ぶこともしないことを、弁護団の方針として決めた。
 

▼法廷は20001月に始まった。裁判は世間の注目を集め、公判廷に入るアーヴィングはさっそく記者たちに囲まれ、裁判にのぞむ方針や見通しを得意げに喋った。リップシュタットのまわりにもカメラマンや記者たちはやってきて、マイクを向けコメントを求めたが、彼女は弁護団の方針通り、沈黙を通した。
 冒頭陳述でアーヴィングは、自分は極悪非道な国際的陰謀によって迫害されている被害者だと言い、アウシュヴィッツで観光客に公開されているガス室は、終戦後にポーランド人が造った偽物であることを証明して見せよう、と言った。
 被告側の冒頭陳述では法廷弁護士のランプトンが、アーヴィング氏は歴史家と称しているが、実際のところは歴史を歪曲する人物に過ぎない、この裁判は歴史の解釈をめぐる争いではなく、真実か虚偽かを争うものだ、と主張した。
 法廷が閉められ、外に出たリップシュタットは、一人の小柄な老女に腕を掴まれた。その女は袖をまくって自分の腕の数字の入れ墨を見せ、自分にぜひ証言させてほしい、と頼んだ。 
 彼女の申し出に感銘を受けたリップシュタットは、必ずあなたを証言台に呼ぶ、と約束する。
 弁護チームの打ち合わせのなかで、リップシュタットはホロコーストの被害者を証言台に呼ぶことを提案するが、ジュリアスは拒否する。証人に立ったホロコーストの被害者が、アーヴィングからどのような些末な質問攻めにあうか、どのような屈辱的な目にあうかを考えれば、呼ぶべきではない、というのが彼の揺るがぬ方針だった。
 

▼「ロイヒター報告」という文書がある。ロイヒターは、80年代にカナダで行われた「反ユダヤ主義」の文書を頒布するツンデルをめぐる裁判で、殺人目的のガス使用はなかった、と証言したボストンの「技術者」である。彼はアウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの収容所跡を調査し、煉瓦とセメントのかけらを密かに持ち帰り、化学分析にかけた。その結果、「ガス室」の壁に残された毒物「水酸化シアン」の残留物は、衣服のシラミを駆除する部屋の壁に残されたそれよりも少ないことが分かった。このことは、ユダヤ人の殺害に使用した「ガス室」は、存在しなかったことを意味している、というのがロイヒターの結論だった。
 ツンデル裁判では、ロイヒターが「化学分析」を行うにふさわしい学歴も職歴もないことや、また「水酸化シアン」に対してシラミは人間よりもはるかに高い抵抗力を持つこと、つまり人間を殺すよりもシラミ駆除の方が、濃度の高い毒物を長時間使用することが必要なことが、明らかになった。ツンデルは有罪となったが、アーヴィングはこの裁判に、ツンデルを支援する側で関わっていた。 

 リップシュタットが訴えられた裁判で、ランプトンは「ロイヒター報告」を取り上げ、アーヴィングに質問した。「あなたが言うように処刑用のガス室が存在しなかったのなら、ロイヒターのサンプルに、ごく微量とはいえ水酸化シアンの痕跡が認められたことを、どう説明するつもりですか?」
 アーヴィングは、その部屋は囚人の所持品や、死体の燻蒸消毒に使われていたからです、と答えた。
 裁判官はあっけにとられた表情で、なぜそんなことをする必要があるのかと問うと、アーヴィングは、死体にシラミがたかっているからです、と答えた。
 ランプトンは、死体は焼却するのだから燻蒸する必要などない、と言い、さらにガス室のドアにのぞき穴が付けられ、内部に鉄格子が付いている理由を質問した。所持品や死体が動き出すはずがなく、見張る必要などないではないか。
 アーヴィングは、ドアは防空壕に使う既製品だからだと言い、また部屋は親衛隊員の防空壕だったとも言った。
 今度は防空壕ですか、とランプトンは皮肉たっぷりに言った。親衛隊員の兵舎は4~5㎞離れている。その距離を重装備の兵士が走ってくるというのは、馬鹿げています。――― 

▼アーヴィングはホロコースト否定を主張しはじめる以前から、ヒトラーの礼賛者だった。彼は、ヒトラーがホロコーストを命じた文書はない、と言い、それどころかヒトラーは、ユダヤ人を殺すなと命じてさえいた、と主張した。その根拠は、側近ヒムラーの日記の断片だったが、それを意図的に読み間違ったり、捻じ曲げて解釈していることが、法廷で明らかにされた。
 アーヴィングのネオ・ナチの集会や反ユダヤ主義の集会での講演内容も、続々と法廷で紹介され、彼が反ユダヤ主義者、人種差別主義者であることも明らかになった。
 4月に判決が出され、裁判長は原告敗訴を言い渡し、さらに訴訟費用200万ポンドの支払いをアーヴィングに命じた。
 この裁判の結果、「言論の自由」は制約を受けることになるのだろうか。 
  この裁判は言論の自由を制約するものではない、言論を言論の自由を破壊するデタラメから守ったのだ、という趣旨の主人公の感想で、映画は終わる。

 映画は一応合格点の出来といえるだろう。アーヴィング役(ティモシー・スポール)とランプトン役(トム・ウィルキンソン)の役者の演技が、印象に残った。
 

▼映画の内容をリップシュタットの著作(『否定と肯定』2017年)によって、少し補足しておく。
 デイヴィッド・アーヴィングは、1938年に英国海軍士官の家に生まれた。ロンドン大学を中退し、ドイツのルール地方の製鉄所で働き、この時期にドイツ語をマスターした。60年代初めに英国に戻り、25歳のとき第二次大戦末期の連合軍のドレスデン爆撃を痛烈に批判した最初の著書『ドレスデンの破壊』を書き、批評家の称賛を浴びた。以後、著作活動はハイペースで進んだが、名誉棄損の訴訟を起こされ、敗訴することも多かった。
 1977年に『ヒトラーの戦争』を出版。多くの学者が批評を書き、史実の歪曲を批判したが、史実の調査に関するかぎり、他の追随を許さぬ努力家だと認める学者もいた。
 リップシュタット裁判の裁判長は、判決文の中で次のように書いている。

 《アーヴィング氏の史実の扱いは歪曲と間違いがひどすぎて、不注意によるミスとの弁解を受け入れるのは困難です。……これらの間違いや誤解は、自分の先入観と合致させるために、史実を意識的に誤って伝えたり、改竄したり、ねじ曲げたりしようとする氏のやり方に沿ってなされています。……氏は意図的に史実を歪曲して、自分の政治信念に合う形にしてきたのです。》


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