「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」

              【ブログ掲載:2017年4月14日~4月21日】



そのうち観ようと思って録画しておいた映画、「父親たちの星条旗」(2006年)と「硫黄島からの手紙」(2006年)を観た。太平洋戦争末期の硫黄島の戦闘を、日本とアメリカ双方の視点から描いたもので、いずれもクリント・イーストウッドが制作に関わり、監督もしている。
 「父親たちの星条旗」は、アメリカ側から見た硫黄島の戦いである。『硫黄島の星条旗』(ジェイムズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ共著)という本が2000年に刊行され、アメリカで一大ベストセラーとなったが、クリント・イーストウッドはこの本を映画化したのである。
 硫黄島の戦いの中で撮られた有名な写真がある。硫黄島の南西端に擂鉢山という名の160メートル余の休火山があるが、死闘の末にこの山を占拠した米軍兵士が、ここにアメリカ国旗(星条旗)を掲げた瞬間を写した写真である。兵士たちが星条旗を縛り付けた竿を頂上の地面に突き刺し、両手を伸ばして竿を立てようとする瞬間であり、この写真は新聞の一面を飾り、のちに切手となり、アーリントン墓地を飾る銅像となった。
 星条旗を立てた6人の兵士のうち3人は、その後の硫黄島の戦闘で亡くなったが、残りの3人は「英雄」として故国で迎えられた。アメリカ政府は、3人を使って「戦時国債」の購入を呼びかけるキャンペーンを繰り広げ、大きな成果を上げる。しかし3人の若者には硫黄島の戦闘の凄惨な記憶がつきまとい、二人は若くして死に、一人は沈黙を強いられる生涯を送った。
 映画は硫黄島での戦闘の恐怖と、生還した3人の兵士の心の傷を描く。

 「硫黄島からの手紙」は、日本の硫黄島防衛の総指揮官・栗林忠道中将を主役に、日本軍兵士の絶望的な戦いを描いた映画である。日本軍兵士は、地下深くに構築した地下壕や自然の洞窟に拠り、進行するアメリカ軍の兵士を砲撃し、狙撃する。これに対しアメリカ軍は、戦車や火炎放射器を使い、日本兵の潜む地下壕をしらみつぶしに潰していく。
 脚本は「アイリス・ヤマガタ」とクレジットに出ていたが、原作にあたる何らかの書物があったわけではなく、日本側の戦闘記録をもとにストーリーを考えたようだ。栗林中将の家族へ宛てた絵手紙が、少し前に日本で刊行されていたから(『玉砕総指揮官の絵手紙』2002年 栗林忠道著/吉田津由子編集)、そのあたりも参考にしたのだろう。

硫黄島は面積わずか22平方キロメートル、品川区とほぼ同じ広さしかない平坦な島である。南西の端にある摺鉢山がもっとも高く、黒い火山灰に覆われ、いたるところで硫黄ガスが地中から噴き出している。硫黄と燐鉱の採掘を産業として1000人ほどの島民が住んでいたが、水が乏しく稲作はできなかった。
 行政的には東京の小笠原村に属し、東京から1250km、サイパン島から1400kmであり、東京とサイパンを結んだ直線のちょうど中間の位置に、硫黄島はあった。硫黄島が比較的平坦な地形であり(そのため軍の飛行場が二つあり、三つ目を建設中だった)、サイパンから東京へ向かう中間に位置していたことが、島の運命を決めた。
 アメリカ軍は「超空の要塞」と呼ばれた爆撃機・B-29をサイパン島に配備し、日本本土を空襲する計画を立てた。しかし問題は、東京までの2600kmB-29は往復することができたが、航続距離の短い戦闘機はそれが不可能であり、B-29は戦闘機の護衛なしに爆撃に向かわなければならないことだった。
 また硫黄島のレーダーが米軍機を感知して本土に知らせ、硫黄島から戦闘機が飛び立ってB-29を攻撃してくる恐れもあった。
 硫黄島を手に入れ、島の滑走路を活用すれば、アメリカはより安全な形で日本の空襲を行うことが可能となり、被弾した航空機が不時着することも可能になる。
 一方そのことをよく知るがゆえに、栗林中将にとっても硫黄島の防衛は、本土の空襲を阻む大事な戦いだった。

栗林中将が硫黄島に赴任した昭和19年6月、マリアナ沖海戦が行われ、日本海軍は空母と航空機の大半を失った。アメリカ軍はこの勝利により、マリアナ諸島、小笠原諸島を含む中部太平洋の制空権・制海権を手に入れる。マリアナ諸島の一つであるサイパン島の守備隊3万人は、翌7月の初めに玉砕し、住民の死者も1万人にのぼった。
 日本軍の伝統的な島嶼防衛の戦術は、「水際作戦」だった。海岸近くに陣地を構築し、敵が上陸しようとする瞬間をとらえて撃破する作戦である。歩兵を積んだ上陸用の船艇は、十分な火力を装備していないから、上陸する際、敵の攻撃力は弱まる。そこを陣地から狙い撃ちにすることで、敵に大きな打撃を与えるという戦術は、それなりに合理的だった。
 しかし戦力がけた違いに大きいアメリカ軍相手に、「水際作戦」が依然有効であるかどうかは疑問だった。水際に構築した陣地は、遮蔽物がないため容易に艦砲射撃や空爆の的となり、事前の徹底した攻撃によって破壊されてしまうからである。また敵兵の上陸作戦は、強大な艦砲射撃や空爆によって援護されるから、期待されるような打撃を与えることは難しい。

 栗林中将が着任した時、島では「水際作戦」の方針に基づき、海岸近くでの陣地構築作業が進んでいた。しかし栗林は、島の隅々まで自分の足で見て回り、地形や地質を観察し検討したうえで、「水際作戦」をやめ、主陣地を海岸から離れた後方に構えるよう指示した。具体的には摺鉢山と元山地区に主陣地を設け、地下壕を地下トンネルで結び、持久戦を戦うという構想だった。
 栗林の構想は、従来の「水際作戦」を常識とする幹部から、強い抵抗を受けた。とくに海軍は、兵器資材は海軍が提供するから、水際にトーチカを何重にも造るようにと強硬に主張した。栗林は考えを変えず構想を進めたが、セメントやダイナマイトなどの資器材を手に入れるために、トーチカづくりに協力することも約束した。
 地下に陣地をつくり地下道でつなぐ作業は、交代制で昼夜を問わず行われた。作業の間じゅう、兵士たちは硫黄ガスによる頭痛と吐き気に悩まされ、また60度にもなる地中の熱気に苦しんだ。
厳しい訓練と陣地掘りに明け暮れる毎日に兵士たちは疲弊し、将校のなかにも作業の中止を進言する者もいたが、栗林は島の防衛に地下の陣地構築が不可欠であると確信し、厳しい指示を辞さなかったという。

【上の硫黄島における栗林中将の戦いについての記述は、全面的に『散るぞ悲しき』(2005年 梯久美子著)に負っている。】

(つづく)

 

硫黄島へのアメリカ軍の空爆と艦砲射撃は頻繁に行われたが、開戦3年目にあたる昭和19128日以降は毎日、上陸の日まで一日も休まず続けられた。
 アメリカ軍の指揮官は、硫黄島は上陸後5日もあれば攻略できると考えていた。従軍記者を集めたブリーフィングで、彼らは、日本軍が水際で徹底的に抗戦し、夜はバンザイ突撃をしかけてくるだろうと見通しを語った。
 昭和20219日、ステーキと卵の朝食をとったアメリカ軍兵士たちは、ついに上陸作戦を開始する。上陸用船艇の上から空爆と艦砲射撃で黒焦げになった島を眺めたある兵士は、同僚に、「俺たち用の日本人は残っているのかな?」と期待を込めて聞いたという。
 兵士たちは、日本軍の抵抗を受けずに上陸することができた。しかし上陸した浜辺の兵士たちに日本軍の猛烈な砲撃が開始され、アメリカ軍は多大の損害を出した。硫黄島の戦闘は、その後36日間も続くことになる。
 アメリカ軍の死傷者数は28686名、うち戦死者は6821名だった。これに対し日本軍の死傷者数は21152名、うち戦死者は2129名だった。
 制空権、制海権を保持し、兵器や兵力、水食糧にいたるまで、すべての面で圧倒的に優っていたアメリカ軍に対し、硫黄島の日本軍が善戦できたのは、水際作戦を捨てすべての陣地を地下に構築していたからだった。
 また空爆と艦砲射撃に毎日見舞われ、水も食糧も不足するなかで絶望的な戦闘が続いているにもかかわらず、日本軍兵士の軍紀が保たれ、指揮官・栗林中将の統率のもと高い士気を維持したことも、その理由であったろう。

栗林中将は移り変わる戦闘の状況を、「戦訓電報」で克明に大本営に報告している。「戦訓電報」とは、その後の日本軍の作戦の立案や戦闘指導に役立てるために、敵の戦術や戦法を分析し、敵味方の損害の状況などを報告するものだが、栗林は37日に最後の報告を大本営に送った。これは異色の内容だと、『散るぞ悲しき』の著者・梯久美子は書いている。大本営の方針に対する率直な批判が行われているからである。
 批判のひとつは、敵の圧倒的な制空権、制海権の下では上陸阻止は不可能であるのに、水際の陣地構築に未練を残し、このため肝心の主陣地の構築が不徹底に終わった点である。
 また日本軍には使える飛行機などほとんど残っていないにもかかわらず、海軍側の指令により、飛行場の拡張工事をアメリカ軍の上陸直前まで行わせたことである。兵の労力はこの面でも割かれ、「陣地を益々弱化せしめたるは遺憾の極みなり」と戦訓電報にある。苦労して拡張した飛行場は、結局アメリカ軍による日本本土空襲に利用されることになった。
 栗林は硫黄島の総指揮官として、海軍もその指揮下に置いていたのだが、中央の陸軍と海軍が反目しあっていたため、硫黄島の防衛方針も一本化されない憾みがあった。電報は、陸海軍が「縄張的主張を一掃し両者を一元的ならしむる」という「根本問題」の解決されるべきことを指摘している。
 そして戦訓電報の最後は、あまりにも懸絶した「彼我物量の差」に言及し、「結局戦術も対策も施す余地」がないという事実を述べ、締めくくられている。
 梯久美子は、「最後の戦訓電報は、理路整然とした批判文であると同時に、今このときも命を落としつつある全将兵を代表しての、必死の抗議文でもあったのである」とする。

栗林兵団がまだ必死の戦いを続けている310日未明、B29の大編隊が東京を襲い、投下された焼夷弾は東京の下町を焼き尽くした。栗林が硫黄島を死守する意義として部下に語り、自分に言い聞かせていた「本土の空襲阻止」は、アメリカ軍の軍事能力の高さの前に無効となった。
 316日、硫黄島作戦の終結をニミッツ大将が宣言した。その中でニミッツは、海兵隊員のたぐいまれな勇気と献身を称賛し、感謝の言葉を送った。「硫黄島で戦ったアメリカ兵のあいだでは、並はずれた勇気がごく普通の美徳であった」と、宣言の最後は結ばれた。
 同じ316日、栗林は最後の総攻撃に打って出る決心を固め、大本営あてに決別電報を発した。
 戦局、最後の巻頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭かしむるものあり。とくに想像を越えたる物量的優勢をもってする陸海空よりの攻撃に対し、宛然徒手空拳を以って克く健闘を続けたるは、小職自らいささか悦びとする所なり。………
 そして辞世の歌を三首添付したが、一首目の歌は、
 「国の為重きつとめを果しえで 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」だった。
 しかしその決別電報は、内地の新聞に載ったとき、改変されていた。「宛然徒手空拳を以って」という部分は削られ、原文にはない文章が付け加わり、「散るぞ悲しき」は「散るぞ口惜し」と変わっていた。

 栗林は、最後の総攻撃を316日には行わなかった。敵の包囲網の緩むのを待ち、326日早朝、アメリカ軍の野営地を襲撃し、約3時間の戦闘ののち日本兵はほとんど戦死した。栗林と行を共にした部下が皆戦死したため、栗林の最期は明らかではない。

 

筆者は当時気づかなかったのだが、2000年代の半ばに一種の「硫黄島戦」ブームが、日米両国であったようである。
 『硫黄島の星条旗』という本が2000年に刊行され、アメリカで一大ベストセラーとなったこと、この書物に触発されたクリント・イーストウッドが、硫黄島の戦闘を日米双方の視点から描いた映画、「父親たちの星条旗」(2006年)と「硫黄島からの手紙」(2006年)の2本を製作したことは、前回触れた。2本の映画はアカデミー賞の各部門にノミネートされ、評判も良かったという。
 日本で出版された当時の関係書籍を並べると、『散るぞ悲しき』(2005年 梯久美子)、『名こそ惜しめ』(2005年 津本陽)、『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(2006年 栗林忠道著 解説・半藤一利)、『常に諸氏の先頭に在り――陸軍中将栗林忠道と硫黄島戦』(2006年 留守晴夫)、『十七歳の硫黄島』(2006年 秋草鶴治)、『写真集 硫黄島』(2006年 『丸』編集部)などがある。以前に刊行された硫黄島戦関係書の復刻版や文庫版などを加えれば、さらに増える。

 2000年代半ばの時期は、日本、アメリカとも、硫黄島戦を戦った兵士や遺族の年齢から考えて、彼らが発言できる最後の機会だったかもしれない。『散るぞ悲しき』の著者・梯久美子は1961年生まれのライターだが、彼女が「あるきっかけから栗林中将に興味を持ち」、その遺族である長男や次女のもとを訪ねたのは2003年の秋から冬である。そこで彼女は栗林中将のきれいにファイルされた41通の手紙を読み、思い出を聞くことができたのだが、長男と次女は2005年に相次いで亡くなった。
 アメリカで『硫黄島の星条旗』が書かれた事情にも、微妙な時間の要素が見え隠れしている。著者・ジェイムズ・ブラッドリーの父親が、「硫黄島に掲げた星条旗」について何も語らず1994年に亡くなったあと、息子は父親のことを調べ始め、硫黄島にまで出かけて書物にまとめたのである。訪れた27の出版社から出版を断られたが、ピューリツァー賞受賞のジャーナリスト・ロン・パワーズの協力を得て出版にこぎつけると、本は大ベストセラーとなった。
 人びとの思いと行動と偶然の複雑な集積が、硫黄島の戦闘を歴史の闇の中から取り出し、一瞬照らし出したのだった。



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