「パラサイト」と「ジョーカー」
                【ブログ掲載:2020年2月21日~28日】

 

▼先月、話題の映画、「パラサイト」(監督:ポン・ジュノ)と「ジョーカー」(監督:トッド・フィリップス)を観た。いずれも「格差社会」を取り上げた映画という評判であり、またアカデミー賞を受賞する可能性が高いとうわさされていた。すでに「パラサイト」はカンヌ映画祭でパルム・ドールを取り、「ジョーカー」はベネチア映画祭で金獅子賞を取っていた。
 2月10日のニュースによれば、「パラサイト」は、2020年のアカデミー賞を作品賞など4部門で獲得し、「ジョーカー」は主演男優賞など2部門で獲得した。筆者の観た順に、「ジョーカー」から感想を述べてみたい。

 

▼舞台はゴッサムという名の、80年代のニューヨークを模した架空の都市。清掃局職員のストライキで街中にゴミがあふれ、いたるところに落書きがある。
 主人公は貧しい大道芸人のアーサー。所属事務所で仕事をもらい、ピエロの格好をして閉店セールの宣伝看板を手に持って、通りに立つ。悪ガキどもがアーサーの手から看板を奪い、走って逃げる。アーサーは追いかけるが、路地で逆に袋叩きにされ、事務所のボスからは、毀された看板代を給料から差し引くと言われる。
  アーサーは定期的に市の医療面談に通っている。脳と神経の病気で突然笑い出し、笑い出すと止まらなくなる。この日も煙草をひっきりなしに吸いながら笑いつづけ、カウンセラーの質問にかろうじて、自分はコメディアンになりたい、こうしてジョークのネタを集めている、とノートを見せる。
 アーサーは、古いアパートに母と二人で暮らしている。母親は病気がちで、むかし雇われていた家の主人に窮状を訴える手紙を幾度も出すが、返事はない。アーサーは優しくベッドに母を寝かせ、TVで大物コメディアンのマレー・フランクリンの司会する番組を観る。 
 アーサーはある病院の小児病棟に慰問の仕事で行き、ピエロの格好で子どもたちに踊り見せている途中、うっかり拳銃を床に落としてしまう。まわりは一瞬静まり返り、アーサーは事務所を解雇される。拳銃は、アーサーが悪ガキどもに袋叩きにされた後、事務所の仲間から手渡されたものだった。

深夜の地下鉄に、客はほとんどいなかった。酒に酔った若いサラリーマンが3人、乗っていた女性をからかい、けたたましい笑い声をあげたピエロ姿のアーサーを見ると、ゆっくり近寄ってきた。そして殴りつけ、倒れたところをさんざん蹴りあげた。アーサーは拳銃を引き抜きざま二人をその場で射殺し、ホームを逃げる一人を追いかけて階段で撃ち、そのまま姿を消した。
 アパートに帰るとTVニュースで、証券マンが3人、ピエロ姿の男に射殺されたと、事件が報じられていた。また、金持ちを殺せ、俺たちは皆ピエロだという声が起き、富裕層への反発が高まっていることも、ニュースは伝えていた。
 母親の書いた、むかしの主人トーマス・ウェイン宛ての手紙が、封をしないまま置いてあった。読んでみると、「あなたの息子と私はあなたの助けが必要です」と書かれており、驚いて母親を問い詰めると、恋に落ちて特別の関係になったのだ、と母は言った。

翌日、アーサーは電車に乗り、郊外のトーマス・ウェインの屋敷へ向かう。車内の乗客の読む新聞の見出しには、「私刑人ピエロ いまだ逃走中」の横に、「トーマス・ウェイン 新市長に出馬」とあった。
 屋敷に着いたが、結局ウェインに会えなかったアーサーは、劇場のトイレでついにウェインに近づくことに成功する。しかしウェインはアーサーの質問をにべもなく否定し、あの女は精神病院に入れられたのだと言い、自分の家族に絶対に近づくなと脅した。
  アーサーはウェインが口にした精神病院に行き、母親の30年前の診療記録を見る。「妄想性精神病」「自己愛性人格障害」などの病名が書かれ、また養子にした子どもをボーイフレンドが虐待し、母親はそれを傍観して罪に問われたことなどが記されていた。

 

▼アパートにTV局のスタッフから、マレー・フランクリンの番組に出ないかという電話がかかる。アーサーはコメディアンとして酒場の小さな舞台に立ったことがあり、その録画をたまたま見たマレーの発案だという。
 アーサーは、入院している母親を見舞いに行き、その顔に枕を押しつけて窒息死させる。また、アパートに訪ねてきた事務所の仲間を刃物で殺す。
 TVに出演する日、アーサーは刑事に追われて地下鉄に乗り込む。車内はデモに行くピエロの仮面をかぶった男たちであふれており、刑事はアーサーを捕まえようとするが、逆に群衆から袋叩きにされる。
 アーサーはTV局にたどり着き、マレーの番組に出る。マレーの質問に答える形で、自分が3人の証券マンを撃ち殺したと言い、社会に見捨てられゴミのように扱われる男のことなど、誰も気にかけない、と言う。そして、自分を憐れんで殺人を正当化している、とアーサーを非難するマレーを、いきなり射殺する。
 街ではピエロの仮面のデモ隊が暴徒と化し、車を焼き、商店を襲っていた。劇場を出たトーマス・ウェイン夫妻は、車で帰ることもできず、裏道を歩いているところをピエロの仮面を着けた男に射殺される。
 アーサーはパトカーで連行される途中、ピエロの仮面の男の運転する大型車が体当たりした。ひっくり返ったパトカーから気絶したアーサーが助け出され、蘇生する。立て、立て、と叫ぶ群衆の声にうながされ車の屋根に上ったアーサーは、両手を広げ歓呼の声に応えた。―――

 明るい病院の病室で、アーサーは手錠をかけられた手でタバコをくゆらしながら、笑いつづける。女医が、何がおかしいの?と聞く。ジョークを思いついて、とアーサー。聞かせてくれる?と聞く女医に、理解できないさ、とアーサーは言い、映画は終わる。

 

▼省略した部分はもちろんあるが、長々とあらすじを紹介したのは、この映画に釈然としないものがあることを示そうとしたからである。
 主人公役のホアキン・フェニックスは熱演だったし(役づくりのために20㎏以上の減量を敢行したという)、映像も美しかった。美しいという言葉が貧しく汚れた街・ゴッサムにふさわしくないとすれば、思わず目を止める斬新な画面がいくつもあった。たとえばTVに出演する日、ピエロの顔に化粧したアーサーが4~5階建てのビルほどの高さのある長い石の階段を降りながら、全能感に包まれてひとり踊るシーンは、生き生きと輝いていた。
 音楽も悪くなく、脚本も無理なく巧みに伏線を張り、映画全体を過不足なく説明していた。しかし過不足なく説明しているとは、どういうことなのか。
 アーサーは、「自分を偽るのに疲れた」、「誰も他人のことを気にかけない」、「この社会に見捨てられ、ゴミみたいに扱われた」と言い、「自分の人生は悲劇だと思っていたが、喜劇だった」というセリフをくり返す。これらのセリフはわかりやすく映画のテーマを説明しているように見えるが、もしそうだとしたらこの映画は安っぽい格差社会の告発ものの一つになってしまう。
 主人公の銃による殺人があり、暴徒と化した群衆による破壊行為がある。しかしそれらを富める者と貧しい者に分断された社会を映す行為とみなし、主人公が狂気であることで、その殺人をあいまいに免責する作品にしたてるとしたら、鑑賞する者の共感をひどく削ぐことになるだろう。筆者が感じた「釈然としないもの」は、その点に関わっている。

フィクションの世界は、もちろんリアル社会の戒律が直接適用されるわけではない。リアル社会で許されない復讐や殺人が快哉を呼び、リアル社会ではありえない夢のような出来事が起こり、鑑賞する者の魂を揺さぶり、幸せな時間を提供する。
 しかしリアルな社会に秩序があるように、フィクションの世界にも秩序があり、その秩序は大きく鑑賞者の共感に依存している。優れた作品とそうでないものとを分けるのは、ただこの“鑑賞者の共感”というあやふやにして確乎たる要素なのだ。そして多くの優れた作品は、共感する鑑賞者を物語の“破局”に導き、破局の体感をとおして一段上のステージにいざなう。
 しかし「ジョーカー」の破局は、救いのない現実を開示するだけで、鑑賞者は釈然としないまま残される。映画は鑑賞者の十分な共感を獲得することに失敗した、と言わざるを得ない。
 破局がひとつの“救い”になっている例として、つぎに「パラサイト」について見てみたい。

 

▼ 陽の光の射さない半地下の部屋に住む家族が、スマホを片手に電波の入り具合を調べている。部屋の床に立っても電波はよく入らず、中二階ほどの高い位置に設置された水洗便器のあたりが、かろうじて電波のつながる場所らしい。便器が床よりも相当高い位置に設置されているのは、水圧の関係らしい。半地下の部屋の窓は道路面の高さにあり、路上を行く人びとの脚や立ち止まって立小便する光景が見える。市の害虫駆除の車が薬を撒くと、その煙が半地下の部屋に流れ込み、部屋の住人をむせ返らす。
 ソウルの街の半地下の部屋に住むキム一家は、大学受験に何度も失敗している息子とその妹、中年の父と母の4人で、全員が職に就いておらず、宅配ピザの箱を組み立てるようなアルバイトで日々をしのいでいる。ある日、息子は友人から家庭教師の仕事を紹介される。友人は大学生で、米国に留学することが決まり、自分のやっていた家庭教師の仕事を引き継ぎたいというのである。自分は大学浪人だけど大丈夫なのかと聞く息子に、友人は、受験技術を教えればいいのだから、大丈夫だと答える。息子は大学生を名のることにし、妹が学生証を偽造した。美術学校を志望している妹の書類偽造の腕前に、息子は驚く。

 息子が訪ねた家は、高台の広々した豪華な邸宅だった。有名建築家が建てた邸宅を、IT企業経営の若手実業家パクが買い取ったということで、若く美しい妻と高校生の女の子、小学生の男の子の4人家族と、有名建築家時代からいるメイドが一緒に住んでいた。
  息子の学習指導法は、すぐに高校生の娘とその母親の信頼を得ることに成功した。息子は壁に飾ってある小学生が描いた絵を見ると、自分の知り合いに絵の指導の専門家がいる、と話題にし、母親からぜひ紹介してほしいと頼まれる。
 息子から話を聞いた妹は、絵画を通じた心理療法の専門家という触れ込みで邸宅を訪れ、ネット仕込みのにわか知識で母親を感心させ、小学生を瞬く間に手なずけてしまう。そこへ帰宅した若手実業家の夫は、小学生の息子の先生である妹を、運転手に言って車で送らせる。運転手は自宅まで送ろうとするが、妹は最寄りの地下鉄の駅でよいと断り、パンティをそっと脱いで車のシートの隙間に押し込んだ。
 若手実業家の夫はある日パンティを見つけ、運転手が車に女を連れ込んでいるらしいという疑いを、妻に話す。妻は、まじめな運転手だと思っていたが、そういう疑いが出た以上、事を荒立てずに辞めてもらうのが一番良いと考える。運転手は解雇され、パク家ではその後釜に、すっかり妻に信用された家庭教師が紹介する新しい運転手を雇うことにする。新しい運転手は、キム一家の父親だった。―――

 

▼映画を紹介するときは、いわゆる「ネタバレ」しないように気をつけることが、当然のマナーとなっているようだ。ポン・ジュノ監督自身、プレスへのお願いとして、「観客にハラハラしながら物語の展開を体験してほしいから」、「兄妹が家庭教師として働きはじめるところ以降の展開を語ること」は、どうか控えてほしいと言っている。筆者もこれから観る観客の楽しみを邪魔するつもりは毛頭ないから、ここで口を閉じるべきなのだが、批評の都合上、もう一言だけ説明を加えておきたい。作品の骨格がしっかりしているので、筆者がもう一言喋ったとしても少しも興味をそぐことにはならないし、かえって興味は増すものと思われるからだ。
 付け加えたいもう一言とは、パク一家の豪邸にはキム一家の父親のみならず、母親もメイドとして雇われることである。つまりキム一家の4人が、互いに無関係の人間として裕福な一家に入り込み、寄生を始めるのだ。「パラサイト」(parasite=寄生虫、寄食者)という題名は、奇妙、奇怪な状況を的確に表現しつつ、外国語であることで原語のもつ直接的な印象を和らげているようだ。

 筆者はキム一家の4人がパク家に入り込み、寄生していくのを見て、気が気ではなかった。永遠に騙しつづけられるはずはなく、嘘はいつか露見し、信頼しきっているパク家の人びとを驚かせ、失望させることだろう。いつ、どのような形で、嘘が露見し真実が知られるのか、そしてそれはどれほど善意の一家を驚愕させることになるのか、想像するだけでも恐ろしかった。思うにひとは、善意の信頼が裏切られることに、かなり強い抵抗感と恐怖心を抱くものらしい。
 破局は、観客のまったく予期せぬ形で訪れる。その破局により、筆者をはじめ観客は嘘の露見する恐怖から救われるのだが、ここから先は今度こそ口をつぐむことにする。

 

▼半地下の住居は、もともと北朝鮮の攻撃に備えた防空壕としてつくられたものらしい。そのうち住宅用に賃貸されるようになり、今では国民の約2%、36万世帯が住んでいるという。ソウルのマンションの家賃は年々高騰し、4人家族が住めるような部屋は今では1ヶ月18万円以上するのに、半地下の住居は4万円で済むからだ。(映画パンフレット所収の町山智浩の紹介文に拠る。)
 この半地下の住居に住む一家と高台の広壮な豪邸に住む一家が、子どもの家庭教師を依頼することを介して接触しはじめるという設定が、まずすぐれていたと言うべきだろう。本来なんらの接点も関りもないはずの二つの家族が偶然接触することにより、ドラマは自然に動き出す。
  この映画をすぐれたものにしたもう一つの理由は、監督ポン・ジュノが観客の予想もしない話の展開を思いつき、それを見事に完結させた技量であろう。悲劇的なコメディ、あるいは喜劇的なホラー映画とでもいうべきこの作品は、軽快なテンポで進行し、観客は目まぐるしい冥府めぐりのあと日常世界に無事に戻され、話は終わる。 

 この映画が、才気あふれる傑作であることはまちがいないが、同じように貧しい人びとや家族を取り上げた近年の作品では、是枝裕和の「万引き家族」(2018年)やケン・ローチの「私は、ダニエル・ブレイク」(2017年)の方が筆者の好みに近い。
  だが、「同じように貧しい人びとや家族を取り上げた作品」として比較する方が、まちがっているのだろう。社会のあり方を直接的に問題にしているのは、ケン・ローチの「私は、ダニエル・ブレイク」だけであり、「万引き家族」も「パラサイト」も「ジョーカー」も、監督の関心は別のところにある。経済格差の深刻な社会を舞台に物語をつくっているが、「格差社会」は物語成立の与件でしかない。
 「パラサイト」の画面からは、ポン・ジュノ監督の「物語をつくる喜び」があふれ出るように伝わってきた。


▼上に掲げたスチル写真は、映画のパンフレットに使われたものだが、実際にはありえないパク家とキム家全員の集合写真である。このうちパク一家は全員が靴を履き、小奇麗な格好をしているのに対し、キム一家は全員が裸足で、安物のスエットスーツやシャツなどを着ている。全員の眼が隠されているが、それは何を意味しているのだろうか。また、左下に誰のものか分からない横たわった人物の裸の足だけが見え、何を暗示するのか、見る者は興味をそそられる。
 「神は細部に宿る」といわれるが、映画では細かいところまで神経が行き届いているかどうかが、作品の質に大きく関わる。このスチル写真に見られるような格差社会の記号論と、物語の意外な展開を面白がる冒険心は、映画全体に行きわたっていた。


(おわり)


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