「韓国人の国民性」再論

               【ブログ掲載:2019年5月3日~5月24日】

 

『朝鮮日報』の記事

 世の中、「令和」「令和」で湧いているらしいのに、天皇の代替わりと関係のない話を載せるのは無粋というものかもしれない。だが筆者の生活は、お祭り騒ぎとはなんの関係もなく、普段と変わらず進んでいる。
 べつに筆者は改元に、「負のこだわり」があるわけではない。ただ単純に、祭りの笛の音やお囃子を聞いてもあまりウキウキせず、早く騒ぎが終わってほしいと感じるだけである。できれば祭りの人込みを避けて、静かな裏道をゆっくりと歩く方が良い。歩いていると、ときどき遠くから、笛や太鼓の音、群衆のどよめきなどが聞こえてきて、ああ、やってるなと思う―――このあたりが、祭りと筆者の程良い距離のようである。 

 韓国の新聞の日本語版をネットで見ていたら、文大統領が退位される天皇に書簡を送って謝意を表した、新天皇の即位にあたり祝電を送った、という記事があり、その際、韓国で通常使われる「日王」ではなく「天皇」という表記が使われた、というニュースが載っていた。これは韓国政府が韓日関係を模索している現われではないか、新天皇の即位を韓日関係正常化のきっかけにすべきだ、という解説や社説もあった。韓国国会の外交委員長が、日本に特使団を派遣したらどうかと文大統領に提案した、という記事もあった。
 韓国で一番の発行部数を誇る『朝鮮日報』は、新天皇即位に関する企画記事を1面トップで連載したらしい。読者から、「韓国は日本をロールモデルにするべきだというのか」と抗議があり、執筆した記者がその批判に答える文章を書いていた。(『朝鮮日報』5/1)。韓国の記者が何を感じ、何を考えているかだけでなく、韓国社会についても問わず語りに語っている文章なので、要点を紹介する。 

 この読者の批判は、自分に先輩ジャーナリストS氏の言葉を想い起こさせた。「日本に友好的な記事を書いたら、『親日派』の烙印を押されてしまうのではと、常に用心する」という趣旨の言葉である。東京特派員となってまだ1年もたっていないが、S氏の言葉をかみしめる機会が何度もあった。反日感情が最高潮に達している今日、「日本たたき」の枠組みからはずれた記事を書くことが精神的負担であることは事実だ。昨年末、韓日関係に一筋の光も見いだせない頃、「お前は日本人か」とも言われた。他社の特派員でも同様の経験のない人の方が珍しい。すべての報道機関で、日本の記事については、ほかの記事よりも数倍「自己検閲」をして報道するのが、韓国的な状況と言える。
 最近の日本は新たな機運にあふれている。20年間の不況を経てよみがえった経済を再び停滞させたくないという意志が感じられる。このムードを来年の東京五輪まで保ち、国のアップグレードを実現させたいという構想がうかがえる。
 日本が韓国のロールモデルになることはないだろう。多様性よりも画一性の方が大きく見える国を、そのまままねをする必要はない。しかし象徴に過ぎない天皇の交代儀式を通じて内部の確執を最小限に抑え、広く未来について語る点は注目すべきだ。過去に縛られ確執を広げる国と、前を見据えて走っている国の差が大きく広がるのはあっという間である。(コラム「朝鮮日報東京特派員が天皇即位の記事を書く理由」)

▼長い長いデフレによって培われた萎縮・沈滞ムードが、天皇の代替わりによって払拭されるとしたら、めでたい話であるし、またそれは改元に期待される本来の効果でもあるだろう。残念ながら筆者は、そういう兆候を見出すことはなかなか難しいと思うのだが、この若い韓国紙特派員は、「最近の日本は新たな機運にあふれている」と言う。外からのひとつの感想として、ありがたく受け取っておくことにしよう。
 この記者の問題意識は、最後の「内部の確執を最小限に抑え、広く未来について語る」日本と、「過去に縛られ確執を広げる国」韓国の対比にある。文政権の韓国政治の現状を、「過去に縛られ確執を広げる国」と見ている点も、同意できる。
 さらに「日本に友好的な記事を書いたら、『親日派』の烙印を押されてしまう」と、日本の記事については「ほかの記事よりも数倍『自己検閲』をして報道する」と、率直に語っている点も注目される。それは保守系の『朝鮮日報』だけでなく、「すべての報道機関」の置かれている「韓国的な状況」である。
 日本のジャーナリストとして40年間韓国に滞在し、韓国の政治・社会を記事にしてきた黒田勝弘は、近年目立つ韓国の「反日現象」の背景に、日本の統治時代を直接体験した世代が亡くなり、それを体験していない戦後生まれの世代が主流となったことがある、と見る。彼らは、体験抜きの観念的で単純な愛国、反日の教育を、学校で刷り込まれた世代である。体験による日本理解、日本人理解は、日本への強烈な反発心を育てたとしても、同時に植民地化された韓国と韓国人同胞への自省も働き、そこには自ずと屈折した心理と自制が育まれる。しかし観念的な「反日」意識は、それが「愛国」と結びつくことによって、「反日」なら何をやっても許されるという社会意識を生み出す。韓国ではコトが「日本」となると、正常な感覚が働かなくなるのだ。(黒田勝弘『どうしても‛日本離れ’できない韓国』2015年)

 
 ● 徴用工問題と韓国社会

 よく知られているように、韓国社会で「親日派」という言葉は、日本にしっぽを振る「民族の裏切り者」という意味である。政治家も官僚も学者も新聞記者も、「親日派」の烙印を押されないように注意深く「自己検閲」し、日本に友好的な発言や日本に有利になる発言をしないように、細心の注意を払ってきた。その結果、韓国社会に知らせない事実、韓国の民衆が知らない事実が生じ、それが日本と韓国のあいだの対話を阻む大きな要因となっているのではないかと、筆者は考える。
 日本人と韓国人のあいだで、対話ないし論争が噛み合わないという現象は、頻繁に見られる。議論をしようにも、同一の事実に立っての議論ができないから、多くの場合、議論が成り立たないのだ。たとえば目下の大問題となっている元徴用工の訴訟である。日本側が「請求権協定」によって「完全かつ最終的に」解決済みの問題だと言うのに対し、韓国側は、韓国最高裁の判決は尊重しなければならないと言うだけで、政府以下、まともな回答をしていない。
  韓国社会では、日本は韓国人の戦時中の「被害者」に補償をしていない、という理解が一般になされているらしいのだが、1965年の条約と協定を結ぶにあたり、徴用工への補償問題は交渉の焦点として、十分話し合われている。日本側は韓国人請求権者個人に補償したいと言い、韓国側は個人への補償は韓国政府がするから、一括して補償をもらいたいと主張し、韓国政府の主張を入れる形で決着したのである。次に示すのは、韓国政府が情報公開訴訟で請求され、2005年に公開した外交文書の一節である。 

 《わが国が日本側に提示した請求権は、政府当局の請求権はもちろん国民(法人を含む)が保有する個人請求権も含まれる。(略)このように、請求権問題はわが国の各請求権項目をひとつひとつ明らかにして解決する方式が不可能だったため、一括解決することにした。日本と請求権問題を解決すれば、個人請求権も含めて解決され、したがって政府は個人請求保有者に補償義務を負うことになる。》(黒田勝弘『どうしても‛日本離れ’できない韓国』より引用) 

 元徴用工への個人補償に韓国政府が反対し、個人への補償は韓国政府が対応すると主張した経緯が、明瞭に記述されている。韓国政府は、日本政府から「一括して」受け取った「対日請求権資金」5億ドルを活用して、その後の急激な経済発展を実現したのだが、そのことはここでは省略する。
  そうした過去の日韓交渉の経緯と内容について、韓国の国民は十分に知らされているのだろうか?黒田は、韓国では政府もマスコミも識者もこの事実に口をつぐみ、あるいは知っていながらできるだけ触れないようにし、「日本は補償をしていない」と日本非難を続けてきた、と言う。その結果、日韓両国民のあいだで事実を踏まえた議論が成り立たなくなっている点は、確認されなければならない。
  現在でも、筆者がネットで見るかぎり、韓国のマスメディアも政治家も最高裁判決を歓迎する韓国世論に迎合し、1965年の協定の内容や締結の経緯をきちんと説明しようとしていない。『朝鮮日報』などの保守系紙は、協定上韓国側に非があることを承知しているが、そのようには言わず、文政権のお手並み拝見とばかり、高みの見物を決めこんでいる。

 

 ●今も盛んな「親日派」叩き

 徴用工訴訟の問題にはまた後で立ち戻るとして、その他の事例で韓国の現在の「反日意識」の状況を見てみよう。韓国の「愛国者」たちは、飽きもせず「日本叩き」「親日派」叩きに精を出しているので、その事例を挙げるのに困ることはない。

  現在、韓国のあちこちに、「親日派の人物がつくった校歌をやめ、新しい校歌を作ろう」という動きがあるらしい。あるTV局の調査では、「親日派」が作曲した校歌を歌う小中高校・大学が214校あったとされ、全国教職員労働組合ソウル支部は、ソウル市内の113校の校歌が「親日派」の作品だと発表した。(『朝鮮日報』2019/3/16
 また、カイヅカイブキを校木に指定している一部の学校では、それが日本から持ち込まれたという理由で校木を変更し、カイヅカイブキを撤去しているというし、日韓併合時代に在職していた歴代校長の写真を降ろしたり、学校設立者の銅像や記念館を撤去しようという動きも出ているという。(『朝鮮日報』5/5
 「親日派」叩きは韓国国歌にも及び、作曲家の安益泰の「親日行跡」があらためて問題視され、新国歌を作ろうと主張する者もいるらしい。(『朝鮮日報』3/16

  京畿道議会では、学校内の日本製品に「戦犯ステッカー」を貼る条例案が、27人の議員から提出されたという。京畿道内の小中高校が保有するビデオカメラやプロジェクターなどの製品に、「日本の戦犯企業が生産した製品です」というステッカーを貼ることを義務付ける、という内容なのだそうだ。議員らは、「成長期の児童、生徒に正しい歴史認識を持たせる」ためだと説明し、代表格の議員は、「韓民族を搾取しても謝罪なき戦犯企業を教育しようという趣旨」だと述べた。
 ソウル市議会では、日本の「戦犯企業」の製品について、ステッカーを貼るにとどまらず、ソウル市役所に不買を促す条例案が議員から提出され、委員会審議に付託された。(『朝鮮日報』3/20 

春川市では、文学公園に設置されている徐廷柱と崔南善の詩碑を撤去することを決めた。徐廷柱は1942年から44年まで創氏改名した名前で親日的な作品を発表していたこと、崔南善は日本の神道普及活動を行い、1936年から38年まで朝鮮総督府中枢院の参議をしていたことが、問題視されたためだという。詩碑は撤去したあと地中に埋め、その場所に詩碑が埋められていることを示す表示石を設置するとのこと。(『朝鮮日報』5/2

 

▼もちろんこれらの動きに反対し、批判する主張や行動も、新聞紙上に見られる。
 京畿道議会の「ステッカー」条例案については、京畿道教育庁が「〈戦犯企業〉の定義が明確でなく、ステッカーを貼れば法的な問題が発生する恐れがある」と反対し、条例案は審議保留となったという。また、「韓国大学生フォーラム」は京畿道議会とソウル市議会の条例案について論評を出し、「100年前の日本帝国の蛮行と現代日本を区分せず、反日を人気取りのイベントにしている安売り民族主義」と酷評した。(『朝鮮日報』3/20
 ノ・スンリムという音楽コラムニストは、韓国国歌を作曲した安益泰の「親日的な行動」を擁護するわけではない、としつつ、過去は「愛国歌を変えて親日派の音楽を取り除くという形で簡単に清算されるものではない」と批判した。「朝鮮半島での西洋音楽は、1920年代に朝鮮総督府の後援で日本に出かけた韓国の音楽家たちによって発展したことを想起すると、私たちが享受している今日の西洋音楽そのものが、親日という過去を背負っていると見ることができる」。
 親日派の作った校歌をやめようという動きについては、高校の元校長が抗議の投稿をしている。「一方的にレッテルを貼った親日人名事典を根拠に、(校歌を作った人たちを)親日派だと追及し、その芸術作品まで排斥するというのは理解できない。……親日派になろうとか、「親日をしよう」と呼びかける歌詞を見たことがあるか?……過去の音楽家の作品が大勢の人の共感を呼んだのなら、その歌は日本のものではなく、堂々と韓国のものだと解すべきだ。……世界トップ10の自主独立国家たる韓国が、何を恐れて、数十年間歌ってきた校歌を『韓国のものではない』とする敗北主義的な態度をとるのか。校歌は校歌であり、『親日校歌』などない。」(『朝鮮日報』3/16

 

▼韓国社会のいたるところに「親日」の痕跡を発見し、その一掃を叫ぶ幼稚な盲動は、あまりにもばかばかしい。だからそれらはごく一部の、極端で特異な例だと見なすこともできるだろう。極端で幼稚な「反日」を批判、非難する言論が、積極的に紙面に載せられていることも、(それが文政権に批判的な『朝鮮日報』の誌面であっても、)その見方を支持するだろう。
 しかし少数とはいえ、小児病的に「反日」を叫ぶ土壌が今日の韓国にあり、「愛国」の感情と結びつきつつ間歇的に噴出してくるということを、われわれは頭にとどめておく必要がある。元徴用工の訴訟や元慰安婦の問題も、この土壌の上に花開き、アンタッチャブルな存在に成長し、あるいは成長しつつあるからだ。

 韓国は1948年の独立以降、李承晩の独裁政治と朴正熙の軍政に支配され、1987年にようやく民主化された。民主化を主導した勢力から見れば、韓国では独立後も、日韓併合時代の「親日派」が政府の主要ポストを握りつづけ、政治・社会のなかで力を持ちつづけている。社会正義のために、親日の残滓は一掃されなければならない。こうして盧武鉉政権(20032008年)は、「親日清算」に積極的に取り組んだ。
 盧政権は2005年に「日帝強占下の親日反民族行為真相究明特別法」を制定し、「親日派」の調査を開始した。調査対象は、日韓併合条約を推進した官僚や将校、独立運動を取り締まった警察官や司法関係者、マスコミ関係者に及んだ。
 また、「親日反民族行為者財産の国家帰属特別法」を制定して、植民地化や植民地統治に協力した子孫が所有する土地や財産を没収することにした。その結果、約170人が没収対象の「親日」とされ、子孫の所有する土地などが没収された。「親日派」叩きであれば、「事後法」であれ何であれ、まかり通るのが韓国社会だ。

 
韓国社会の特異性

 なぜ韓国では、独立から70年を経た今日もなお、「親日清算」で社会が湧きかえるのだろうか。
 黒田勝弘は、韓国が自力で日本からの独立を勝ち取ることができなかったことが、深いトラウマとなっているからだと考える。日本に支配されていた韓国は、日本が敗戦により朝鮮半島から撤収を余儀なくされることで、その支配を脱したに過ぎない。日本と戦争をしたわけではなく、戦勝国でもなく、サンフランシスコ講和会議のメンバーに希望しても入れてもらえなかった。
 《これが韓国にとって歴史的鬱憤であり、あるべき歴史を実現することができなかったという民族的な‘恨(ハン)’として残った。》(黒田勝弘『どうしても‛日本離れ’できない韓国』)

そしてここに、民族としての歴史的正統性は韓国ではなく、日本と戦った北朝鮮の方にあるという理屈も生じる。それに対抗するように韓国の歴史教育では、韓国は日本と独立戦争を戦ったとされ、日韓併合後に上海にできた「大韓民国臨時政府」に国家の正統性があり、現在の韓国はそれを受け継ぐものとされている。
 北朝鮮の歴史的正統性にシンパシーを覚える韓国の「左派」は、朴正熙の軍政を認めず、朴政権の下で達成した韓国の驚異的経済発展(「漢江(ハンガン」の奇跡」と呼ばれる)も認めたがらない。文政権の下、今年の小学校教科書から「漢江(ハンガン」の奇跡」という言葉が消えた、と新聞は報じている。(『朝鮮日報』4/28

▼前回と前々回、韓国社会の特異な側面について黒田勝弘の見方を紹介したが、もう一人、韓国社会をよく知るマイケル・ブリーンというジャーナリストの考えを、紹介しておこう。彼は66歳の英国人で、1982年から37年間、英国のガーディアンやザ・タイムズ、米国のワシントン・タイムズのソウル特派員として韓国社会の記事を書き、ソウル外信記者クラブの会長も務めた。
 ブリーン氏は、この3月から『朝鮮日報』に毎月1回コラムを執筆することになり、4月に次のような要旨の文章を寄稿した。 

 セウォル号の沈没から5周年を迎え、ソウル市は光化門広場に死亡者304人をたたえる「記憶・安全展示空間」を設置し、公開することにした。しかし自分は、この場所が適切な場所なのか、疑問に思う。反対する理由は三つある。
 第一は、光化門広場が韓国で最も有名な公共空間であるからだ。韓国の歴史で最も尊敬されている世宗(セジョン)大王と李舜臣の銅像が建てられているが、ここに沈没事故の犠牲者の追慕施設をつくることは、広場のテーマにふさわしいとは言えない。
 第二に、韓国人は自分を「犠牲者」として表現することが好きな民族だが、そういう姿勢は、世界で最も豊かで重要な国のひとつとなったこの国にふさわしいものではない。セウォル号の追慕空間を設置しようとする発想は、自分たちを「犠牲者」として表現して満足感を覚える精神の現れであり、賛同できない。
 第三に、セウォル号の犠牲者たちが国内政治的な意図に利用され、国論分裂に利用されていると感じるからだ。セウォル号の犠牲者たちの魂は、たぶん国民の分裂よりも団結を願い、安らかに眠りたいと思っていることだろう。(「セウォル号追悼碑設置、果たして光化門は適切なのか」4/21

  反対する三つの理由のうち、一つ目と三つ目はわかりやすく、どこの国でもこの種の問題が起きた時に現れる主張である。それに比べて二つ目の理由は、韓国人の姿勢あるいは精神的傾向に深く関わるものであり、わかりやすいとは言えない。(筆者の要約は、趣旨を簡明に示すために、原文をかなり離れている。)
 しかしマイケル・ブリーンが一番力を込めて主張しているのは、内容から言っても分量から言ってもこの部分である。ブリーン自身の言葉を、以下にそのまま引用する。 

《ソウル市がここにセウォル号の追慕空間を設置しようとするのは、「韓国人は犠牲者」という韓国特有の考え方に由来している。私はこうしたフレームが、すでに現実と大きく隔たりを見せていると思う。》

 《この国には自分こそ「他人」の犠牲者だとアピールしたがる傾向があり、これにより自分は道徳的だと感じたがるきらいがある。私たちが日本大使館の前で従軍慰安婦の少女像を見受ける理由がここにある。80年前のことをこうした方法で抗議するのは、外交史として前例がない。日本と韓国はともに民主主義国家で、近い友邦という点を考慮すれば、より異例的といえる。しかし少女像の横のテントで寝泊まりする人びとと毎週水曜日の昼食時にデモを繰り返す人びとは、自らを正義と考える。自分たちが犠牲者としての韓国を代弁していると感じている。》
 《一人一人の国民がそうなるならまだしも、公職者たちさえこうした大衆の態度を支持し、大衆と同じように考えている。彼らさえも韓国を第三世界の貧困国と思っているということだ。現実世界では、すでに韓国は世界で最も豊かで重要な国のひとつになったというのに。》

  マイケル・ブリーンは上の言葉を補足するように、次のようにも語る。「いつの日か、額に汗して努力し、この国を貧困から救い出したごく普通の人びとの銅像が立つことを、願っている。この国の若い世代が、彼らの親と祖父母の世代をたたえて、〈この国のもっとも偉大な世代に永遠の感謝を捧げる〉という献辞とともに建てられる銅像だ。」
 彼の韓国人に対する思いを簡明に表現するなら、〈きみたちはもっと自信を持って良いのだ〉ということであり、〈もっと雄々しくあれ〉ということではないだろうか。

 ●マイケル・ブリーンの指摘

 マイケル・ブリーンは『朝鮮日報』への3月の寄稿で、韓国政治の弱点を指摘しているので、同様に紹介したい。要旨を示すなら、次のようなものである。 

韓国には、「民心」という独特の言葉がある。「民心」とは、単に「国民の心」「国民の心情」という意味ではなく、「特定の問題に対する大衆の感情が決定的な規模に達し、市民全体がそう感じていると考えられる状態」を指す。「民心」は感情だから論理的でなく、一時的なものであったり不公正で偏っていることもあり、集団いじめになることもある。多くの人が実際に抱いている感情ではない、という場合もある。
 だが韓国政治において、「法」の立場は弱く、その代りの位置を占めるのが「民心」なのだ。《多くの人が、民心を国民の魂の表現、民主的で深遠で善良なものだと思っている。/しかし民心は、それほど高邁なものではない。》
 民心そのものが問題なのではない。政治指導者と司法の決定権者たちが、「民主主義とは民心の要求に服従することだ」と思い込んでいることが問題なのだ。そして韓国の政治システムの弱点が、そこにある。官僚、政治家、検事、判事たちが、合理的な法や国益よりも民心の気まぐれな要求を優越させるのは、民主社会のリーダーという本分を放棄することにほかならない。
 《われわれ一人一人が法律に従うように、民心も法に従わなければならないことを、オピニオンリーダーや政治指導者たちは、今こそ勇気をもって示さなければならない。》(「民心も法に従うべき 韓国の指導者は勇気をもって示せ」3/17

 韓国では軍事政権が権力の座から追われて以来、《民心はこの国の神秘的指導者の役割をしてきた。》政治の民主化からすでに30年が経つのに、あいかわらず「法」の立場は弱い。
 マイケル・ブリーンは「民心」が猛威を振るった最近の実例として、朴槿恵前大統領の例を挙げている。その一節を、そのまま引用する。

 《民心がわき起こると、国会・憲法裁判所。裁判所などの民主主義実行機関が民心の要求に服従した。朴槿恵前大統領の政敵たちですら「懲役25年」という判決が、法理的に見てとんでもないことを知っている。それでも大半が判決を支持した。民心の感情的な怒りに見合った判決だったからだ。しかし、先にも書いたとおり、民心は感情的で不公正で一時的だ。新たな問題が起これば、すぐに別のところに流れる。民心の勢いが弱まれば文在寅大統領が介入し、前任者を赦免できるシステムが出てくる。われわれは皆、事がそのようになることを知っている。しかし、大統領の赦免権をそのように使うのは、政治が法を侮辱しているのと同じことだ。》


▼日本の韓国社会の観察者たちが、「韓国では憲法の上に『国民情緒法』がある」と言い、「法律よりも国民感情が優先し、法の支配が歪められる韓国の特殊事情」、「情治国家」と書いてきた事実の存在を、マイケル・ブリーンが裏書きしている。このことは韓国の問題を考える時に、重要な足場となるはずである。
 文政権はなぜ「慰安婦合意」を反故にしたのか、なぜ韓国の最高裁判所は「徴用工訴訟」で協定に反する判決を下したのか、なぜ韓国の政治家やマスメディアは、徴用工判決を歓迎するのか。答えは、「民心がそれを要求するから」、ということに尽きるであろう。
 それではなぜ、「民心はそれを要求する」のだろうか。マイケル・ブリーンに言わせれば、「この国には自分こそ『他人』の犠牲者だとアピールしたがる傾向があり、これにより自分は道徳的だと感じたがるきらいがある」から、ということになる。「反日」の主張やスローガンは、そういう彼らの精神的傾向と「愛国心」を、ともに簡便に満足させてくれる。そしてそういう国民の傾向に乗じて政局を有利に動かそうと謀る政治家たちの言動が、いっそう混乱に拍車をかけることになる。

 

 ●なぜ「親日残滓の清算」なのか

 日韓関係が悪化する中、今年の「三・一独立運動」百周年の記念式典で文大統領が何を語るのか、日本政府も日韓のマスメディアも大きな関心を持って注目していた。昨年の式典では慰安婦問題に言及し、「加害者の日本が『終わった』と言ってはならない」などと直接批判したのだが、今年は慰安婦問題や徴用工問題への直接の言及はなく、関係改善への「思いがにじむ」と評価する向きもあった。また、演説が「未来志向の日韓関係を強調した」ものと捉え、「朝鮮半島の平和のため日本との協力を強化する考えを明らかにした」と評価するものもあった。(「毎日新聞」社説3/2)。
 しかし韓国内での受けとめ方は、随分違っていた。演説の核心は、「親日の残滓を清算することは、あまりにも長く先送りされてきた宿題だ」と語り、「親日清算」を強調した部分であり、文在寅の演説は国民を分裂させるものだという批判が、保守派から投げつけられた。「親日残滓の清算」を強調するということは、即ち親日派に歴史的人脈が近い保守派の批判であり、左派の正統性の主張・承認であるからだ。
 日本のマスメディアでも読売新聞はこの部分に注目し、「『親日』派は……日韓国交正常化を断行した朴正熙大統領を批判する際にも使われる表現だ」とし、「左派の文氏は、朴氏の流れをくむ保守派に『親日の残滓』のレッテルを貼り、封じ込めようとしているのではないか。国内の分断を深刻化させ、反日的な雰囲気を助長することが懸念される」と書いた。(同社説3/2 

 筆者は考えるのだが、日本に併合されたかっての韓国社会では、ごくわずかな反逆者を除き、人びとは多かれ少なかれ植民地体制に適応して生きたのである。適応するとは「親日」派として生きるということであり、そのように生きた、あるいは生きざるをえなかった自分の父母や祖父母の歴史に、いま生きる者たちは真摯に向き合うべきであろう。
 しかし韓国の民衆は、そのような屈辱の歴史、「そうあるべきでなかった」歴史に正面から向き合おうとはしない。代わりに、「親日派」と見なした作曲家の作った校歌を槍玉にあげ、「親日」的な行動があったとされた詩人の詩碑を撤去し、実業家の名前をその名を冠した道路名から削り取って気勢を上げる。そういう「安売り民族主義」は、屈辱の歴史と正面から向き合えない韓国民衆の弱さ、弱点を意味するのだが、彼らはそれが理解できない。
 「親日残滓の清算」を強調する文大統領の演説は、韓国人は被害者であり、被害者は正義であるという幼稚な思考と感情に「お墨付き」を与え、力づける働きをする。文在寅の言葉は、第一義的に国内保守派に向けられたものであったとしても、韓国民衆の弱点を甘やかし拡張することで、日韓関係にも否定的な影響を及ぼすものと考えなければならない。

これから韓国とどう付き合うべきか 

 「徴用工」訴訟の問題に話を戻す。
 日本の改元の初日である5月1日、韓国の訴訟原告団は、差し押さえた「戦犯企業」の財産を売却することを裁判所に申し出た。韓国外相(外交部長菅)は2日の記者会見で、「韓国国民の権利行使の手続きという観点から、政府が介入することではないと考える」と明言した。
 また、徴用工訴訟問題については、「司法判断を尊重するという次元を超え、歴史と人権という問題の下で被害者が納得できる、被害者の癒しとなる方策が重要」と述べた。これは「司法判断を尊重する」という従来の立場から一歩踏みこみ、「歴史と人権問題の解決という観点から、日本政府が被害者の納得できる措置を取るべきだ」という意味で述べたものだと、これを報じる『朝鮮日報』(5/2)はコメントを付けた。
 河野外相は訪問中のエチオピアでインタビューに応え、「日韓関係の法的基盤が損なわれようとしており、韓国政府として責任を持って対応すべき問題だと述べ、「万一韓国側の措置により、日本企業に実害が生じるような状況になれば、日本として速やかに必要な措置をとる」と強調した。韓国外相の「政府が介入することではない」という発言に対しても、「これは『司法に介入する』とか何とかいう問題ではなく、韓国側できちんと解決してもらわなければならない。発言はやや誤解を生みかねない」と、批判した。(『朝鮮日報』5/7

▼文大統領は5月2日、有識者との昼食会で出席者の一人から、日本との関係改善が必要だと言われたのに対し、次のように答えたという。「韓日間には過去に不幸な歴史があったため、絶えずいろいろな問題が起こり、ときには両国関係がぎくしゃくする」。「両国関係の根幹が揺るがないよう、互いに知恵を集めなければならないが、最近は日本が過去の歴史問題をしきりに国内政治に利用して問題を増幅させる傾向があるようで、非常に残念だ」。(『朝鮮日報』5/2)。
 このニュースを読んで、キツネに鼻をつままれたような気がした。「日本は過去の歴史問題をしきりに国内政治に利用して問題を増幅させ」ているというのだが、それはどのような事実を指しているのだろうか。
 
筆者は最近の日韓関係のニュースについては、「朝鮮日報」日本語版も含めて注意して見ているが、安倍内閣が「過去の歴史問題をしきりに国内政治に利用」しているような様子はない。安倍内閣が成立から6年半を経た現在でも、わりあい高い支持率を得ている理由のひとつには、安倍がその本来の主張や志向を抑え、自重していることが挙げられると筆者は見ている。「過去の歴史問題を国内政治に利用」などというケチなまねをせず、地道に米国、中国、EU、ロシアなどと外交を重ねていることが、政権の長期安定に役立っているのであり、文大統領の発言は一国を代表する者の言葉としてお粗末極まりない。
 文氏は、自分の言葉が事実でないことを十分承知の上で、国内向けの必要からそう発言したのだろうか。それともそれを事実と思い込んで、発言したのだろうか。
 韓国外交部のジャパン・スクールは、「慰安婦合意」を結んだ責めを負わされて左遷されたというし、李首相を除けば青瓦台にはもともと日本をよく知る側近はいないから、文氏が本当にそう思い込んでいる可能性も否定しきれない。いずれにしても、文大統領がまじめに日韓関係の修復に動き出す気配は、今のところないというべきである。

▼最後に、これから韓国とどう付き合うべきか、簡単に考えておこう。
 先ほど取り上げた「毎日新聞」の社説(3/2)は、文大統領が「関係改善に向けた意欲をにじませた」と評価し、「互いを尊重し、違いは違いとして認める。双方の政治指導者は、こうしたメッセージを発信し続けていくべきだ」と、述べた。
 一方、「読売新聞」の社説(3/2)は、「日韓関係の修復が当面進まないことを前提に、日本は外交を組み立てざるを得まい。感情的な応酬を避けながら、国際法に基づく正当な権利について、毅然として主張し続けるべきだ」と述べ、韓国政府の態度を突き放して見ている。(ついでに書き留めておくなら、「朝日新聞」はこの「三・一独立運動」百周年の記念式典について、社説に取り上げることをしなかった。関心がなかったはずはないから、論じる視点に自信を持てず、避けたのかもしれない、と筆者は思った。)
 近いうちに韓国の裁判所は、「徴用工訴訟」で差し押さえられた日本企業の財産の売却を、承認する決定を出すだろう。韓国政府は、日本政府の協議申し入れにも応えず、司法判断に「介入しない」という態度も改めず、日本が対抗措置をとらざるをえない事態となる可能性は、高いであろう。その対抗措置は、その内容にもよるが、「やむを得ないもの」として日本国内の支持を得るだろう、と筆者は見る。
 文在寅政権はこれまで、いわゆる「民心」に対して「勇気をもって」指導することができず、「民心」の要求するままに「反日」の動きが盛り上がるのを追認してきた。今後も「民心」を指導することなど、とても期待できないのであり、少なくとも文政権のあいだは日韓関係は「戦後最悪」の状態を続けるであろう。
 「……関係の修復が当面進まないことを前提に、日本は外交を組み立てざるを得まい。感情的な応酬を避けながら、国際法に基づく正当な権利について、毅然として主張し続けるべきだ」と述べた読売の社説は、予測と対応の両面で論説としての本来の役割を果していると言える。

 

(おわり)

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