韓国人の国民性
              【ブログ掲載:2019年1月18日~3月15日】


 ●韓国人の国民性

 事前に予想されたことではあったが、昨年10月末に韓国最高裁でいわゆる「徴用工」訴訟の判決が出されると、日韓関係はこれまでになく悪化した。判決に基づく日本企業の資産「差し押さえ」の決定が出されると、政治的緊張はさらに高まった。
 このブログでは2011年の開始以来、そのときどきの時事問題や政治問題について筆者の考えを適宜述べてきたが、韓国に関する話題がかなりの量になることに気づく。慰安婦問題や「歴史認識」問題など、それだけ韓国がらみの話題が多かったということだが、李明博、朴槿恵、文在寅という三代の大統領がせっせと「話題」を提供してくれたせいだと言えよう。
 「徴用工」訴訟の判決について取り上げることはいささか二番煎じであり、徒労感がないわけではないが、これまで筆者が述べてきたことの検証も含め、考えるところを述べてみたい。

 筆者はかって韓国人と日本人の関係について、次のように考えていた。
 《日本人が韓国人に対していかに友好的に振る舞い、過去の植民地支配について反省の意を示したとしても、韓国人が経済的に豊かになり、日本人に心理的に身構えなくても済むようになるまでは、複雑な感情から解放されるのは難しいだろう。それにはそれなりの時間がかかる。
 だから2000年代に入り、韓国の一部の企業が日本の有名企業を凌駕するほど発展し、韓流ドラマや韓流スターが日本の茶の間で受け入れられるようになったのをみて、ようやく複雑な感情に煩わされずにお互いに接することができる条件が整ったと思った。》(2012年9月16日)

 いま振り返って見て筆者の考えは誤りだったのだが、その原因のひとつは、韓国人の「国民性」を考慮せず、その思考や行動を日本人の基準で漠然と考えていたことであろう。

 

▼韓国は経済的に豊かになり、韓国人は自信を持った。しかしそのことは、日本や日本人に対する彼らの複雑な屈折した思いを、解消することにはならなかった。日本が「失われた二十年」で経済的に低迷し、韓国経済がその間拡大したことは、「日本を超えた」、「日本はもう怖くない」、「もう遠慮することはない」という思いを、彼らに抱かせたのだ。多くの韓国ウォッチャー(たとえば黒田勝弘、鈴置高史、木村幹など)が近年の日韓関係の悪化の背景に、「韓国が経済的に豊かになり、日本が経済的に低迷した」ことを挙げている。筆者の砂糖菓子のように甘い予想は、見事に外れたと言わなければならない。 

このことの理解のために、昨年10月末に日中首脳会談が行われたことについて、中国ウォッチャーのジャーナリストが書いていた記事の中の言葉が参考になる。米中間の貿易摩擦や政治的対立が激化した結果、中国は日本に接近せざるを得ない立場に追い込まれたのだが、中国側は安倍首相を丁寧にもてなしつつも、このニュースを大きく取り上げたくはないという微妙な態度だった、という。
 《……総じて実入りは中国の方が大きい。だがメンツを重んじる中国にしてみれば、日本に対して屈辱的なまでに下手に出た、という感覚だろう。日本人は相手が下手に出てくると、ついついお人よしのやさしい性格が出てくるが、中国は日本に助けてもらったとしても、心から感謝するどころか、いつか立場を逆転してこの屈辱を晴らそうと思うタイプの人が多い。中国は徹底した強者主義の国だ。》(福島香織「7年ぶりの日中首脳会談で得したのは誰?」日経ビジネスオンライン10/31
 この「強者主義」は、韓国と韓国人にも当てはまる。いや、自分が「強者」であることを弱い立場の者に見せつけることを当然とする文化は、世界的に見ればより普遍的であり、日本人の感性の方が特殊島国的なのかもしれない。

 

▼韓国最高裁判決の後、安倍首相は「国際法に照らしてありえない判断だ」と批判し、河野外相も駐日韓国大使を呼び出し、「請求権協定に明らかに違反し、両国の法的基盤を根本から覆すものだ」と抗議した。1965年の「日韓請求権協定」は日本が韓国に無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力金を供与することを定め、これによって日韓両国とそれぞれの国民間の「請求権」の問題は、「完全かつ最終的に解決したことを確認する」と明記していたからである。
 韓国政府は「慰安婦問題」について、「請求権協定」に基づき解決済みとの立場をとる日本政府に対し、「慰安婦」は日韓請求権協定時に議題にならなかったから、「協定」の枠外だと主張した。その韓国政府も、さすがに「徴用工」の未支給賃金問題が「協定の枠外」だと主張することはできなかった。徴用工への賃金問題が、協定の本丸であることは明らかだったし、協議の中で元徴用工へ直接の支払いを主張した日本側に対し、韓国側は自分たちで対応すると主張したことも明らかになった。この結果、韓国政府は2007年、元徴用工や遺族に対し特別法をつくり、補償することになった。
 それだけに日本企業に対して賠償を命ずる今回の最高裁判決は、「ありえない」ことなのだ。筆者はその内容がよく分からないのだが、朝日新聞の報道(10/31)によれば、次のようなロジックらしい。判決は原告たちを動員した企業の行為が、「日本政府の朝鮮半島への不法な植民地支配や侵略戦争の遂行と結びついた日本企業の反人道的な不法行為」だと指摘した。そして原告の求めているのは、「未払い賃金や補償金ではなく強制動員被害者の日本企業への慰謝料請求権」だとして、「請求権協定の適用対象外」であり、今も有効だと認定したのだという。
 「慰謝料請求権」は「請求権協定の適用対象外」とは、なんとも苦しい詭弁である。「慰謝料」とは、本来の損害賠償請求に付加されるはずのものだろう。損害賠償問題本体が「完全かつ最終的に」解決しているのだから、「慰謝料」を議論する余地はない。

だが筆者が着目したのは、「日本政府の朝鮮半島への不法な植民地支配や侵略戦争の遂行と結びついた」という、「日本企業の反人道的な不法行為」にかかる長い枕詞である。損害賠償請求訴訟の判決としては、上のような枕詞は必要とせず、それが妥当かどうかは別にして、「日本企業の反人道的な不法行為」を示せば十分である。ということは要するに韓国最高裁の判事たちは、戦前35年間の日本による朝鮮併合は「不法な植民地支配」であることを、なんとしても判決に書き込みたかったのだ。
 しかしこの問題は50年前、日韓基本関係条約を結ぶにあたって最大の対立点だった。「不法な植民地支配」を主張する韓国側に対し、日本は「合法的」であることを主張し、主張は真っ向から対立した結果、「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」(第二条)としたのであった。「1910年8月22日」とは韓国を併合した日韓条約調印の日である。「もはや無効」という表現で、お互いが妥協したのであった。

 

徴用工判決と韓国

 いわゆる「徴用工」問題への韓国最高裁判決が出された後の「混乱」について、話を続ける。
 韓国の与野党は、判決を歓迎するコメントをあいついで発表した。文在寅政権を支持する側の新聞は、「日本植民地支配と強制動員自体を違法とする憲法の価値に照らした場合、当然の判決」(ハンギョレ新聞)と、手放しで判決を支持する。一方、文政権に批判的な保守系紙は、判決を「客観的」に解説する記事を載せつつ、判決を批判する識者の発言を紙面に載せ、「民意」を敵に回さぬように注意しながら、政権がこれから対日外交をどうするつもりなのかを問うた。
 韓国政府は判決後、沈黙し、明確な態度を示すことができない。わずかに韓国外交省が、「日本政府の過度な反応は非常に遺憾だ」というコメントを出したぐらいである。日本の新聞には、「韓国政府手詰まり」、「韓国政府対応に苦慮」、「韓国政府板挟み」などの見出しが並んだ。
 年が明けたが、韓国政府はあいかわらず明確な態度を示すことができず、韓国内の司法手続きだけが進み、日本企業に対する資産差し押さえがなされた。その事態を受け、政府は1月9日に韓国政府に、請求権協定に基づく「協議」を要請した。

日韓の間では、済州島沖での海軍の国際観艦式で、自衛艦が「旭日旗」を掲げることに韓国側が「自粛」を求めたり(10月)、いわゆる「慰安婦合意」に基づいてつくられた「和解・癒やし財団」を韓国が一方的に解散する方針を発表したり(11月)、日本海で自衛隊の哨戒機に韓国の艦艇が火器管制レーダーを照射した(12月)など、急速に対立感情が盛り上がっている。請求権協定を無視したり誤魔化したりすることは、日韓関係をさらに深い部分で不安定化させる行為にほかならない。新聞は、「日韓不信 悪化の一途」(「朝日」1/10)の太字の見出しを掲げた。

 1月10日、韓国文在寅大統領の年頭記者会見があったが、日韓関係に関する大統領からの積極的な発言はなく、日本人記者の質問に答える形で次のように語ったらしい。「日本の政治家が(日韓関係を政治争点化し、)拡散させていることは賢明な態度ではない」、「日本政府は、もう少し謙虚な態度を示すべきだ」、「(元徴用工訴訟をめぐる判決について)三権分立なので政府は介入できない」と。(「朝日」1/11)。請求権協定に基づく「協議」に応じるのかどうかについて、回答はなかった。
 翌日、菅官房長官は文大統領の発言に対し、「韓国側の責任を日本側に転嫁しようというもので、極めて遺憾だ」と批判した。

 113日の新聞(「朝日」)には、韓国の首相が朝鮮独立運動の指導者の墓地を訪れ、「日本は過去に謙虚であるべきだ」と記者団に語ったという小さな記事が載っていた。日本はアジアで最初に近代化し、アジアの指導国に発展したが、その過程で隣国を侵略し、支配した。「その傷が少なくとも被害当事者の心に残っている。その事実の前で日本は謙虚であるべきだ。日本は指導国家にふさわしい尊敬と信頼をアジア諸国から受けるように望む」と。

 ●政治指導者の責任

 韓国の大統領と首相の発言は、一国の指導者の言葉として情けないものだと筆者は思う。なぜ、情けないのか、そのことを考えるのに適当な文章が、「朝鮮日報」の日本語サイトに載っていたので紹介したい。「没落する国家の条件」と題するコラム(12/02)で、「カン・チャンソク論説顧問」の署名がある。新年に大統領と首相の発言がある前だが、10月末と11月末の二度の韓国最高裁判決を受けて書かれたもので、2400字ほどの長さである。 

 文章は、次のような一節から始まる。

 《戦略のスタートは「ここがどこで、今はいつか」を正確に把握し認識することだ。前者が「地理感覚」だとすれば、後者は「歴史感覚」だ。「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という言葉もこの二つを正確に認識することが前提になっている。歴史はこの地理感覚と歴史感覚を失った国にとってはまさに墓場のようなものだ。》
 ビスマルクは、西のフランス、東のロシアを同時に敵とすることをかたく戒め、また国内が分裂することを戒めたが、この「生きる残るための知恵」はすぐに忘れ去られ、二回の世界大戦でドイツは敗北した。それでは韓国はどうか。
 韓国が米国のTHAAD(高高度防衛ミサイル)システムの導入を決め、配備を進めると、中国は露骨な嫌がらせを始めた。しかし韓国は中国には弱々しい抗議しかできず、逆に同盟国・米国との信頼関係を崩すような態度が目立つ。
 1961年5月16日の早朝、朴正熙らのクーデター軍は放送局のアナウンサーを叩き起こし、六つの革命公約を朗読させた。その第2項は、「国連憲章を遵守し、国際協約を忠実に履行する」というものだった。
 《クーデター軍でさえ大韓民国政府の連続性を無視しなかったことが分かる。ところが今の政府はまともな対策もないまま、日本軍慰安婦被害者問題、強制徴用被害者に対する賠償問題を巡って日本と行った合意や従来の立場をひっくり返した。その結果、日本から「国際的な約束を守らなければ、国としての関係が成立しない」という説教めいた言葉まで言われてしまった。》 

 コラムは最後に、次のような一節で文章を閉じる。やや長くなるが、それをそのまま引用する。
 《英国と欧州大陸を分けるドーバー海峡はその幅が33キロだが、大韓海峡(対馬海峡)は200キロある。ナポレオンもヒトラーもこの狭いドーバー海峡を渡ることができなかった。ところがその6倍の幅がある大韓海峡は韓半島(朝鮮半島)を守る防壁にはならなかった。自らを守る能力と意志がない国は山脈も海も守ってはくれないのだ。
 韓国国内の学校では「19世紀末に帝国主義諸国が東北アジアで激しい競争を繰り広げ、朝鮮はその犠牲になった」と教えている。しかしそれは真実の半分しか伝えていない。スタンフォード大学名誉教授のピーター・ドウス氏はその著書『The Abacus and the Sword』の中で「外の勢力に対抗して自らを守れなかった朝鮮の無能さが東北アジアの不安定要因だった」と指摘する。つまり残りの半分はこの部分にあるのかもしれない。
 危機の本質は「地理感覚」と「歴史感覚」を失い、一国の政府を市民団体のように運営する指導者、そして国民の大多数がそれに迎合する現実のなかにある。耳が痛くても真実は真実だ。》

 

19世紀末から20世紀初めにかけての「朝鮮の政治的無能さ」を、われわれが言い立てることはない。それはなによりも韓国人自身が振り返るべき歴史の重要問題であり、われわれはそれが彼らの恥部に触れるデリケートな問題であることを、十分に理解していなければならない。
 なぜ朝鮮はこの時期に、「東北アジアの不安定要因」だったのか。韓国に対し宗主権を主張する清国と、極東へ向けて膨張を続けるロシア、いち早く近代国家へ脱皮した大日本帝国という三大勢力に囲まれているという地理的要因が、もちろん大きかった。しかし同時に韓国自身が政治的に分裂し、清やロシアや日本を後ろ盾に相争い、独立した国家を維持する力に欠けていたことも事実である。
 そうした祖国の歴史から、現在の韓国人たちはどのような教訓を学んでいるのだろうか。残念ながら筆者には、彼らが自分たちの歴史に学び、政治的な賢明さを身に付けたようには見えない。独りよがりの「正義」を振りまわし、感情の赴くまま「日本叩き」に走りたがる「民意」と、それを追認し流れに掉さそうとする指導者たちの姿に、筆者は上のコラムの書き手と同様、「危機」を見る。
 韓国の政治指導者がなさねばならないことは、第一に「民意」に不人気であろうとも、戦後の日韓関係の基本をつくってきた「条約」と「請求権協定」を守ることである。「三権分立だから」などという誤魔化しを言わず、自分たちの国際的責任を果たしていかなければならない。
 第二に、日本に併合されたという「劣等感」から、早く国民を「解放」することであろう。日本の「植民地支配」や「軍国主義化」を非難する行為がいつまでも女々しく繰り返されるが、それは彼らの複雑な感情を指し示しているように見える。そういう女々しさを克服できてはじめて、韓国人は政治的な能力を獲得するのではなかろうか。

 

マックス・ウェーバーの政治

 前回筆者は、韓国人の「女々しさ」と「政治的能力」という、いささか挑発的な問題の設定をしたが、大事な点なのでその話題を続ける。「女々しさ」と「政治」という問題を考える上で参考になるのは、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』である。 

 M・ウェーバーは、ドイツ帝国が第一次世界大戦に敗北し、皇帝はオランダに亡命、ドイツ各地で暴動やストライキが発生する混乱の中、学生団体の要請に応えてミュンヘンで講演を行った。(1919年1月・2月)。講演はその後加筆され、『職業としての学問』、『職業としての政治』として出版された。
 大戦後のドイツでは、既存の社会秩序は根元から揺らぎ、左右の政治的対立が激化していた。若者たちは「現実」の代わりに「理想」を求め、「事実」の代わりに「世界観」を、専門家や教師の代わりに「指導者」を欲していた。しかしウェーバーは時代の欠点を認めつつ、時代を「宿命」として男らしく受け止めることを若者たちに求め、それぞれの「仕事」に帰るように叱咤した。
 『職業としての政治』には、ドイツ民主党の創立に参加するなど現実政治にかかわったウェーバー自身の経験や、宗教社会学的な膨大な知識をベースに、「政治」に対する鋭い洞察が語られている。その内容は多岐にわたるので、整理して示すことは難しいのだが、「政治」を語るウェーバーの頭の中心に、「倫理」の問題があったことは確かであろう。「政治」という難しい世界の中で判断を間違えないために、人間の「正義」の感情やそれと結びついた「倫理」を、どのように取り扱えばよいのかという問題である。ウェーバーはこの問題への回答の一つを、「心情倫理(信念倫理)」と「責任倫理」の対立として定式化し、政治は「責任倫理」に拠らなければならないと語った。 

 もうひとつ、ウェーバーはひとが日常生活で取るべき態度について語り、「倫理」の上位に人間の「品位」というもの置いて、ひとは雄々しく生きるべきだと主張した。
 戦争に勝った者が、「正しいから勝った」と言うのは「下品な独善」であるし、戦争が恐くて戦えなかった者が、「道徳的に悪いことのために戦えなかった」と弁明するのも、品位に悖る行為だと、ウェーバーは言う。雄々しい人間なら、戦争が終わったあとで敵に向かってこう言うだろう。
 「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任―――これが肝心な点―――にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。《これ以外の言い方は全て品位を欠き、禍根を残す。》

 《戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪や憤激が再燃して来る。戦争の道義的埋葬は現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神(リッターリッヒカイト)、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは、実に双方における品位の欠如を意味する。政治家にとって大切なのは将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに。解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。》(脇圭平訳)
 M・ウェーバーの語り口と翻訳の問題が複合して、分かりやすい表現とは言えないが、彼の言わんとする趣旨は明瞭だろう。彼は19世紀までのヨーロッパ世界の「常識」を若者たちに教え、大衆の時代の「倫理」過剰から「政治」を守ろうとしたのである。


 ●「倫理」の過剰と政治の問題 

▼話を韓国の「女々しさ」の問題、あるいは「倫理」過剰の問題に戻す。
 現在の韓国憲法の前文は、「悠久なる歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法的伝統」を継承する、という一文から始まる。日韓併合条約は法的に無効であり、大韓帝国の主権は法的に存在し続けたのであり、大韓民国は上海で設立された「大韓民国臨時政府」を介して大韓帝国から正統性を継承したというのが、彼らの主張である。
 どのような主張をするかは彼ら自身の問題であるし、また彼らの父祖が1919年3月1日に「朝鮮が独立国であることを宣言」し、「独立万歳」を叫びながら示威運動を行ったことを誇るのは当然だと、筆者は思う。また、対峙する北朝鮮の支配者に対し、自分たちの正統性を主張することが致命的な重要性をもつことは、十分理解できる。
 だから今年がその三・一運動からちょうど100年に当たるということで、彼らが父祖の勇気ある行為を想起し、盛大に祝い盛り上がることも、当然のことだと思う。
 だが、もしもそれが現在の韓国と日本の関係に直接投影され、日本批判の口実にされたり欲求不満のはけ口にされるとすれば、それは歴史の誤った使用と言わなければならない。しかし、「旭日旗」に対する幼稚な反発など昨今の韓国民衆の「日本」への態度を見ていると、そういう心配が杞憂に終わらない可能性が高い。

 ▼昨年10月、済州島沖で15か国の海軍が参加した国際観艦式が行われたが、自衛艦が「旭日旗」を掲げることに韓国側が「自粛」を求め、自衛艦は参加を取りやめるという事件が起きた。「旭日旗」は戦前の日本帝国海軍のものと同一のデザインだが、戦後の自衛隊の軍旗として正式に採用されたものであるから、「自粛」を求めることが国際慣例上難しいことを、韓国海軍は理解していた。しかし韓国政府は「民意」に押され、国際常識と軍事的な協力関係を犠牲にしたのである。
 「旭日旗」に反発する事件は、以前、サッカーのアジア・カップ(2011年)の大会会場でも起こっている。「軍旗」を持ち出して応援する日本の観客も阿呆だが、子供じみた反発を示す韓国の若者もおかしい、と当時は思っただけだったが、今回の国際観艦式での韓国政府の態度には強い失望を覚えた。
 「旭日旗」は軍国主義の象徴であり、日本による植民地支配の象徴というのが彼らの言い分らしいのだが、そうだろうか。
 韓国併合後、日本は韓国の宮殿である景福宮の130以上あった建物を8棟を残して取り壊し、敷地内に総督府(統監府)の建物を建て、残した宮殿の建物に日章旗(日の丸)を掲げた。また、彼らの父祖は皇国民として、36年間機会あるごとに「日の丸」に拝礼を強いられた。だから韓国人が、かって日本帝国の支配下に置かれたという悔しい歴史を恨むなら、「日の丸」にこそ恨みをぶつけるべきなのだ。
 筆者はもちろん、韓国の若者たちが「日の丸」に反発することを勧めているわけではない。彼らの「旭日旗」への反発が、女々しい頭からかなりの無理をして捻り出されたものでしかないことを、確認しているのだ。
 理屈で彼らに反論しても、彼らは耳を貸さないだろう。しかし次の記事は、彼らの行為の滑稽さを自覚するきっかけになるかもしれない。「朝鮮日報」日本語版サイトの昨年1218日の記事である。 

米国ロサンゼルスのコリア・タウンにある公立学校の外壁に描かれた壁画が、「旭日旗」を連想させるとして韓国系コミュニティーが消去を求めた。抗議を受けて学区(学校)では、冬休み中に壁画を消すと表明したが、これに対し、「表現の自由を侵害している」という反発の声が上がった。
  問題の壁画は、「ロバート・F・ケネディ・コミュニティスクール」の体育館の外壁に描かれたもので、赤い放射線状の光が人と椰子の木のまわりに広がるデザインだが、制作した画家は、「旭日旗」を意味するものではないと否定した。検閲に反対する複数の団体から、表現の自由を侵害することに批判の声が上がり、さらにロバート・F・ケネディの子どもたちからも壁画の消去に反対する意見が出された。学校はケネディ元上院議員が暗殺されたホテルの跡地に建設されていたのである。
 ケネディ元上院議員の子どもの一人は、反対する文書の中で、「今回の壁画の除去計画には非理性的で非難されて当然という部分があまりにも多く、ばかげた欠点を列挙する論文が書けるほどだ」と批判した。ある画家は、問題の壁画を消去するなら、自分が学校内に描いたケネディ氏の肖像画の消去も要求する、と述べた。学校の教諭と生徒の一部も、反対の意思を示している。壁画を制作した画家は、弁護士を通じ、壁画が消去された場合は学区を訴える方針を示した。 

記事は以上であり、問題の壁画がその後どうなったかの続報はない。

 

「正義」の顔をした社会的偏見

 前回紹介したロサンゼルスの「旭日旗」問題は、多様な意見や思考を重んじる米国人の健全な批判精神が発揮された例だといえる。しかしせっかくの批判精神が、「正義」の顔をした社会的偏見におおわれて機能しないこともあるし、一切の議論や批判を頭から拒否する頑なな状態に陥ることもある。たとえば「捕鯨問題」がそれであろう。本題からいささか逸れるが、米国人の陥りやすい「正義」の顔をした偏見について少し見てみたい。 

 以前このブログで採り上げたことがあるが、ニューヨークに住む佐々木芽生(ささき・めぐみ)がドキュメンタリー映画『おクジラさま』(2017年)を撮ったのは、和歌山県太地町の「イルカ漁」を批判する映画『ザ・コーブ』(2010年)への疑問からだった。『ザ・コーブ』は、かわいいクジラやイルカを密かに殺す漁師たちを悪玉とし、「イルカ漁」が残酷で不当なものであることを訴えるために、その実態を暴こうと苦心する活動家たちを善玉とした、わかりやすい「勧善懲悪」の映画だった。
 佐々木芽生は、シーシェパードなどのクジラ保護活動家の言葉だけが世界に広がり、太地町の漁師の思いや考えがいっさい伝わらない状況に、危機感を懐く。太地町に暮らす人びとの思いや考えも伝わる映画を撮らなくてはならないと考え、以前いっしょに映画をつくった親しい信頼する映像編集者に、またいっしょに仕事をしてほしいと依頼した。ところがその女性編集者の反応は、佐々木が予想していたのとは異なり、煮え切らない、はっきりしないものだった。
 「……だって日本は、知能が高くて絶滅の危機に瀕しているクジラを違法に捕っているいるわけでしょう。それを正当化するような映画に加担するのは、どうも……」というのが、彼女の本音だった。
 佐々木は、「アメリカ人が宗教のようにクジラを崇拝する」ことは、20年以上のアメリカ生活でよく知っていた。しかしニューヨーク・タイムスを毎日隅々まで読んでいるようなインテリ女性が、捕鯨についてはお決まりの固定観念から自由でないことを知って驚く。佐々木は、クジラやイルカは同じ「鯨類」で、大きいものから小さなものまで80種類以上あること、その中にはシロナガスクジラのように絶滅危惧種もあるが、多くの種類は十分な数が生息していること、日本の調査捕鯨や太地町で捕っている「鯨類」は、絶滅危惧種ではなく、捕獲数も厳しく管理・規制されていることなど、ひとつひとつの事実から説明した。そして『ザ・コーブ』の公開以後、太地町で起こっていることを説明し、太地町でのシーシェパードのメンバーの様子を撮った映像を見せた。
 親しい映像編集者は、やがて自分がいかにこの問題に無知であったかに気づき、また米国人の多くがいかに無知であるかを嘆き、積極的に佐々木のドキュメンタリー映画の編集を引き受けてくれることになった。――― 

 昨年末、日本はIWC(国際捕鯨委員会)から脱退する方針を決めたと報じられたが、ここで論じたいのはクジラの話ではない。「正義」の顔をした偏見が社会をおおっているとき、正常な批判精神が「事実」を「事実」として見ることが困難になり、一切の議論や批判を頭から受け付けない状態に陥ることもある。いわゆる「慰安婦問題」も同様の構造の中にあるのではないか、ということを言いたいのである。

 ●海を渡る慰安婦問題 

 『海を渡る「慰安婦問題」』(2016年 岩波書店)と『帝国の慰安婦』(朴裕河 2014年 朝日新聞出版)という2冊の本を読んだ。
 『海を渡る「慰安婦問題」』は、山口智美、能川元一、テッサ・モーリス=スズキ、小山エミという4人の論文で構成されている。「右派の『歴史戦』を問う」という副題が付けられているとおり、「産経新聞」が紙上で連載し、同調者が米国で展開する「歴史戦」の運動を批判するものである。
 「歴史戦」という言葉は、産経新聞が、「慰安婦問題を取り上げる勢力の中には日米同盟関係に亀裂を生じさせようとの明確な狙いが見える」、「もはや慰安婦問題は単なる歴史認識を巡る見解の違いではなく、『戦い』なのだ」という問題意識から創り出したものである。それに対し執筆者たちは、「『歴史戦』と称して、日本の右派が『慰安婦問題』を中心とした歴史修正主義のメッセージを、海外に向けて発信する動きが活発になっている」と現状を受け止め、「歴史修正主義の動きの批判的分析を通して……対抗策を編み出していくための一助となることを期待し」て、この書物をつくったと書いている。
 『海を渡る「慰安婦問題」』の主張を一言で要約すれば、次のようになるだろう。右派と日本政府が「官民一体」で行っている「歴史戦」の主張は、米国で受け入れられず、顰蹙と反発を買っている。慰安婦問題に対する「国際世論」に従い、日本の法的責任を受け入れ、被害者たちに賠償を支払うことが必要であり、それが日本の名誉のためでもある。―――

 政治的プロパガンダの書物であっても、定評ある老舗の「岩波書店」の出版物だから、慰安婦の側に立って日本政府を糾弾する「研究者」たちの考えが、ある程度説得力のある形で示されているかもしれないという淡い期待はあった。だが読んでみて、強い失望と違和感だけが残った。
 「慰安婦問題」に関する議論を聞いていてもっとも苛立たしいのは、「事実」をおろそかにする発言が多い点である。とくに日本政府を告発・糾弾する側は、自分たちの主張がどのような「事実」に基づくのかを明確にすることなく、非難の声を高め、「国際世論」に訴えることで運動を有利に進めようとしてきた。対立する相手を説得するために、共通の「事実」を確認しようと努めるのではなく、「事実」に関する議論を意図的に避けているように筆者には見えた。
 この書物でも執筆者たちは、「慰安婦」や「慰安所」について自分たちが「事実を知っている」ことを露ほども疑わず、日本の「右派」や「歴史修正主義者」たちを、その「事実」を隠蔽、歪曲、ごまかす者と見なして非難する。しかし、逆ではないかと筆者は思う。
  筆者はこれまで自分なりに文献を読み、「慰安婦」や「慰安所」について調べ、その結果をこのブログで発表してきた。日本政府を糾弾する「研究者」や「活動家」の主張は、誤った「事実」とお粗末な論理の上に組み立てられており、「事実」を隠蔽し、歪曲し、誤魔化しているのは、告発・糾弾する側だというのが、その結論だった。彼らが勝ち誇ったように担ぎまわる国連人権委員会の報告書や、アメリカ下院の決議などの「国際世論」は、「正義」の顔をした偏見によって目を曇らされたところから生じたと言うしかない。 

こうした状況の中で、「事実」の確認に努力し、慰安婦たちの悲劇を植民地化された韓国の民の悲劇として訴える朴裕河(パク・ユハ)の『帝国の慰安婦』は、異論を許さぬ韓国内で発表された勇気ある書物である。

 

 ●『帝国の慰安婦』が明らかにしたこと

 筆者は以前、朴裕河(パク・ユハ)の『反日ナショナリズムを超えて』(2005年)という本を読んだことがある。韓国人の読者を対象に、韓国人の日本人に対する誤解や偏見を指摘し、その原因にさかのぼって論じた本だが、記述や分析の質が高く、信用が置けるとそのとき思った。
 『帝国の慰安婦』(2014年)も、韓国語と日本語を自由に読み書きできる著者の強みを生かし、資料を読み込み、問題を整理しつつ著者の考えを述べた力作である。自分自身の主張はできるだけ控え、客観的に事実を述べるスタイルを貫いているので、これまで「慰安婦問題」に関心がなく、昨今の「日韓関係の悪化」に驚いているノンポリの日本人が手にするにも、(少し本格的だが)適当な本と言えるだろう。 

 韓国にとって「慰安婦」とは、「日本軍に強制連行された朝鮮人の無垢な少女たち」である、と朴裕河は書く。その数二十万人、慰安所で「性奴隷」生活を強いられ、日本の敗戦後、ほとんどは帰国できずに殺された、という「理解」がそれに続く。
 こういう「理解」を広める上で力があったのは、「韓国挺身隊対策問題協議会(略して挺対協)」という団体だった。1990年に結成され、慰安婦を支援する活動を始めたが、その団体名が示唆するように、彼らは慰安婦と「挺身隊」の関係を間違って理解するところからスタートした。著者は韓国での慰安婦の「理解」がどのように作られていったのか、その根拠を洗い直す作業から始める。
 慰安婦を必要としたのは、もちろん日本という国家だった。しかしその需要に応えて、女たちを甘言でだまし、ときには誘拐するなどして連れて行ったのは、ほとんどの場合、朝鮮人の中間業者だった。《「強制連行」した主体が日本軍だったとする証言も少数ながらあるが、それは軍属あつかいされた業者が制服を着て現れ、軍人と勘違いされた可能性が高い。たとえ軍人が「強制連行」したケースがあったとしても、戦場でない朝鮮半島では、それはむしろ逸脱した例外的なケースとみなすべきだ。》
 勤労挺身隊は、男たちが戦場に送られ、労働力が不足した工場などに、女性たちを労働力として動員するための制度である。日本国内では1425歳の未婚の女子を国が動員する制度がつくられ、1944年には募集対象が12歳以上に引き下げられたが、朝鮮半島では19451月から「志願」の形で始まったものだった。慰安婦の多くは貧困による無学者か低レベルの教育しか受けなかった人たちだったが、挺身隊には中学生以上の学生や卒業生が対象とされた。
 なぜ挺身隊=慰安婦という誤解が当時韓国社会に広まったのかという疑問について、著者は次のように想像する。女性を集める業者たちは、「挺身隊」に行くのだという話を女性とその家族にし、貧しさゆえに娘を売った親たちは、その嘘に承知で乗ったのではないか。《彼女たちを守れなかった植民地の人々すべてが、「慰安婦ではなく挺身隊」という「嘘」に、意識的あるいは無意識的のうちに加担した結果》だったのではないか、と。

▼慰安婦=少女というイメージは、挺身隊を慰安婦と誤解したところから作られたものだろう。ある元慰安婦は、慰安婦は20歳以上が多かったと証言しているが、日本兵として戦地に送られた元朝鮮人兵士も、慰安婦たちが自分(2021歳)よりも年上で、「お姉さん」と呼んでいたと語っている。1944年にビルマのミッチナーで捕虜になり、米国政府戦争情報局の尋問を受けた朝鮮人慰安婦たちの平均年齢は、25歳だった。
 朝鮮人慰安婦が20万人という説も、根拠は何もない。19708月の「ソウル新聞」に、「挺身隊に動員された韓日両国の女性は全部で20万ほど」という記事が出ていることを除けば、およそ出所不明の数字と言うしかない。しかし韓国の被害者意識を育て維持するのに効果的だったので、慰安婦=少女のイメージも慰安婦20万人説も、訂正されずに生き続けた。
 慰安婦たちは日本軍に置き去りにされたか虐殺されたかで、ほとんど戦地から帰ることができなかった、と韓国では考えられているらしい。しかし事実はどうなのか。
 著者は、外地(植民地と占領地)にいた日本人の運命と、さほど違わなかっただろうと推測する。外地の日本人が帰還できたかどうかは、彼らがどこにいたかによって明暗が分かれた。その状況は、当時日本人だった朝鮮人も、基本的には変わらなかったであろう。
 太平洋の占領地にいた人びとは、多くの場合、米軍の進行とともに戦火を浴びざるをえなかったし、満州にいた人びとは、ソ連軍の略奪と強姦に見舞われ、必死の逃避行の途中、命を落とすものも少なくなかった。
 《「敗戦後の日本軍の朝鮮人慰安婦虐殺」という韓国での常識は見直されるべきだ。そういうことがあった可能性も排除できないが、それでも一般的な事柄ではなかったことは認識されるべきであろう。》

▼著者は、関係資料とともに挺対協が編集した慰安婦たちの『証言集』を丁寧に読み込み、慰安所での生活を描いている。著者は言う。慰安婦の労働の過酷さは、場所によって異なっていた。兵員2万人に対し慰安婦50人という悲惨な場所もあったが、閑な部隊では、慰安婦は部隊の一員のように扱われることもあった。兵隊たちは彼女たちを「女房みたいに」大事にし、慰安婦の方もそれに応え、休日には洗濯をしたり、繕い物をしたりした。《家族と離れて戦場に出かけている軍人を、「女房」のように身体的精神的に「慰安」し、士気を高める役割。それこそが慰安婦に期待される役割だった》。

 「戦闘を前に恐いと言って泣く軍人もいた。そういう時わたしは、必ず生きて帰ってと慰めたりもした。そして本当に生きて帰ると、嬉しく思って喜んだ。そういう人たちの中にはなじみになる人も多かった。」(『証言集』1
 「ある人は何もしないで帰るの。それでも頻繁に来るの。癒され、遊び、お酒を飲みながら話そうとして来るわけ。肉体関係を持たない人はたくさんいたよ。」(『証言集』5)

 慰安婦たちが楽しんだ運動会の記憶を語り、兵士と一緒に馬や車に乗って子供のように遊んだ体験を思い出して、幸せな思い出として語る元慰安婦もいた。著者は言う。そういう時間が戦力を維持するための国家の策略でしかなかったとしても、彼女たちに地獄としての慰安所生活を耐えさせてくれる喜びの時間であったこと、それを忘却させる権利は誰にもない。《「慰安婦問題」が「女性の人権」の問題ならなおさら、そのような感情や思いや体験はありのままに受け止められるべきだ。》

そしてさらに挺対協に対し、次のように鋭い批判を向ける。

《何よりも、「性奴隷」とは、性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽してしまう言葉である。慰安婦たちが総体的な被害者であることは確かでも、そのような側面のみに注目して、「被害者」としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自分の「主人」になる権利を奪うことでもある。他者が望む記憶だけを持たせれば、それはある意味、従属を強いることになる。》

▼「挺対協」は、日本を外から圧迫することに多くの力を注いできた。「慰安婦問題」を同時代の戦争(旧ユーゴスラビアやルワンダの内戦)とつなげ、「戦時における女性への暴力」の問題として訴え、世界を味方につけた。
 1996年にいわゆる「クマラスワミ報告書」が、国連人権委員会に提出された。正式名は「女性に対する暴力 戦時における軍の性奴隷制度問題に関して、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」であるが、その事実認定は問題が多い。吉田清治の「強制連行」話を事実として引用しているのもその一つだが、慰安婦のほとんどが1418歳で、学校制度を利用して募集されたとしたり、朝鮮人慰安婦は20万人で、その大半が日本軍に殺されたとしている。慰安婦の相手をした軍人の数は、一晩に6070人という記述も出てくる。そう語ったのは北朝鮮の元慰安婦だが、彼女の「証言」は日本政府糾弾に熱心な吉見義明ですら、採用できないものだった。
 「クマラスワミ報告書」は慰安婦についての正確な理解を欠いたまま書かれたものだったが、その後に出る報告書に大きな影響を与えることになる。
 1998年に国連人権委員会に提出された「マクドゥーガル報告書」は、2000年の最終報告で、次のように語っている。
 「性奴隷制が記録されたケースで最もひどい事件の一つは、第二次世界大戦中の日本帝国軍が関連した強姦収容所の制度であった」。
 20万人もの女性と少女はすべて強姦収容所的な施設に収容され、彼女たちの多くが11歳から20歳であり、生き残った人は25パーセントにすぎず、「145千人」が生きて帰ってこられなかった。彼女たちを誘拐したり騙したりした主体は日本軍で、日本軍は女性の売買禁止条約に違反している、と「報告書」は述べた。

 「クマラスワミ報告書」も「マクドゥーガル報告書」も、信頼できない人間の発言や根拠の怪しい話を事実として取り扱い、法的論理構成も荒く、出来の悪いレポートだった。慰安婦問題に深くかかわってきた国際法学者・大沼保昭は、ふたつの国連報告書について、「総体的に見て、学問的水準の低い報告と言わざるを得ない」と、厳しい評価を下している。

《国連の特別報告者の報告がすべて水準が低いというわけではない。学問的研究として見ても優れた報告もなくはない。ただ、たまたま二人の報告はレベルの低いものだった。「慰安婦」問題という、多くの人の関心を集めた問題に関する報告がお粗末なものだったことは、国連の権威と信頼性を傷付けるもので、残念なことだった。それをひたすら持ち上げた日韓の知識人、NGO、メディアの姿勢も恥ずかしいものだったというほかない。》(『「慰安婦問題」とは何だったのか』2007年 中公新書)

 

 ●「公的記憶」としての慰安婦と韓国の誇り

 「慰安婦問題」に深入りすることは、本題(「韓国人の国民性」)からはずれるように見えるが、実はそうではない。「慰安婦問題」には韓国人の国民性あるいは精神状態が、色濃く反映しているのである。そのためこの話題を、朴裕河(パク・ユハ)の説明をトレースしながらもう少し続ける。
 「挺対協」は慰安婦に関する情報提供者として、韓国国内で圧倒的な影響力を持っているという。「挺対協」自体に力があるというよりも、韓国国民とマスメディアが「挺対協」の「認識」を受け入れ、共有しているからなのだが、韓国社会は元慰安婦の運動を通して、「独立的で誇り高い朝鮮やその構成員としての自分たち」を見出そうとしてきたのである。
 この二十年間韓国社会は、慰安婦をめぐる「公的記憶」をつくり続け、それに亀裂を入れるような話は受け付けなかった。不協和音は排除され、その結果、「日本が幼い少女まで強制的に連れて行って慰安婦にした」という「公的記憶」が確立した。それを集約する形で表現したのが、ソウルの日本大使館前の少女像であり、それは「聖少女の純潔と抵抗」のイメージとしてある。
 《挺対協の認識を韓国民が共有し、その活動が「正義」の象徴となっているため、政治家から小学生まで、そこにコミットすることが高い民族意識を証明することになる状況も生まれている。》《慰安婦問題はもはや単なる歴史認識問題を超えて、韓国の誇りをかけた、なんとしても韓国の言い分を通さねばならない問題》(朴裕河)となってしまっているのだ。 

 しかし朴裕河はそこに、植民地時代ときちんと向き合ってこなかった韓国の、無意識の欺瞞と歪みを読みとる。朝鮮人慰安婦とは、日本軍の朝鮮人兵士と同様、抵抗したが屈服し協力した植民地の悲しみと屈辱を、身体で経験した存在であるはずだ。しかし韓国では日本に抵抗した記憶のみが「公的記憶」となり、順応し協力した記憶は排除され続けてきた。
 韓国語を習得した女優・黒田福美が、特攻隊として沖縄の海に散った朝鮮人日本兵のために慰霊碑を建てようとしたが、予定地に建てることを市民から拒否されたと朴は書いている。韓国は朝鮮人兵士を「親日派」と見なして、彼らの慰霊碑をいまだに拒否しているらしい。
 《韓国が植民地朝鮮や朝鮮人慰安婦の矛盾をあるがままに直視し、当時の彼らの悩みまで見ないかぎり、韓国は植民地化されてしまった朝鮮半島をいつまでも許すことができないだろう。》
 筆者は、韓国人の「劣等感」、「複雑な感情」という言葉でこの問題に触れたが、前に紹介したコラム「没落する国家の条件」を書いたような韓国の知識人が、劣等感の心理学を知らないはずはない。しかし民衆が大声を上げると、政治指導者たちはその意を迎えようと汲々とする政治風土の中では、事実の上に立って理性的にものごとを考える人びとは、きわめて厳しい立場に置かれることになる。

 「情治国家」韓国と日本の対応

 裁判という法律の概念と論理が厳密に支配するべき領域でも、韓国においては「民衆の思い」が特別の重みをもつらしい。
 韓国の検察によって起訴され、韓国の司法の事情を身を持って体験した産経新聞ソウル支局長は、「法律よりも国民感情が優先し、法の支配が歪められる韓国の特殊事情」と書いている。(加藤達也『なぜ私は韓国に勝てたか』平成28年 産経新聞出版)
 加藤は、セウォル号事故の直後に朴大統領がどこで何をしていたかについて、こういう噂があると、朝鮮日報のコラムなどを引用して産経新聞のインターネットサイトに記事を書いた。すると、「ネット上に虚偽事実を流し、大統領の名誉を棄損した」として、起訴されたのである。引用元の朝鮮日報のコラムはお咎めなし、日本人に向けて日本語で執筆した加藤支局長は刑事責任を問われた、という事件だった。
 事件は報道の自由の問題として国際的な注目を集め、結局、「一審無罪、検察控訴せず」で終わった。加藤は、「法治国家」ならぬ「情治国家」である韓国では、「怒りの動機が正しく同情に値するとなると、何をやっても許される社会的な雰囲気がある」と書く。そして「国民情緒法」という言葉でそれを説明した『ニューズウィーク日本版』(2013101日号)の特集記事を紹介する。「時に司法までも呪縛する不可解な『法』が韓国には存在する。法律や条例はもちろん、憲法よりも国民感情を優先するという見えざる法」が、韓国社会を支配している、というわけだ。

 「国民情緒法」は、慰安婦問題や徴用工問題で、日本に対して発動されただけではもちろんない。『帝国の慰安婦』を発表したことで朴裕河も標的にされ、元慰安婦らから出版差し止めの仮処分申請や「名誉を傷つけられた」とする刑事告訴が行われた。その結果著者は、地裁で30か所以上の削除を命じられ、また、歴史をゆがめ被害者に苦痛を与えたとの理由で、有罪とされたという。

 

▼「慰安婦問題」についてバランスのとれた判断をするために、もう一方の側の日本政府がどう対応してきたかを、簡単に見ておきたい。
 日本国内では問題が浮上した当初から、「強制連行され性的労働を強いられた少女たち」という韓国側の「理解」に反発し、「慰安婦は商売だ。売春婦にすぎない」とする主張が存在した。「河野談話」(1993年)はそういう一部の声に対抗し、「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」として、日本の総体的責任を認めるものだった。そして「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と述べた。
 「河野談話」の考え方は、「女性のためのアジア平和友好基金(アジア女性基金)」(1995年)に引き継がれた。「アジア女性基金」は、国民からの拠金を基に「償い金」を元慰安婦に贈り、慰安婦の医療や福祉に役立つ事業を政府資金で実施することとしたが、「償い金」には「総理のお詫びの手紙」が付けられていた。その文面は「河野談話」をそのまま受け継ぎ、「従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々」に対し、「心からお詫びと反省の気持ち」を述べ、橋本総理から小泉総理まで4人の総理が署名していた。

  当時、日韓間の補償や賠償などの「請求権」の問題は、1965年の日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決」したことは、日本政府だけでなく韓国政府も認める共通の了解事項だった。そのような厳しい制約の中で、それでも「アジア女性基金」は日本の「道義的責任」を果そうと動き出したのだが、「挺対協」はそれをごまかしだと非難し、慰安婦たちに「償い金」を受けとらないように強要した。日本政府は「法的責任」を認め、慰安婦への賠償を公的資金で行えというのが、彼らの主張だった。
 しかし日本政府にどのような「法的責任」を問うことができただろうか。女性を甘言でだましたり、人身売買したり、暴力的に監禁して強制的に労働させた「業者」の「法的責任」を問うことは、もちろん可能である。しかし日本軍と政府の責任は、「遠く離れた地域に持続的な需要を作り、業者たちが、強制的な手段を使っても女性たちを連れて行きさえすれば、商売になると考えるようなシステムを維持したこと」(朴裕河)にあるのである。
 「アジア女性基金」は国民に拠金を呼びかけたが、「償い金」の不足分は国庫で補填するものとされ、福祉・医療の事業費も「女性基金」の事務費も全額政府資金であり、つまり実質的には「国家補償」の色が濃いものだった。《いわば基金は、国家補償しつつも、表向きはそのような形をとらないための、あくまでも「手段」だったのである。責任回避のためではなく、「責任を負う」ためのものだったと言えるだろう。》
 だが韓国政府は、日本政府への反発と非難を続ける「挺対協」に引きずられ、はじめは「誠意ある措置」と評価しておきながら、態度を変えた。「関係団体と被害者の両方が満足する形で事業が実施されるのでなければ解決にならない」などと他人事のように言い、問題解決から逃げた。問題の解決に向けた動きは、2015年の「日韓合意」にいたるまで、停滞せざるをえなかった。

そしてその「日韓合意」も、昨年末に韓国政府が「和解・癒し財団」を解散すると発表し、一方的に反故にしてしまったのである。

 

 ●徴用工判決と韓国人の国民性

 筆者のこの間のブログは、「韓国人の国民性」という表題を掲げながら思いつくままに話を広げ過ぎたキライがあるので、そろそろこの辺りで整理しようと思う。
 いわゆる徴用工裁判について、日本と韓国の過去の協議の経緯を知らない韓国の民衆が、不満の声を上げることは理解できる。しかし日韓基本条約や請求権協定締結の経緯を十分に理解しているはずの韓国最高裁(大法院)が、関係をひっくり返すような判決をあえて出すということは、日本政府のみならず日本人には理解できないことである。近代社会の約束事がいとも簡単に破られ、破った判決を韓国の国会議員たちが与野党ともに歓迎し、それが当然だという顔をされると、日本人は安倍首相ならずとも「ありえない」とつぶやかざるを得ない。 

 韓国人をよく知る人たちのコメントを、いくつか読んだ。まず元駐韓公使の町田貢という人が、大法院の徴用工判決の後に記者に語った言葉。(朝日新聞11/1 「日本の努力不足もないわけではないが、大きな要素とは思わない。過去の取り決めも、現在の判断で覆して構わないという韓国の国情が大きい。」
 韓国では大統領が変わるたびに政策も大きく変わる。外交分野では遠慮もあるものの、日本に対しては例外で、「民族を抹殺して統治した日本への遠慮はいらないという感情が根底にある」と、町田元公使は言う。

 盧武鉉(ノムヒョン)大統領の下で統一相を務めた李在禎は、次のように記者に語っている。(朝日新聞2/11
 「韓日両政府は日韓基本条約で国交を正常化し、請求権協定を交わした。日本では、徴用者問題も慰安婦問題も、協定で解決されたとの意見が強い。だが、今も多くの被害者は心に傷を負い、癒されていない。韓国では政府が問題を解決したと考えても、国民がおかしいと感じたらひっくり返す。日本では理解しづらいことかもしれないが、政治文化の違いだ。何度も誤っているのに韓国では許してくれないという不満が、日本にあるのを知っている。でも、韓国の国民は、慰安婦問題や教科書の問題で日本国内から出てくる言動を見るたびに、心から誤っているわけではないと感じてしまうのだ。」

 三つ目のコメントは韓国の元駐日大使・申珏秀(シンカクスウ)がインタビューで、記者に語ったものである。(「Diamond on line2/20)。記者が「日韓基本条約で合意し、これまで歴代韓国政権が問題視してこなかった徴用工の件を取り上げ、また2015年の日韓合意で合意した慰安婦の件を覆したことで、日韓関係が悪化する要因となりました。日本では、なぜ一度合意したことを韓国は持ちだすのか、という疑問が渦巻いています」と話を向けると、元駐日大使は次のように語った。 「それは確かにあると思います。この問題を理解するときに、韓日で法と正義の観念の違いがあることを理解しなければなりません。韓国では『正義があれば、法律は変えるべきだ』という観念が強いのです。これまでも、民主化されてから正義のために過去の司法判決を覆すことはありました。これは日本ではめったに考えられないのではないでしょうか。」
 記者がさらに、「そうした韓国の考え方を外交に持ち込めば、国と国との約束が守られないという事態を招くことになるのでは」と質問すると、元大使は、「それは韓国政府も認識していると思う。事実として、韓国政府は動きにくい状態にある」と答え、「これまでの既存の政府の立場と司法の判断が矛盾しない解決策として、私は韓国政府、韓国企業、日本企業の三者による基金を作り、徴用工問題に対処することを提案しています」と語った。

「過去の取り決めも、現在の判断で覆して構わないという韓国の国情が大きい」、「韓国では政府が問題を解決したと考えても、国民がおかしいと感じたらひっくり返す」、「韓日では法と正義の観念に違いがある」、「韓国では『正義があれば、法律は変えるべきだ』という観念が強い」―――。三人の有識者の発言が、期せずして同一のことがらを指していることに、注目するべきだろう。「国民性」などというあいまいな言葉は、使わずに済めばそれが望ましいのだが、最近の韓国の振る舞いは、この観念を介在させなければ理解が難しいように思う。

 藤原帰一のコラム

 朝日新聞夕刊の文化欄に、藤原帰一という国際政治学者が「時事小言」というコラムを月回書いている。2月のコラム(2/20)はこの日韓関係の深刻な悪化の問題を取り上げていたので、それを素材として使いながら議論を整理し、併せて筆者の考えを述べていきたい。 

 藤原はまず国交樹立以来最も厳しい情勢を迎えた日韓関係について、昨年10月の徴用工判決以降の出来事をトレースする。そして、どうしてこんなことになるのか、と自問自答し、次のように言う。「国際的には徴用工と慰安婦について韓国政府の主張に賛同する声が多いといっていい。私も慰安婦は性犯罪であり、売春一般と同視する議論は暴論に過ぎないと考える一人だが、それでも日韓両国における歴史の言説の極度な違いにはたじろいでしまう。」
 そのあと『帝国の慰安婦』の著者・朴裕河が起訴され、ソウル高裁で有罪とされたことを言い、朴の示した「多面的な歴史認識」が、「韓国国民の共有する明確な信念としての歴史」によって排除されたのだ、と感想を述べる。そして、この問題にどう対処するべきかについて、自分の考えを語る。
 《やるせない思いに襲われる。日本の犠牲者という認識を韓国国民が共有し、その韓国の訴えが国際合意を踏みにじる行いとして日本で伝えられるとき、「われわれ」は「やつら」の犠牲者だという認識が両国で加速し、鏡で映し合うように犠牲者意識とナショナリズムが高揚してしまう。/韓国で語られる歴史が「正しい」わけではない。それでもここで問いかけたいことがある。植民地支配のもとに置かれた朝鮮半島の社会、そして戦時に動員された労働者や女性が強いられた経験について、日本でどこまで知られているのか、ということだ。》
 《歴史問題では謝罪の有無が繰り返し議論されてきた。日本政府が謝罪を行ったと私は考えるが、何が起こったのかを知らなくても謝罪はできる。謝る前に必要なのは、何が起こったのかを知ることだ。自分たちを支える国民意識が非難を繰り返すとき、ナショナリズムと結びついて単純化された国民の歴史から自分たちを解放する必要は大きい。》

 

▼藤原の文章には、あいまいな表現と微妙なごまかしがあるように思われるので、ひとつひとつ見ていこう。

「国際的には徴用工と慰安婦について韓国政府の主張に賛同する声が多いといっていい」と藤原は書いているが、慰安婦のみならず徴用工についても「韓国政府の主張に賛同する声が多い」とは初耳である。「韓国政府の主張」とは何を指しているのだろうか。「三権分立は尊重しなければならない」と大統領が発言したことは知っているが、それ以上の主張をしたとは寡聞にして聞いていない。韓国政府は、日本政府の「請求権協定に反する」という批判に対し、沈黙して答えない(答えられない)状態を4か月経った今も続けており、「主張できない」ことがまず問題なのである。
 次に藤原は、「私も慰安婦は性犯罪であり、売春一般と同視する議論は暴論に過ぎないと考える一人だが」と書く。だが、「売春一般と同視する議論」は、日本で大きな地位を占めているだろうか。
 日本政府の公式の立場は、「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」だとし、「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」というものである。(「河野談話」および「アジア女性財団」の贈った「総理の手紙」)。国民一般の認識も、基本的に上の言葉に集約されるものであったろう。だからこそ「アジア女性財団」は有力な呼びかけ人を擁し、醵金を集めることができたのだ。
 問題は、この認識のもとに行われた財団の事業が、韓国側の頑なな態度によって拒否され、妨害されたことなのだ。藤原が「態度表明」するなら、まずこの問題についてでなければならない。
 また藤原は、「慰安婦は性犯罪」とあいまいな表現を使っている。まさか「慰安婦であること」が「性犯罪」だと言いたいわけではないだろうから、女性を「慰安婦にしたこと」、「慰安婦をさせたこと」が「性犯罪」だという意味にとっておくが、慰安婦が「性奴隷」であり「戦時性暴力」の被害者だという主張が「暴論」でないのかどうか、藤原は「態度表明」するべきである。
 筆者は「挺対協」によって主張され、クマラスワミやマクドゥーガルの出来の悪い報告書によって国際社会に広まった、慰安婦が「性奴隷」であり「戦時性暴力」の被害者だという「理解」こそ、慰安婦問題の解決を困難にしている元凶の一つだと考える。
 同じように考える人が多いだろうことは、「右派」や「歴史修正主義者」を批判する論者も気づいているようで、『海を渡る「慰安婦」問題』の執筆者の一人・能川元一は、その中で次のように書いている。

《アジア・太平洋(戦争)の侵略性を否定しない論者、南京事件について虐殺はほとんどなかったといった極端な否定論に与さない論者であっても、日本軍「慰安婦」問題に関しては日本軍・日本政府の責任を否認することがある、という点に「慰安婦」問題のユニークさがある。》

 能川のこの記述の中の「責任」を「法的責任」に改めるなら、正確な状況理解といってよい。慰安所を「レイプキャンプ」、「レイプセンター」と呼び、慰安婦たちの仕事を強姦や輪姦と同一視することが、誇張を超えて明確な誤りであることは明らかである。正確に事実を把握するべき場面で、先入観や過剰な「使命感」に流された国連関係者や、それに拍手を送った者たちは、自分たちの行為が問題をいたずらに混迷させたことについて、反省しなければならない。


 ●日韓対立の論じ方

 藤原帰一のコラムの批判をもう少し続ける。
 「日本の犠牲者という認識を韓国国民が共有し、その韓国の訴えが国際合意を踏みにじる行いとして日本で伝えられるとき、「われわれ」は「やつら」の犠牲者だという認識が両国で加速し、鏡で映し合うように犠牲者意識とナショナリズムが高揚してしまう」と藤原は言うが、本当だろうか。
 韓国の民衆が「犠牲者意識」を募らせ、「正義があれば、法律は変えるべきだ」という観念を民衆と共有する最高裁判事たちが、理屈にもならない理屈を付けて「協定」を反故にする判決を下した。この結果、韓国社会のナショナリズムはいま高揚しているかもしれない。しかし一方の日本社会では、「ありえない」出来事に驚き呆れ、怒りを感じても、「犠牲者意識」や「ナショナリズム」が高揚しているようにはとても見えない。
 日本のナショナリズムは、誰の言葉かは忘れたが、「処女性」を失っている。ナショナリズムの高揚の果てに「自爆」した悲惨な過去の体験は、深いトラウマとなって戦後の日本人を拘束し、「右派」が躍起になって煽っても燃え上がろうとしない。一方韓国のナショナリズムは、戦後の独立によって燃え上がり、植民地化されたという屈辱の記憶によって今なお燃え続けている。

 藤原は、文章の結論として、「自分たちを支える国民意識が非難を繰り返すとき、ナショナリズムと結びついて単純化された国民の歴史から自分たちを解放する必要は大きい」と書く。文意が少しあいまいだが、「ナショナリズムと結びついて単純化された国民の歴史」とは、たとえば「日本をとり戻す」的な「右派」の歴史観を想定しているのだろう。そして、両国のナショナリズムが対立を煽っている今、「右派」の歴史観から自分たちを「解放」することが大事だ、というのだろう。
 「右派」の歴史観は「(慰安婦を)売春(婦)一般と同視する議論」と同様、いまのところ日本社会のマイナーな存在でしかないが、韓国の理不尽な主張が「嫌韓」派の主張の「正しさ」を裏書きし、そのシンパを増やすことに貢献しているように見える。「予言の自己実現性」という言葉があるが、日本の「右傾化」を非難する韓国の声が、日本の「右傾化」を後押しし、実現するのである。

 筆者は現状が藤原の言うように、日本と韓国で「鏡で映し合うように」ナショナリズムが高揚しているとは見ていない。約束違反に呆れ怒りを覚えることと、ナショナリズムの高揚とは別のことだ。藤原自身も正直なところ、日本と韓国で同じようにナショナリズムが高まっているとは見ていないのではないか。(もしそう見ているとしたら、時事問題を論じる評論家として失格である。)

しかし発言の構成上、ともに「犠牲者意識」を高揚させ、ともに対抗意識を燃やしていることにしなければならなかった。なぜなら藤原だけでなく日本には、日本と韓国の間に対立問題が生じたとき、「日韓ともに冷静になるべきだ」、「日韓ともに反省すべきだ」としたり顔で発言したがる論者がけっこういるからだ。
 筆者が「微妙なごまかし」と書いたのはそのことである。もし藤原の発言通り、日本の「ナショナリズム」が高まりつつあるとすれば、それを育んだのは一つには韓国のナショナリスティックな動きであり、他の一つはきれいごとの発言で国民の苛立ちと不信感を高めてきた、日本の一部の論者、言論機関なのではないか。

▼藤原帰一の文章の一番問題だと思われるのは、「歴史問題では謝罪の有無が繰り返し議論されてきた。日本政府が謝罪を行ったと私は考えるが、何が起こったのかを知らなくても謝罪はできる。謝る前に必要なのは、何が起こったのかを知ることだ」という部分である。
  韓国が日本に併合された時代を知ることは、必要なことだ。筆者も韓国と韓国人を論じるために、そして同時代の日本と日本人を知るために、韓国の歴史を知ろうとしてきた。
 しかしあらためて言うまでもなく、国と国、集団と集団のあいだの交渉や約束は、代表者を通じて行われるしかない。代表者が「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と言えば、国として、集団として、「お詫びと反省」をしたのであり、それは集団内に不協和音が仮にあったとしても、なんら変わりはしない。そして代表者が「何が起こったかを知らずに」謝罪をすることはありえないし、国民や集団の構成員の意思と無関係に謝罪をすることもあり得ないということを考えれば、藤原の「何が起こったのかを知らなくても謝罪はできる」という部分は、意味不明というほかない。

 そもそも国家間の関係がつねに良好である保証はなく、ある時は対立し、対立は時に戦争となる場合もあった。しかし戦争が終われば賠償や領土割譲の交渉が行われ、交渉結果を反映した講和(平和)条約が結ばれれば、国際関係はリセットされ、新しい世界がスタートするというのが、文明社会の作法だった。講和条約が結ばれた後に、女々しく、「お前の歴史認識はおかしい」、「お前は反省が足りない」などと言い出すような事態は、まったく想定されないことがらだった。
 だからマックス・ウェーバーは、世界大戦に敗北して混迷を極める社会のなかで、学生たちに向かい、ひとは雄々しく『品位』をもって生きるべきだと説いたのだ。彼は『品位』を『倫理』の上位に置き、「政治家にとって大切なのは将来に対する責任である。ところが『倫理』はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる」と語った。
 韓国政治における『倫理』の過剰は、民衆が政治の世界に参入し、政治家たちが民衆の感情を代弁しようとするところから必然的に生じる。その結果、外交は民衆の感情から自由になれず、彼らの国際関係理解は冷徹な理知の世界を離れがちになる。
 本来、国民をコンプレックスから解放するのは政治指導者のなすべき役割なのだが、現在の韓国の指導者たちはあいかわらず植民地時代の「記憶」を掻き立てることに血道をあげている。文大統領は三一独立運動の記念式典で「親日残滓の清算」を呼びかけたというが、日本や「親日派」(民族の裏切り者)を糾弾することの中にアイデンティティを求める「政治」を、いつまで続けるつもりなのだろうか。


 ●台湾との比較から見えること 

 今回のブログの文章を書いていて、書き留めておくべきだと感じたことを、最後にいくつか補足しておきたい。
 まず、常々不思議に思っていること、あるいは台湾のことである。

 台湾は日清戦争の結果、清国から日本に割譲され、1895年に日本領となった。朝鮮同様、総督府が置かれ、植民地経営がなされたのだが、現在、植民地とされたかっての屈辱を恨む声や「親日派」を糾弾する声はない。(日本の「戦後処理)に不満を持つ人びとはいても、日本を非難して恨みを晴らす、という韓国の反応とは異なる。)台湾は朝鮮同様、慰安婦となった台湾人女性を出し、日本軍兵士として戦死者を出した上、朝鮮と違い、大戦中米軍の空爆による被害を受けた。
 戦後、「分裂国家」として共産主義を奉じる「隣国」と対峙し、軍事政権による抑圧政治を体験したという面でも、似たようなものである。台湾が戒厳令を解除したのは1987年であり、その後政治の民主化に歩み出したのだが、韓国が民主化宣言を行い、大統領選挙を実施して軍政を終わらせたのも同じ1987年だった。
 にもかかわらず、台湾では日本の統治時代を韓国のように総否定せず、総体として積極的に評価する空気があるらしい。「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉が作られ、これは「清潔さ」「公正さ」「勤勉さ」「責任感」「規律遵守」「信頼」「滅私奉公」などの徳目を指すものとして使われるのだという。
 台湾や台湾人は清の「化外の土地」、「辺境の民」であり、朝鮮は清の従属国ながらひとつの統一国家だったという違いはあるだろう。だから日本に併合され統治された屈辱感は、比較にならないということもできるかもしれない。しかし日韓併合から109年、「解放」後74年経つというのに、いまだに日本や「親日派」の糾弾で気勢を上げるというのは、韓国人の「国民性」を抜きにしては理解が難しいのではないか。

▼もう一つ書き留めておきたいのは、慰安婦問題の海外での「理解」のされ方の問題である。慰安婦問題の現状を複雑にしているのは、日韓の間で「事実」が確認されないまま、韓国「挺対協」の一方的主張が海外に拡散されたことだった。これには彼らが戦術的に「問題」の海外展開を図り、現代の世界の紛争地で発生している「女性に対する暴力」と共通の問題として訴えたことが大きい。クマラスワミやマクドゥーガルの質の低い「報告書」が、国連の関係する権威ある調査結果として受け止められ、挺対協の主張を後押しした、という事情もあったであろう。
 2007年の米国下院の慰安婦問題決議の際は、慰安婦たちの「人身売買」と「妊娠中絶」が意識的に強調されたという。このことにより彼らの狙いどおり、「妊娠中絶」に強硬に反対する超保守的な米国議員たちの支持も、得ることに成功した。

文化の異なる異国の過去の出来事、それも国民間の対立の焦点ともなっている戦時下の出来事を、正確に理解し客観的に評価することは極めて難しいことだ。にもかかわらず、国際社会は女性への暴力根絶という「社会正義」のため、問題を自分たちの理解しやすいパターンに流し込み、理解しようとした。そして慰安婦問題を、ユーゴスラビアやルワンダの内戦で発生した「集団レイプ」を同じものとしてとらえ、非難や勧告の決議を採択した。
 有力な例証として利用されたひとつが、「スマラン事件」だった。戦時中、インドネシアのジャワ島スマランで、日本軍がオランダ人女性35名を連行し、強制的に慰安婦として働かせた事件である。軍法に違反する明らかな犯罪であり、責任者は戦後戦犯として処刑された。
 日本軍の占領地スマランにおける犯罪行為と、朝鮮人慰安婦の問題は、本来なんの関係もない。しかしそれは、慰安婦や慰安所を説明する有力な実例と見なされたのである。「慰安婦を『性奴隷』、慰安所を『レイプキャンプ』と見なすことは、事実に反する」という反論の声は、「女性の人権」を掲げる「社会正義」の前に、かき消されてしまった。

 ここで「クジラ」の問題を持ち出して横に置き、類似の「構造」を指摘したとしても、誤りではないだろう。クジラ保護への宗教的情熱が「社会の正義」としてすでに固まっている世界では、良識は曇り、批判の声は無力とならざるを得ない。ロスアンゼルスのケネディー・スクールの「旭日旗」騒動のような比較的わかりやすい事例では、米国人の批判精神と良識は遺憾なく発揮された。しかし慰安婦問題を象徴する少女像の設置という問題では、「女性の人権」という黄門様の印籠の前に、反論する言葉は無力だったのだ。

 

 ●朴裕河の言葉

 補足すべきこととしてもう一つ、朴裕河の言葉を書き留めておきたい。

 《慰安婦問題の否定者たちは、植民地支配に関して「朝鮮の責任」を強調することが多い。それは、朝鮮がこうむった苦痛に対して、弱かったあなたが悪い、と言うようなものだ。しかし、自己責任は自己責任の主体が考えるべきであろう。元慰安婦たちにいま必要なのは、「あなたが悪いのではない」という言葉である。そのような「慰安」の言葉を、「慰安」を与え続けさせられてきた彼女たちにいま、贈りたい。》

 「弱かった者の責任」は、韓国人に向かって日本人があれこれ言うべきことではない。さきに紹介したように、スタンフォード大学の学者は著書の中で、「外の勢力に対抗して自らを守れなかった朝鮮の無能さが東北アジアの不安定要因だった」と書いているが、日本人は韓国人との関係の中で、そのように論じる「自由」をまだ持たない、と考えるべきだろう。
 日韓併合時代が「歴史」となり、韓国人自身がそのことをコンプレックス無しに自由に論じられるようになったとき、日本と韓国の関係はより自由なものとなる。だがそういう時期がいつ訪れるのか、見通すことはできない。

 
 ●韓国との付き合い方 

 さて、最後に日本として、あるいはその構成員である日本人として、韓国という国家あるいは集団に対し、これからどう対応するべきか、を考えたい。筆者はむかし仕入れたある小噺を想い出す。 

 ポーランド人と仲良くなったロシア人が聞いた。「君たちにとってわれわれは親しい友人だろうか?」
 ポーランド人は、「とんでもない」と答えた。「あなた方ロシア人は、われわれにとって兄弟のようなものですよ。」
 それを聞いてロシア人はたいそう喜んだ。しかしポーランド人は、続いて次のように言ったという。「友人なら選べるけど、兄弟は選べませんからね。」

 韓国という国家は、日本にとって自由に選べる友人ではなく、気に入ろうと気に入るまいと海を挟んだすぐ隣で、日本と日本人の行動に対し、異常に強い関心と対抗意識を持ち続けている人びとからなる集団である。「日本人に敗けるのは、ジャンケンでも嫌」(ある韓国人が書き込んだネット上の書き込み)な人たちである。彼らが引っ越してくれれば、心穏やかに暮らせるかもしれないが、そうもいかない以上、関係を持たずにいることは不可能なことだ。
 彼らのペースで、事あるごとに声を張り上げたり、非難し合ったりすることは、避けなければならない。韓国人個人と韓国という国家・集団をできるだけ分け、感情的にならず、挑発的な言葉、不用意な言葉を避け、ビジネスライクに対応することを心掛けるべきだろう。 

 第二に、日本が経済力、国際的政治力を維持することが大切である。韓国人は中国に対してはおとなしく、非難する場合も恐る恐るの小声であるが、それは中国が怖いからである。下手に怒らせると、何をされるか分からないからだ。中国も韓国人の扱いは慣れたもので、力を背景に強く出て、たいていの言い分は通してしまう。(それは韓国人自身もよく自覚しており、「反日」「反米」は容易に口にするが、中国に対しては怯むところがあるという趣旨の記事が、「朝鮮日報」にあった。)
 そういうメンタリティの集団は、力の弱いものには嵩にかかって強く出る。日本が彼らと良好な関係を維持したいなら、国力は欠かせないのだ。

 第三に、彼らの「女々しい恫喝」、「弱者の恫喝」に怯まないことである。彼らの発言や振る舞いを日本人のそれと同じように受け取るのは愚かであり、彼らの「国民性」に即して受け止めるべきであろう。つまり異なる「文化」に属する人びとの行動として、注意深く適切な距離を置いて遇するということだ。

日韓併合に至った極東の歴史や併合時代の朝鮮の歴史を知ることは、大事なことだし、中には言葉に窮するような出来事もあっただろう。だが幸い、それらは既に歴史上の事件に入るか、入りつつある。歴史上の事件とは、自分たちの利害に直接かかわる出来事としてではなく、距離を置いてそれを眺め、評価することが可能だということである。仮に韓国人がその歴史の「責任」を追及するようなそぶりを見せるなら、それは国家どうしの交渉ですでに結論の出た問題だと、毅然として答えるべきである。

 

(おわり)


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