滑走路     萩原信一郎

                     【ブログ掲載:2019年4月21日】

 

▼今年も桜が見事に咲き、眼を楽しませてくれた。春も盛りの暖かな日が続いたあとに、肌寒い日に戻ったりしたせいか、東京の桜は例年よりも長く楽しめたようである。

 いっせいに咲き、いっせいに散る。桜は季節を忘れない。満開の桜を見ると、誰もが顔をほころばせる。片づけなければならない急ぎの仕事や小さな争いごとは棚上げにし、時間をつくってゆっくり考えようと思っていた長年の宿題も忘れ、とにかく今は、目の前の光景にすべてを預けようという気分になるから不思議である。

 花に酔う、という表現があるのかどうか知らない。だが、満開の桜のトンネルの中で、通常の自分とは違う自分になっていることに気づく気分は、桜の花に酔ったという表現が適当なのではないかと思う。そのほろ酔い気分の中で、桜の樹々を植えて残してくれた先人たちへの感謝の念が、すなおに湧いてくるのも嬉しいことだ。

▼閑話休題。『滑走路』(2017年)という歌集を読んだ。作者は萩原信一郎。作者は非正規雇用の労働者として働き、最近30代前半の若さで亡くなった、ということをどこかで耳にしていた。日々の生活を素朴で分かりやすい言葉で歌った彼の短歌は、読了後すがすがしいものを筆者の中に残した。 

 ・靴ひもを結び直しているときに春の匂いが横を過ぎゆく

 ・春の夜のぬくき夜風に吹かれつつ自転車を漕ぐわれは独り身

 この二首は萩原の作品の中で最もバランスの取れた、歌らしい歌であろう。言い換えれば、他の歌人の作としてもおかしくない歌であり、萩原らしい特徴が出ているとは言い難い。
 萩原らしい歌とは、非正規労働者である自分の仕事を詠んだことであり、それに関連して「食事」を歌に取り込んだことにあるように思う。まず、仕事を詠んだ歌―――

 ・今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけてゆくよ

 ・コピー用紙補充しながらこのまま終わるわけにはいかぬ人生

 ・更新を続けろ、更新を 僕はまだあきらめきれぬ夢があるのだ

 ・箱詰めの社会の底で潰された蜜柑のごとき若者がいる

 ・非正規の友よ、負けるな ぼくたちはただ書類の整理ばかりしている

 ・夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから

 萩原の歌のもう一つの特徴である「食事」を詠んだ歌とは、次のようなものだ。

 ・ぼくも非正規きみも非正規秋が来て牛丼屋にて牛丼食べる

  ・頭を下げて頭を下げて牛丼食べて頭を下げて暮れゆく

 ・天丼食べているのだ 愛しても愛しても愛届くことなく

 ・いまはまだショックだけれどそのうちに……そうだ、たこ焼き食べて帰ろう

「食事」は牛丼や天丼だけでなく、カレーやカレーうどんも出てくるが、非正規労働者の生活の貧しさや、仕事が定型的で味気無いものであることを、これらの「食事」が象徴しているように見える。

▼作者・萩原信一郎は、東京の私立の中高一貫校に入学するが、入部した野球部でいじめに遭い、深い心の傷を負った。彼は、自分の心の叫びを受け止める器として、17歳の高校生のとき短歌を詠み始める。その後、精神的不調が出、通院と自宅療養をしながら大学を卒業するが、通常の就職はできず、アルバイトや契約社員として働き始めた。そういう非正規労働者には、通常のサラリーマン生活を送る忙しい人々には見えないものが見え、気にならないことが気になり、ふと立ち止まる瞬間を持つようになる。萩原の歌の多くは、そのような場所で、そのような瞬間に生まれたようである。

 ・風景画抱えて眠るように ああ あの青空を忘れたくない

 ・鳩よ、公園のベンチに座りたるこの俺に何かくれというのか

 ・生きるのに僕には僕のペースあり飴玉舌に転がしながら

 ・木琴のように会話が弾むとき「楽しいなあ」と素直に思う

 ・至福とは特に悩みのない日々のことかもしれず食後のココア

 若い作者には、当然異性への熱い思いがあった。それは特定の女性への思いであるようにも読めるが、しかしもっと漠然とした異性一般への憧れのようにも読める。上の「木琴のように会話が弾」んだ相手は、短歌の仲間だったのか、それとも特定の異性であったのか。

 ・きみといる夏の時間は愛しくて仕事だということを忘れる

 ・きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい

  ・電柱を樹だと間違えとまりいし蝉にふふふと君が笑った

 ・遠くから見てもあなたとわかるのはあなたがあなたしかいないから

 ・こんなにも愛されたいと思うとは 三十歳になってしまった

2017年の春、32歳になった萩原信一郎は、短歌の師である三枝昂之に出版の意思を伝え、三枝は賛成し、彼を励ました。しかしそれからまもない6月、萩原は急逝した。自分で選歌し、原稿をつくり、表紙を決めてあとがきも書き、出版社にそれを渡した後だった。

 三枝はこの本の解説で、「不慮の死が彼を襲った」としか書いておらず、一文を寄せた萩原の両親も、ただ「急逝」としか書いていない。しかし、「自ら命を絶った」という話も流れているらしい。両親の文章の中にも、「信一郎は、私たちに短歌などの創作の計画や賞への挑戦を楽しそうに話してくれました。なんとか、日常の悩みを吹き払い、前向きに進もうとしていました」という部分があるから、流れている話は事実なのかもしれない。

 歌集『滑走路』の中で、「死」という言葉が出てくるのは、次の二首である。

 ・疲れていると手紙に書いてみたけれどぼくは死なずに生きる予定だ

  ・眼の前をバスがよぎりぬ死ぬことは案外そばにそして遠くに

 精神的不調に悩まされ、非正規労働者としての生活に疲れたとき、「死」は親しい観念であったとして不思議はない。しかし萩原の歌に、自虐的な感傷や自嘲はない。それは、日々の時間の中をさっとかすめ去った一瞬の思いや光景を、力まずとらえようとした健康なものだということができる。
 その萩原が、念願の歌集の出版をやり遂げたときに、その完成本を見ることもなく「自ら命を絶った」とは、どういうことなのだろうか。
 萩原の年齢から見て、その両親は団塊の世代よりも若いであろう。筆者はその両親の悲しみを、他人事でなく感じた。


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