家族の衰退が招く未来
          【ブログ掲載:2019年12月27日~2020年1月3日】

 

▼ひと月ほど前に「犯罪は世相を映す」と題して、家族から切り離された個人がいかに弱い存在であるか、という話をブログに書いた。
 今年(2019年)発生した衝撃的な二つの犯罪を見ると、犯人の男はいずれも希薄な家族関係の中で育ち、成人してからも家族生活とは無縁の、きわめて孤立した生活を送っていた。誰にも関心を持たれず、誰にも愛されず、誰かを愛することもない生活を続けてきた彼らは、無意味な自分の生を終わらせるために最後に社会に襲いかかった。それは家族が衰退した現代の状況を、先鋭的かつ端的に表わした事件ではないか、というのが筆者のブログの趣旨だった。
 「近代的個人」の「自由」や「自立」は、戦後民主主義社会の疑われることのないスローガンである。しかしそれは家族がすっぽりと幼児を包み、「個人」に育て上げ、「個人」を家族の一員として拘束しつつ庇護することを、暗黙の前提としている。家族の存在感が希薄になり、本来そこで庇護されるべき「個人」が、世間の無関心の前に裸で晒され続けるような場合、「自由」と「自立」は「不自由」と「抑圧」に容易に転化する。―――

 だが、「家族」について積極的に語る言葉を、筆者が持っているわけではない。筆者が、というよりも、筆者の属する「団塊の世代」は、おそらく「家族」を自信をもって語る言葉を持っていないのではないか、と思う。
 その昔、60年代の後半から70年代初めにかけて、学生たちの過激な行動に揺さぶられたアメリカ社会では、「スポック博士の育児書」で育てられた世代の反乱だ、という議論があったという。戦後のベビー・ブーマーの親たちは、伝統的な家族観や子育て観を批判的な目で見、「スポック博士の育児書」の主張に共鳴し、子供に外側から社会の規範を押し付けるのではなく、自由で自発的な育児を実践した。
 日本においても「団塊の世代」の親たちは、戦後日本の巨大な価値転換の中で、伝統的な価値観に基づく育児や家族教育を行うことはなかった。だからそのような環境で育った「団塊の世代」が、「家族」を語る自分の言葉に自信を持てないのは、個人の性格や能力や体験を越えた事情があるというべきなのだ。

 図書館で『家族の衰退が招く未来』という本のタイトルを見たとき、上のような自分の問題意識に関わりのある書物なのかと思った。読んでみると、筆者の予想したような内容とはまるで違っていたのだが、それはそれなりに面白かったので紹介してみたい。

 

▼『家族の衰退が招く未来』(2012年)は、社会学者・山田昌弘と経済学者・塚崎公義の共著である。
 バブル崩壊後の日本社会の20年は、多少のアップ・ダウンはあったにしろ、経済停滞と「少子高齢化」によって特徴づけられる。経済停滞が少子化をもたらし、それが消費需要の減少となって経済停滞を加速させるという負のスパイラルが生じてしまった。日本経済と家族のあり方が大きく関係している以上、経済学と家族社会学のコラボレーションとして過去を検証し、現状を分析し、将来を見ていかなければならない、というのが彼らの問題意識である。 

 高度成長期に、「夫が主として働き、妻が主として家事、育児をして、豊かな生活を目指す」という「戦後家族モデル」が形成された。勤務先の企業は終身雇用制で年功序列賃金だったから、若者たちは将来の不安を感じることなく結婚できた。
 企業は人手不足なので終身雇用により労働力を囲い込む必要があり、従業員にとっても雇用の安定はありがたかった。企業と従業員の利害の一致は、企業を共同体とする意識を高め、「日本的経営」は、高度成長期にフィットしたシステムだった。
 1930年~50年生まれの若者の平均初婚年齢は、男は27歳前後、女性は24歳前後であり、女性は30歳までに2~3人の子どもを産むというのが一般的だった。結婚当初は豊かでなくても、将来については希望を持つことができたので、皆が結婚するのは当たり前であり、一生涯未婚で通す者の割合は3%未満に過ぎなかった。
 若者たちは結婚して新しい家族をつくると、豊かな家族生活を実現するために住宅や家電製品などの耐久消費財を買いそろえ、また、子供に学歴を付けるために教育にお金を使った。世帯数が増え、各世帯が活発に消費したため消費需要がどんどん伸びた。

 

▼バブル期は「家族消費」の最盛期であると同時に、「個人消費」の始まった時期だと山田昌弘は捉えている。「個人消費」とは、家族を豊かにするための買物とは別の、スキーや旅行など個人の楽しみのための消費行動だが、とくに親と同居する若者たちの間で盛んであることを観察した山田は、彼ら、彼女らを「パラサイト・シングル」と名づけた。
 女性の結婚に対する期待水準が高くなり、「三高」という言葉が流行した。彼女たちは、結婚すれば「家族消費」の世界に引きずりこまれることを知っていたから、いまを楽しみ、せっせと「個人消費」に励みながら、収入が高い男性が現れるのを待った。親元に「寄生」する若者たちは、「個人消費」に回せる資金が豊富で、大部分が正社員だったから心理的な余裕もあった。
 しかし、もっと条件の良い、収入の高い人に出逢えるかもしれないといって結婚を先延ばしにしているうちに、30代後半になっても未婚である者が、おおぜい出現するようになった。女性の未婚率は75年から徐々に上昇してきたが、結婚の先送りと未婚化の結果は、91年以降「少子化」として顕著に現れ、騒がれるようになった。
 

▼ポスト・バブル期に入り、消費需要は落ちた。バブル期の消費の多くは、収入が右肩上がりで増加し続けるだろうという期待に依存した心理的なものだったので、心理が冷えるとともに消費需要も低下した。未婚化が進み、新しい家族の形成が少なくなり、また中高年世代の家庭は、すでに必要なものを十分そろえていた。
 「日本経済が長期的な不振を続けている本質的な原因は、需要の不足です」と、共著者の塚崎公義は言う。塚崎は、「景気低迷の原因は需要不足ではなく供給側にある」とするサプライ・サイドの経済学の主張は誤りだと、なかなか説得力のある議論を展開しているが、ここではその議論に立ち入らない。景気低迷の長期化は、企業の行動を低迷を前提にしたものに変え、それがいっそうの低迷をもたらす悪循環をもたらした。
 企業はバブル期に職員を大量採用したため、その後の不況とゼロ成長の期間、人員過剰に悩まされた。企業は利益を上げても職員の賃金に回さず内部留保し、それを銀行からの借り入れの返済と手元資金の積み増しに充てた。有望な投資機会は乏しかったし、97年の金融危機の記憶はまだ新しく、そのような企業行動はデフレ経済の下では合理的だったのかもしれない。日銀は金融の超緩和政策を長期間続けるが、それでも貸し出しは伸びず、景気の低迷は続いた。

 こうした環境の中で、「パラサイト・シングル」の意味も変わった。山田昌弘の当初の定義では、「学校卒業後も親に基本的生活を依存してリッチな生活をしている独身者」という意味だったのだが、雇用状況が悪化し、失業や非正規雇用が増え、正社員になれても収入が増えず長時間労働が常態化するなかで、親元への「寄生」を余儀なくされる若者が増えた。バブル時代の「パラサイト・シングル」は、お金を使うことこそ“自己実現”であり、収入の多くを買物やレジャーに投入したが、ポスト・バブル期のそれは、将来結婚できるかどうかも分からず、不安で消費もできない。

 

▼山田昌弘は「パラサイト・シングル」について、一つの仮説を立てて説明している。若者たちは自分(たち)の「所得水準の将来見通し」と「結婚生活や子育てへの期待水準」を天秤にかけ、将来の所得水準が期待水準を上回るという見通しを持てるなら、彼ら(彼女ら)は結婚と出産に踏み切るが、明るい見通しを持てない場合、結婚と出産を控え気味にするというのである。
 結婚生活や子育ての期待水準を左右するのは、独身時代の生活水準であり、収入の高い父親の下で暮らす女性は、結婚相手に期待する水準も高くなる。男性の収入が低かったり、不安定で将来の増加が見通せなかったりすると、その事実は若者たちの結婚・出産を大きく制約するものになるのだろう。
 30代前半の未婚率は、1970年では男性11.7%、女性7.2%だったのが、2010年には男性46.5%、女性33.3%に上昇している。山田は、この結婚の先送り要因の第一は、経済的理由だと言う。
 国勢調査では50歳時点での未婚率を「生涯未婚率」とみなしているが、2010年のそれは男性19.4%、女性9.8%であった。つまり日本は、男の2割と女の1割が生涯結婚しない社会になっているのである。

高度成長期の日本の若者たちも、経済的問題がなかったわけではないだろうが、それが結婚や出産を制約するほど大きなものでなかったことは、当時の婚姻率や出生率が雄弁に語っている。また、60年代の若者の同棲風景を歌った歌を見れば、お互いの愛情だけを頼りに生活を始める彼らの姿から、当時の生活感覚や時代感情の一端を知ることができる。そこには豊かな生活を知ったために、生活程度を落とす結婚を躊躇する若者の姿など、毛筋ほども見られない。

「貴方はもう忘れたかしら/赤い手拭いマフラーにして、二人で行った横町の風呂屋/一緒に出ようねって言ったのに、いつも私が待たされた/洗い髪が芯まで冷えて、小さな石鹸カタカタ鳴った/貴方は私の身体を抱いて、冷たいねって言ったのよ/若かったあの頃、何も怖くなかった/ただ貴方のやさしさが、怖かった」(「神田川」作詞:喜多條忠)

若者たちは、窓の下にどぶ川が流れる貧しいアパートの三畳一間に暮らし、風呂は付いてなかったから銭湯に通った。現在の生活は貧しいけれど、二人で一緒に暮らし、力を合わせて行けばきっと未来が開かれる、という若者たちの漠然とした期待と時代の楽天主義が、歌の背景にあった。

 

▼米、英、独、仏、北欧の各国では、子供が成人すれば親と別々に生活するのが普通だという。親も厳しく、子供に贅沢をさせない。幼いころから家の手伝いをするのは当たり前で、大学の学費も親が多くは負担しないのが原則である。(米国では教育ローンの利用、ヨーロッパでは公費負担の国が多い。)
 1970年代、各国はオイルショックの影響で不況となり、若年失業率が増え、出生率が低下した。しかし80年代には米英で出生率が回復し、フランス、オランダ、北欧でも少子化に歯止めがかかった。だが、成人の子どもが親と同居する割合が高いイタリア、スペイン、ギリシャなど南欧諸国では、出生率の低下が続いているという。
 経済のグローバル化やデジタル技術の急速な発展に伴い、各国の社会、経済の基本構造が変動している。専門的な高度の知識や技能を持った人材が必要とされる一方、指示通りに単純作業をこなす大量の労働力も必要とされ、若者の経済基盤の低下、不安定化という現象は、その変動にかかわって世界の先進国で生じている。
 出生率を回復した欧米各国では、若い男子の収入の悪化を夫婦共働きによってカバーできるように、女性の働きやすい環境を整えた。日本でも出生率を上げ、消費の活発な若い家族を増やすことは、それほど難しくはないと山田昌弘は考える。
 夫が外で仕事をし、妻は家で家事と育児にたずさわるという従来の標準的な家族モデルは、夫が十分な収入を得ることが前提であり、高度成長期には労働市場や家族状況の好条件が重なり、うまく回転していた。家族のリスクに応じた保険や年金や福祉のシステムも、この標準家族モデルを前提に整備された。
 しかし男性の労働収入が低下し不安定化した現在、新しい状況に即した新たな家族モデルをつくり、施策を行う必要がある。具体的には第一に、「男女共同参画」を推進し、経済活動の面で女性が活躍できる場を創り出すこと、第二に、社会保障や雇用制度を再構築し、人びとが安心して消費行動を行える環境を整えること、というのが山田の提案である。

 

▼塚崎公義は経済学者として、日本経済の中長期の見通しを簡単に述べている。
  先ず2015年までが「需要不足期」であり、日本経済は需要不足から生じた不況を、財政赤字と輸出によってなんとかしのぐ時期である。

 次に「需要供給均衡期」(20152025)が訪れ、日本経済は失業もインフレも深刻化しない、つかの間の、そして最後の「黄金時代」を迎える。2020年初頭という現在は、まさに最後の黄金時代の真っ盛りにいることになる。十年前は派遣労働者の「雇い止め」が大きな問題で、住む場所を失った労働者の「年越し派遣村」が話題となったが、現在は逆に人手不足が騒がれるようになっているのも、塚崎の見通しの正しさといえるだろう。

 次いで、「需要超過期」に入る。少子高齢化が進み、恒常的人手不足により社会は供給不足の問題に直面する。実質GDPは成長しないが、総人口が減少していくので、平均的な国民の生活水準が低下していくわけではない。「それほど暗い時代ではない」と塚崎は言う。
 マクロ経済的には、人口が減り高齢化比率が上昇するのだから、活力が失われた社会に見える。しかしミクロで見ると、仕事の能力と意欲のある人は誰でも仕事につける時代であり、女性が活躍する機会を見出しやすい時代であり、賃金が上昇する時代でもある。
 だが、限界集落などを維持することは不可能になり、その意味で社会の効率化は進めざるを得なくなる。

 

 塚崎は、以上のような予測はソフト・ランディングのシナリオだと言い、ハード・ランディングの場合にも触れている。膨大に積みあがった国家財政赤字により、資金の海外逃避や円通貨の暴落は起こらないのか、という問題である。
 円の暴落を恐れて外貨を買う動きが強まると、それに伴って生じる円安は輸出型産業の利益と雇用を増やすが、インフレ圧力を恒常化させ、財政赤字がさらに積みあがる危険性がある。財政赤字がさらに進めば債務の返済が不可能となり、円が大暴落する時期が来るのではないか。
 しかし塚崎は、国家財政の赤字が通貨の暴落を引き起こした多くの国は、外貨建ての負債を大量に抱えていたが、日本は外貨建ての負債を抱えていないから、暴落による影響は限定的だろう、と考える。「短期的に経済が混乱するが、一時的な混乱が生じるだけで、深刻な問題は長続きしない」というのが彼の結論である。

 

▼だが塚崎公義は、日本の行く手に明るい未来を見ているわけでない。「教育の現場にいると、少子化に劣らず教育水準の問題が長期的な日本の衰退をもたらすのではないかと日々痛感しています」と、彼は書いている。また、「わが国は『豊かではあるが希望がない』状態にあります」とも書く。
 「日本には、希望がない一方で、危機感もありません。その最大の原因は、豊かでいま現在は食べるのに困っていないからです。」「こうして考えると、日本では、将来に対する希望を持てないが改革を受け入れるほどの危機感もない、という閉塞感がしばらくは続くのかもしれません。」

 人びとが貧しさの中で必死に働いて実現した豊かな社会が、子供たちの未婚化や「草食」化を生み、希望がない一方で危機感もない社会を生み出したというのは、笑えない悲劇であろう。だが、誰もが貧しい時代だったからこそ、たとえアパートの三畳一間に暮らしていても、明日のために必死で働く元気が湧いたのだ、今はそういう“幸せな”時代ではない、と言い返されれば、筆者は返す言葉はない。

(おわり)


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