憲法で読むアメリカ史    阿川尚之

               【ブログ掲載:2016年6月10日~7月1日】

「アメリカ」について、いずれ調べてみようと漠然と思いながら、手を付けないまま時間がずいぶん経った。

調べるといっても何を調べるのか、何を調べたいのか、それさえぼんやりとしているのだが、よく分からないものがそこにあり、それを知ることは大事なことだという意識だけははっきりしていた。

戦後の日本人にとってアメリカはまぶしい存在だった。TVの映し出すアメリカのホームドラマは憧れの文化であり、「MADE IN U.S.A」は豊かな生活の象徴だった。

しかし60年代以降、日本が経済の高度成長に邁進し、アメリカの豊かさを追いかけたのに対し、アメリカはベトナム戦争で手痛い挫折を味わい、社会は荒れ、経済は低迷した。

アメリカの軍事力はその後も世界で突出していたが、経済力や政治力は相対的に低下し、社会の分裂は進行した。

90年代に入り、IT技術で先行したアメリカは経済のグローバル化をさらに進め、社会の分裂と貧富の格差はさらに広がった。―――

国内に大きな問題を抱えながらも、あらゆる面で世界に圧倒的な影響力を持つ存在として、アメリカが気になる存在であり続けたのは別に不思議ではないだろう。

今たけなわのアメリカ大統領の予備選挙は、アメリカ社会の分裂の様相を色濃く反映しているように見える。ドナルド・トランプとヒラリー・クリントン、どちらが大統領となっても、社会の再統合のためにこれまで以上の力を注がなければならず、政治の比重は国内政治に置かざるを得ないだろう。そのことは国際政治にどのような影響を及ぼすのだろうか。

そんなことを考えながら、「アメリカ」に関する本を手近なところで選び、読んでみた。『憲法で読むアメリカ史』(阿川尚之 ちくま学芸文庫 2013年)、『アメリカ 過去と現在の間』(古谷旬 岩波新書 2004年)、『アメリカン・デモクラシーの逆説』(渡辺靖 岩波新書 2010年)の3冊である。

 

阿川尚之は、かってジョージタウン大学のロースクールに留学して米国の弁護士資格を取り、米国の法律事務所で働いた経験を持ち、現在は慶應義塾大学でアメリカ憲法を教えている。『憲法で読むアメリカ史』(2013年)はアメリカ社会をよく知る阿川が、アメリカの有名な憲法判例を採り上げ、それがどのような時代の課題に応えようとして生まれたものか、を物語った本である。

アメリカの連邦最高裁判所は憲法の条文をどう解釈し、各時代の問題にどう適用し、どのような論理によって合憲・違憲の判断を下したのか、それは現実政治にどのような影響を及ぼしたのか。あるいは逆に、現実政治の動きや社会の変動は、連邦最高裁の憲法解釈にどのような影響を与えたのか。

つまり憲法の判例を読むことで、各時代のアメリカという国家の課題が見え、アメリカ社会の歴史が理解できるのである。

本書は「アメリカ史」という性格からいっても、文庫本で476ページという長さからいっても、要約・紹介になじむ種類の書物ではない。筆者の印象に残ったところをいくつか選び、コメントすることで、紹介に換えたい。

アメリカ合衆国の独立は1776年のことだと歴史の教科書で習うが、これはトマス・ジェファーソンが起草した独立宣言に13の植民地(州)の代表者が署名し、独立の意志を確認した年である。独立戦争はすでに前年、ボストン郊外で始まっていた。

 戦争の帰趨ははっきりせず、アメリカ軍は苦戦を強いられていたが、宣言から5年後の1781年に英軍はヨークタウンの戦いで大敗を喫し、反乱鎮圧を事実上あきらめる。さらに2年後の1783年、英国がパリ条約によってアメリカを主権国家として承認することで、アメリカの独立は確定した。しかしここで誕生したのは、ユナイテッド・ステーツと名乗りはしたものの、一つの国家ではなく、実際には13の独立主権国家だった。

 13のステートは「連合規約」を結び「連合議会」を持っていたが、「連合議会」は独自の徴税権がないため、各ステートからの資金提供を待つほかなく、独立戦争を戦った兵士たちに給料を払うのにも支障があった。また「連合議会」に通商規制権がないため、各ステートが独自に関税をかける事態を防ぐことができず、また各ステートの通貨の乱発を抑えることもできなかった。どうしても共通の政府をつくりだす必要があった。

 

1787年の夏、各ステートの代表者55人がフィラデルフィアに集まり、4か月かけて集中的な討議が行われた。連邦政府を発足させる大枠では合意ができたが、具体的な点になると意見は割れた。意見の対立にはおおよそ三つの軸があった。一つは強い中央政府を目指すか州の主権を重んじるか、という思想的対立。もう一つは議員の選出方法をめぐる大きな州と小さな州の対立。三つ目が、北部と南部の対立だった。

一時は意見の対立が激しく、憲法草案の成立が危ぶまれたが、最終日が近づくと、なんとかまとまりそうな空気も生まれてきた。最終日、すでに八十歳を超えた独立革命期の指導者のひとり、ベンジャミン・フランクリンが立ち上がって発言を求めた。

「議長閣下。この憲法草案には、私が承服できない条項がいくつかあります。しかし将来も絶対承服できないかどうか、それは分かりません。これだけ長生きしますと、最初は自分が絶対正しいと思ったのに、追加情報を得て、あるいはよく考えなおした結果、重要なことがらについて後になって意見を変えたことが、何度もあります。齢を取れば取るほど、自分の判断が絶対だと考えず、他の人の判断を尊重するようになりました。(中略)

ですから、私はこの憲法草案に賛成します。なぜならこれより完璧な草案は望めないと思うからであり、またこの草案が最良でないと言い切る自信がないからです。(中略)

憲法制定会議出席者の皆さん、まだ反対意見を持っていても自分が絶対正しいと思う気持ちをこの際ほんの少し抑えて、草案に私と一緒に署名してくださいませんか」

フランクリンの呼びかけを聞いた後、採決がなされ、数人が反対票を投じ署名を拒否したものの、憲法草案は採択された。そして各ステートの批准を受けて、1789年に連邦政府が発足した。

筆者は、米国の歴史で繰り返される連邦政府と州の権限争いが、国家形成時の事情にさかのぼる問題であることを知り、米国の一種の業(ごう)のようなものであることを理解した。

また、憲法制定会議でのフランクリンの演説を読み、難しい問題を最後にまとめるのは「理屈」ではなく、情に訴える人格者の言葉であり、それはどのような社会でも変わらないものらしい、という点が印象に残った。

 

(つづく)

▼合衆国憲法の草案は4か月の討議を経てようやくまとまったが、13州のうちの少なくとも9州の批准を得なければ憲法は発効しない。アメリカ合衆国という連邦国家も誕生しない。

 さまざまな反対意見があった。憲法草案は統治機構に関する規定ばかりで、基本的人権に関する規定が欠けていることを問題にする反対意見もあった。

 たしかに草案は、連邦議会、大統領、司法権、連邦と州との関係、などの規定から構成されており、信教の自由や言論の自由といった国民の自由と権利を保障する規定は何も盛られていない。

(それらの規定は憲法成立後の1791年に、修正第1条から修正第10条まで、一括して憲法に書き加えられた。

ちなみに修正第2条は、「規律ある民兵は自由な国家の安全に必要」だからという理由で、人民が武器を保有・携帯する権利を「侵してはならない」と定めている。独立戦争の経験下に採用された考え方が、現在に至るまで米国を縛っているわけだ。) 

だが、憲法草案へのもっとも根本的な反対理由は、独立戦争によって各植民地の人びとがようやく獲得した民主的な共和政体が、連邦政府の樹立によって失われるのではないかという怖れだった。州の独立を維持しようとする人びとは、自分たちをリパブリカン(共和派)、自分たちに反対する人々をアンチ・リパブリカンと呼び、憲法の批准に反対する論文をつぎつぎと匿名で発表し、反対運動を展開した。

それに対しアンチ・リパブリカンとされた人びとは自分たちをフェデラリスト(連邦派)と呼び、やはり匿名で論文を毎週新聞に発表し、憲法草案の内容を擁護する理論的根拠を説いた。論文集「ザ・フェデラリスト」は、今では世界の政治思想の古典となっている。

 

▼奴隷制度を合衆国憲法でどう取り扱うかは、憲法起草の際にも問題となった。各州の代表者の多くは、奴隷制度が合衆国建国の理念にそぐわないことを、程度の差はあるにしても感じていたようである。

しかし13州をひとつにまとめて合衆国を誕生させるためには南部諸州の加盟が欠かせず、その南部諸州にとって奴隷制度の廃止はとても受け入れられないことを知っていた。そこで、この制度の是非は各州で決めることで、連邦政府が決めることではない、という暗黙の了解のもと、憲法のなかで正面から取り上げることはしなかった。

憲法のなかに「奴隷」という言葉は出てこない。奴隷に言及が必要な場合は、「その他の人」、「使役あるいは労働に供される人」といった間接的表現に置き換えられている。

たとえば連邦下院議員の定数配分は、各州の人口に比例するものと定められているが、その「人口」は「自由人」の数に「その他の者」の五分の三を加えたものとされた。下院の議席を増やして発言権を増そうとした南部諸州に対し、北部諸州は「南部が奴隷を数えるなら、われわれは馬やラバの数も含める」と反発したのだが、結局奴隷人口の五分の三を「人口」に含めることで、妥協が成立したのである。

また、「逃亡奴隷の引き渡し」を意味する規定もあり、ある州において「労働の義務を負う者」は、他州に逃亡しても労働の義務から解放されることはなく、「権利を有する当事者の請求に従って引き渡されなくてはならない」と定められた。

憲法起草の代表者たちは、連邦成立のために南部の奴隷制度を黙認する姿勢を取り、合衆国憲法は奴隷制度についておおむね無言のまま、あるいはあいまいなまま、出発したのだった。

 

▼憲法制定からしばらくは、奴隷制度をめぐる南北の対立はまだそれほど深刻ではなかった。北部諸州と南部諸州で異なる法体系がそれなりに共存し、二つの法体系が衝突する場合には互いの法律の効力を認め合ったからである。

 しかし19世紀も30年ごろになると、事態は変化する。北部で奴隷解放運動が活発になり、南部では奴隷による反乱がいくつか起きる。北部諸州は、南部の奴隷保有者が逃亡した奴隷を追いかけて州内に入り、捕縛して連れ帰ることに初めのうちは協力的だったが、ある時期以降、非協力的な姿勢に変わった。

 合衆国の領土が西に拡大し続けたことも、北部と南部の対立の種となった。新たに州として編入される土地が「奴隷州」なのか「自由州」なのか、そのことは連邦議会での南北の勢力関係とも絡み、対立を昂進させる原因となった。 

南北間の緊張が高まると、南部の人びとは奴隷制度の維持について、ますますかたくなな態度をとるようになった。

≪独立革命の前後には南部人といえども奴隷制度をあまりいいものとは考えていなかったのに、1830年代以後には奴隷制度がいかに人道的で神の意志にかなったものかというような言説が現れる。白人から差別を受け最低の生活をしている北部の自由黒人よりも、衣服と食事を与えられ安定した生活を保障される南部の黒人奴隷の方が、ずっと幸せである。奴隷制度の何が悪い。一部の南部人はそう主張した。≫(『憲法で読むアメリカ史』) 

1860年秋の大統領選挙で民主党は南部と北部に分裂し、共和党の候補・リンカーンが大統領に選ばれた。南部では「州民代表大会」が各地で開かれ、連邦離脱の決議が相次いだ。

1861年、連邦脱退を表明した七つの州は、南部連合政府の創設を協議し始めた。彼らの考えでは、合衆国は主権を有する州の連合であり、憲法は主権を有する州同士が結んだ契約である。したがって他の州が契約を履行しない場合には、州は契約を破棄して合衆国から離脱できる。―――

これに対してリンカーンは、南部諸州には連邦脱退の権限はないと主張した。合衆国は人々が集まって創設した国であり、永遠の命を有する存在であり、いつでも破棄できる契約に基づく連合ではない。連邦離脱を表明した各州の決議は無効であり、合衆国官憲に対する武力による犯行は、反乱を構成する。―――

リンカーンは七つの州に対する直接の武力行使はしないと言い、再び合衆国に戻るように呼びかけたが、4月、南部連合の軍は連邦軍の要塞を砲撃した。これを機会に、さらに4州が連邦を離脱し、リンカーンは反乱を鎮圧するよう軍隊に命じた。南北戦争が始まった。

(つづく)

▼南北戦争はアメリカ人にとって、第一次大戦や第二次大戦よりもずっと大きな事件である。

戦死者・戦病死者併せて約63万人という数を、第二次大戦で死んだアメリカ兵約40万人という数と比べてみても、その大きさがわかる。そして何よりも遠いヨーロッパやアジアが戦場であった世界大戦とちがい、国内が戦場となった内戦は深刻な傷跡を国土と人びとの間に残した。

「南北戦争は合衆国憲法の歴史にとっても大きな転換点だった」と、著者・阿川尚之は書いている。それまで弱体だった連邦政府の力、とくに大統領の力が強まり、相対的に州の権限は弱まった。

連邦政府は戦争遂行のために、ときには合憲性が疑わしい政策も強引に実行した。憲法上、宣戦布告や軍隊の招集は連邦議会の権限なのだが、リンカーンは議会に諮ることなく軍隊を招集して戦場に送り、治安を維持し戦争を遂行するために、それを妨げる人びとを軍を使って逮捕し拘禁した。それは違憲だという議会や裁判所の批判に対しては、連邦を維持し公共の治安を保つ上での必要を理由に、正当性を主張した。

1865年に、4年間続いた戦争はやっと終わった。共和党主導の連邦議会は、「軍事再建法」をつくり南部の改革に取り組んだ。南部を五つの軍管区に分けて司令官を配置し、司令官は行政、司法の全権を握り、占領行政に当たった。新しい州憲法を採択させたが、その際黒人に投票権を与え、元南部連合の指導者は追放した。

連邦議会は戦争終了後、黒人の市民権を明記し、州がこの市民権を制限する法を制定してはならないとする憲法修正第14条を可決していた。この条文を批准することが、南部諸州が連邦に復帰し、軍政が終了するための条件とされた。

南部の人びとはこの占領期を、今でも最悪の時代として記憶しているという。たしかにいかがわしい人間が北部からやってきて不正や汚職が絶えず、黒人たちは州議会議員に選ばれても行政府の役職についても、積極的な役割を果たせないといった側面はあった。

 しかし南部で遅れていた公立学校制度を普及させ、貧困者や身障者のための施設を設け、税制や刑事司法制度を改革するなど、理想主義的な改革も行われた。多数の若い白人の婦人が南部に乗り込み、解放されたばかりの黒人に読み書きを教える光景も見られた。

阿川は、「南北戦争後の連邦軍による南部再建と、太平洋戦争後の連合軍による日本占領と改革には、興味深い類似点がいくつもある」と書いているが、マッカーサーたち占領政策を考える人びとが、南北戦争という歴史の経験に学んだことは確かであろう。

 

▼連邦行政府の役割は、第一次大戦への参戦時に飛躍的に拡大したが、大恐慌のさなかに大統領の座に就いたローズベルトは、ニューディール政策を実施するため、戦時におけるような強大な権限を自分が行使できるように求めた。民主党が多数を占めていた連邦議会は、経済活動全般に介入する権限を大統領に与えた。

 最高裁は初め、「契約の自由は絶対」という伝統的な考え方から、経済活動に介入する「ニューディール諸立法」は憲法上認められないと「違憲判決」を連発したが、やがて立場を変えた。経済に関する規制については議会における立法を尊重し、ほぼ自動的に合憲と判断するようになった。

 1939年にドイツがポーランドに攻め込み第二次大戦が始まると、ローズベルト政権は難しい外交のかじ取りを迫られた。ヨーロッパでナチス・ドイツが覇権を握る事態は、何としても食い止めなければならなかったが、第一次大戦後孤立主義に転じたアメリカ国内の世論は、ヨーロッパでの戦争介入を許そうとしなかった。したがって政権は中立の立場を取りながら、可能な限り英仏など連合国側を支援する政策を採用した。

 ヨーロッパ以外でも1939年に日本との通商航海条約破棄を通告し、1940年に日本への航空機燃料とくず鉄の輸出を禁止、19417月、米国内の日本資産凍結、8月、日本への石油輸出禁止などの措置を取った。同年12月の日本の真珠湾攻撃と独伊の対米宣戦布告により、アメリカはついに戦争に突入した。

 議会は大統領に対し、戦時体制を整えるために無制限に近い権限を与え、大統領は法律の根拠がなくても行政命令を発し自由に政策を実行した。この大統領の権限行使により甚大な影響を受けたのが、西部に居住する日系アメリカ人だった。112千人(内7万人は米国市民)の日系人が移動の自由を制限され、ついには内陸のキャンプに収容された。

 ある特定の人種に属するという理由のみで人の自由を奪うのは、戦争中であっても明らかな憲法違反である。にもかかわらず日系人だけが自由を奪われ、キャンプに収容されたのは、アメリカ太平洋岸の治安を維持し破壊活動を防止することを理由とした大統領の行政命令によるものだった。

 ほとんどの日系人は黙々とこの措置に従ったが、なかには裁判で争った者もいた。最も有名なのはフレッド・コレマツという若者で、一連の命令が憲法に違反するとして最高裁まで争うが、結論は6対3で敗訴だった。

 1980年代になり新たな資料が発掘され、サンフランシスコの連邦地区裁判所がコレマツの有罪判決を取り消した。1988年には連邦議会が法律を制定し、日系人の強制収用について正式に謝罪したうえで、収容された人それぞれに2万ドルを支払った。

(つづく)

▼阿川尚之も述べていることだが、アメリカの連邦最高裁の判決の歴史を見ていくと、そこには憲法に対する二種類の態度が見て取れるようである。

 ひとつは、連邦の憲法に明示的に定められていないようなケースについて、連邦裁判所は積極的な判断を控え、州の憲法や法律、あるいは連邦議会の立法に委ねるべきだとする考え方である。もうひとつは、連邦憲法の理念を積極的に実現するべく論理を構築して判断を下し、判例による実質的な立法をためらわないとする態度である。

 60年代は、少数派や弱者の権利保護を重んじ、それまでの憲法解釈を変更する進歩的な判決が、相次いで出された時代であった。主席判事・ウォレンの名を取ってウォレン・コートと呼ばれた最高裁は、保守派からはアメリカの伝統的な価値をないがしろにし、既存の秩序を打ち壊そうとする勢力に力を貸しているとして反発された。 

 ウォレン・コートが人種差別撤廃の分野で下した判決について、その意義を疑う人は少ない。しかし他の分野の判決については、その妥当性についてさまざまな意見、批判が出されたらしい。被疑者・被告人の権利をめぐる一連の判決も、論議を呼んだ。

 ウォレン・コートは州の刑事裁判のあり方に積極的に介入し、違法な捜査で得られた証拠の能力を否定したり、任意性のない被疑者の自白には証拠能力がないとする判決を出した。さらに警察が被疑者を取り調べる際、「黙秘権を行使する権利があること、証言は証拠として用いられる可能性があること、弁護士の立ち合いを求める権利もあること、もし金銭的余裕がない場合には弁護士の選任を州に求める権利があること」を、あらかじめ知らせねばならないと、いちいち指示した。

 こうした刑事手続きに関する一連の判決は、貧しくて知識のない犯罪被疑者や被告人が、より公平な取り調べや裁判を受けられるようにする目的を持っていた。しかし≪まるで議会が法律を制定するかのように細かい規則を警察に与えるこれらの判決は、司法権の範囲からの逸脱だと、保守派からの大きな反発を引き起こした。また犯罪の増加が深刻な問題となりつつあった一九六〇年代、進歩的な最高裁は犯罪取締りの手をしばるものだという強い批判が寄せられた。≫(『憲法で読むアメリカ史』)

 共和党の大統領候補・ニクソンは、犯罪者に甘い最高裁を変えるという公約を、1968年の選挙戦で掲げた。

 「ダーティー・ハリー」の第1作(1971年)が、この新しい刑事手続きへの大衆の疑問や反発を背景に大ヒットしたものであることは、すでにこのブログで書いた。それが最高裁の手による憲法解釈の中から生み出されたものであることを、筆者は本書で知った。

 

▼筆者はアメリカ社会というものに、極端に走る傾向があるという印象を持っている。「アファーマティブ・アクション」という言葉と内容を知った時も同様の印象を持ち、違和感があった。

 アファーマティブ・アクション(affirmative action) の「アファーマティブ」とは、ネガティブの反意語だから、つまり「肯定的行動」という意味になるわけだが、これでは何のことだか分からない。人種間の不平等な現状を改善するために、黒人やその他の少数民族に進学、就職、昇進などで優遇措置を設け、「結果の平等」を実現しようとする措置を、この言葉で呼ぶらしい。

 この措置も最高裁の判決をきっかけに広まった。ある企業が従業員の採用にあたり、高校卒業の資格と一定の知能テストの成績を求めていた。これに対し、人種別学によって満足な教育を受けてこなかった黒人は白人と競争する力を持たず、こうした採用条件は実質的に黒人を雇用から締め出す効果を持つ、つまり公民権法に違反する、という訴えが70年代初めに提起された。

 最高裁はすでにウォレン・コートの次の時代に入っていたが、「差別の意図がないからといって、少数民族にとって逆風になる雇用慣行が認められるわけではない」と述べ、原告の主張を認めた。それまでは雇用慣行に関して、差別の意図がなければ違法とされなかったのだが、この事件で最高裁は、意図が証明されなくても結果が認められれば違法な差別になりうる、と判示したのである。

 黒人人口の比率が20%の地域で、もし企業のなかの黒人構成が5%だったとしたら、企業は人種差別を問題とする訴訟で敗訴する可能性がある。それを避けるために企業は、黒人の雇用率を応募者の能力にかかわらず20%に引き上げ、優遇することで安全を図ろうとする。

 こうして結果の平等を人為的に実現するアファーマティブ・アクションは、アメリカ社会のさまざまな分野で見られるようになった。

 

▼アファーマティブ・アクションが広がれば、それは逆差別だという不満が白人の側に当然生ずる。カリフォルニア大学医学部への入学を目指して不合格になった白人学生が、自分の成績は少数民族16人の合格者よりも高かったのに、自分は不合格になり16人が「少数民族枠」で合格したのは人種差別であり、憲法の定める法の下の平等原則に反する、と訴訟を提起した。

この訴訟には全米の注目が集まり、日本にも伝えられ、筆者も裁判所がどのような論理でどのような判断をするのか感心を持ったのだが、結果は阿川のこの本で読むまで知らなかった。

最高裁の意見は真二つに割れたのだという。4人の判事は、人種による区別を行う大学のアファーマティブ・アクションは憲法違反、公民権法違反であると主張し、他の4人の判事は、少数民族に対する差別を解消するために人種に基づく優遇策を採ることは、政府の利益実現のために許されるべきで、憲法に違反しないと主張した。

残りの一人の判事は次のように述べ、「一種の大岡裁き」(阿川尚之)を見せた。カリフォルニア大学のアファーマティブ・アクションは明白な人種枠を設けているがゆえに、違憲である。しかし人種を入学許可の決定に際し考慮すべき多数の要素の一つとすることは、憲法に違反しない。なぜなら知的活力と創造性を養うために、大学内の多様性を維持することは必要であり、多様性を実現するために、さまざまな人種と民族の学生を受け入れることが必要だからである。

この結果、訴訟を提起した白人学生はめでたく入学を許可されたが、人種を根拠としたアファーマティブ・アクションも生き残ることになった。―――

(カリフォルニア州では1996年に住民投票が行われ、州内のすべての公共機関でアファーマティブ・アクションが禁止された。) 

▼アメリカ社会の困難な事情を知らない外部の者の一人として、筆者はこの「大岡裁き」について何も言うことはない。だが、裁判官が憲法の理念の積極的実現のために旗を振ることの危うさを、感じないでもない。

国民の意見が鋭く分かれる問題については、議会での議論と立法に待つという「司法消極主義」の態度も、一つの見識であり非難されるべきではないだろう。憲法の理念といい、人権といい、それらはそれほど自明なことがらではなく、各時代の諸問題のなかでさまざまに解釈されるものであるからだ。

 社会を統合していくことは、どのような社会にあっても難しいことであるが、人びとのあいだに暗黙の共通の了解というものが乏しい社会の場合、その難しさは格別であろう。アメリカの憲法解釈の歴史のごく一部を覗いたに過ぎないが、そのような感想を持った。

 (おわり)

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