政治社会のスナップショット 1 
 平和憲法と軍事力
                    【ブログ掲載:2015年10月16日】

 

▼先週のブログで取り上げた本のひとつ、『安楽に死にたい』(松田道雄 1987年)を筆者は刊行当時読んでいた。久しぶりに読み返すと、以前は何気なく読み進んだ部分を、今回は実感を伴って理解する、ということが一度ならずあった。(傍線の引かれ方で、そのことが分かる。)筆者が本の読み手にふさわしく「成長」し、著者の年齢に近づいたということが、その要因なのだろう。こういう新たな「発見」に属する体験は、どのような小さなものであれ楽しい。 

 ところで当ブログでは、先月成立した「安保法制」の問題について、一度も触れてこなかった。反対運動が近来になく盛り上がったようだが、議論や主張に新味がなく低いレベルに終始し、論じる意欲が湧かなかったからである。つまり、新たな「発見」の期待できない議論には、参加する気分になれなかった。
 しかし当ブログはこれまで歴史や政治の問題を多くとりあげてきたし、その宗旨からいえば「安保法制」の問題で知らん顔を通すわけにもいかない。筆者の考えの要旨を記しておこうと思う。 

▼「集団的自衛権」は憲法違反ではないか、という問題が、「安保法制」の論点の一つだった。
 政府・与党は、憲法違反ではない、と主張した。
 「日本は主権国家として当然自衛権を保有すると、最高裁も認めている。自衛権には単独で国を守る個別的自衛権のほかに、他国と共同して国を守る集団的自衛権があり、国際環境が厳しさを増している現在、集団的自衛権に関する法整備をすることが必要である」。
 政府のこれまでの主張は、「わが国は国際法上、集団的自衛権を有しているが、行使することは憲法上許されない」というものだったから、行使できるように一歩踏み出す今回の法案は、安全保障に関する憲法論議をまたまた復活させるものだった。
 多くの憲法学者は、政府・与党の言うような憲法解釈を最高裁の過去の判例から導き出すのは誤りで、安保法案は憲法違反であると言い、それをあえてするのは「立憲主義」に反する、と主張した。元内閣法制局長官の幾人かも、この主張に賛同した。 
 筆者の考えでは、集団的自衛権に関する政府・与党の主張は、もちろん憲法9条違反である。しかし憲法9条の条文に違反するのは集団的自衛権に関する法整備だけではなく、自衛隊の存在自体、「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた9条2項に、立派に違反するのである。
  自衛隊の存在を憲法上合法と認め、集団的自衛権も主権国家として当然保有すると認めつつ、「行使する」ことは憲法違反で許されないという主張は、憲法学者や内閣法制局の苦しい事情は分からないでもないが、およそ正気の沙汰ではない。 

憲法9条の歴史は、自衛隊を必要とする現実と憲法条文のあいだで、苦しい拡大解釈を積み重ねてきた歴史である。
  かって政府は自衛隊を容認するために、「必要最小限度の自衛力は憲法の禁じる戦力ではない」という「理屈」を、苦心の末に編みだした。そのため集団的自衛権の行使は、「必要最小限の範囲を超える」からだめだ、と言わざるをえなかったのだが、こうした関係者の苦心を評価するのは仲間の法律専門家たちだけである。
  肝心なのは、集団的自衛権という名の「共同防衛」が、現在のこの国に必要かどうか、有効かどうか、危険性は高まるのか低下するのか、という現実政治の問題なのである。戦術的考慮からそれを論じることを避け、憲法解釈論議でお茶を濁すいつものやり口と、それを囃すマスメディアの愚かさは、非難されなければならないだろう。
  法律論からすれば、憲法9条2項を改正して自衛隊を明確に位置づけるべきなのだが、それが間に合わないとするなら、憲法解釈はジャンプせざるをえないのである。自衛隊を容認した法解釈のジャンプに比べれば、集団的自衛権の行使に関するジャンプははるかに小さい。 

▼多くの国民の意識は、現状のような自衛隊の存在は認めつつ、「平和憲法」の理想にも賛成する、というところに居心地の良さを見出しているように見える。
 戦後の日本人は、70年前の壊滅的な敗戦体験から、戦争はいやだという思いを強く懐いた。新憲法前文の、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という言葉は、戦後日本人の思いに形を与えた。
  憲法の条文を素直に読むなら、戦後の日本が「一切の軍事力を放棄して永久平和主義を国の基本方針として」定めた(長沼事件判決)ことは明らかである。
  しかし現実の国際関係において、軍事力は今も昔も大きな役割を果たしている。国の指導者たちは自衛隊をつくり育て、また米国と軍事同盟を結ぶことで、日本の平和を守る条件を整えてきた。「平和憲法」を一方で保持しながら、他方で世界有数の軍事力である自衛隊を保有し、両者は矛盾しないと理屈をこねてきたのである。
  国民も、自衛隊の必要性は十分判りつつも「平和憲法」の気分も捨てがたく、矛盾はあえて問わずに過ごしてきた。そのことの最大の問題は、軍事力についてのリアルな議論を避ける態度を、国民のあいだに定着させたことだろう。
  たしかに憲法9条を維持することにより、政府は自衛隊の活動を抑制的にすることを余儀なくされ、その結果、政府も国民も厳しい選択に迫られずに済んできた。しかしそのことは反面、政府と国民が自分たちの判断を鍛えるチャンスを持たなかったということでもある。
  もしも憲法条文を改正し、自衛隊を「普通の国」に相応しい位置に就けたなら、政府も国民も厳しい選択に直面する事態に、幾度も晒されたことだろう。 

▼安保法制の反対者たちは、憲法違反を言うだけでなく、法案は日本を戦争のできる国に変えるものだと言い、徴兵制に道を開くものだと言い、アメリカの戦争に巻き込まれる危険を主張した。「戦争法案反対」の大合唱の前に、「安保法制は戦争の発生を抑止するための法整備」だという安倍首相の声は、かき消されがちだった。
 しかし現代の国際関係をリアルに見るなら、軍備の最大の役割が戦争の抑止力としての働きにあることは事実である。「使わないためにこそ軍備は存在する」のであり、安倍首相の主張はこの限りでは正しいのである。


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