気になる言葉 気に入らない言葉
          【ブログ掲載:2013年4月28日、2017年2月17日】

▼作家を「さん」づけで呼ぶのが、今では「普通」なのだろうか。
 「村上春樹さんの3年ぶりとなる長編が出ました。………発表前夜、東京都内の書店でファンが集まる読書会に行きました。わかっているのは『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』という書名のみ。云々」(朝日新聞2013/4/14)という新聞記事を見ながら、すこし複雑な気分になった。
 作家に限らず、政治家も映画俳優もスポーツ選手も、名前を呼び捨てにするのがこれまで当たり前だったと思う。呼び捨てるのは彼らを見下すからではなく、逆に特別な世界に生きる特別な能力の人として、彼らを認めることの証であった。今様にいうなら、呼び捨てにされることは「セレブ」と認められることであり、「セレブ」であることの特権だった。
 だから彼らを「さん」づけで呼ぶのは、個人的な人間関係の中に彼らを引き入れることであり、敬意を表すことではなく、失礼なことかもしれなかった。
 一介の読者が、「村上春樹さんが面白い」とか、「宮部みゆきさんの新作がどうだ」とか、ふやけた言い方をし始めたのは、いかなる理由があってのことなのか。

 筆者が初めてこの「さん」づけに出くわしたのは、70年代も終わり近いころだったと思う。
  どういう経緯だか忘れたが、「ミス東京」を選ぶコンテストの会場を覗く機会があった。白いワンピースを着てステージの上に並んだ十数名の若い女性に向かい、客席に陣取った審査員が月並みな質問を投げていた。「あなたの尊敬する人は?」「あなたの特技は?」「あなたがコンテストに応募した動機は何?」。
 「あなたの愛読書は?」と聞かれた女性は、こう答えた。「森村誠一さんのご本とか………」。
 当時、森村誠一原作の『人間の証明』を角川春樹が映画化し、ブロックバスターと呼ばれる大量宣伝の手法とともに話題を呼んでいたから、彼女が「愛読書」として名前を挙げたのは不思議でなかった。しかし、彼女の「さん」づけは強く印象に残った。 

▼「さん」づけについて考えを進める前に、他の気になる言葉・気にいらない言葉についても、思いつくままいくつか挙げておこう。
 「………させていただく」という言い回しは、現在、少しあらたまったあらゆる場面で耳にするようになった。2、3年前に、率先して使いまくり顰蹙を買った総理大臣もいたが、最近思わず笑ったのは防衛大臣の発言である。
 北朝鮮の弾道ミサイル発射に備えて、防衛省は地対空ミサイルPAC3を都内や沖縄への配備を進めたが、防衛大臣曰く、「………PAC3を配備させていただいた。」
  誰に対して「させていただいた」のだろうか。まさか北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)に対してではないだろう。主権者である日本国民に対してか、それともPAC3を配備する地元の沖縄や東京の住民に対してか。 

▼北朝鮮といえば、NHKはいつまで「ハングル講座」という奇妙な名前を、続けるつもりなのだろうか。 
  講座をスタートさせた40年前は、韓国系の「民団」と北朝鮮系の「朝鮮総連」が激しい勢力争いを演じていたから、「韓国語」講座としても「朝鮮語」講座としても非難は免れないと思われた。そこで非難を免れようと知恵者が考え出したのが、「ハングル」を掲げることだった。
  しかし英語のkorean は朝鮮半島の住民によって話され、ハングルによって記述される言語を指しており、「韓国語」と訳そうが「朝鮮語」と訳そうが変わりはない。日本語の造語能力の高さが逆に作用し、政治的踏み絵として機能しているということなのだろう。
 10年ほど前までNHKに限らずニュース番組では、North Korea を指すときは必ず「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」と呼んでいた。しかし2002年9月、金正日が日本人の拉致を認めた事件をきっかけに、何の説明もなく日本のニュース番組から「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」の呼称は消えた。
 「ハングル講座」の名称も、何の説明もなくただ変更すればよいのである。説明を求めて、善意の放送人を困らせるような不届きな者はいないだろう。 

▼ニュース番組といえば、警察発表の報道に最近引っかかることがよくある。
 たとえば、ナイフで刺された血だらけのAの遺体が発見された場合、「警察では、Aさんが事件に巻き込まれた可能性があると見て、捜査を進めている」というような報道になる。しかし「事件に巻き込まれた可能性」とは、何という言い草だろうか。
 警察では、「Aが他の事件に巻き込まれて死んだ」と考えているわけではない。Aが殺されたという事件であり、要するに、婉曲話法のつもりなのだろう。
 だがそれにしても、度が過ぎているのではないか。警察が何に「配慮」したのか不明だが、過度の婉曲話法を用いるなら、それを正すのが報道機関の役割というものだろう。 

▼行政の「配慮」過剰と思われるものに、最近よく目にする「障がい」という表記がある。
 「害」という字は、「災害」、「害悪」など否定的イメージがあるので、表記方法を変えるということらしい。「害」がいやなら、戦前のように「障碍」と書けば良いのだが、「碍」の字は当用漢字に無いから使えず、ひらがなで書くことになる。
 鳩山政権のとき「障がい者制度改革推進本部」がつくられたが、本部長の鳩山元首相は初会合で、「『がい』はひらがな。このこと自体に意味がある」とのたまったそうだ。
 しかし社会環境を実際に、障害者に暮らしやすく整えていくことが大切なのであり、「害」を平仮名に変えたところで、障害者の受けている社会的不利益や被害が変わるわけではない、という意見も多く聞かれる。
 「それどころか、その被害をあいまいにし、挙げ句の果てに『害が亡くなった』という風潮を広める危惧を覚える」という障害者団体役員の投書を新聞紙上で読んだ。 

▼こうして気になる言葉・気にいらない言葉を書き出していると、毎朝小言を言いながら自分の長屋を一回りした落語の小言幸兵衛のようで、気が引ける。齢はとりたくないもの、と言うべきだろうか。
 「さん」づけ、「させていただく」、「ハングル講座」、「事件に巻き込まれた」などに共通しているのは、誰も傷つけないように、そして誰からも非難されないように、異常に気を使うメンタリティである。気づかい気配りの緊張度の異様に高い日本社会において、馬鹿丁寧さも婉曲話法もガラパゴス的進化を遂げつつある。
 しかし日本社会の気づかい気配りは、その代償として、外部のリアルな世界に目をふさぐ効果を持つのではないか。「ガラパゴス的進化」が、ケータイ電話の世界だけの話であれば幸いなのだが。


       

▼ひと月ほど前、NHKの「100de名著」という番組をたまたま見た。いろいろのジャンルの有名な書物を取り上げ、内容を紹介しつつ、男女二人の進行役が研究者から説明や関連する話を聴きだすという趣向の番組だった。
  筆者が見たときは、「名著」に中原中也の詩集を取り上げていた。「100de」というのは、25分間の番組4回でひとつの書物を取り上げる、というところから来ていると後で気がついた。
 中原中也の詩の「研究者」には、作家の太田治子と詩人の佐々木幹郎が起用されていて、太田はスタジオで質問者に答え、佐々木幹郎はビデオでの出演で、もっぱら詩の構造や構成について説明する役割だった。太田治子は太宰治の娘である。  進行役が「太宰治と中原中也は交流があったんですか?」と、太田治子に質問した。太田は、「太宰の方が中也さんより二つ年下で、共通の友人がいて飲み屋で顔を合わせたりしたこともあったようです」と語り、「中也さんはカラミ酒で、太宰はオロオロする役回りだった」と説明した。
 太田はこういうことも言った。「太宰はいつも死のう死のうと思っていた。中也さんは生きようとしていた人。私は中也さんの方が好きですね」。

▼太田治子の、「中也さん」という「さん付け」に、引っかかりを覚えた。太田は、太宰治についても一度は「太宰さん」と呼び、さすがに「身内」を「さん付け」ではおかしいと思ったのか、その後は「太宰」で通したが、中原中也については終始「中也さん」だった。
  以前、このブログに書いたことであるが、芸能人、スポーツ選手、作家などを「呼び捨て」にする慣習は、彼らを蔑んでそうするのではない。彼らが「有名人」であると認め、その抜きんでた能力を認めるところから来るのであり、当世風の言い方をするなら、彼らが「セレブ」であると認めたことの証が「呼び捨て」なのである。「さん付け」するのは、彼らを個人的な人間関係の中に引き下ろすことを意味し、失礼なことなのだ。
  しかし近年、なぜか他人への敬意は「さん付け」で示すという薄っぺらな言葉の理解が日本社会に蔓延し、言葉に敏感であるはずの「作家」まで、「中也さん」「中也さん」と唱える仕儀となった。
  この「さん付け」の猛威は、どこまで行くのだろうか。中原中也が「中也さん」なら、中也から長谷川泰子を奪った小林秀雄も「小林秀雄さん」であろう。小林の「カラミ酒」仲間の青山二郎や河上徹太郎も、「青山二郎さん」や「河上徹太郎さん」になるだろう。彼らは、見ず知らずの女性から「さん付け」でうわさされるなら、地下でどんな顔をするだろうか。
  もし樋口一葉の才能と生涯への敬意が「一葉さん」となるなら、同時代人である漱石、鴎外も、「漱石さん」「鴎外さん」となるのが道理。もう少しさかのぼって西鶴や近松も「西鶴さん」、「近松さん」となり、「清少納言さん」「紫式部さん」という呼び方が生まれるのも、時間の問題かもしれない。

▼NHKはこういう事態をどう見ているのか、聞いてみたいと思った。だが、「中也さん」「中也さん」と唱えていたのは太田治子であり、NHKのアナウンサーではなかった。NHKの番組内のことではあったが、彼らは直接回答する立場にはいない。
 そこで替わりに、日頃NHKニュースを聞いて違和感を感じている言葉の使い方について、質問することにした。視聴者の質問に答えるセクションも完備されているようなので、メールを送った。

 ≪最近、「Aさんの死体が発見された」というニュースを伝えるとき、「警察はAさんが事件に巻き込まれたものと見て捜査している」と、アナウンサーは原稿を読み上げます。しかしAさんは竜巻に巻き込まれたわけでもなく、テロリストの自爆事件に巻き込まれて死んだわけでもなく、つまりさんが死んだ(殺された)こと自体が「事件」なのであり、それ以外に「事件」があるわけではないのです。なぜ「事件に巻き込まれた」などと言う奇妙な表現をNHKは使うようになったのですか?
 また、もし婉曲話法のおつもりなら、なぜ客観的に事実を伝えるべき場面に婉曲話法を導入するのか、お考えをお聞かせください。≫

 翌日、NHKからメールで回答があった。

≪お問い合わせの件につきまして回答いたします。
 「事件に巻き込まれた疑いがある」などの表現は、その人物が死亡している場合、殺害されたかどうかなど、死因が不明な段階で使用しています。
 「事件」は何者かの故意による「事件」≒「犯罪」という意味合いで使っており、「死んだこと自体」を「事件」とはとらえていません。ただ、ご指摘のように、報道にあたってはできる限り客観的な事実を伝えるべきだと考えています。
 今後も取材を尽くし、表現の研鑽も積んで参ります。
 ご理解をいただければ幸いです。≫

▼たしかにAさんが死体で発見されたとき、 「警察が事件性の有無を調べている」という日本語は自然である。だからNHKの言うように「事件」「犯罪」という意味合いで使うことが、まったく間違いだというわけではない。しかしNHKの回答は、「巻き込まれる」という表現の奇妙さには何も答えていない。
 「巻き込まれる」とは、「紛争に巻き込まれる」とか「喧嘩の巻き添えを食う」という表現があるように、紛争や喧嘩とは本来無関係な人間が、何かの原因で関わりが生じてしまい、その結果自分も罪に問われたり、損害を受けたりすることである。Aさんの死が「病死」であろうと「他殺」であろうと、「事件に巻き込まれ」たわけでない点は変わりがない。
 「警察は、Aさんが殺害された可能性があるとみて捜査している」と言えば、日本語としてずっと自然で正確な表現になるし、かってはNHKニュースもそういう表現を使っていたはずだ。近年になり、なぜ「巻き込まれた」などという奇妙な表現を、わざわざ使うようになったのか。

 そういう趣旨の質問を再度送った。今度は回答がなかった。

 言葉の専門家であるNHKが、「事件に巻き込まれた」という表現の不自然さに気づいていないはずはない。不自然を承知で使用しているということは、それが「正確」で「中立的」な表現を心掛ける報道機関として望ましいと考えているからなのだろう、と筆者は考える。
 しかし自然な日本語を犠牲にして婉曲な表現を選びたがるNHKの心理には、不健康なものを感じる。不快な現実と向き合うことはできるだけ避け、「丁寧」「婉曲」「中立的」に現実に接するなら面倒は起こらない、といったような微妙な「弱さ」である。
  ここに顕れているNHKの心理と、「さん付け」をしたがる世の中の心理は、「無難」であることを最上の価値とする同じ地下茎で繋がっているように見える。


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