高坂正堯

               【ブログ掲載:2016年7月29日~9月9日】

 

▼前回のブログに、「このところ世界で衝撃的な事件が立て続けに起き、世界中が揺れ動いている」という趣旨のことを書いた。
 「社会が歴史から学び、少しずつ積み重ねてきた『寛容』や『多様な思想や宗教の共存』、『法による支配』などの原則が覆され、社会は『野蛮』に向かって、ゆっくりとだが坂を転がり始めているように見える」とも書いた。いささか大袈裟な表現と思わないでもないが、社会が野蛮へと転落する兆候があちこちに見えるのは確かなようだ。
 地球のあちこちに紛争が起こり、それが熱い戦争に発展したとしても、現代人は別に慌てふためいたりはしない。現代人はそうした紛争を十分経験してきており、それに対処する思想や理念のレベルでの検討は尽くされ、現実にそれを上手に処理するための仕組みも整備されているからである。
 しかしこのところの世界の揺れ動きが不気味なのは、それが「近代社会」を形成してきた西欧の政治文化の中枢を揺るがしているように見えることだ。現代世界の正統的な理念や価値観が揺らぐとき、世界が混沌に呑み込まれない保証はどこにあるのだろうか。 

▼最近『高坂正堯と戦後日本』(五百旗頭真・中西寛編集2016年 中央公論新社)という本を読んだ。動揺する世界のことがまず念頭にあったわけではなく、高坂正堯の名前に親近感があったからである。そういえば随分「高坂」を読んでいないなと思い、それから世界が不気味に揺れている今、高坂がもし存命ならどのように考えるのか知りたい、と思った。
  残念ながら本書は、そのような期待に応える種類の本ではない。若手の学者が「高坂正堯研究会」をつくり活動した3年間の研究成果を、アカデミックなスタイルでまとめたものである。
 高坂正堯の人物論を研究会の顧問であり高坂に直接師事した五百旗頭真が書き、高坂の学問の形成過程や日本外交論、論壇での活躍などについて、研究会メンバーが分担執筆している。また入江昭や田原総一郎が高坂との交友について語った文章も収録されている。筆者は五百旗頭真の「人物論」を興味深く読んだ。

高坂正堯は昭和9年(1934年)に京都帝大教授の哲学者だった高坂正顕の次男に生まれた。京都大学法学部で外交史を専攻し、卒業と同時に助手に採用され、2年半後の1959年に助教授に昇任。1960年から2年間ハーバード大学に留学し、帰国後は国際政治学の講座を担当した。
 高坂正堯を一躍有名にしたのは、「中央公論」19631月号に発表した「現実主義者の平和論」という論文だった。「理想主義者たちは、国際社会における道義の役割を強調するのあまり、今なお国際社会を支配している権力政治への理解に欠けるところがありはしないだろうか」という視点から、彼は戦後日本で支配的だった進歩的文化人による「平和主義」や「中立論」を批判した。
 その後、「宰相吉田茂論」(1963年)で吉田茂を正面から評価し、新書版ながら『国際政治』(1966年)を書いて、国際平和についての原理的な検討も行った。
 高坂は60年代後半から日本を取り巻く国際政治の問題について、ジャーナリズムだけでなく政界や官界からも意見を求められるようになった。また本人も、次々に生じる日本の課題に応える文章を、晩年に至るまで積極的に発表しつづけた。
 しかし高坂の仕事は、専門とする国際政治学やその時々の政策論にとどまるものではない。歴史書を読むことを無上の楽しみとしていた高坂は、ナポレオン戦争後のウィーン会議についての研究をまとめ、『古典外交の成熟と崩壊』(1978年)として発表した。
  歴史の感覚は現在をみるわれわれの目を相対化し、歴史の知識は他国をみる目を相対化する。それが国際関係においてきわめて重要なのだ、と彼は考えていた。
 『文明が衰亡するとき』(1981年)では、古代ローマやヴェネツィアの興隆と衰亡の歴史をたどりながら、現代のアメリカや「通商国家」日本の運命について論じた。
 1996年、大腸から肝臓にまで広がった癌のため、62歳で逝去。1998年から2000年にかけて全8巻の『高坂正堯著作集』(都市出版)が出版された。 

▼『高坂正堯と戦後日本』には「高坂正堯著作年譜」が付いていて、そこには「著作集」以外に24冊の単行本名が並んでいる。筆者はそのうち22冊の本を持っていることを確認して驚いた。
 いつ頃どの本を読んだのかの記憶は、はなはだ曖昧である。学校を出てから数年経ってからだったかもしれない。『宰相吉田茂』だったか『国際政治』だったか、たいした期待もなしに読み、大いに感心してしまったのである。
 たとえば吉田茂の強さや偉さを、「教養」という概念を使って説明する高坂の鮮やかな手腕。

 ≪………日本では大正時代以来、教養という言葉は特殊な響きを持つようになり、新しい知識を数多く吸収することを意味するようになってしまったし、現に、「新知識」を吸収し、時代の歩みに遅れないよう努力している「モダン」な老人をいくらでも見かけることができる。しかし、真実の教養とは、それまでの生活で得たものに自信を持つが故に、新しい状況などには驚かず、「新知識」にも劣等感を持たず、堂々と自己の生き方を貫く能力に他ならないのである。≫
 ≪つまり、彼は老人らしい老人であった。教養主義でない教養を持った人間であった。彼の会話の魅力はそこに生まれた。そしてそこに彼の偉大さの源泉があった。≫(『宰相吉田茂』) 

 あるいは、ソ連との冷戦という困難な状況の中で、アメリカ外交を考え抜いたジョージ・ケナンの苦悩について語る、高坂の行き届いた言葉。
 ≪彼は異なった正義の体系を持つ巨大な国家ソ連に、なんとか対抗していかなくてはならなかった。それは根本的には解決しえない対立であった。しかし、彼はその問題から逃げるわけにはいかなかったのである。だから彼はできることをしながら、すぐにはできないことが、いつかはできるようになることを希望したのである。/そのような信念の持ち主であった彼は、医師であったロシアの作家チェーホフを深く愛した。彼は、チェーホフが解きがたい問題を解かざるを得ない状況に置かれて悩む人間を描いているのに、共感を感じたのである。≫(『国際政治』) 

 それから何冊も高坂の著作を読んだが、彼の人間社会についての鋭利ではあるが温かな眼差しやバランスの取れた叙述に、感心させられるのが常だった。

 (つづく)

▼ラオスで開かれたASEAN(東南アジア諸国連合)の外相会議は、南シナ海についてのハーグ仲裁裁判所の判決(7/12)を受け、7月24日の会議で共同声明を出す予定だった。しかし中国から多額の援助を受けるカンボジアの強硬な反対で、全会一致を原則とする会議は声明を出せなかった。
  同じ日にラオスに入った中国外相はカンボジア外相の労をねぎらうとともに、ラオス、タイ、ビルマ、ブルネイの外相と相次いで会談し、中国批判の包囲網の切り崩しを図った。その結果、翌25日の臨時会議でようやくまとめられ発表された声明では、中国の主張する権利を否定した判決には触れず、中国の埋め立て行為についても名指しはせず、「複数の外相が表明した深刻な懸念に留意する」という表現にとどまった。
 中国は、ハーグ仲裁判決が中国の主張を全面的に退けて以来、判決は無効だと強弁し、一部の外国勢力(米、日)による陰謀だと言い、中国の領土主権と海洋権益は断固守ると繰り返し叫んだ。資金援助をしているアフリカ諸国などから「仲裁判決無効、問題は二国間で協議すべし」という中国の主張への支持をかき集めるとともに、南シナ海で中国艦隊の大規模演習を実施し、そのビデオを国内メディアで繰り返し流して国民の意識を煽ってきた。
  今回のASEAN共同声明後、中国外相は言った。「仲裁案の悪意ある扇動によって政治を操ることは、南シナ海問題をさらに緊張と対立の危険領域に巻き込むことになるだろう。(中略)この茶番はもう終わった。正しい道に戻る時だ。」

 中国ウォッチャーの女性ジャーナリスト・福島香織は言う。経済力・軍事力を露骨にちらつかせる中国の強硬姿勢の前に、国際社会が仲裁判決を棚上げにし、中国の思惑通りの結果となったとする。当面の南シナ海での軍事的緊張や衝突を回避できたということで、胸をなでおろす人がいるかもしれない。
 「だが、この結末はより大きな危機の始まりともいえるものだ。/こうなった場合、早晩、南シナ海の島々に解放軍のレーダーやミサイルが配備され、南シナ海の中国軍事拠点化が完成する。(中略)この海域は中国原潜のサンクチュアリとなり、米国の影響力を第二列島線の向こうまで後退させるという戦略目標への実現の一歩となる。」
 「もう一つは、『国際社会』の権威の失墜が明らかになる。国連という枠組みの国際社会の秩序の中で法律に基づいて決めたことが、強大な軍事力と経済力を持てば無視できることを中国がその行動で示すことになる。」(日経ビジネス・オンライン 7/20

▼高坂正堯ならこのような状況をどう考え、どのような発言をするだろうか。
 残念ながら高坂は20年前に亡くなったので、考えを聞くことができない。しかし彼は亡くなる2か月ほど前に、中国の問題に触れた「アジア・太平洋の安全保障」という論文を書いていて、『高坂正堯外交評論集』(1996年 中央公論社)に収録するに際して次のような短いコメントを付けている。

≪私は最近、若い研究者に対して、「中国問題は二十一世紀前半の最大の問題だが、それは私たちの世代の問題ではなくて、君らの世代の問題だよ」とよく言う。余り評判は良くないが、私は正しいことを言っていると思う。中国問題が現実化するのは十~十五年先だが、七十歳を過ぎた人間が現におこっている問題に適切に対処できるとは思われない。≫
 そして次のように言葉を続ける。
 ≪より基本的には、中国のあり方とそれが提示する問題は、この何年かの間に起こったこととも、歴史書に書いてあることとも違う。まず、中国が弱かったときの行動様式、たとえば以夷制夷は現代中国外交の例外しか説明しない。共産主義政権といっても、それで説明できることはきわめて少ない。それに、強い中国が中国文明圏を作ってこの地域を安定させることは世界化時代にはありえない、といった具合である。部分にも歴史にもとらわれない中国論の出現を、私は心から待ちわびている。≫ 

 一見、困難な問題を放り出しているようにも見える発言だが、それでも高坂の示す基本的な判断は傾聴に値するように思う。中国の強引な海洋進出は、「共産主義政権」という理由で説明できるものではないこと、中国が将来この地域を支配し「中国文明圏」を作る可能性も、「世界化時代にはありえない」こと、等々。論文「アジア・太平洋の安全保障」のなかでは、より詳しい検討がなされている。
 「パックス・シニカ」すなわち「中国による地域の平和」はありうるか、と高坂は問題を立て、次のように考える。
 中国の戦略は、孫子の言葉を用いるなら「不戦屈敵」ということになるだろう。南沙諸島においても行動は慎重で、他国との軍事的衝突は避けている。おそらく中国はその国力が増大することで、他の国々が中国のペースで問題解決を求めざるを得ないような状況が生まれることを、期待しているのだ。
 しかし中国はアジア・太平洋地域といった広大な地域で、「圧倒的な存在」になることはないだろう。かってのアジアでは中国が唯一の文明であり、その支配が決定的であったが、「国際体系が拡大した現在」、地域は開かれたものとしてあるからだ。
 もう一つの理由は、正統性の問題である。かっての「パックス・シニカ」は、中国が正統性の源泉であったことに基づいていた。しかしグローバル時代の正統性は多様性を含むものでなければならず、専制が世界的に正統になることはありえない。
 中国は統一を維持するために、対外的に強硬姿勢を取ることもあるが、それは現実の次元でよりも、言葉の次元のものである。しかし全体として、中国の将来は大きな不可測性に包まれている。――― 

外交戦略として鄧小平の「韜光養晦」が生きていた20年前の中国と現在の中国では、当然違いがあるだろうとは思う。しかしハーグ仲裁判決問題を見ていると、相手を金でたらし込み、力で威嚇し、言葉で揺さぶりをかけ、戦わずして敵の屈服を狙う(不戦屈敵)戦略は変わらないといえる。
 中国の強さだけではなく弱さや限界も見ること、そして日本の強さと弱さを自覚しつつ、望ましい環境を積極的に創り出すように行動する必要性。高坂の中国論から筆者が得たのは、そのような教訓だったように思う。

(つづく)

▼前々回、筆者は、高坂正堯の「人間社会についての鋭利ではあるが温かな眼差しやバランスの取れた叙述」に感心した、と書いた。そうした実例の一端を紹介してみたい。
 実例としては、他の論者との比較が容易なテーマが望ましいだろう。以前このブログで、「戦後」を「解放」と受け止めるか「抑圧」と受け止めるか、という江藤淳と吉本隆明の議論を取り上げたことがある(2016115日「敗戦後論4」)が、高坂が「戦後」という時代をどのように捉えたのか、見てみようと思う。
 高坂は日本の「戦後」について、次のように語り始める。 

 ≪どう説明できるのだろうか。戦後の日本には奇妙な明るさがあった。行き詰まりや挫折という感情は少なく、手足を伸ばして生きるという希望があった。こう言えば反撥があるかもしれない。住むに家なく、食べるに食なしという戦後のみじめな生活を君は知らないのか、という人があるだろうし、ヤミ市に代表される混沌や腐敗、いくつかの文学作品に描かれている精神的な虚脱や堕落を挙げる人もあるだろう。それらはすべて真実である。それにもかかわらず、戦後の日本を特徴づけるものは暗さではなくて明るさであった。≫(「占領が日本人から奪ったもの」『政治的思考の復権』1972年 所収) 

 外国人の観察者たちは、ヨーロッパ諸国の人びとが絶望で首うなだれているのに、日本の青年たちの目に何か明るさがあるのを見て、強い印象を受けた。客観的に見れば、日本は戦争に敗れてアメリカ軍に占領され、ほとんどの都市は破壊され、経済は停止状態に近かった、にもかかわらずである。 

≪常識的に言えば、それは愉快であるはずがない時代であった。しかもなお、戦後の日本に不思議な明るさがあったことは否定しえない事実なのである。この奇妙な事実は、いったいどのように説明されるべきものであろうか。≫ 

▼戦後、日本人はそれまで戦ってきたアメリカ占領軍を平穏に受け入れ、占領軍の行う「改革」を喜んで受け入れた。「農地改革」などの戦後の民主化の諸施策について、もともと日本の中で準備されていた改革が実現したまでだとする評価が一部にあるが、高坂によれば改革が混乱なく行われたことにこそ占領軍の最も重要な仕事があった。
 ≪その場合、占領軍はその圧倒的な力でそうしたのではなかった。占領軍はその圧倒的な力を背景に、日本人のほとんどが承認するような改革を行うことによって、混乱という、すべての敗戦国で起こる自然の過程を除去してしまったのである。≫
 この間の事情について、アメリカの行為が「押しつけ」であったか否か、という議論がある。一方に、「改革」を行ったのがアメリカ占領軍であったことに注目し、それは「押しつけ」であり日本人の意思に反すると言う人びとがおり、他方に、改革を日本人の多くが歓迎したことであるから、「押しつけ」ではないとする反論がある。しかし前段はともに正しいのだが、論理的推論である後段はともに誤っている、と高坂は言う。つまり、「改革」は占領軍によって推進された。しかしそれは日本人の意思に反するものではなかった。―――

  ≪占領軍は日本国民の意思を先取りして、旧体制を破壊し、新しい体制を作ったのであった。それは日本人から、努力と悩みを除去した。(中略)日本人は労せずして再出発の道を進むことができた。そこに、戦後の日本の影のない明るさ、それゆえいささか浅薄な明るさが生まれたのである。≫

▼戦後の改革の多くは、日本が明治以来行ってきたことの延長上にあることがらであり、それゆえ戦争前の日本でも部分的に試みられたり夢見られたりしたことがらだった。だから多くの日本人は当時のことを、自発的に活動した日々と考え、強制されて動かされた日々とは思っていない。
 しかしそれは自力による改革と、一つの重要な点で異なっていた。すなわち、日本人自身が「強制するという嫌な仕事」をしないで済んだことである。
 ≪体制の変革による強制の役割は占領軍が引き受けた。日本の変革者たちは、日本の中の反対勢力を、自らの手で強制しなくてもよかった。そしてそのことこそ、他のいくつかの要因と重なって、戦後の日本の雰囲気を、不自然に明るくさせたものなのである。/なぜなら、強制は変革において必要不可欠のものであると同時に、それに影を落とすものだからである。強制は政治の基本的な属性なのである。≫

  「強制」という嫌な仕事を占領軍が引き受けたことで一連の戦後改革が実現したことは、一部の日本人に「権力」についての見方を誤らせることになった。彼らは≪自らを強制することなく改革を実行できた戦後の特異な経験故に、改革や革命をしごく簡単に口にするようになったのである。権力の感覚を持たない、口だけの革新派はこうして生まれた。≫ 

▼「国際政治における権力の役割の簡単な否定も、同じように、特異な戦後の経験から生まれた」と、高坂は考える。彼ら革新派は、≪「憲法第九条」をただ単純に権力政治の否定と考えてしまった。しかし、アメリカの外交政策から権力の考慮が抜けたことは一度もなかった。はっきり言えば「憲法第九条」はまさに権力政治の産物だったのである。≫
 権力政治が支配する国際社会で、その認識が欠けたりあいまいであったりすることは致命的なことといわねばならないが、その根源にあるのも「彼らの占領の経験」だと高坂は言う。
 しかし他方で、占領下の改革という体験は、日本の保守派もスポイルすることになった。彼らは戦後の改革の妥当性を見ることなく、恨み言を言い、追放解除とともに政界に復帰し、時計の針を逆に回そうとした。彼らは戦後の改革により政治の場で発言する人の数が大幅に増加したのに、そうした人々に話しかける技術を習得しなかった。 

≪こうして、占領という特異な体験は、権力感覚なき革新派と、民衆に話しかけるという民主主義の技術を持たない保守派を生み出した。(中略)日本の政治は当然、非生産的な混乱の場とならざるをえなかったのである。(中略)占領改革は日本人の再出発の気持ちを強め、戦後の日本を明るくさせた。また、それは古い制約をこわし、新しい権利を与えることによって、人びとの行動の可能性を著しく増大させた。そうした意味で、戦後の改革は戦後の日本の発展の基礎となった。≫ 

高坂正堯の上のような「戦後」の捉え方は、「占領史」や「戦後史」を十分踏まえてなされたもので、単なる思い付きや思い込みではない、ということを付言しておきたい。

 (つづく)

▼ここで、日本の「戦後」について書かれた江藤淳の論文に、少し寄り道してみたい。江藤の議論はエクセントリックなものではあるが、比較してみることで高坂正堯の考え方や文章の特質がより明瞭となるからである。
 取り上げる江藤の論文は「『ごっこ』の世界が終ったとき」で、雑誌『諸君!』19701月号に発表されたものである。前回取り上げた高坂の「占領が日本人から奪ったもの」は、『文藝春秋』19692月号~4月号に分載されたものであり、両者とも同時代の空気の中で書かれた「戦後」論である。

 江藤は、現代日本の社会がどこか「ごっこ」の世界のように感じられてならない、と言う。「ごっこ」とは、鬼ごっこ、電車ごっこ、の「ごっこ」であり、「ごっこ」の世界とは、仲間の一人を鬼に見立てたり、ロープを電車に見立てたりという、子どもたちの遊びの世界である。「ごっこ」の世界は現実の世界ではなく、仲間同士の「黙契と共犯関係」の上に成立する世界である。
 現代日本の社会には、どこか「現実から一目盛りずらされ」たような感覚がひそんでいて、「そのもどかしさと、そのための自由さ、身軽さが混在している」。この社会では「真の経験」を味わうことが難しく、あらゆる行為がいつの間にか現実感を奪われてしまう、と江藤は言う。
  学生たちの過激な運動は、「なにかを経験したいという渇望の熾烈」さを示している。しかし彼らの≪経験への渇望は決して癒されることがない。彼らは真剣に革命を志向し、手ごたえのある経験を求めたのに、気がついてみると一切は「ごっこ」の世界に括弧でくくられてしまっている。≫
 何をやっても「ごっこ」になってしまうのは、戦後の日本人のアイデンティティが深刻な混乱に陥っているからである。それは結局、われわれの意識と現実の間には常に「米国」というものが介在しているせいではないか、と江藤は考える。

  ≪「米国」が現実を隔てるクッションとして現存しているために、戦争も歴史も、およそ他者との葛藤の中で味わわれるべき真の経験は不在であり、逆にいえば平和の充実感も歴史に対立すべき個人も不在である。自分と現実のあいだの距離がこうして決して克服されないために、戦争にかかわりたい、あるいは歴史にかかわりたいという渇望はますます熾烈になる。なぜなら渇望とはつねに距離の自覚から生まれるものだからである。≫

  ≪「ごっこ」の世界とは、したがって公的なものが存在しない世界、あるいは公的なものを誰かの手に預けてしまったところに現出される世界、と定義することができるかもしれない。それなら公的のものとは何か。それは自分たちの運命である。故に公的な価値の自覚とは、自分たちの、つまり共同体の運命の主人公として、滅びるのも栄えるのもすべてそれを自分の意思に由来するものとして引き受けるという覚悟である。それが生き甲斐というものである。この覚悟がないところに生き甲斐は存在しない。よってわれわれには生き甲斐は存在しないのである。≫

▼「大学闘争」とか「全共闘運動」と呼ばれた当時の学生たちの行動を前に、彼らは手ごたえのある経験を求めているのだ、生き甲斐を渇望しているのだ、と読み解いた江藤の眼は、正鵠を射ていたと言える。 
 社会を困惑させた学生たちの行動だったが、政治的言葉で語られることは少なかったし、もし政治的主張らしきものがあったとしても、本当にそれが欲せられているのかどうか、当の学生たちにとっても不明であった。彼らを突き動かしていたのは、確かな現実に触れることができない苛立ちであり、無力感であり、一言でいえば自らのアイデンティティを求める渇望だったのだろう。
 しかし江藤は、日本の社会のどこか「現実から一目盛りずらされ」たような現実感の薄さの原因を、なぜか「米国」が「現実を隔てるクッション」として介在していることに求めようとする。
 ≪軍事占領以来、戦後日本の社会は公的な価値を米国の手にあずけて肥大し続けている。その帰結をわれわれは今、好むと好まざるとにかかわらず眼の前につきつけられているのである。≫
 したがってわれわれの「意識の先端に付着した『米国』」をふるい落とし、戦後を終わらせること、それが日本人のアイデンティティを回復し、現実を回復する道である。公的な価値を回復し、自分の運命を自分の手に握る道である、と江藤は言う。
 そのためには日本とアメリカが「安保条約の発展的解消ともいうべき新たな同盟関係」を結び、米国艦隊が永久基地化している佐世保、横須賀から出ていくことが必要である。そうすることで「日本人の自尊心にささったとげ」が抜かれ、「戦後」は終わり、日本は「真の自主独立」を果たし、「ごっこ」の世界も終わる。われわれは戦争で亡くなった三百万の死者たちに思いを致し、自分の運命の主人公として歴史を生きることが可能となる、と江藤は主張する。
 ≪自信とか精神とかいうものも、実に敗者である自己に出逢い、敗北した共同体の運命を引き受けるところからしか生まれはしない。敗北に出逢うことは屈辱ではない。この事実を勇気をもってになうところからしか、本当に沈着な自信は生まれない。≫ 

▼江藤淳の論文「『ごっこ』の世界が終ったとき」の要旨は上のようなものだが、論理の飛躍や論旨の奇怪さは常人の理解をはるかに超えている。しかし江藤の、「戦後」に対する呪詛とでもいうべき否定的感情と、「米国」に対する反感、反発の念だけはきわめて明瞭である。そして論じる江藤の頭の中には、現実の日本の戦後の歩みもなければ、現実の米国の姿もないことも、また明瞭である。
  江藤はただ自分の「思い」だけを述べる。自分の「思い」に焦点を当て、展開し、絞り出した言葉は戦争に倒れた三百万の死者の鬼哭を呼び寄せ、われわれは完膚なきまでの敗北という事実に立ち戻るべきだ、というご託宣となる。
  江藤の鋭い直感はたしかに、戦後25年が経ち経済的には復興した社会に棲む人びとの、満たされない割り切れない漠然とした思いの存在を捉えている。しかし江藤の「思い」から捻り出された「ご託宣」は、当然のことながら現実の出来事とは無縁であるほかはなかったのだ。
 江藤はその後この論文の延長上に、占領軍による憲法の押し付けを論じ、検閲による事実の隠蔽や思想の誘導を明らかにする作業に力を注ぐようになる。日本人の自由な発言を許さず、アメリカの価値観を押し付けた検閲が、現在に至るまで日本人の心を拘束しつづけているという「歴史修正主義」者たちの主張を先導する役割を、江藤は果たすようになった。 

 高坂正堯の論文が取り上げた戦後日本も、やはり歪みを持った社会である。しかしそれは、アメリカの占領という「幸運」により旧社会の改革がスムーズに行われた結果、もたらされた歪みであった。そのことを高坂は、占領政策をめぐる米国内部の意見の対立やGHQ内部の抗争、日本の保守派の抵抗、国際政治における冷戦の激化、その結果占領政策が昭和23年を境に変わったことなどの歴史事実を踏まえて論じた。
 戦後の日本社会の不思議な「明るさ」とそれゆえの歪みについて、結論を押し付けず、淡々としたけれんみのない文体で、高坂は書いた。 

 江藤淳の論文「『ごっこ』の世界が終ったとき」は、北岡伸一の編集した『戦後日本外交論集』(1995年 中央公論社)に採録されている。しかし現実の日本の戦後の歩みを見ず、現実の米国の姿も眼中になく、ただ自分の「思い」だけを展開した文章がなぜ「外交論」なのか、編者の見識を疑う。

 (つづく)

1984年から翌年にかけて高坂正堯は、国際社会における日本の生き方についてのエッセイをジェトロの発行する雑誌に連載した。
  当時アメリカはレーガン政権下、莫大な貿易赤字と財政赤字を毎年出しつつ、中距離核戦力(INF)のヨーロッパ配備をめぐるソ連との「第二の冷戦」を戦っていた。一方ソ連ではブレジネフが82年に亡くなり、85年にゴルバチョフが書記長に就くまで、短命政権が続く混乱期にあった。そうした中、日本は巨大な国際収支の黒字を重ね、日本の「独り勝ち」はアメリカをはじめとする国際社会とのあいだに貿易摩擦、防衛摩擦、文化摩擦を生み出していた。しかしそういう情勢の困難さが、国民に理解されているようにはとても見えない、と高坂は危機感を懐いていた。
 高坂は連載エッセイを『国際摩擦』(1987年)という書物にまとめた。眼の前にある国際摩擦となっている問題を直接取り上げて分析し提言するというよりも、「外交」とは何か、「政治の要諦」は何か、という大きなテーマを歴史に題材を取りながら自由に論じ、読者に考えさせるというスタイルの本である。それは研究時間の半分を歴史書を読むことに費やしていると公言する高坂が、50歳代前半という大きなテーマを余裕をもって語ることができる年齢となったからこそ、書き得たものだったと言える。
  書物はその後文庫本になり、書名を『大国日本の世渡り学――国際摩擦を考える――』(1990年 PHP文庫)と変えたが、高坂は「文庫版へのまえがき」で次のように語っている。
 ≪この45年間に日本はある意味では大成功をおさめた。国際政治における対立、紛争、権力政治といったものから離れ、経済成長に専念したが故に成功があったのだが、それは日本人にとって快適な生き方でもあった。その結果、権力政治と無関係に外交がありうると考える人に、言ってみれば外交は‘話し合い’だと信ずる人々が圧倒的な多数派を占めても仕方がないかもしれない。/だがしかし、それは幻想であるし、しかも極めて危険な幻想である。≫ 

▼≪外交の歴史を見ていて不思議なことのひとつは、大切なときになるとなにかしら敵が増えてしまう国と、敵よりも味方の方が多くなってしまう国とがあるということである≫と高坂は言う。20世紀に例を採れば、前者の代表はドイツ、後者の代表はイギリスだろう。
 このことは、その国や国民が好かれやすいかどうかとは関係がない。≪多くの日本人が経験したように、イギリス人は冷たく、ドイツ人の方がつき合いやすい≫と高坂は続ける。
 イギリスは人口も他のヨーロッパ諸国に比べて少なく、国土も広くはない。それなのにヨーロッパの国際政治の主導権をとれたのは、その外交能力によるところが大きかった。イギリスの外交能力とは何か。
 高坂は、それは≪とことんまで妥協の可能性を追求する姿勢と、それが失敗した場合、逆境に耐えて、最後まで、かつ一国になっても戦い抜く芯の強さの組合せにある≫と考える。 この最後まで戦い抜くという強さは、妥協を可能にする重要な条件である。強く出れば屈服するというイメージを作ってしまえば、満足な妥協は得られないからだ。 

 高坂はさらに外交力を生かす条件として「的確で鋭敏な識別力」を挙げ、ソ連と西欧・米国の厳しい対立点だった「中距離核戦力(INF)」のヨーロッパ配備の問題を例に説明する。
 70年代後半にソ連は、核弾頭を搭載できるミサイルSS20を西ヨーロッパに向けて配備した。これに対抗するため、NATOも核を搭載できる米国のパーシングⅡ型ミサイルや巡航ミサイルをソ連に向けて配備することを決め、ソ連の強硬な反対を押し切って実施した。ソ連はジュネーブで行っていたINF削減交渉を打ち切り、西ヨーロッパではINF配備反対の大衆運動が盛り上がり、日本でも文学者たちが「反核声明」(1982年)を発表したりした。
 イギリスのサッチャー首相はINF導入の強力な推進役となると同時に、INF配備が終ると温和な調子でソ連に接触を呼び掛けた。外相クラスの接触や首相同士の話し合いを経て、年後にはソ連の外相と米国の国務長官が会談し、核削減交渉を再び行うことで合意した。つまりソ連は、設定した目標をまったく達成できないという外交的敗北を喫したわけである。
 高坂は、イギリスがソ連の示す強硬な態度について、攻撃性の表れとは見ず、その弱さゆえのものと見ていたことが重要だという。ソ連は逆境に立つとかえって強く出るが、しかし現実の力関係を重んずる国柄だから、やがては妥協を求めてくるとイギリスは判断していた。
  しかし強硬な姿勢が弱さの表現であったとしても、やはり危険なものであることは確かだ。順調に力を伸ばしていた国が劣勢になったとき、国際関係が紛糾するということは歴史の示すところである。そこでイギリスはミサイルの配備を行ったうえで、東西関係の修復に動いた。芯の強さと妥協の可能性を探る能力が、ここでいかんなく発揮されたと、高坂は語る。
(その後1987年にレーガンとゴルバチョフのあいだでINF全廃条約が調印され、双方の中距離核戦力は廃棄された。)

▼この本には、アメリカの貿易面での対日要求の話や首相の靖国参拝を非難する中国人の内面の問題など、80年代半ばの日本を取り巻くいろいろな問題が取り上げられている。それらはどれも面白い議論なのだが、ここでは割愛する。しかしそれらの問題の背後に高坂が見ている、日本人の国際社会理解への懸念や憂慮については、触れておかなければならない。
 日本人は国際関係が「権力政治」の場である事実に目を塞いでいる―――高坂の懸念や憂慮を一言にすれば、そうなる。
 日本の国力はきわめて大きくなり、その行動は大きな影響を国際社会に及ぼしているのに、その事実にあまりにも無自覚である。国際社会における経済関係には互いの利益になる面だけではなく、権力をめぐる対立・抗争の側面もあり、「国際貢献」であろうと権力政治的な性格は付いて回る。ある国の影響力が増すことは、他の国にとって基本的にうれしいことではないのだ。
 しかし日本人は漠然と、戦後日本は国家間の対立・抗争の当事者となることをやめ、平和に諸外国と交流して生きていくことに決めた、といったイメージで国際社会を眺めやすい。だが国際社会への甘い見方は、それが裏切られるとき容易にシニシズムへと変貌するのであり、一方の極端から他方の極端へと揺れることこそ避けなければならない。――― 

▼最後に、政治の要諦を語る高坂の言葉を、やや長くなるが引用しておきたい。それは、イギリスはなぜ国際政治における主導権を握れたのかという問いへの、高坂の回答でもある。 

 ≪政治において、個人も国家も、その利益を追求する。利己主義こそが普遍的な現実だといってもよい。利他的な個人はほとんどいないし、利他的な国家といったものはまず存在しない。問題は利己的か利他的かというところにあるのではなく、自らの利益の追求が、他の利益の追求と両立し、それに役立つか否かというところにあるのである。
 だから、政治の要諦は、自らの利益の追求を、できるだけ多くの他者の利益になる形で、いかにしておこなうかということにある。これが自分の利益になるというだけでは不十分なのであって、多くの人々の利益にもなるという形で、自らの政策を提示することが大切なのである。つまり、近視眼的ではなく、他者のことも考える広い視野に立つ利己主義が必要なのである。
 イギリス人はその才に長じていた。それが彼らの指導性の永続した最も重要な理由である。≫

 (つづく)

▼前回取り上げた1980年代半ばの著作でも、日本人の国際社会や国際政治への無理解に対して懸念や憂慮を表していた高坂正堯だったが、90年代に入ると彼の発言は憂慮の度を深め、無理解な人びとを批判する言葉も厳しさが増した。
 イラクのクウェート侵攻に端を発する湾岸危機(19908月~911月)と湾岸戦争(911月~3月)の時期に、どのような言説が日本国内で行われていたのか、いま調べる余裕はないが、高坂によればサダム・フセインに対する「なんとなく同情的な言動」が少なくなかったらしい。高坂は「河合栄治郎生誕百年記念講演会」(912月)で、国内で行われる言説と日本政府の優柔不断に腹が立ち、日本の将来は危ないと感じたと述べている。
 たとえば国際社会が編成した「多国籍軍」について、あれは国連軍ではない、国連軍が行動するなら、日本も考えてもいいが、という類の発言があった。それは「まやかしの議論」であり、そういう発言をする人の「良心のなさに私は非常な憤りを感ずる」と高坂は非難した。(「日本の危険――国家モラルの崩壊について」著作集第八巻)
 また、「即時停戦」、「イラクはクウェートから撤退せよ」、「日本は戦闘行為を支持するな」ということを、いとも簡単に言う人がいる。この三つはそれぞれ結構美しい理想によって包まれているのだが、現在の状況の中で合成すると、美しい理想どころか極度に醜い非道徳あるいは不道徳になる、と高坂は批判する。≪たしかに不法行為が行われてすぐに腕力を使わない方がいいかもしれない。でも幾ら説得しても応じないときにどうするのか。ほっとくのか。ほっとくのは嫌だから口だけしゃべっている。これは偽善であり、無力感に基づく無責任であります。≫
 穏やかな言葉遣いが身上の高坂が、講演の席だとはいえ、「良心がない」、「非道徳」、「偽善」、「無責任」、と非難する口ぶりは異例である。

  高坂の批判は財界人へも向けられた。「アメリカが戦争しているなら、まあ適当にさせといて、日本は金を払っていればいいじゃないか」といった発言を耳にすると、自分は「逆上せんばかりに」なると言い、「そんなことを言うなら秩序のないところで商売してみろ」と、言い捨てる。日本人の謙虚さという特質が、日本の急速な富裕化によっておかしくなっているのではないか―――それが今回の湾岸危機の発言の背後に何となく感じたことだ、と高坂は述べた。
 「私の見るところ人間的にはまだまだアメリカ人の方が上であります」と高坂は言葉を続け、前日の講演会でのあるアメリカ人の言葉を紹介する。
 「ベンジャミン・フランクリンが、昔からいい戦争というものはなく、悪い平和というものはないと言った。だけど、本当のところは、悪い戦争よりもっと悪い平和があるかもしれない、だからこの場合はあの決断しかなかったであろう」と彼は語り、そしてそのあとで、「今、中東の戦場で戦っている人びとが、一日も早く使命を果たして家に無事に帰れるために黙禱を捧げたいけど、許してもらえるか」と語ったのだという。
 彼の言葉には非常に説得力があった。任務を果たして平和に家に帰れるように黙禱を捧げる―――。「そういう発言ができる人間の力というのか、格というのか、それが結局国の説得力の基本になるのであります」。そう高坂は聴衆に語りかけ、講演を終えた。

▼「日本が追いつめられる前に手を打つとすれば、この二、三年が最後のチャンスではないか」と高坂が書いたのは、『文藝春秋』931月号に寄せた論文「日本が衰亡しないために」の中である。バブルがはじけた後とはいえ、日本中がまだその余韻に浸っていた当時、高坂は何を見つめていたのだろうか。
 ソ連が崩壊し、冷戦が終結し、ドイツが再統一を果たすという歴史的事件が、ほんの数年の間に生起した。また湾岸戦争という、その後のアラブ世界の動乱・混迷の前史となる事件も発生した。高坂は、世界が大きく変化していく方向を歴史のメガ・トレンドのなかで考え、そして変わるべきなのに変わることが難しい日本について論じたのである。
 メガ・トレンドの話はここでは割愛するが、高坂の眼の確かなことは、次の指摘からも明らかであろう。
 冷戦後の新しい体制づくりの問題としてヨーロッパについては、国際的な協調の必要性と自国の内政問題をどう調整していくかが、たいへん困難な問題としてあると言う。EUへの反発が加盟各国で高まっている現状を、予見した指摘といってよいだろう。
 またアメリカについては、今後も世界の外交的なリーダーシップを担っていけるのかどうか、「不安を拭えない」という。
 ≪外交と内政というものが不可分に結びつき、往々にして利害が対立するいまの時代、また、世界的なリーダーシップが大きな努力と高いコストを必要とする現在、国内に根強い孤立主義に陥ることなく、国際的な役割を果たしていけるのかという点で、不安は拭えないのである。≫

そして日本について高坂は、「他の諸国とくらべてもきわめて大きな困難」が予想されると言う。戦後半世紀のあいだ、日本の政治は外交と安全保障という最も重要な問題について、「ほとんど完全に棄権してきた」。憲法について議論することも国内政治上タブーであり、「常に外交、安全保障問題をサボタージュするための逃げ口上として使われてきた」。
  政治家たちはひたすら内政問題にだけ目を向け、票にならないどころかマイナスにさえなる外交・安保問題を省みなかった。
 ≪考えようによっては、なまじ国内がうまくいったから、なおさら問題は厄介なものになったともいえるかもしれない。もし、内政がうまくいかなければ、考え方を変えることもできただろうが、何といっても日本経済は強いし、社会は安定し安全であって、そのためにチャンスを逃がしたともいえる。しかし、これまでの日本の発展は、さまざまな偶然の要素によるものであって、これからはそううまくはいかないということを肝に銘じておく必要はあるだろう。≫ 

 高坂はこの論文を『高坂正尭外交評論集』1996年 中央公論社)に収録するに際、「数十年先ということになると、私の描く日本の未来像は決して明るくない」という短いコメントを付けている。高坂の懐く危機感は、96年の死去に向かって増すことはあっても減じることはなかった。

(つづく)

▼「第二次世界大戦の最大の特徴はその‘戦後’にある。歴史上常識とされてきたことはほとんどおこなわれず、ほとんど先例のないことが沢山おこなわれた」と、高坂正堯は言う。(「思考停止をやめ明白な解答を」)1995年)
 歴史上常識とされてきたこととは何か。ふつう、戦争が終わると講和会議が開かれ、国境線の引き直しが行われ、賠償金が決められる。そうして平時の関係に立ち戻るのであり、その後戦争のことが公式の場に再び持ち出されることはない。
 しかし第二次世界大戦のあと、ドイツの戦後処理を議論する会議など開かれなかったし、サンフランシスコ講和会議には中国は北京政府、台湾政府とも招聘されず、ソ連も欠席し、その結果領土問題は未解決のまま残った。賠償金も決められなかった。

 日本が中国の北京政府と平時の関係を持ったのは、ようやく1972年の日中共同声明と1978年の日中平和友好条約の締結によってであり、ソ連・ロシアとはいまだに平和条約を結べずにいる。
 戦後半世紀近い時間が経ってから、「日本の戦争責任の問題」が日本の内外で大きな政治的問題として取り上げられるようになったのも、こういった歴史的な事情に因るのであろうか。高坂は前回取り上げた論文「日本が衰亡しないために」(1993年)のなかで、次のように言う。 

 ≪日本の戦争責任の問題は、戦後すぐにではなく、日本が驚異的な成長を遂げた後になって、むしろやかましく言われてきた。いまもまた、日本の戦争中の行為がいくらかのアジア諸国から非難されている。残念ながら、その中には事実のものも多い。だが、一般的にはそうした経験は時間がたてば薄らぐものなのに、逆に時とともに、ある時には誇張を含みながら繰り返されてきた。また、なかにはすでに外交上では解決済みとされる問題も含まれている。(中略)このような事態が、歴史的に見て前代未聞のことであり、戦争と平和に対する人類の叡智を破るものだということは、言っておかなくてはならないだろう。≫ 

 一応の戦後処理が済み、戦後半世紀近くが過ぎてから「戦争認識」が外交の争点となることは、「国際秩序の安定という観点からして不正常であり、かつ危険な現象」(中西寛)であった。

▼この「前代未聞」の出来事について高坂は、絶筆となった論文「二十一世紀の国際政治と安全保障の基本問題」(1996年 著作集第八巻)では、より一般的な政治的「シンボル操作」の問題として取り上げた。
 先進国どうしの武力紛争が不可能になった現在、「シンボル操作」は政治の有効な手段であるかもしれない。しかし「シンボル操作」には、対立をあおり妥協を困難にするという大きな危険が伴う。
 ≪民主主義と帝国、個人主義と集団主義、自決と安定、これらは現実に存在するものとしては黒と白ほど明らかに違いはしない。しかし、言葉としては正反対のことを意味するし、それゆえ解決が難しい。原理的対立があるのを知っていて、それを強調するよりはぼかし、あたかも原理的対立が存在しないかのように処理するのは貴重な知恵であり、重要な技術である。≫
 「過去の戦争がシンボル操作上、きわめて有効」であるかぎり、「過去の反省」は現在の抗争の代替物として使われるだろう。だが日本は、「しっかりした実績を上げ」、「小さな声であっても妥当なことを述べ続け」れば良いのだ、と高坂は言う。そうすることは一つの立派な見識であり、長い目で見れば信用につながる―――。そして次のように続けた。 

 ≪戦争責任について、ごまかすのではなく、毅然とした態度をとること、それは日本の安全保障政策の基本かもしれない。言い訳とごまかしを続けて精神が腐食するとき、力も、知恵も、カネも結局役に立たないからである。≫ 

▼高坂正堯という人間について、学問上の弟子である五百旗頭真は、「人と接する高坂は、快活で社交的であり、相手の事情に温かい配慮を示す。お前は精神的に腐敗している、などといった発言は生涯なかったことと思う」と語る。
  高坂と同じ昭和9年に生まれ、ともに日本の政治や文化への発言を社会から求められる位置にあった山崎正和は、「私たちは終始変わらず『公の友』でありつづけた」と述べている。(著作集第二巻解説)
 自分たちはシンポジウムや国際会議でよく顔を合わせ、中年から始めたテニスを一緒に楽しむことはあっても、私的に酒を酌み交わすことはなく、家庭の事情を語ることもなかった。自分たちは「客気にまかせて激論したり情念を発散しあうという趣味を持たなかった」。
  日本には「乱酔のなかの告白」によって初めて仲間と認め、認められるというような、独特のじめついた社会風土があるが、「高坂氏も私も、イデオロギーの硬直になじめない以上に、無意識のうちに、この人間関係の腐臭に嫌悪を覚えていたように思われる」。そして「この生き方をめぐる潔癖さ」は、高坂の文章に一貫していたものだった、と山崎は語っている。 

筆者も高坂の文章は、読者との距離を一定に保つ節度のあるものであると思う。それは事実をよく調べ、それを平易な言葉で控えめに語り、決して声を高めたり大向こうをうならすような見得を切ったりすることはない。
 また、広い歴史の視野の中に眼の前の出来事を置いて自在に考えることができる高坂だったから、暗い事件の中に明るい側面を見いだし、明るさの中に将来の問題の芽を見て、読者に語ることができた。
  その高坂が、晩年の論文ではこの国の将来に暗い予感を懐き、日本人の「精神」を問題にする厳しい言葉を口にするようになったことを、どう考えればよいのだろうか。

▼高坂は安全保障の問題について、次のように語ったことがあった。
 ≪安全保障の問題について私が一番大事だと思っているのは、堂々たる生き方をすべきだということなのです。いいかえれば、嘘のない議論です。それが非常に大事なことだと思います。≫(「ダブル・スタンダード批判」1981年)

国際問題を議論することは日本の行動を論ずることになり、そのことはどうしても日本人の精神の姿勢を問題にすることになる。60年代の論壇デビュー以来、日本人の姿勢の問題は常に高坂の前に置かれた宿題だった。
 日本の安全保障について発言する日本の知識人の多くは、軍事的側面を軽視したり嫌悪したりする歪みを持っていた。彼らは、平和外交によって対立を緩和するとか、経済外交によって紛争の原因を除去するといった発言を好み、軍事的側面にはできるだけ触れないように努めるのが常だった。そうした非軍事的手段はもちろん重要でないことはないのだが、軍事力に完全に代替するものではない。つまり、体裁は良いがごまかしの議論が、ずっと続けられてきたのである。
  高坂は、戦後の日本は安全保障に関し、おおむね正しい政策をとってきたと評価する。しかしそれは現実の分析に立脚したものではなく、いわば‘神話’の上に築かれたものだった。
  ≪そうした状況は、安全保障政策に現実の欠陥がある時よりも、ある意味ではいっそう厄介である。国家にとって重要な問題を真剣に考えなくなるし、それは長い目で見て国民の能力を低下させる≫(「安全保障感覚の欠如」1996年)からである。 

湾岸戦争(1991年)時の、世界から隔絶した日本の政治・言論空間の異様さに、高坂は徒労感、失望感を深めたことだろう。いろいろの角度から続けてきた自分の努力は、結局むなしいものだったという苦い思いが、彼を苦しめたことだろう。高坂はそこに、戦後日本の自覚されざる精神的鎖国を見た。
  それは日本の安全保障という政策の問題であるよりも、日本人の気力や活力、精神的な健全さにかかわる問題だと彼には思えた。「言い訳とごまかしを続けて精神が腐食するとき、力も、知恵も、カネも結局役に立たない」と書く高坂の失望感と諦念は、言いようのないほど深いように見える。

 

(おわり)


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