教育勅語を読んでみた

             【ブログ掲載:2018年11月23日~12月7日】

 

▼ときどき「教育勅語」に関する話題がニュースとして流れる。昨年は財務省が森友学園へ不法に便宜を図った問題が国会で採り上げられ、その幼稚園では、園児たちに「教育勅語」を暗唱させているというニュースが話題になった。学園の教育方針に賛同し、妻が小学校の名誉校長になることまで承諾していた安倍首相だったが、幼稚園が運動会で、「安保法制国会通過よかったです。安倍首相ガンバレ!」と選手宣誓させていたことが知られると、一転して「親しい関係」を否定するようになった。
 もうひとつ、政府が昨年3月に「教育勅語」についての答弁書を閣議決定した、という新聞記事も読んだ記憶がある。「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」というものである。
 今年は10月の内閣改造で文部科学大臣に就任した柴山某が、就任の記者会見で「教育勅語」に触れた発言をした。「教育勅語をアレンジした形で道徳等に使うことができる分野は十分にあるという意味で、普遍性をもっている部分が見てとれる」、というようなことを述べたらしい。
 従来文科省は、「教育勅語は戦後、排除・無効確認の国会決議が行われていて、これを教育理念として使うことはできない。教材として使うことは不適切である」という線で答弁してきた。それを2014年に下村博文文科相が、教育勅語には普遍的に通用する部分もあるから、この点に着目して使用することは「差し支えない」と、答弁を変えたのだ。
 「アレンジすれば道徳教育に使えるところもある」とは、学校教育の最高責任者として、なんとも情けない「へっぴり腰」の発言である。
 「へっぴり腰」は閣議決定も同様で、「憲法や教育基本法に反しないような形で用いることまでは否定されない」という二重否定を使ったステートメントは、揚げ足を取られぬように最大限の注意を払い、こわごわ足を踏み出したという印象を与える。
 しかし「へっぴり腰」と笑われようとも、とにかく「教育勅語」を復権したい、復権しなければならないと彼らは思う。彼らの思いとは何なのだろうか。

 

▼先日、名古屋に旅行した際、熱田神宮で宝物館に立ち寄り、「明治百五十年記念展」という催しを覗いた。明治天皇と昭憲皇太后の写真や装束や愛用の品々、明治の元勲・乃木希典、東郷平八郎、山県有朋らの写真や書や遺品などが展示してあった。西郷隆盛の書状もあった。
 たいした展示内容ではなかったが、記念展の図録を購入したら、「教育勅語の心を今に」という小冊子(平成12年)が付録で付いていた。全国神社総代会の幹部研修で行われた神社本庁教学顧問(森田康之助)の講演を基に、加筆したものだという。小冊子を作った趣旨を、総代会会長は、次のように語っている。

「教育勅語が我が国の教育、そして道徳の淵源として、国民意識の形成に大きな役割を果して参りました。」
 「世論には今なお、教育勅語を極端な国家主義と結びつけ、勅語に込められた人類普遍の道徳律さえも否定しようとする者は少なくありません。」
 「教育勅語の内容は、誰もが良識的に認めることのできる、いつの時代にあっても普遍的な真理性を有しています。」
 「心の荒廃が大きな社会問題となっている昨今、地域社会における教育の場としての神社の役割を十分に生かし、教育勅語に示された普遍的精神を、青少年に伝えてゆく活動をより一層推進して参りたく存じます。」

また再版(平成22年)した趣旨を、別の総代会会長は次のように言う。
 「国民の努力により、わが国は目覚ましい戦後復興を遂げ、経済大国と言われるほど豊かになりましたが、一方では、社会構造の変化や価値観の多様化、また、核家族化や少子化の進展などと相俟って、祖先から守り伝えてきた社会規範や美徳は次第に失われてきました。/この現実を直視したとき、教育勅語は、現在の日本に求められている教育の根本を示すものではないでしょうか。」

 

▼「教育勅語」の内容を知らずに議論を進めるわけにはいかないので、次に全文を掲げる。(送り仮名はひらがなにし、漢字の読み方をカッコ内に入れた。) 

「教育に関する勅語

朕(ちん)惟(おも)うに我が皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に、徳を樹(た)つること深厚なり。我が臣民克(よ)く忠に克く孝に、億兆心を一にして、世世(よよ)その美を済(な)せるは、これ我が国体の精華(せいか)にして教育の淵源(えんげん)また実にここに存す。爾(なんじ)臣民父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和(あいわ)し、朋友(ほうゆう)相信じ、恭倹(きょうけん)己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習い、以(もっ)て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務(せいむ)を開き、常に国憲を重んじ国法に遵(したが)い、一旦(いったん)緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし。かくのごときは、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、また以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん。この道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶(とも)に遵守(じゅんしゅ)すべき所、これを古今に通じて謬(あやま)らず、これを中外に施して悖(もと)らず。朕爾臣民と倶に拳拳服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)その徳を一にせんことを庶幾(こいねが)う。明治23年10月30日
御名御璽」

 

▼「教育勅語」の現代語訳を、作家の高橋源一郎がネット上に公開しているので、参考までに載せておこう。

「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね。きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。
 その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです。その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。
 きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと。そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません。もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください。というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。
 そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです。
 いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです。
 そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上!
  明治23年10月30日
  御名御璽」

 

▼上に紹介した高橋源一郎の現代語訳は、「朕(ちん)惟(おも)うに」を、はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください」と「意訳」した。天皇が自分を「ぼく」と称し、「よろしく」や「ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください」など、原文にない言葉を加えている点で、ふざけた印象を読者に与えるかもしれない。
 しかし高橋は、意図的に軽みのある文体を選んではいるがふざけているわけではなく、「教育勅語」の内容を日常的な言葉に直したうえで、その意味と構造を明確にしたいと考えたのだろう。漢文調の流れの良さに何となく納得させられたり、漢語の威勢の良さで観念のあいまいさを飛び越えたりするのではなく、日常的な言葉に言い換えることで、「勅語」の意味するところをはっきりと見ようとしたのである。
 たとえば、「我が臣民克(よ)く忠に克く孝に、億兆心を一にして、世世(よよ)その美を済(な)せるは、これ我が国体の精華(せいか)にして教育の淵源(えんげん)また実にここに存す」という部分。なんとなく感じはわかるが、口語体に言い換えようとすると考え込んでしまうところだが、高橋は四つの文章に分けることで上手に処理する。「きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです。その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません」。
 またたとえば、「朕爾臣民と倶に拳拳服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)その徳を一にせんことを庶幾(こいねが)う」という終わりの部分も、次のように言い換える。「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか」。
 高橋の「意訳」は、教育勅語の言葉の神秘性を剥ぐとともに、「天皇制国家イデオロギー」を分かりやすく示すのだが、その問題に入る前に「勅語」がつくられた事情を見ておこう。

 

▼明治政府の中には二つの教育思想が存在していたという。明治維新直後は「復古主義」、「皇国思想」が大きな力を持っていて、国学者や国学思想家たちは新しい日本の教育計画を自分たちの手で作ろうと、新政府の中で声を高めた。島崎藤村の『夜明け前』にも、「王政復古」にかけた彼らの期待が描かれている。
 一方、福沢諭吉など洋学者たちは、近代思想の普及に努め、欧米の新しい学校制度を日本に移入すべきだと考えた。文明開化の新しい教育思想がある時は力を持ち、次の時代には伝統的考え方の下に支配され、明治時代の特色ある教育思想の流れをつくっていた。(以下、明治時代以降の教育の歴史については、海後宗臣『現代日本小史』下巻「教育史」1961年に拠る。)

明治十年代、自由民権の政治運動が盛んになり、彼らは国会開設を請願し、民衆の政治参加を求めた。教育行政の上でも自由思想にもとづく方針が出され、文部省は大綱を示すだけとされ、細かい方法はすべて地方の権限に移された。当時は学校で使う教科書もまったく自由であったため、民権思想を鼓吹した書物なども教科書として使用されていた。

明治天皇は十年代の初めに民情の視察のために地方を巡行し、学校の実際を観ることが多かったが、文明開化の教育が欧米の知識技術の学習にのみ走り、「徳育」を軽んじているという印象を持った。これを是正するためには、教育の方針を文部省にのみ委ねておくことはできず、その根源となるべきものを「聖旨」によって確立すべきだと考えた。側近の元田永孚(もとだながざね)が『教学大旨』(明治12年)を書き、文部省に示し、ここに教学の大方針は天皇の指示によらなければ決定できないという「国教」思想が成立することになった。
 元田は、教学の方針は政府全体がこれを体さねばならないと考え、伊藤博文に「聖旨」を示し、考えを上奏させた。伊藤は、今日倫理が衰えたのは明治維新以来の教育の方針が誤っていたからではない、日本が未曽有の変革に遭遇して、思想上生活上に混乱をきたしたためだとする考えのもとに、具体的な方策を上奏した。その中で「国教」を立てることについては、賢人哲人あって初めて可能なことであり、政府が関係するべきことではないと反対した。
 元田永孚は伊藤に反対する上奏文を提出し、「国教」は新しくつくるのではなく祖訓を継承して鮮明にするのであり、国が伝統によって教育の根本を立てる必要性を強調した。

 

▼明治十年代後半は、不平等条約の改正のために日本の国際的地位を向上させることが主要な課題であり、そのため欧米諸国の文明を全面的に取り入れなければならない、という新たな欧化思想が力を持った時期だった。東京の日比谷に二階建て煉瓦造りの「鹿鳴館」(明治16年)がつくられ、政府首脳が「欧化主義」を率先して進めた。
 自由民権運動への約束であるとともに条約改正のための方策でもあった大日本帝国憲法が、伊藤博文を中心に起草され、明治22年に発布されると、元田永孚は教育の大方針を宣言して憲法に並ぶ位置を持たせようと考えた。政治の権とともに教育の全権を併せもつのが天皇であり、政治の体制が決定される際には教育の根本方針も示されねばならない、と考えたからである。
 明治23年2月、地方長官会議で文部大臣・榎本武揚に対し、徳育の基本を確立してもらいたいとの決議があったのをきっかけに、徳育に関する何らかの文章をつくるという動きが始まった。明治天皇は、徳育の基礎となる箴言を編纂して、児童に誦読させたらどうかというアイデアを文部大臣に示したりした。
 「教育に関する勅諭」については、4人の人間が主として関わった。時の総理大臣・山県有朋、榎本武揚の更迭後に文部大臣に就いた芳川顕正、法制局長官・井上毅、そして天皇側近の元田永孚である。
 文部省は、文名をもって当時随一とされていた中村正直に依頼して勅諭の草案をつくり、山県の下に提出した。中村の草案は忠孝の心の発する根源を天または神に求めるもので、教育の根源を国体あるいは天皇にありとする元田永孚や井上毅に受け入れられるものではなかった。元田永孚も自ら草案を起草したが、井上の眼には儒教色の強いものに見えた。
  井上毅は代わるべき草案を自ら書いて、山県総理の下に提出した。渙発された「教育勅語」は、この井上の草案を基礎に井上と元田が幾度か修正の筆を入れてつくられたものであり、その間の往復書簡や修正草案が多数遺されている。 

 「教育に関する勅語」は社会に大いに受け入れられたらしい。芳川文相は、「大詔一下するや天下靡然(びぜん)として服従し奉り、民心のこれに向かうこと、恰も大旱の雲霓(うんげい)を求むるの趣があった」と、のちに述べている。
 「これは当時の人々の思想や、教育の根本についての考え方に、この勅語を受け入れる素地ができていたと見るべきである。そのころの教育思想とあまりにもかけ離れている勅語であったならば、恐らく交付されてから後に直ちに問題を引き起こしたことであろう」と、教育勅語の研究者・海後宗臣は書いている。(『現代日本小史』下巻)

 

▼さて、「教育勅語」の内容である。漢文読み下し文の形をとる全体で315文字の文章は、句読点はないが六つの文(センテンス)から成り、二文ずつ三つの段落に分けることができる。

第一段落は「朕(ちん)惟(おも)うに」から「教育の淵源(えんげん)また実にここに存す」までで、明治天皇がわが国の歴史を振りかえり、天皇の祖先が代々国家を統治し、臣民もまたそれに協力してきた歴史だったと述べる。したがって教育は、わが国の歴史に事実上流れて来た伝統的な美点を生かすようなものでなければならない、と言う。
 第二段落は、「爾(なんじ)臣民父母に孝に」から「爾祖先の遺風を顕彰するに足らん」までの二文だが、臣民たちが日常生活のなかで日々実践すべきことがらを列挙した前半の部分と、そのような徳目を実践することが臣民自身の祖先の美徳を継承し、顕彰することになるのだと説いた後半の部分からなる。
 第三段落は、「この道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして」から「庶幾(こいねが)う」までの最後の二文である。
 意味は、上に述べてきた教えは自分一人の考えではなく、歴代の天皇の遺訓であり、過去だけでなく現在も将来も、そして日本だけでなく外国にも十分通用するものだとするのが前半。だから臣民たちは、自分と一緒になってこの教えを常に心がけ、守っていってほしい、と呼びかけるのが最後の文である。

 日常生活のなかで日々実践すべき徳目を具体的に述べた部分は、第二段落の前半の部分だけであり、分量的には全体の三分の一である。あとの三分の二は、徳目の位置づけや徳目を守ることの意義を述べているのだが、それは次のような構図の中で説かれている。
 わが国は神武天皇から孝明天皇に至る明治天皇の祖先が統治してきたこと、臣民たちはそれに進んで協力してきたこと、教育はそういうわが国の歴史に流れて来た美点を生かすものでなければならないこと。これから挙げる徳目は、汝らの祖先も励んできたもので、励行することは天皇に忠義であるだけでなく、汝らの祖先を顕彰することにもなること―――。
 天皇が君臨する国家体制の正統性を、「臣民」の日常の道徳意識や先祖を祭る心とからめ、巧みにまとめ上げた文章といえる。民衆世界の儒教的道徳律を守り、自分を磨き仕事に励むことが、天皇を元首にいただく国家体制を守ることにつながる。民衆のあらゆる活動が天皇制国家の体制に吸収されるという見事な論理がここにある。要するに「教育勅語」は、「天皇制国家イデオロギー」を形成することにより、大日本帝国憲法第一条「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を支え、補完する役割を十分に果たしたのである。

 

▼「臣民」が日常生活のなかで日々実践すべきとされた徳目を、見てみよう。

 《爾臣民父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習い、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務を開き、常に国憲を重んじ国法に遵い、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし》と、1つの文(センテンス)にやたら多くの徳目が詰め込まれているが、構文は明瞭で、解釈が分かれるようなところはほとんどない。
 「父母に孝」、「兄弟に友」、「夫婦相和し」、「朋友愛信じ」という初めの部分は、日常の人間関係におけるあるべき形を説いたものあり、意味も明瞭である。「恭倹己を持し」は、つつましく控えめな態度をとることを言い、「博愛衆に及ぼし」と並べることで、人間関係の在り方を、「もう少し抽象化した自己と他者の関係論として捉えなおした」(八木公生)ものと見ることが出来る。
 「学を修め」、「業を習い」、「智能を啓発し」、「徳器を成就し」、「進んで公益を広め」、「世務を開き」―――。「世務を開き」は、社会のために現在なすべき務めを行うことをいうのだそうだが、あとは別段説明の必要はないだろう。学校や職場における教育の努力目標を述べたと見ることができる。
 「常に国憲を重んじ」、「国法に遵い」、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」―――。「常に国憲を重んじ」と「国法に遵い」も説明は不要だが、最後の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」は、「教育勅語」を論じる際に議論が集中する部分であり、一言する必要があるかもしれない。
 高橋源一郎は「戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください。というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです」と「意訳」した。戦時下の国家主義教育が目指したのは、まさにそのような理解だった。
 しかし井上毅の思想を研究する八木公生は、井上毅の考えはそうではなく、国家に突発的な事態が生じたとき、義勇公に奉じる(勇気を持ち国家のために積極的に行動する)気持ちを忘れないよう臣民に対し「覚悟を求めた」のだと理解する。(『天皇と日本の近代』2001年)。だがその解釈の適否の問題は、ここでは省略したい。
 筆者の読むかぎり、「教育勅語」の文章としての魅力は、この徳目をてんこ盛りにした一文にあるわけではない。この一文が、天皇制国家の正統性を弁証した他の部分に見事に包摂されているところにこそ、その魅力も迫力もあるのである。

 

▼「教育勅語」は教育の根本を示しているとされ、学校においては「御真影」とともに「奉安殿」に安置され、式日に奉読された。小学校高学年ではその解釈を授け、これを筆写させたり暗誦させたりして覚え込ませた。わずか315文字の短い文章だが、日本社会に及ぼしたその影響はきわめて大きく、影響力の大きさでこれに匹敵するのは、玄奘の漢訳した「般若心経(摩訶般若波羅密多心経)」(266文字)ぐらいしかないと、研究者は言う。(八木公生『天皇と日本の近代』) 

「教育勅語」に対する批判がなかったわけではない。日清戦争の後、教育勅語は平和な時代にはふさわしくないから、別に新たな勅語が必要という主張が現れ、文部大臣・西園寺公望から提唱されたこともあった。皇国民を造り上げようとする教育思想に対し、自由な人間性の開発を求める自由教育主義の教育観からの批判もあり、また、キリスト教主義の教育からの批判もあった。
 しかし実現はしなかった。教育勅語が時代の別なく国民教育の基礎となるものであるとする考えが、社会に根強かったからである。
 日露戦争後、社会変革の思想、国体変革の思想が現われたが、体制を揺るがすものとして厳しい取り締まりの対象となった。学校教育で「教育勅語」を徹底する必要性が、為政者に強く意識された。
 昭和期に入り、戦争の深まりとともにいっそう「国体に基づく教育の必要性」が叫ばれ、「教育勅語」は新たな解釈が加えられ、国家至上主義の教育が学校を支配した。

 

神社関係者が「人類普遍の道徳律」と言い、自民党政府が「普遍的に通用する部分もある」と言いたがるのは、第二段落前半の徳目の羅列の部分を指しているのだろう。
 だが明治時代に「教育勅語」が社会から歓迎されたのは、「明治」という特異な時代に、明治天皇というカリスマから発せられた「ありがたいお言葉」だったからである。明治天皇を崇拝する独特の空気が皆無の社会において、徳目だけを「アレンジ」して持ち出しても、古くなって気の抜けたビールのように、なんの旨みも薬効もないことは明らかである。
  個々の徳目だけを持ち出すのなら、それは「世界は一つ、人類は皆兄弟、お父さんお母さんを大切にしよう」という笹川良一が繰り返していたスローガンと、なんの変わりもない。異議もないがありがたくもない、多くの標語のたぐいに過ぎない。

「教育勅語」は、明治政府の指導者たちが心血を注いでつくりあげた、苦心の文章である。その迫力ある文章を味わい、歴史の中で果たした役割を知ること、つまり歴史上の文書として取り扱うのが、「教育勅語」への正しい向き合い方ではないかと思う。
 国粋主義、軍国主義を生み出し支えた文書として、触れることすら避けようとする態度には賛成しないが、「人類普遍の道徳律」、「普遍的に通用する部分もある」という発言には、それ以上に賛成できない。徳目を並べた三分の一は、残りの三分の二と一体のものであり、勝手なつまみ食いを許さない。「教育勅語」を自分の頭できちんと読んでみれば、徳目だけ取り出して、「内容は良い」、「普遍的に通用する部分もある」と言うことの無意味さが分かるだろう。

 

(おわり)

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