戦場のメリークリスマス
                     【ブログ掲載:2016年3月5日】


▼映画「戦場のメリークリスマス」(監督:大島渚 1983年)の舞台は、1942年のジャワ島の俘虜収容所である。
 収容所の実務を取り仕切るハラ軍曹(ビートたけし)に呼び出され、ローレンス中佐(トム・コンティ)が行くと、日本兵の輪の中で、朝鮮人の軍属一人と俘虜の一人が、後ろ手に縛られて横たわっている。ハラ軍曹はローレンスに、朝鮮人の軍属が俘虜に対して男色行為を行ったので成敗するのだと説明し、お前には証人になってもらうと言う。そこに収容所長のヨノイ大尉(坂本龍一)が通りかかり、軍律会議でバタビアに出かける、事件の始末は帰るまで待て、と言って去る。 
  軍律会議ではジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)という若い男が、インドネシアの連合軍が降伏したあとに日本軍を襲撃した、という容疑で被告とされていた。セリアズは、これはどういう裁判なのか、弁護人もいない、茶番だ、と言って反抗的な姿勢を貫くが、陪席のヨノイ大尉の質問には、自分はインド軍司令官の命令のもと、ゲリラ隊を率いた英国陸軍少佐だと名のる。
 3人の裁判官は合議のために別室へ移るが、ヨノイ大尉が、被告の行為は正規の戦闘行為だと主張したためにまとまらず、判決は延期される。そして後日、処刑の真似事をしたのちに、セリアズは俘虜収容所へ送られた。ヨノイは医師にセリアズの手当をさせ、早く回復させるように命ずる。 

夜、ハラ軍曹が懐中電灯を片手に、ローレンス中佐の寝ているところへ来る。ローレンスは戦前、東京の英国大使館に勤務していたことがあり、日本語を話し、日本人のものの考え方にも理解がある。
  ハラはローレンスに、セリアズの寝ているところへ案内させ、所長がなぜセリアズを助けたのか、理由を知っているか?と尋ねる。ローレンスは、知らないと答え、彼が生まれつきのリーダーだからだろうか、と推測を述べる。
 こいつがそんなに立派な将校なら、なぜ自決しない?と、ハラはさらに問う。ローレンス、お前が自決していたら、俺はお前がもっと好きになっただろう。捕虜になって恥ずかしくないのか。
 私は恥ずかしくない。捕虜になったのは時の運だ、とローレンスは言う。
 いや、お前は死ぬのが怖いだけだ、とハラ軍曹は言う。
 暗闇の中で二人が話をしていると、所長のヨノイが従卒の案内で、そっとセリアズの様子を見に来る。

 

▼抜き打ちで行われた所持品検査で、捕虜たちの宿舎からラジオが発見された。その責任を問われ、ローレンスとセリアズは独房に入れられる。そこで二人は、自分の過去を回想し、語り合う。

 セリアズには歌の上手な弟があった。しかし弟が自分と同じパブリックスクールに入り、仲間から苛められているのを知りながら、ついに助けに行かなかったという苦い記憶があった。弟は、なぜ来てくれなかったのかと問い、兄は化学の実験で忙しかったというような弁解をしたが、弟はそれ以来、歌を唄うことをやめた。

その記憶がセリアズを苛んだ。戦争が始まり、セリアズにはそれが心の重荷を解き放つ絶好の機会のように思えた。何年も感じなかった情熱が甦るのを感じた。………

 二人がポツリポツリと自分を語っていると、衛兵が二人を呼び出し、所長の執務室に連れて行く。所長の机の前に座っていたのはヨノイではなく、酒に顔を赤くしたハラ軍曹だった。机の上には果物がいくつかと酒のビンが並んでいた。ハラは、「ふぁーぜる・くりすます」を知っているかと聞いた。

 ああ、「ファーザー・クリスマス」、サンタクロースですね、とローレンスが状況を呑み込みながら答えると、今夜、わたし、「ふぁーぜる・くりすます」です、と上機嫌のハラは続けた。そして、クリスマスのプレゼントとして、二人を釈放する、と言った。

 

▼ヨノイ所長は俘虜長のヒックスリー大佐(ジャック・トップソン)に、兵器に詳しい捕虜の名簿を提出するように要求していた。しかしヒックスリーは要求されるたびに、協力できないと拒み、ヨノイは、協力しないなら俘虜長を換える、と言った。
  呼び出された俘虜長がまたもや名簿の提出を拒否すると、ヨノイは、捕虜を全員、5分以内に集合させろ、と命じた。広場に集合した捕虜を見て、ヨノイはなぜ自分の命じたとおりにしない、自分は全員を集めろと言ったはずだとヒックスリーを難詰する。
 病棟に入院中の捕虜も並ばされ、非難の視線がヨノイに集中する中、ヨノイはヒックスリーに武器の専門家のリストを出すように命じ、またもや拒否される。ヨノイは日本刀を引き抜き、ヒックリーを前に引き据えるように部下に命じる。ヒックリーが恐れおののいている時、列の後ろからセリアズが静かに歩きだし、ヨノイとヒックリーのあいだに黙って立った。
 ヨノイはセリアズを突き飛ばすが、彼はすぐに立ちあがり、ゆっくりヨノイに近づくと胸に抱きしめ、両頬にキスをした。ヨノイはセリアズのまったく予期せぬ行動の衝撃で、日本刀を振り上げようとするが昏倒する。
 セリアズは広場の一角で、首から上を出した形で生き埋めにされる。死相が増した最後の夜、ヨノイ大尉が現われ、カミソリでセリアズの金髪をひと房切り取り、懐紙に包み、敬礼して去って行った。 

 舞台は4年後の1946年に移る。日本人戦犯が収容されている建物に、ローレンス中佐が現われる。訪れた独房の中にはハラ軍曹がおり、彼の頭はきれいに剃られている。
 いよいよ明朝です、とハラは言う。ローレンスは、私ならあなたを自由にして、家族のもとに返すのだが………と言葉を濁すと、ハラは、覚悟はできています、ただ一つ、自分のしたことは他の兵士のしたことと同じだ、その点だけは、納得していないと言う。
 あなたは犠牲者なのだ、自分を正しいと信じていた、もちろん正しい者などどこにもいない、とローレンスは語る。話はヨノイがすでに処刑されたことに飛び、あのクリスマスの夜の思い出に至る。
 素敵なクリスマスだった、あなたは酔っていた、とローレンスがほほえむと、ハラは、これからも酔い続けます、と言った。
 ローレンスは、ハラに最後の別れを告げる。「勝利がつらく思われるときがあります。さようならハラさん、神の御恵みを」。
 ローレンスが扉から出ようとしたとき、ハラは大声で叫ぶ。「ローレンス、メリークリスマス、ミスタ・ローレンス」。ハラの泣き笑いのような顔が大きくスクリーンに映し出され、そこにテーマ音楽がかぶさり、映画は終わる。

 

▼観終わった後、不思議な映画という印象が、筆者につよく残った。
 意味のよく分からない場面や、無い方が良いような場面がいくつかあったが、それは大島渚の映画には付きもの、というべきだろうか。日本の軍人や兵士の描き方もリアリティがなく、全体として映画への観客の理解を拒む方向に作用する。 
 ヨノイ大尉がジャック・セリアズに惹かれ、しかし「裏切られた」と感じた後、異常に残酷な行動に走るという筋書きも、唐突でよく分からない。
 しかしにもかかわらず、鮮やかな印象に残る場面の輝きは別格である。セリアズがヨノイの両頬にキスする場面や、ハラが最後に「ローレンス、メリークリスマス、ミスタ・ローレンス」と叫ぶ場面は、不思議ではあるが不思議さを超えて観客を捉え、納得させる。
 佐藤忠男はこの映画を、「魂をゆさぶる見事な鎮魂歌」と評したが、筆者もこの評価に賛同する。 

原作者のヴァン・デル・ポストは大島渚に、セリアズ役としてロバート・レッドフォードを推薦したという。大島がレッドフォードに会うと、彼は、大島監督の仕事は尊敬しているが、シナリオを読んで、この映画には出られない、と言ったという。アメリカの映画の観客は、アタマの15分で分からない映画など見に来ない、というのがその理由だった。
 しかし自分は、最初の15分で分かってしまうような映画をつくる気がしない。はじめ分からないことが最後に分かるような映画をつくりたい、そんな話をして気分よく分かれた、と大島渚は語っている。(『大島渚の世界』佐藤忠男)



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