長崎の旅
             【ブログ掲載:2016年10月14日~20日】

▼長崎に2泊3日の旅行をした。筆者は友人たちと、1年に一度日本各地を旅する会をつくっていて、今年は旅先が長崎だったのである。会のメンバーは全国に散らばっており、旅行地を決めて現地で顔を合わせ、また各地へ戻っていく。
 会がつくられたのは25年以上前である。つくられた当時はメンバーは皆現役の働き手だったが、いまでは大半が年金生活者となり、亡くなった者も何人かいる。
 旅行に細君同伴で参加する者も多くなった。今年の参加者は13人だったが、そのうち10人はカップルで、単独参加はわずか3人に過ぎなかった。

 
 土曜日の午後、メンバーは長崎新地のホテルに集合し、長崎観光の定番であるオランダ坂をのぼり、グラバー園へ行った。長崎の外国人居留地にある坂道はどれも「オランダ坂」と呼ばれたのだそうだが、幕末の開港後、長崎を訪れた異国の民は、港を見下ろす丘の上に屋敷を構えたのである。

 そうして建てられた洋館が、現在もオランダ坂や丘陵地の道路沿いに残り、グラバー園にもトーマス・グラバーの家をはじめ、由緒ある洋館が集められ、復元されている。


グラバー園を出てから大浦天主堂を見て、ホテルに帰った。

夜は思案橋の台湾料理の店で宴会。周辺は市内で一番賑やかな場所だという話だが、人の出はたしかに多かった。

▼翌日は「軍艦島」クルージングに参加した。長崎港の沖合19kmの端島(はしま)が「軍艦」の形をしているということでこう呼ばれるのだが、もともとはただの岩礁だったという。19世紀の初めに石炭が露出していることが発見され、明治時代に三菱が買い取り、本格的に炭鉱事業に乗り出してから人が移り住むようになり、島は拡張された。掘り出された石炭は福岡県の製鉄所に送られ、日本の近代化を支えた。



 戦後の最盛期(1960年)に島の人口は5千人を超え、社宅や病院、小中学校からパチンコ屋、映画館、スナック・バーの類まであり、たいへんな人口密度だったというが、1974年に閉山。住民は離散し、島は無人の廃墟となった。

 この日は晴れて、波穏やか、風もない。島に上陸できるのは風速5メートル以内、波の高さ0.5m以内ということに決められているようだが、この日はまったく問題ない。

船客は3グループに分けられ、ガイドに引率されて説明を聞いた。



 気温30度、湿度95%の地底で石炭を掘る炭坑夫には、三つの風呂が用意されていたという。第一は海水の風呂で、炭坑夫は作業着のまま飛び込み、衣服や身体に付いた粉塵を落とす。第二の風呂も海水で、ここで身体を洗う。第三の風呂は真水で、炭坑夫たちはここで塩気を落とす―――。

 真水はそれほど貴重だったのだ。はじめは船で飲み水を運び、その後6.5kmの送水管を敷設して対岸の半島から送り込んだ。

 電気は、初めは自家発電でまかない、やがて近くの高島炭鉱から送電するようになったという。

▼軍艦島クルーズを終え、昼食を有名料亭で取った。来年また会う約束をして、会はここで解散。

筆者はそのあと路面電車に乗り、浜口町駅で降り、長崎原爆資料館へ行った。見学の観光客や中学生の団体で、かなりの人出だった。原爆投下後の荒涼たる市街の写真や黒焦げになった屍体の写真、爆風やその後の火災の熱で飴のようにひん曲がった鉄骨や閃光によって焼き付けられた物や人の影など、原爆被害の巨大さが展示されていた。

展示物のなかで、家族を失った男の作った俳句が、その家族の写真とともに掲示されているのが強く印象に残った。

・炎天、子のいまわの水をさがしにゆく

・この世の一夜を母のそばに、月がさしている顔

・とんぼう、子を焼く木をひろうてくる

・ほのお、兄をなかによりそうて火になる

・あわれ七カ月のいのちの、はなびらのような骨かな

・炎天、妻に火をつけて水のむ

・なにもかもなくした手に四まいの爆死証明

・虫なく子の足をさすりしんじつふたり

作者は松尾敦之。萩原井泉水に師事し、定型にとらわれない自由律俳句を志し、勤務先の長崎の食糧営団で原爆投下に遇う。建物の窓ガラスや扉が爆風で飛び散ったが、松尾自身は怪我することなく負傷者の手当てに回り、夕方火災の中を自宅へ向かう。家屋が倒壊し、木や電線が道路を塞ぐなか、ようやく訪ねあてた家は見る影もなくつぶれ、家族の姿はなかった。

 その夜、庭の壕の中で発見した長男と、翌日発見した妻はまだ命があったが、次男と次女は死んでいた。その長男も翌日に亡くなり、妻も五日後に亡くなり、松尾は被爆で顔と両手に傷を負った長女と二人残された。
 幸せそうに写っている家族の写真が、松尾の俳句と重なり、無言のうちに原爆体験の悲惨を伝えていた。

 松尾敦之の『原爆句抄』は72年に上梓されたと書かれていたので、館内の売店に立ち寄った。『原爆句抄』は見えなかったが、『松尾あつゆき日記』(2012年)という新書版の本があったので購入した。原爆投下の昭和2089日から翌2169日までの松尾敦之の日記を、編者が新かなづかいに直し、解説を付けて出版したものだった。編者・平田周が松尾の長女の息子であることを知り、長女が被爆にもかかわらず結婚し子供を産んだという事実に、ホッとしたものを覚えた。

  原爆資料館の見学のあと、原爆投下の中心地を見に行き、永井隆記念館にも立ち寄った。この日は長崎市にもう一泊することにした。


 ▼翌朝、バスで佐世保に向かった。ガイドブックで初めて知った九十九島(くじゅうくしま)の景色を、ぜひ見たいと思ったからである。

 佐世保駅構内の観光情報センターに立ち寄り、女性の係員に九十九島を見に行きたい旨を伝えた。女性は、景色を見るのに適当な場所の名前とそこへの行き方、バスの利用の仕方など丁寧に教えてくれた。彼女からバスの1日券を買い、指示された停留所で待つと、展望台の一つ、「展海峰」行きのバスはじきにやってきた。

 終点の「展海峰」で降りるとき運転手に確認すると、バスの折り返しの出発まで20分ほどの余裕があった。海を見下ろせる展望台に上り、多島海の美しさを眺めた。



 折り返しのバスに乗り、途中で降りて15分ほど歩き、「船越展望所」へ行った。海に最も近い位置から九十九島を眺められるのがここだということだが、観光客はひとりもいなかった。


 30分ほどさらに道路を歩き、「パール・シー・リゾート」に出、昼食をとった。ビールを飲みながら、短い時間に極めて効率よく目的を達成することができたという、満足感に浸った。

食後、多島海をめぐる遊覧船に乗った。「………九十九島と申しますが、実際には208の島があります。人が住んでいるのはそのうちの4島でございます………」というようなアナウンスがあった。


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