いわゆるネトウヨについて
               【ブログ掲載:2018年4月13日~5月4日】

 

▼筆者はこのブログで、マスメディアがつくり出す既存の言論世界とネット上で行われる言論の位置関係について、取り上げたことがある。そして、ネット上の言説に期待を寄せる意見が見られるが、「インターネットの場がマスメディアから世論形成機能を奪うような世界は、座標軸が失われ、確かなものの秩序が失われた悪夢のような世界ではないだろうか」と述べた。(「幻滅4」2017/6/2

 そのように筆者が発言したとき念頭にあったのは、ネット上で匿名をよいことに、韓国(人)、中国(人)に対する侮蔑の言葉をまき散らし、気に入らない人びとや発言に「反日」、「サヨク」、「マスゴミ」などの言葉を投げつける、「ネット右翼」、「ネトウヨ」と呼ばれる連中のことだった。彼らの憎悪のエネルギーがどこから湧いてくるのか不思議ではあったが、経済的に苦しい状況に置かれた若者たちが、先の見えない不安と怒りをぶつける対象を見つけ、発散しているのだろうと思っていた。匿名の彼らが仲間どおしうなずき合う光景は、醜悪で見るに堪えなかったから、無視するに越したことはないと思っていた。

 

▼筆者のそのような態度は、状況を軽く、楽観的に見すぎているのかもしれない、と思い直したのは、香山リカという精神科医師兼文筆家の文章を読んだ時だった。
 香山はツイッターで、次のような侮蔑の言葉を投げつけられたという。「あんた反日集団しばき隊のお仲間? 日本ヘイトやめてもらえませんかね あ、あんた半島系だっけww  まったく恥ずかしいよ同業者として」。
 侮蔑的なツイートには慣れっこの香山も、「同業者」という単語に引っかかり、その男のタイムラインを覗いてみると、プロフィール欄には「勤務医」とあり、「今日は当直」、「学会の発表準備」など、それらしい内容の投稿が目についた。忙しい診療の合間に、子どものお受験の手伝いや株の売買の話も出てくる。
 そういう仕事も生活も充実しているはずのドクターが、リツイートしているのは中国や韓国へのむき出しの「ヘイト」や、リベラルな言論人やメディアを口汚く罵る「ネトウヨ」の発言ばかりだった。また本人もときどき、安倍政権や安保法制への熱い支持をつぶやき、中国韓国への嘲笑をツイートしている。(『がちナショナリズム――「愛国者」たちの不安の正体』香山リカ 2015年)

 香山によれば、いわゆる「ネトウヨ」と言われる連中は、定職もなく経済的にも困窮している人びとだと言われることが多かったが、実際は違うという。評論家の古谷経衡の調査では、「ネトウヨ」の中心は「低学歴ニート」ではなく、「大都市在住の30代~40代のミドルクラス」であり、香山の見るところ、高所得高学歴の層にも一部に広がっているらしい。
 「香山リカ」はペンネームである。「香山リカは在日」という話が、以前からあちこちで囁かれていたが、2014年秋ごろから具体的な名前を挙げて、「これが香山リカの正体だ」などとするツイートが、千、二千とリツイート(拡散)されるようになった。その名前の女性医師は実在していたから、香山は看過できなくなり、他人を巻き込むことは止めるようにとツイッターを拡散する人に注意した。しかしそれは、火に油を注ぐ結果となり、「じゃ、本名は何か言ってみろよ」、「言えない?在日確定」といった返答が、何十人もの人間から届いた。
 ヘイトスピーチ・デモに抗議活動している人が香山に、以前なら自分の国籍をわざわざ明らかにする必要などなかっただろうが、日本人の一人としてヘイトスピーチに抗議するという意味で、一度日本人だと名のったらどうか、と助言した。香山は「なるほど」と思い、「北海道生まれの日本人」だとツイッターで簡単に出自を語った。
 ところが効果はなかった。「北海道の前に親はどこにいたんだよ?半島だろ」、「戸籍謄本の写真をアップしてみろ」、「出せないのはウソだからですね」などと、反発のツイートが出るだけで、「香山は在日。本名はこれ」というツイートが消えることはなかった。
 《彼らにとっては、もはや何が事実かさえ、どうでもよいのだろう。/(中略)彼らにとって大事なのは、「そうか、やっぱり!」「許せない!」と共感や怒りをいかに共有させることができるか、それだけなのである。自分が発信したツイートの価値はリツイートの回数の多さだけで決まり、それが事実か否か、正確かどうかは問われないのだ。》

 

▼筆者はツイッターやフェイスブックをやらない。やればそれなりに面白いこともあるだろうし、「なるほど」と感心する秀逸な「つぶやき」に出逢うこともあるだろうが、不愉快な書き込みを目にすることも多いだろう。秀逸なつぶやきに出逢うのは、川で砂金を掬いとるよりも難しいのではないか。けっこう多忙で充実している日々の時間を、砂金とりのために割く気にはならないというのが、筆者がそれらに手を染めない理由の一つである。
 筆者のインターネットの利用は、知人とのメールでの連絡とメールマガジンを読むこと、ネットによる調べものや買い物、自分のブログやホームページの管理・更新、責任者をしている囲碁サークルのホームページの管理・更新といったところである。メールマガジンは、読みたい記事がある場合、有料のWEBRONZAを読むこともあるが、通常は無料の「日経ビジネス・オンライン」と「東洋経済オンライン」を読んでいる。

 「日経ビジネス・オンライン」にときどき、田原総一朗の「政財界『ここだけの話』」という文章が載る。文章の最後に、読者が「参考になったかどうか」を回答し、コメントできる欄が設けられている。筆者は最近そのコメントの一部を読んで驚かされ、香山リカの本の内容を思い出したというのが、今回のブログを書き始めるきっかけだった。筆者が何に驚かされたのか、それがどのように日本社会の変化を体現しているのか、を少し考えてみたいと思う。

 

▼コメントの紹介の前に、まず田原の文章を紹介しなければならない。たとえば3月2日の「日経ビジネス・オンライン」には、「『朝日新聞叩き』はなぜ受けるのか」という400字詰めで8~9枚ほどの田原の文章が載っている。 

 最近一部の雑誌の「朝日新聞叩き」が目立つ、とその例を紹介しながら、田原は言う。《僕は、マスメディアというものは、基本的には国家権力に対する監視役だと考えている。国家が誤った判断をしたり、行き過ぎたことをしたりした場合、批判をして社会に問いかけるのである。/そういう意味では、朝日新聞や毎日新聞が、国家権力、つまり安倍政権を厳しく監視し、行き過ぎや誤りを批判するのは、ごく当たり前のことである。本来のジャーナリズムの在るべき姿だ。》
 では「朝日叩き」は、なぜ売れるのか。田原は、朝日新聞の日本国憲法擁護の姿勢が批判のやり玉に挙げられていることを、指摘する。しかし田原は、宮澤喜一元首相や高坂正堯が彼に語った言葉を紹介しながら、現行憲法が果たした機能を説明する。
 宮沢元首相は語った。「日本人は、自分の身体に合った洋服を作るのは下手だ。しかし、押し付けられた洋服に身体を合わせるのはうまい」。「押し付けられた洋服」とは日本国憲法の草案である。日本はそれを逆手にとって、ベトナム戦争からイラク戦争に至るアメリカの戦争に巻き込まれることを免れてきた。

 高坂正堯は、「憲法と自衛隊は矛盾しているが、矛盾しながらも拮抗している。憲法を自衛隊に合わせるのでもなく、自衛隊を憲法に合わせるでもなく、矛盾をそのまま保持することが重要ではないか」と言った。池田首相以降安倍首相以前の首相は、「高坂理論」を支持してきた。しかし徐々に時代の流れで、その考え方に耐えられない人が増えてきた。《戦争を知らない世代が、「矛盾をはっきりさせろ」と否定的にとらえ始めたのである。》「朝日叩き」は、「高坂理論」を支持する朝日新聞に対する、戦争を知らない世代の反発だと、田原は考える。
 近年、北朝鮮問題、尖閣諸島、竹島の問題が騒がしくなり、日本は毅然とした対応をとれるように、体制を整備するべきだという声が強まっている。それは一理あるが、自分は戦争を知る最後の世代として、戦争につながる可能性は少しでも排除したい。日本ではいま反中国感情が強いが、中国、米国という二大国と強固な友好関係を築くようにするべきだ。
 日本の世論は、危険な方向に進んでいるように思えてならない。あるウェブニュースの編集長と話す機会があったが、彼が「日本を肯定する記事、中韓を批判する記事は読まれやすい」と話していたのが印象的だった。社会全体から、自分と異なる意見を受け入れる余裕が失われつつあると感じる。格差社会が人びとから寛容な気持ちを奪い、民衆はより過激な意見に流されやすくなっている。―――

 

(つづく)

▼特別に優れた意見というわけではない。しかし、古臭くてつまらない主張、というわけでもない。田原の発言を光らせているのは、彼が直接接触した宮沢喜一や高坂正堯の言葉を紹介している点だろう。
 政治家は「たとえ話」を巧みに操る人種だが、宮沢喜一の「日本人は、自分の身体に合った洋服を作るのは下手だ。しかし、押し付けられた洋服に身体を合わせるのはうまい」という発言は、なかなか味わい深い。この発言の意味するところは、日本人の政治分野の行動に限られるのではなく、欧米から知識や技術を輸入し、それを自家薬籠中の物にしてきた日本近代の歴史、「日本文化論」にまで及んでいる、と言えるかもしれない。
 高坂正堯の言葉も、憲法9条をめぐる戦後の日本人の意識を説明するものとして、わかりやすい。高坂自身は田原の言うように、憲法9条の改正・非改正の得失を考え、改正に賛成でなかったが、晩年は、改正の必要性の方に傾いていたと筆者は考えている。日本人の多くが、自衛隊に守られつつ憲法9条護持を唱える居心地の良さに安住していることに、高坂が失望し危機感を懐いた結果だと思われるが、その問題は本論を離れるのでここでは触れない。
 「朝日新聞叩き」が盛んに行われる原因について、田原は「安全保障」をめぐる考え方の違いだけを挙げているが、ここはいろいろ議論があるところだろう。しかし、田原の文章全体は穏当なもので、感情的に反発されたり敵意を持たれたりするようなものではない。筆者はそのように読んだ。

 

▼田原の文章のあとに、「読者の皆様からのフィードバック」というページがあり、「この記事は参考になりましたか」という「日経ビジネス」社からの質問が載っている。「とても参考になった」「まあ参考になった」「参考にならなかった」の中から、三者択一を求めるものだが、「とても」が17%、「まあ」が4%、「参考にならなかった」が78%という結果だった。
  コメント欄に寄せられた「コメント」は119通というかなりの数で、その中身は圧倒的に田原への批判が多かった。それが読者の感想の正確な分布を示しているのか、それとも批判的に読んだ人間はモノ言う必要を感じてコメントを寄せ、田原の主張に賛成の人間はコメントを書く必要を感じなかった、ということなのかは分からない。
 いずれにしても、前回紹介した田原の発言に異論を唱える人間がこれほど多いことは、筆者にとって驚きだった。
 以下、「コメント」をいくつか紹介する。(文章には手を加えていないが、不要部分をかなり大幅に省略し、改行も基本的に省略した。) 

 《朝日新聞を叩く記事が支持される理由は簡単です。朝日新聞は捏造記事を書いて一大キャンペーンを行い日本を亡国へと導いた犯罪組織です。実在しない「従軍慰安婦」を声高に叫び、韓国をモンスター国家にしてしまいました。従軍慰安婦関連記事を全て取り消し謝罪しましたが、朝日新聞は自分が犯した罪を償おうとはしません。だから叩かれるのです。(中略) 今の若い人が新聞を読まないのは新聞記事が信用できないからです。田原さんも同様に信用されていません。一年以上ここにコラムを持って記事を掲載されていますが読者コメントを読めば自分がどのように理解されているのか解るハズです。もういい加減に左翼ファンタジーの世界に生きるのをお止めになったらいかがでしょうか?》 

 《いちいち反論するのが馬鹿らしくなるほどレベルの低い床屋談義だった。一つだけ言っておくと、田原氏は「日本は、中国と米国と強い友好関係を保つことができれば安全なのだ」と述べているが、米国はともかく中国という国がどのような国か全く分かっていないのではないか?あの国が尖閣さらには沖縄を欲しがっていることは、さすがにご存じだろうが、さまざまな情報を総合すれば、日本列島全てを欲しがっていると判断するのが妥当だろう。》 

 《いつまでも聴衆をバカにしないでほしい。フェイクニュースを流し続ける、過去のマスコミは見限られています。》 

 《老害がほざいている。戦争はしないに越したことはないが、隣国で軍備強化や核ミサイル開発などが行われている現状で自衛隊の扱いを「曖昧な儘で良い」とか言っている。脅威がかってないほど迫りつつあるのに、準備せず今のままで良いとか、頭おかしいよ。》 

 《権力への監視は当然必要だが、嘘を報道してよいということにはならない。間違いを認めない権威主義が国民に嫌われている証拠ではないですか?》 

 《自分の非を認めないことと、自分は偉いんだ、愚民を教育するんだという上から目線だから朝日新聞と田原は叩かれる。これが解ってないから不思議だ。
 昭和20年に田原は何歳だったの?戦争を知る最後の世代だと?朝日と田原が叩かれる理由に、嘘を平気でいう事も付け加えるよ。》 

 《田原氏の記事の前提には、「朝日新聞の報道内容は正しい」ということがあるように感じる。安倍首相の答弁にもあったように、朝日の誤報あるいは捏造はいろいろな実例がある。例えば、カメラマンが自分でサンゴに傷をつけた問題、慰安婦報道の吉田証言、原発事故の吉田調書の問題など。ジャーナリズムが政権の監視や批判することは当たり前であるが、その際に自社のイデオロギーを優先して誤報や捏造を行って良いはずはない。》

 

▼上に紹介したコメントは、掲載順に全体の五分の一ほどの中から抽出したものである。
  筆者は、朝日新聞批判や田原総一朗批判の「コメント」の言葉に、「若い世代の自己主張」という側面があるように受け止めたが、おそらく間違いではないだろう。それは田原が、「僕は戦争を知る最後の世代として、日本が戦争に巻き込まれることは絶対にあってはならないと考えている」と語ったのに対し、「戦争を知る最後の世代」という言葉に異様にこだわる様子からもうかがえる。 

 《終戦時10歳そこそこの人間が「戦争を知る世代」を代表するかのように発言するのは本当にやめてほしい。あなたは戦争も知らないし未来に責任も取らない世代です。》 

 《昭和9年生まれの人が戦争の何を知っていたのかと。「僕は戦争を知る最後の世代」を錦の御旗にして、若い奴は知らないと有利なポジションを取って偉そうに話しても説得力がまったくない。それをいい加減気がついてほしい。》 

 《終戦時にせいぜい12歳だったガキが、何を知っているんでしょうか。もう、このフレーズを使うのはやめておいたほうがいいのでは?》 

 若い世代が上の世代に自己主張をぶつけ反発するのは、自然であり健康なことでもあるが、反面、危うさも当然はらんでいる。経験が狭く、多様な視点からものごとを吟味し判断することが難しいから、周囲の意見に影響されやすい。つまり「洗脳」されやすいのだ。
 朝日新聞は捏造記事を書いた、嘘を報道した、フェイクニュースを流し続ける、それでいて自分の非を認めない、と彼らは一様に非難する。その証拠として挙げるのは、いつも決まって「カメラマンが自分でサンゴに傷をつけた問題、慰安婦報道の吉田証言、原発事故の吉田調書の問題」である。しかし80年代から90年代初めにかけて吉田清治のつくり話を、朝日だけでなく読売も産経も事実として紙面に取り上げていたことを、彼らは知らないらしい。

 誤報あるいはウソの報道として記憶に新しいのは、昨年12月に沖縄で起きた交通事故で、アメリカ海兵隊の曹長が日本人を救助中に後続車にはねられ重体になった、と産経新聞が報じたニュースである。産経新聞は、地元紙である琉球新報と沖縄タイムスがこの「真実」を報道しないことを非難し、「報道機関を名乗る資格はない。日本人として恥だ」とも書いた。
 しかし記事の「事実」に疑問が出され、産経新聞は再取材をした結果、今年の2月8日の紙面で記事の削除とお詫びを行った。琉球新報は、「率直にわびた姿勢には敬意を表します」、沖縄タイムスは「報道機関として評価します」というコメントを発表した。
 誤報はどうしても起こりうる。原発事故当時の状況を語った「吉田調書」をスクープした朝日新聞が、妙に角度を利かせた読み方をし、実態と異なる情景を描き出したのは、特ダネの功を焦ったためだろう。
 産経新聞が事実無根の誤報を流したのは、若い記者の取材力不足だけでなく、「自社のイデオロギー」に寄りかかりすぎた面もあるだろう。
 だが、誤報が問題になること自体は、マスメディアの創り出す言論空間の健全性を示しているといえる。ネット空間では、マスメディアに求められるほどの真剣さと厳密さで、「誤報」やニセ情報が問題にされることはないからだ。

 

(つづく)

▼前回のブログが、尻切れトンボで終ったので、少し補足する。
 朝日新聞のカメラマンが自分で沖縄県西表島のサンゴに傷をつけ、日本人の公徳心の無さを非難する記事と写真を載せた事件は、文字通り自作自演の「捏造」事件として社会に衝撃を与えた。だが、「サンゴ」や「吉田清治」や「吉田調書」など、過去の過ちを鬼の首を取ったかのように数え上げ、だから朝日新聞はウソばかり書いている、マスメディアは信用できない、と誇張するとすれば、それはより大きな過ちを犯すことになる。 

 《田原さんてこんな世間知らずだったのかと驚いています。朝日叩きが好まれるのは、慰安婦記事が捏造であったということをきっちり世界に発信しないばかりか、反政府親朝鮮寄りの報道姿勢を改めようとしないからでしょう。いつの間にか論点をすり替え特定アジア3国(中韓北)と仲良くしなければならないって、今の時勢こんな馬鹿な事主張していると、田原氏も朝日と同類と理解されますよ。もう少しネットに書き込まれている朝日叩きの文面を参考にされてはどうですか。まるで情報源が新聞TVしかない老人そのものです。》 

 《SNSの発達で、色々な情報が得られる。今まで信じていた新聞・テレビがこれほど嘘で塗り固められていたか。国会中継の内容と報道内容を比較すればよく分かる。田原さんの劣化を感じる。》 

 《朝日や追随する一部マスコミのウソは、もうバレバレ。権力批判というけれど、正常な選挙で選ばれた立法府と戦うと言うのは、選んだ国民に喧嘩を吹っかけていることになる。新聞などのマスコミは、「事実」を知らせるだけが役割と初心に帰るべきなのですよ。》 

 大袈裟な、極端な表現を使うのは、文章を書きなれない人に見られる特徴の一つである。「新聞・テレビがこれほど嘘で塗り固められていたか」、「フェイクニュースを流し続ける過去のマスコミ」といった誇張された表現をネット上で交換し合ううちに、いつしか自分でそう思い込むようになるらしい。だが情報源としてネットの価値を信じる彼らは、ネットの膨大な情報の山から、自分がどうしてゴミと「事実」を選り分けられるという自信を持てるのだろうか。
 田原へのコメントの中で多く語られていたのは、「中国の脅威」の認識だった。「中国の脅威」の問題や、日本の外交・安全保障の問題は、もちろん論じるべき重要なテーマである。しかし議論の前提とするべきは客観的で正確な「事実」であり、マスメディアへの不信で凝り固まった人びとは、議論する資格を初めから欠いているというべきではないのか。
  マスメディアの報じる個々のニュースには、信憑性に疑問符がつくものもあるかもしれないし、ニュースへの「識者」の論評については、異論をはさみたくなるものは多いかもしれない。だが現在の日本でマスメディアの提供する事実を基礎に置かずに、世界を論じ判断することなど不可能なことは、あらためて言うまでもない。

 

▼なぜ「彼ら」はネット情報を偏愛し、マスメディアへ強い不信感を持つのか、古谷経衡(つねひら)という若い人の説明を紹介する。(『ネット右翼の終わり』古谷経衡 2015年)
 古谷は「彼ら」を「ネット右翼」と呼ぶ。彼は「ネット右翼」に当てはまる「7原則」を示しているが、そのうちの必須の3原則は、①嫌韓嫌中の感情が旺盛なこと、②在日コリアンにネガティブな感情を持っていること、③既存の大手マスメディア(産経新聞は除く)は韓国、中国、在日コリアンに融和的であると考え、激しい嫌悪感、敵愾心を懐いていること、である。

「ネット右翼」が生まれたきっかけは、2002年のサッカーのワールドカップだった。日韓共催だったこの大会で、韓国はベスト4になったのだが(日本はベスト16)、韓国のラフプレーや「疑惑の誤審」、応援に見られるナショナリズムの異様な高揚を目にし、強い違和感を持った人々がいた。しかし日本のマスメディアは、彼らの違和感や疑問に答えるような報道を何もしなかったので、彼らは不満のはけ口をネット空間に求め、「2ちゃんねる」などの掲示板は、韓国への嫌悪感や日本のマスメディアへの不満や批判で埋まった。
 一方、古谷は、産経新聞社の雑誌『正論』や「自民党清話会」系が代表する従来の右派イデオロギーを、一括して「保守」と呼ぶ。2004年に開局したCS放送局「日本文化チャンネル桜」は、「保守」系言論人に発言する場を与え、そして2007年からは、放送で放映した番組を動画投稿サイト「YouTube」と「ニコニコ動画」に転載するようになった。ネットに自閉していた「ネット右翼」は、インターネット動画を介して保守論壇の濃いエッセンスに触れるようになった。
 「保守」系言論人にとって、5万、10万という動画の再生回数や無数のコメントは、驚天動地のものだったに違いない、と古谷は見る。「保守」側は、「ネット右翼」に自派のイデオロギーが広がることを歓迎してその問題点には目をつぶり、「ネット右翼」の側は、「保守」という権威から承認されることで、既存のマスメディアから黙殺されてきた自身の承認欲求を満たした。つまり「ネット右翼」は、保守イデオロギーを注入されることで、「後期ネット右翼」に進化した、と古谷は言う。

古谷の言う「ネット右翼原則」の残りは、④先の戦争を肯定的にとらえ、いわゆる「東京裁判史観」を否定すること、⑤首相や大臣の靖国神社参拝支持、⑥外交、安全保障政策でタカ派的価値観を持つこと、⑦安倍晋三政権を支持、である。④~⑦が、「保守」イデオロギーとの接触により加わったものであることは、容易に見て取れる。
 しかし「狭義のネット右翼」も残った。彼らは「保守」派の書いた書物など読まず、そのヘッドライン(見出し)だけを自分好みに解釈し、検証も咀嚼もないままネット空間で拡散する。動画サイトやツイッターなどネット情報だけを情報源に、韓国、中国、在日コリアンへの激しい「ヘイト」の感情をネット空間に叩きつけ、一部の人間は街頭に出て「ヘイト」を叫ぶ。

 

▼古谷経衡は「狭義のネット右翼」を観察していて、彼らの多くに共通して使用される奇妙な言葉があることに気づく。それは「(愛国心に)目覚めた」「覚醒した」という言葉なのだが、古谷はネット上で何千回と目にし、実際の会話の中でも何百回と耳にしてきた。
 彼らは、ネットで知った「歴史の真実」や「日本社会の真実」に依拠して「ヘイト」感情を昂ぶらせ、拡散するのだが、その「歴史の真実」や「日本社会の真実」は、学校教育で触れられず空白のまま残されていた部分に入り込んだものだ。彼らは、《近現代史の知識にはほとんど白紙の状態で所謂「ネットの真実」に遭遇し、まるで「生まれたてのひよこが初めて見た動く物体を親だと信じるように」、刷り込み現象にも似た「知の覚醒」に震えるのである。》
 大きな悪意によって「真実」が遮蔽されており、その悪意の謀略から覚醒したということが、彼らのその体験の核にあるものだろう。古谷は、「韓国の工作員にNHKが乗っ取られています」という趣旨のビラを新宿や渋谷の街頭で配っていた、40代の「ネット右翼」の女性に出逢った体験を書いている。女性は必死の形相で通行人にビラを手渡しながら、「気づいてください」と叫んでいたという。

 香山リカは、自分にツイッターで「在日はさっさと帰れ!」といったメッセージを送ってきた人間のプロフィールをチェックしてみたら、次のような言葉が並んでいたと書いている。(『がちナショナリズム』2015年)
 「私は日本を愛する普通の日本人です」「日本に生まれて良かった!子供たちが安心して住める国にしたい。子育てに追われる普通の日本人ママです」「朝日新聞と反日サヨク大嫌いの普通の日本の若者です」「日本大好き、ネコを愛する普通のオッサン日本人です」。
 彼ら「普通の日本人」も、過去のいつかどこかで「覚醒」を体験した人々のうちの一人なのだろう。 

 古谷は「狭義のネット右翼」について、30代~50代の中年層で経済的余裕もあり、ブルーカラーや失業者、無業者はきわめて少ない、と分析している。《彼らは一定の学力を持ち、また往々にして四大卒者などの割合は決して低くなく、むしろ全般的に大卒者が高い傾向にある》。
 しかし「一定の学力を持つ者」が、なぜトンデモ情報や陰謀史観にたやすく取り憑かれるのだろうか。日本の学校教育とは、それほど無力なものなのだろうか。

 

(つづく)

▼古谷経衡の言う「ネット右翼原則」の番目は、安倍晋三政権支持である。前回紹介した「コメント」の中にも、「権力批判というけれど、正常な選挙で選ばれた立法府と戦うと言うのは、選んだ国民に喧嘩を吹っかけていることになる」という、奇妙なマスメディア批判があったが、これはこの投稿者に限られるものではないようだ。
  香山リカは、自分がツイッターで安倍首相や政権に批判的な発言をしたとき、「目を疑うような」抗議が殺到した体験について書いている。(『がちナショナリズム』2015年)
 「安倍氏にも人権があるのですよ。首相へのヘイトスピーチやめてもらえませんか」「何様だと思ってるんだよ」「仮にも一国の首相を批判するとは、日本人として不謹慎だと思わないの」「失礼極まりない言い方。最低の礼儀も知らないんですね」「向こうはお前なんかよりずっと上。わかった?」「精神科医が政治を語るのは医師法違反だ」「そんなに日本が嫌いなら出て行ってはいかがですか」。
  批判した内容ではなく、安倍首相や政権を批判すること自体がけしからんという反応に出くわして、ひとは香山ならずとも絶句し、呆然とするのではないだろうか。
  その「絶句」や「呆然」の意味するのは、ばかばかしいほどの事実の誤りや非論理を堂々と主張されたときに体験する驚きや戸惑いとも共通の、言葉や理性に対する無力感のようなものである。

 

▼筆者はこのブログで、今年の1月から2月にかけて立花隆の著書『論駁』を取り上げ、ロッキード裁判の批判者たちが撒き散らしたデタラメについて、彼がいかに「論駁」したかを(そのごく一部を)紹介した。そのとき紹介できなかった一つの挿話がある。

《……批判者側はデタラメをならべるだけでよい。しかし反論者はデタラメでは反論できない。(中略)……相手の議論のどこに弱点があり、どこをどう突けばそれが崩れるかを発見するのは容易なことではない。相手もそれ相応の論客であるから、いちおう表面的にはもっともらしい議論として組み立てられているのである。どこかおかしい、何か間違っているということはすぐに感じるのだが、相手の誤りの核心部分を取り出して、それがなぜ間違いであるかを一般読者にわかりやすく解説するというのは、そうたやすい仕事ではない。》

そうしたとき、立花は面識のなかった京都大学の哲学者・上山春平から、突然励ましの手紙をもらう。

手紙には、「私は、今日における哲学の存在理由を『批判』に求めているのですが、その批判を、最も今日的に、しかも古典的に実践されている御姿に、感銘を受けています」という一節があった。立花はそれを読んで、「我が意を得たりと思い何より嬉しかった」と書いている。(『論駁』Ⅲ あとがき)

「批判」は、言葉や理性に対する信頼の上に成り立つ。事実関係や論理の違いの生ずる原因を考え、辛抱強く違いを正していくなら、自分と論争相手は正しい結論に至るだろうという暗黙の了解が、健康な言論の成立する場である。思想や信条の違いはあるとしても、お互いに共通の土俵の上にあるという相互の信頼感がなければ、言葉による「批判」は意味を失う。
 「朝日新聞叩き」の問題点を一言でいえば、それが「批判」ではないことである。それは一方的に自分の主張を声高に叫び、気に入らない「朝日」をあざけり揶揄し、鬱憤を発散するとともに、相手を「黙らせる」効果を期待した野蛮な行為にすぎない。

 

▼田原総一朗の「『朝日新聞叩き』はなぜ受けるのか」に対するコメントに、話を戻す。少数ながら、田原の主張に賛成するコメントや、田原批判のコメントを批判するコメントもあったので、紹介しておこう。 

 《反対意見に不寛容な世の中になってきた、というのは、本当にそうだと思う。ここのコメント欄がよい例ですね。激しく排斥する表現をすることが、ネット社会では「映える」のだと勘違いしがちだからでしょうね。意見・議論の中身と、聞く耳が大事なのに。》 

 《終戦時に10歳ぐらいの子供だった田原氏に戦争の何がわかる、という趣旨の書き込みを見てビックリした。戦争体験というものを戦場での戦闘行為だけだと考えているのだろうか?……先日、長崎原爆後に撮影された、死んだ兄弟を背負って焼き場の順番を待っていた、やはり10歳ぐらいの男の子の写真が話題になったが、それでもこの世代に、戦争経験がないと言えるのだろうか?朝日新聞がどうこうより、こんな認識の人がいることに驚いている。……そういう状況にならないために、抑止力として戦力を持つ必要もあるだろう。しかしながら、田原氏の意見が自分と合わず批判するにしても、あまりにもその批判の前提がお粗末で危なっかしいのが気になる。》 

 《……ある一つのメディアだけが悪いのか。他は絶対的に正しいのか。それを信じている自分は絶対的に正しいのか。強すぎる正義をふりかざす主張に自分を振り返る余裕がみえない。とコメントをみてめまいがしました。(私は祖父が少佐で戦死した純日本人です)》 

《新聞を読まずネットに頼るからそうなるのだとする田原氏の論には首をかしげるが、確かに世論が硬直化しているとは感じる。清濁併せ呑む度量を失っているというべきか。(中略)これから先も、米中ロのあいだでつかず離れず、したたかに国益を拾うという難しい国家運営を強いられるのに、国民の間から聞こえてくるのは中国悪玉論、(意地の悪い言い方をすれば「米国に中国をやっつけてもらおう」という他力本願まる出しの願望論)ばかり。矛盾に耐えられず、はっきりした解決に飛びつくのは、知的態度として幼稚だ。憲法や米中ロ関係においても、矛盾に耐え、明快さに飛びつかず、あえて言うなら悪辣に、国益を守ろうとする世論を醸成すべきだと感じる。》 

 繰り返すが、これらのコメントはごく少数派である。次のコメントは、「朝日新聞」の論調や田原の主張に異議を表明しながら、「ネット右翼」にも同調しないほとんど唯一の例だった。

 《……私は高坂先生の教えを受けたものですが、高坂先生は、憲法と自衛隊との関係を、とりあえずは宙ぶらりんのバランスを取りながら、チャンスが来れば正統な憲法に変えることを主張されていました。決して、現状のような怪しい護憲論者ではありません。田原氏は、理想主義、保守主義をベースにした現実主義者である高坂先生の”片言”を誤って解釈されたのではないかと思います。/日本国憲法は、今や70年間神棚に祭り上げられ、埃のかぶった「不磨の大典」となり、国際情勢に全く対応できなくなるのではないでしょうか。戦争体験の有り無しが日本人の価値を決めるものではなく、日本人としての誠実さ、道徳、人間性が決めるものだと考えます。若い世代の知恵に期待したいと思います。》

 

▼さて本稿を締めくくるにあたって、筆者自身の考えを記しておくべきであろう。筆者はいわゆる「ヘイトスピーチ」を嫌悪し、おぞましいと感じることでは人後に落ちないと思うが、それは理屈によるものではない。みっともないことはするな、恥ずかしいマネはするな、という自分の奥深く刷り込まれた「戒律」に、それがひどく抵触するからである。
 ネット上で匿名をいいことに他人を罵倒し揶揄する連中についても、同様の感情しか湧かない。みっともないマネをして恥じない「愛国者」、恥ずかしいマネをしながら恥ずかしいと自覚できない「正義の人」など、糞くらえとでも言うしかない。
 収入もあり、学歴もそれなりに高く、30代~50代という大人が、なぜトンデモ情報や陰謀論にころりとハマるのか、筆者にはまるで理解できないが、合理的に思考し判断する独立した人格を育てることに、日本の教育が無力だったということなのだろう。
 また、「ネット右翼」に自派のイデオロギーが広がることを歓迎し、その問題点には目をつぶり、「ヘイトスピーチ」を繰り返す団体について「だんまりを決め込んで」きた「保守」系言論人にも、筆者はやはり「恥ずかしくないのか」という嫌悪の感情を懐く。事情をよく知る古谷経衡は、「ヘイト」をなくすには「保守」が「ネット右翼」に毅然としてNOを言い、切り捨てなければいけないと言うのだが、実態は「保守」が「ネット右翼」好みのデタラメ情報を進んで流すようなところまで進行しているらしい。
 たとえば元自衛隊幹部の田母神俊雄がツイッターで、「沖縄県知事翁長氏の娘さんは中国の北京大学に留学後、上海の政府機関で働く中国人男性と結婚。その男性は中国共産党・太子党幹部の子息だそうです。翁長氏の普天間基地の辺野古移転反対もこれだと理解できますね」とつぶやいた(2015/4/19発信)。この「つぶやき」は多くのリツイートを得て瞬く間に広まったが、実は真っ赤な嘘だった。田母神が依拠した「保守」系言論人の動画での発言自体デタラメで、翁長氏の娘は留学も結婚もしていなかった。
 「保守」の言説と「保守」系言論人の劣化は、底がないように見える。 

 日本は「右傾化」しているのだろうか。
 ツイッターで匿名の揶揄や罵声の一斉攻撃にさらされた香山リカは、《(この状況は)あえて名前をつけるとするならば、それはやはりリーダーの声ひとつで誰もが一つの価値観にいっせいになだれ込む「ファシズム」だと言ってよいのではないか》と言う。
 筆者は、「右傾化」や「ファシズム」という、手垢のついた言葉を使うのが良いのかどうか、わからない。しかし若い世代が新しいファッションとして、あるいは彼らなりの使命感を持って、「愛国」を語り、「愛国」を語ろうとしない旧世代や既成のマスメディアを非難するようになったのは、確かなようだ。そして、かって立花隆が健筆をふるったような闊達な批判と反批判の場、言葉と理性に敬意を払う言論の場自体が失われるという恐ろしい状況に、時代が足を踏み入れつつあるようにも見える。
 気づかないうちに、すっかり言論の場の情景が変わってしまったことに、筆者は驚かされた。

 (おわり)


ARCHIVESに戻る