日本海軍の400時間の証言      
                NHKスペシャル取材班


               【ブログ掲載:2018年8月24日~9月7日】



▼日本の旧海軍について、陸軍よりは合理的であり、軍人もリベラルでスマートだった、といったイメージが、漠然と社会にはあるようだ。
 それは、「一億玉砕」を叫んで日本の敗戦を受け入れようとしない陸軍に対して、海軍出身の米内光正や鈴木貫太郎が速やかな停戦を求めて努力した、という史実にも拠っているのだろう。阿川弘之の『山本五十六』『米内光正』『井上成美』の三部作は、そういうイメージが広がるのになにがしかの役割を果たしたかもしれない。
 また、「短期現役士官(短現)」という制度があり、これは大学卒業のエリートたちを法務や経理、医科などの分野の士官として採用し、二年間の勤務のあと予備役に回すというものだった。大学の卒業生たちをエリ-トにふさわしく処遇したことで、戦後日本の各界で活躍した人びとから評価され、海軍人気の理由の一つとなったようである。
  しかし、戦前の「京都学派」の学者たちも海軍シンパだったと聞いたことがあるから、海軍は陸軍より開明的で合理的といったプラスのイメージの形成は、戦後ではなく古くからのものなのかもしれない。 

山本五十六や米内光正、井上成美などいわゆる「条約派」は、「ワシントン海軍軍縮条約」(1922年)や「ロンドン海軍軍縮条約」(1930年)の締結に賛成し、英米と協調路線をとることを主張した。一方、加藤寛治や末次信正らのいわゆる「艦隊派」は、同条約の締結に反対し、ついに政界を巻き込み、「統帥権干犯」騒動を引き起こした。
  海軍内部の対立は、やがて軍令部総長・伏見宮と東郷元帥の威光を利用した人事により、次代を担うはずの「条約派」の幹部が次々と予備役に回され、「艦隊派」の勝利となって終った。しかし「艦隊派」がいかに対米強硬論に立つとしても、軍縮条約への賛否の議論と対米開戦の決断は、まるで次元を異にする問題である。「合理的でリベラルで開明的」なはずの海軍エリートたちは、どのような思考回路から対米開戦を主張し、賛成したのか。開戦にあたって、彼らはどれほど合理的な計算をし、勝利への確信を持っていたのか。
  そういう疑問がぼんやりと、長いあいだ筆者の頭の中にあったが、突き詰めることもなく、強引な陸軍に引きずられ、無理やり戦いに巻き込まれたのだろう、というぐらいに思っていた。対米戦争を積極的に主張した石川信吾などの名前は知っていたが、彼らがどのような根拠からそのような主張をし、それが海軍内でどれほどの支持の広がりを持っていたのか、なにも知らなかった。 

▼海軍軍令部に籍を置いた元海軍参謀たちが、昭和の終わりから平成の初めにかけて集まって「反省会」を開き、議論をテープに残しているという話が、NHKのプロデューサーの耳に入った。彼らは毎月回、原宿の東郷神社の一角にある「水交会」に集まり、テーマを決めて語り合い、テープは、元参謀たちが生きている間は決して表に出さない、という了解の下でとられたものだった。語り合った元参謀たちは、「反省会」のもたれた1980年~1991年当時70歳代から80歳代であり、NHKのプロデューサー氏がテープの存在を知った2006年には、彼らの多くはすでに鬼籍に入っていた。
  NHKは、「NHKスペシャル」というドキュメンタリー番組を不定期に作って放送しているが、このテープを素材に番組を作るためにチームが組まれた。131回分、計400時間という膨大なテープを聞き、関係資料にあたって発言の裏付けを取り、疑問点を質すために関係者を探し、発言者の遺族に会って話を聞いた。こうした作業を2年半にわたって続け、NHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」は、2009年8月に全3回の番組として放送された。第1回「開戦 海軍あって国家なし」、第2回「特攻 やましき沈黙」、第3回「戦犯裁判 第二の戦争」、いずれも1時間の番組だった。
  そして各回の担当ディレクターが、取材の苦労や編集の苦心を加えながら放送内容を書物にまとめたのが、『日本海軍400時間の証言――軍令部・参謀たちが語った敗戦』(2011年)である。その中には筆者が漠然と疑問にしてきた、「海軍はどのように考えて対米開戦に賛成したのか」という問に、答える内容も含まれていた。 

▼対米開戦にいたる具体的経緯を、NHKのディレクター氏が要領よくまとめているので、ここで使わせてもらう。
 《昭和12年、局地的な衝突から始まった中国との戦争は、出口の見えないまま泥沼化していた。昭和15年にはいわゆる「援蒋ルート」を遮断するためにインドシナ北部に進駐、(北部仏印進駐)。翌年には、基地確保のためにインドシナ南部にまで兵を進めたが(南部仏印進駐)、これがさらなる危機を招くことになる。/中国を支援するアメリカは、日本の勢力拡大を阻止しようと、日本に対する石油の輸出を禁じる経済制裁を発動。インドシナのみならず中国からの撤退を求めた。》
  要するに自縄自縛、危機を打開するために打った方策が危機をいっそう増幅し、当時の日本は、軍部を含め、自らつくり出した危機によってがんじがらめになっていた。

開戦に傾いていく海軍側の事情について、開戦時、海軍省兵備局長だった元中将はテープの中で、嶋田海軍大臣が恐れていたのは、陸軍による内乱・クーデタだったと証言している。 「(嶋田大臣は)もし自分が(対米開戦に)反対すれば、陸軍が内乱を起こすというんですよ。」
  同様のことを、開戦時の軍令部参謀の元大佐も、陸軍側と接触していた経験から証言する。日本の大陸政策は正しいと国内世論を統制し、政治家もマスコミもその方向で盛り上がっているのに、もしアメリカの言い分を呑むようなことになれば、内乱は必至だと感じていた、と。
  別の軍令部参謀の元大佐は、軍令部トップの永野修身総長は、陸軍のクーデタにより海軍が陸軍の支配下に置かれる事態を恐れ、開戦を決意したと証言した。
 「内乱を起こすと人数上ですね、海軍は(陸軍に)かなわないから、何か月か後にはですね、(海軍が)鎮定されて、結局そういう連中、右翼の内閣ができてですね、時機を失して、日本として不利な時期に戦争をやらなきゃならぬということになると。そういうことよりも、どうせ戦争をやらなきゃならぬというのならですね、少しでも勝ち目のある間にやるべきだというのが僕(永野総長)の考えだと、こう言われましたね」。 

▼しかし海軍内部には、積極的に対米戦争を志向する考え方があった。海軍内に設置された「第一委員会」が昭和16年6月にまとめた機密報告書である。

 「第一委員会」とは、「国家総力戦準備の完成」のために昭和15年末につくられたタスクフォースで、組織横断的に軍令部と海軍省の課長級4人で構成された。上の機密報告書には、「米()蘭が石油供給を禁じた場合」は「猶予なく武力行使を決意する」こと、「泰仏印に対する軍事的進出は一日も速やかに断行する」こと、「政府及び陸軍に対する態度」としては、「戦争決意の方向に誘導する」ことなどが書かれている。

 「反省会」では、課長クラス(大佐クラス)の委員会でしかない「第一委員会」に、海軍の方針を決定する力はないという発言があった。しかし別の元参謀は、第一委員会の報告書はまともに検討されることなく、上層部に鵜呑みにされたという実情を明かした。永野軍令部総長は、「部課長は非常によく勉強している」と言って、報告書が出たあと強硬意見に変わった。
 《第一委員会に、海軍としての意思を決する権限が与えられていなかったことは確かである。権限がないから、過激なことを言えた、と捉えることもできる。/しかし、「過激な言葉」が軍令部総長の言葉となったとき、その影響力は甚大なものとなった。永野総長はもとより、第一委員会にも、開戦に対する重大な責任があると言わざるを得ない》と、ディレクター氏は書く。 

 「第一委員会」のメンバーの一人の発言を記録したテープが、別のところからディレクター氏の手に入った。録音は「反省会」を20年さかのぼる昭和36年、発言は高田利種元軍務局第一課長。
 その中で高田は、南部仏印進駐でアメリカがあんなに怒るとは思っていなかった、と率直に語っている。泰仏印ならいいだろう、と考えていたが、それは「根拠のない確信」でしかなかった。
 なぜ「第一委員会」は、武力行使の具体的条件まで上げて、戦争の決意を「政府及び陸軍」に迫ったのか。その疑問に高田は、それは「予算獲得の問題」だった、と答えている。「それが国策と決まれば、臨時軍事費がどーんと採れる。好きな準備がどんどんできる。」
  だから過激な方針を打ち出しつつ、しかし本音では、外交で話がまとまることを望んでいたというのである。「本当に日米交渉で妥結したい。戦争しないで片づけたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とかいわれるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあけたところを言えば」。
 高田の発言を裏付けるように、「反省会」でも同じ趣旨のことを、元軍令部参謀が発言している。「アメリカと戦えない」と海軍が言った、というようなことが陸軍の耳に入れば、海軍の予算は削られ、陸軍によこせということになる。そういうことになっては困るので、負けるとか戦えないというようなことは、一切言わない、と。
 予算獲得のために対外強硬論を煽り、いまさらアメリカとは戦えないとは言えない海軍の幕僚たち、部下の主張を検討することなく鵜呑みにする海軍首脳、――歴史は彼らの手により、彼らの希望とは逆の方向へ動いていった。

(つづく)

▼NHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」の第2回のテーマは、「特攻」だった。誰がどのような考えのもとに「特攻」を企画し、誰が「特攻」を命じたのか、参謀たちはそのことを戦後どう考えているのかを明らかにしようと、ディレクターは必死で「反省会」のテープを聞いた。「特攻」についての発言は多くはないが、参加者のあいだで険しい議論が行われていることが分かった。
 海軍特攻作戦の生みの親と言われる大西瀧次郎中将が、マニラに本拠を置く第一航空艦隊司令長官に任命されたのは、昭和19年9月末だった。大西は赴任前に軍令部総長の官舎に行き、総長の及川古志郎、次長の伊藤整一、第一部長の中沢佑と会った。
 大西は、日本の敗色が濃厚であり、航空機は十分になく搭乗員は訓練不足、さらに敵は電波兵器が発達しているので、こちらが攻撃する前に途中で撃墜されてしまう、と現状を説明した。だからこの際、当たり前の空中戦など避け、敵の航空母艦や戦艦に体当たりさせるのが隊員のためでもあると考えているので、承知しておいてほしいと言った。
  4人はしばらく押し黙っていたが、やがて及川総長が、言われることはよくわかった、しかし命令だけはしてくれるな、搭乗員の発意によってやるというのなら、やってくれても宜しいが、と答えた―――。そういう逸話が海軍関係者のあいだで語り継がれ、また防衛庁戦史室の編集した公式の「戦史」にも採用されている。
  「反省会」では、海軍は「特攻」を命令したのか、命令したことはないのかという問題の核心が、ズバリ議論の対象となった。一人の参加者は、海軍が「特攻」を命じたのは明らかだと言い、他の参加者は上の逸話を根拠に反論した。ディレクター氏は、「逸話」の真偽を判断する上で重要な手掛かりとなる別のテープが存在することを知り、それを探し、聞くことができた。 

▼「水交会」は旧海軍のOB組織である。1970年からほぼ毎月、戦史や軍事、外交などのテーマで講演会を開き、内容を会報に載せ、テープも保存していた。1977月に元軍令部第一部長だった中沢佑が「海軍時代の回想」という講演をし、その中で上の逸話を語った。
 4人のうち大西瀧次郎は終戦の翌日に割腹自殺を遂げ、伊藤整一は戦艦大和の艦長として艦とともに沈み、及川古志郎も昭和33年に亡くなっていたから、中沢は「逸話」の唯一の生き証人だった。中沢佑の1時間半ほどの講演が終わり、聴衆の一人が質問に立った。質問者は海兵74期のセノオと名乗り、特攻兵器「桜花」について質問した。
  「桜花」とは、機首に爆弾を装着し、グライダーのように滑走して敵艦に体当たりする「ロケット」である。航続距離が限られているから海軍の陸上攻撃機に積み込み、敵艦近くで発進する仕組みだった。海軍が昭和19年に開発し、翌年の沖縄戦で使用された。
  鹿児島の鹿屋基地を飛び立った陸上攻撃機は、重い「人間爆弾」を抱えて動作が鈍く、途中で次々に撃ち落され、敵艦にたどり着いた「桜花」は少なかった。質問者は、「桜花」という特攻兵器の開発や製造、「桜花」部隊の編成は、海軍で正式の手続きで進められたものではないのか、と問うたのである。
  中沢は、「自分は知らない。実施部隊の手で行われたのではないか」と答えた。新兵器の開発は自分の所管事項ではなく、「桜花」部隊の編成は作戦部長である自分の決裁を受けることなく、各実施部隊の指揮官の判断で行われたことだろうというのである。質問者が、なおも食い下がると、自分の当時の部下で「編成」を担当していた土肥元課長が、今日会場に来ているから、聞いてみればよいと言い、「土肥さん、あなたが編成したのかい?」と発言し、会場は笑いに包まれた。
 テープはここで終っていた。「特攻」の責任は自分にはないと断言した中沢佑は、この5カ月後に亡くなった。 

テープは会場が笑いに包まれたところで終り、ディレクター氏の追求もそこで止まらざるをえなかったが、実はその続きがわかる資料が存在する。会場で質問したセノオ氏が、テープの続きを書き残していたのである。
  デニス・ウォーナーとペギー・ウォーナーの共著『ドキュメント神風』という本がある。昭和57年に妹尾作太男(せのお・さだお)によって翻訳されているが、その「訳者あとがき」に妹尾は書いている。
  《……中沢中将は、「私は知らないが、そこ(訳者の座席の後方)におられる土肥(一夫、海軍中佐)さんが部隊の編制関係を担当しておられたので、お聞きするように」と言われた。土肥中佐は即座に、中沢部長の決裁を得て、同部隊編成についての允裁を仰いだ旨答えられた。》
  中沢作戦部長が「桜花」の特攻部隊の編成に同意していたということは、大西中将の神風特攻隊編成を待つまでもなく、すでに軍令部レベルにおいて、体当たり攻撃が戦術として公式に採用されていた事実を示すものではないか、と妹尾は重ねて質問した。《中沢提督が一〇分間ばかり返答に窮しているのを見かねた旧海軍のある先輩が、「この質問は保留にして、あとで私が中沢さんからの回答を質問者に伝えよう」とのことで、次の質問に移った。》しかしその後も、《なんらの回答も頂けなかった》。 

▼旧海軍はいくつもの「特攻兵器」を開発した。人間爆弾ロケット「桜花」、人間魚雷「回天」、爆弾を積んで体当たりするモーターボート「震洋」。「桜花」隊は昭和19101日に、「回天」隊は同7月に、「震洋」隊は同8月に、それぞれ編成されている。特攻兵器の開発・製造は、当然その以前にさかのぼる。
  新兵器の開発・製造が軍組織の了解なく行われるはずはなく、また部隊の編成は天皇の大権に属し、「允裁」を仰ぐべきものであり、海軍中枢が知らないところで現地部隊の司令官が勝手にできることがらではない。大西司令長官の下で「カミカゼ」が最初に出撃したのは昭和191025日であるが、それ以前に旧海軍は体当たりという戦術を採用することを、組織として正式に決めていたのである。
  大西瀧次郎の赴任前の「逸話」について、それが虚構だという直接の証拠はない。しかし「カミカゼ」は大西の個人的発想であるとし、及川軍令部総長が「体当たりの命令はするな」と発言した点を強調していることで、「逸話」は海軍中枢の責任を免除あるいは軽減する性格のものとなっている。
  だが、知られている他の事実と併せ考えるなら、「カミカゼ」についても他の特攻兵器同様、旧海軍としての組織的な意思決定があり、断ることができない全体的な空気の中で、若者たちの特攻「志願」や「熱望」が行われ、実施された、と考えるのが自然である。 

▼筆者は、ディレクター氏の書き起こすテープの言葉の中で、次の話が強く印象に残った。「反省会」の幹事を務めていた平塚元少佐の話である。平塚元少佐は、ガナルカナル島の北西にあるニュージョージア島の陸戦隊の参謀をやっていたが、その時、ガナルカナル島をめぐって行われる航空戦の日米の取り組みの違いに、衝撃を受けたという。
  日本側には、撃墜されたパイロットを救助するような用意は何もなく、泳ぐ力が残っている兵士たちだけが、なんとか自力で海を泳ぎ、ニュージョージア島にたどり着いていた。一方アメリカ側は、必ず救助の用意があり、潜水艦が待機し、飛行艇も上空に待機し、海に墜ちたパイロットはすべて救い上げていた。
  日本軍のその後の戦闘も、概観するとすべて玉砕作戦である。なんらの支援、救援の手段を施さないにもかかわらず、兵士に「死守」を命じる、つまり「玉砕」を命じている。
  日本海軍の上層部は、「一死報国」という観念に頼りすぎて、人の命を消耗品だとする考えがあったのではないか。だからこそ「特攻」という救いのない作戦を、下からの申し出があったにせよ、簡単に許したのではないか―――。

この平塚元少佐の発言は、「ヒューマニズム」を当然とする戦後の空気の中では、月並みな主張と受け取られるかもしれない。しかし日本軍の優秀な歴戦のパイロットがつぎつぎに戦死し、新しいパイロットの育成が間に合わず、空軍力が圧倒的に低減したことが「特攻」という発想に繋がったことを考えるなら、示唆に富んだ発言と言わねばならない。
  パイロットを大事にし、兵士を大事にする考え方がもう少しあれば、つまり優秀なパイロットや兵士は貴重な資源であり、大切に活用しなければならないという頭が軍の中にもう少しあれば、戦力の維持という面でもずっと有効だったのではないか。
  兵士を消耗品と見なし、その「一死報国」の精神力のみに依存する考え方が、兵站の軽視につながり、日本軍兵士の死因の6割は広義の「餓死」だった(藤原彰)、という悲惨な事態を招いたのだった。

(つづく)

▼「特攻」という出来事をどのように考えるべきなのか、これはなかなか難しい問題である。「特攻」を命じた側に視線を向けるか、それとも「特攻」を命じられた側に視線を向けるかによって、語るべき内容はがらりと変わる。また、困難なその時代を生きた者と生きていない者、その時代にあって当事者となった者と当事者になることを免れた者のあいだにも、越えがたい溝があるようだ。
 NHKのディレクターは放送の「まとめ」の部分で、次のようなコメントを用意した。
 《特攻で亡くなった若者たちは、およそ五千人。その一人ひとりが、どのような気持ちで出撃していったのか、その気持ちを考える時、今、私たちが海軍反省会のテープから学び取るべき教訓は、何よりも、ひとりひとりの「命」にかかわることについては、たとえどんなにやむを得ない事情があろうとも、けっして「やましい沈黙」におちいらないことだと思います。/そのことを、亡くなった特攻隊員たちに誓いたいと思います。》
 いちおう「特攻」を命じた者と命じられた者双方に視線を向けているが、「困難なその時代を生きていない者」の言葉の軽さを感じてしまうのは、あながち筆者の耳が難聴気味であるせいだけではないだろう。 

 前回紹介した元海軍将校の妹尾作太男(せのお・さだお)は、戦後、旧海軍の責任者たちが特攻隊についての責任を大西中将ひとりに負わせ、自らは知らん顔している態度に憤り、公開の席で責任者の一人を問い詰めた。その妹尾自身は、「特攻」生みの親の大西瀧次郎について、どう考えていたのか。『ドキュメント特攻』の「訳者あとがき」には、次の記述がある。
 《大西提督は前線の部隊指揮官として、彼自身が「これは統率の外道だ」と嘆いたものを実施せざるを得ない立場に立たされ、血涙の思いで愛する部下を「十死零生」の特攻に送り出した。戦敗れるや、彼は一言の弁明もせず、責任をとって割腹、介錯を断り、まる半日苦悶のすえ、息を引き取り、散華した部下たちのあとを追った。》
  妹尾は、特攻隊員を送り出した大西を、隊員たちと同じ側に立たせ、同様に冥福を祈っているように見える。大西が「特攻」を命じた責任は明白であり、隊員たちとの境界線をあいまいにすることは許されないはずだが、「切腹による自決」には、命じた人間を特攻隊員たちと同じ「歴史の被害者」としてしまう力が働くのかもしれない。

 「特攻」を論じるのは難しい。論じる者の言葉の力が、時代の巨大な圧力の下にあった隊員たちの「必死」な想いに、対抗することが難しいからであるである。  昭和19年に中年の一兵卒としてフィリピンのミンドロ島に送られた大岡昇平が、特攻隊員について語った言葉を見てみよう。

 《……しかしこれらの障害にも拘らず、出撃数フィリッピンで四〇〇以上、沖縄一九〇〇以上の中で、命中フィリッピンで一一一、沖縄で一三三、ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。/想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。》(『レイテ戦記』1971年)

 この言葉は、平和な時代を生きるNHKのディレクターを驚かすかもしれない。あるいは、「特攻」の問題を懸命に調べ考えてきた自分の受け止め方と大きくズレることに、彼女は呆然とするかもしれない。しかしそのズレとは、大岡や特攻隊員たちが生きた時代と現在という時代の落差であり、自ら戦地で戦った者と戦争を客観的に見ることしかできない者の落差であって、大岡とディレクターの個性や思想の違いではない。 

▼NHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」の第3回のテーマは、「戦犯裁判 第二の戦争」だった。
  海軍省は戦後、「第二復員省」と看板をあらため、軍令部に籍を置いていた半数ほどの職員は、そのまま復員官として勤務することになった。主な仕事は外地からの兵士たちの引き上げ業務だが、そのほかに「東京裁判」のために情報を集め、戦術を練り、証人や証拠資料を用意することも仕事の一部だった。政府官庁が戦争犯罪人を表立って弁護することはできなかったから、東京裁判対策は占領軍の目をかいくぐって行われる秘密の仕事だった。「戦争中の犯罪は裁かれるべきだが、戦犯裁判は戦勝国が敗戦国を一方的に裁く不公平なものであるから、一人でも多く関係者を救うべきだ」というのが彼らの言い分であり、天皇に累を及ぼさないために、海軍省高官の無罪を勝ち取ることが組織目標だった。
  しかし海軍の幹部が戦争法規に違反する「捕虜虐殺」などの命令を出していながら、それを組織的に隠蔽し、無罪を勝ち取ろうとすると、そのしわ寄せは現場に行かざるを得ない。「虐殺」が組織の命令で行われたのでないとするなら、当然、現場の指揮官や兵士などの責任が問われることになる。裁判の過程で、海軍の幹部と現場の指揮官や兵士の主張が対立し、幹部は証拠不十分で責任を免れ、現場の人間だけがBC級戦犯として処刑された例がいくつも生じた。「日本海軍400時間の証言」で語られた事件の中から、その一つを紹介する。

▼「スラバヤ」事件をさばく裁判があった。「スラバヤ」事件とは、昭和20年3月に日本の占領地のインドネシアのスラバヤで発生した、捕虜や住民の処刑事件である。
  スラバヤには第二南遣艦隊が司令部を置き、スラバヤの守備にあたる部隊(第二十一特別根拠地隊)はその指揮下にあった。裁判はオーストラリアが主催して昭和2511月から翌年2月にかけて行われ、捕虜や住民の処刑の責任者として、艦隊司令部の司令官と参謀、そして根拠地隊の司令官と参謀が起訴され、裁かれた。
  艦隊司令部の主張と根拠地隊の主張は、真っ向から対立した。根拠地隊は捕虜と住民を処刑したことは認めたが、それは艦隊司令部からの命令によるのだと主張し、艦隊司令部はそれを否定した。
  判決は、事件を根拠地隊の勝手な行動と認定し、艦隊司令部の司令官以下は無罪、根拠地隊の田中司令官と篠原参謀を絞首刑にするというものだった。しかし篠原参謀を中心とする田中司令官の除名嘆願の結果、司令官は減刑され、篠原参謀一人の処刑が実施された。 

NHKのディレクターは、海軍兵学校名簿で篠原参謀が「篠原多磨夫大佐」であることを確認し、事件の真相を知るためにその家族や親戚を探した。家族は見つからなかったが、甥が収集していた篠原大佐の日記や手紙、検察とのやりとりを復元した尋問記録など、大量の直筆の資料を発見する。ディレクターはさらに、篠原大佐の元部下が高齢だが元気に暮らしていることを知り、長崎県の五島列島へ出かけた。
  元部下は、戦後故郷で事業を営み、長く町議を務めるなど地元の名士となっていた。彼は、篠原大佐が処刑を命じたことを認めたことで、自分たち部下の命は救われたと言い、いつも篠原大佐へ感謝しながら生きて来た、と語った。そして、「私は処刑現場にいました。というより捕虜を殺害したのはこの私です」と言った。
  彼は、所属する警備隊隊長の指名で捕虜の首を切り落とす役目を命じられた。2名のオーストラリア人捕虜とスパイ容疑の現地住民を囲んで百人を超える根拠地隊の兵士が並び、艦隊司令部の法務官が刑の執行を見守っていた。法務官が立ち会っていながら、艦隊司令部が一切命令していないなんてことはありえない、と彼は断言した。
  裁判でも、彼はこのことを証言したという。しかし肝心の法務官が逃亡してしまい、逮捕されなかったために真相は明らかにならなかった。この法務官逃亡の背後には、裁判対策を行っていた「第二復員省」がある、彼らが法務官を組織的に逃亡させたのだ、と彼は語った。

  「スラバヤ」事件がどのようにして発覚するに至ったかについても、ディレクターは調べ、『日本海軍400時間の証言』の中で報告している。
  終戦後、オランダ軍がスラバヤに戻り、日本軍の施設を接収した際、海軍基地内の牢獄の壁に書かれた落書きを発見した。「これを読んだ人は、父に連絡を取り、私がここにいたことを知らせてください」とあった。オランダ兵は遺族に手紙を書き、手紙によって息子の死地を知った家族は、軍に詳細を問い合わせた。GHQの捜査が開始され、その結果、捕虜処刑の事実が発覚したのだという。
  ディレクターはさらに、「逃亡した法務官」が戦後弁護士になり、まだ生きていることを突き止め、また斬首されたオーストラリア人捕虜の遺族にもインタビューするなど、縦横に活動しているが、ここでは省略する。

 よく練られた謎解きドラマよりも、さらにドラマティックな上質の歴史のドラマが、戦後60年以上を経て明らかになった。合計3時間の番組制作に10名近いスタッフをそろえ、1年8か月という長期の準備期間を保証したNHKの力にも驚くが、番組内容は書籍で見るかぎり、十分にそれに応える成果を上げていると言えるだろう。

 

(おわり)

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▼「特攻」問題を取り上げてきた最後に、筆者の小さな感想を述べておきたい。筆者が「特攻」関係の書物を読んでいて目を開かされる思いがしたのは、小沢郁郎の『つらい真実』(1983年)の「まえがき」にある次のような文章だった。

 《……現在五三歳の私は、二十歳の私とは、対局的な地点に立っている。天皇制軍隊への共感など、かけらだにない。/その私が、特攻機突入のテレビ画面には、「当れ!当れ!当ってくれ」と祈っている。まなじりを決して突入する若者今生の最後のねがいが、三〇年余の歳月を一瞬にとびこえて、同世代の私によみがえるのである。が、もし画面の特攻機が見事に命中したとしても、胸をかむかなしさといきどおろしさが減ずることはない。死んだ人たちのかけがえのなさといとおしさ、そして、虚像を信じてあとにつづこうとした自分への屈辱感が、呼びさまされるのである。》

筆者はこれまで特攻機突入の画面を見ていて、「当れ!当ってくれ」と思ったことはなかった。しごく冷静に、あるいは冷淡に、画面を眺めていただけだった。しかし「客観的」に眺めているかぎり、「特攻」問題は理解不能な部分が残る。そういうことをこの文章は教えていた。

 

困難な時代を生きざるをえなかった人間と、生きる必要のない人間の間の

 

《日本は大きなあやまりを二つおかした。その第一はアメリカとの戦争に巻き込まれたことである。第二のあやまりは、絶望的に不利な、勝ち目のない状況にあくまでも固執して、戦争をやめなかったことで、このことほうが第一のあやまりよりも一段と損害を大きくさえした。》

「……その時に私は体当たりということを考えておりませんし、もちろん命令など出したことはありませんので、しばらく4人は静思黙考……」と中沢は思い出しつつ語り、

対米開戦という主張となるのか、論理の飛躍をいくつも重ねなければ理解不能な問題を、

それは戦後の日本人だけでなく、