西部邁

               【ブログ掲載:2018年3月2日~3月9日】

 

▼ひと月ほど前(1/21)、西部邁(にしべ・すすむ)が多摩川で入水して亡くなった。(78歳)。河川敷には遺書が残されていたという。
 西部に師事し40年以上の付き合いとなる佐伯啓思が、追悼文を書いている。

 《予想していたとはいえ、現実となれば大変に寂しい。その死について他人がとやかく言う筋合いではない。余人にはできぬその激しい生き方の延長上にある強い覚悟を持った死であった。》(『朝日新聞』1/25

 また佐伯は、自分の持つ新聞のコラムでも西部の死を取り上げ、《西部さんの最期は、ずっと考えてこられたあげくの自裁死である。彼をこの覚悟へと至らしめたものは、家族に介護上の面倒をかけたくない、という一点が決定的に大きい》と書いた。(『朝日新聞』2/2)。医療技術の進歩や新たな医薬品の開発で、「年老いて体は弱っても容易には死ねない」時代が来ていること、西部の死は、「人はいかに死ねばよいのか」という問いの前に人びとを立たせる、とも述べた。 

▼筆者は西部邁の良い読者ではない。筆者が読んだのはわずかに『蜃気楼の中へ』(1979年)、『大衆への反逆』(1983年)、『生まじめな戯れ』(1984年)ぐらいのものだろう。西部は、自殺の直前まで著作を発表し続け、著作は膨大な量になるが、筆者の読書はそのうちの初期の評論とアメリカ体験記で終っている。
  筆者が西部を読み続けなかったのは、言葉があとからあとから湧き出してくるような彼の硬質で密度の濃い文体に、おそらくなじめなかったからである。また、西部の書くワン・センテンスずつの意味は明瞭なのだが、文章全体として何をどうしようと言いたいのかよくわからない、という不燃焼感も大きかった。西部がときおり示す、人間関係の機微への行き届いた理解には感心したが、長々と続く抽象的な思考に付き合うのは難しかった。 

 西部の主張の基本的構図は、単純である。彼は現在(1980年ごろ)の日本の社会を「高度大衆社会」と呼ぶ。「大衆」とは、西部によれば「懐疑的姿勢を失った人々」の意味であり、大衆社会が「高度」であるとは、政治、経済、文化など社会の全域で、権力が大衆によって掌握されていることを指す。
 《現代の大衆は、自分らの社会を成り立たせている産業主義と民主主義という二様の価値について懐疑することをしない。産業の産物である物質的幸福と民主制の成果である社会的平等とを、いささかも懐疑することなく、ひたすら享受し、やみくもに追及する、それが大衆の姿である。/むろん私とて、産業と民主が引き返しようのない歴史の過程であることは承知している。また、それらが人間の本性に深く根ざした欲求の発現なのだとも考えている。しかし産業と民主が‘’主義‘’にまで高められると、それらの意味内容が低められてしまう。意味を生産し消費して生きるほかないアニマル・シンボリカムつまり象徴的動物としての人間にとって、この意味低下は一種の苦痛である。この苦痛をいいかげんにごまかすべく、より多くの幸福と平等を求めて大衆が疾走する。それが産業と民主という両脚によって走り続ける進歩主義とかいうものの実際ではないか。》(「‘高度大衆社会’批判」『大衆への反逆』所収) 

 西部が「進歩主義」に異を唱え、戦後社会に物質的豊かさをもたらした「産業主義」や、社会的平等を進めた「民主主義」に批判的視線を向けていることは、分かる。しかし日本の社会の現状に「全否定」の言葉を投げかけて、西部はどこへ進もうというのだろうか。
 否定すべき「進歩主義」の対極として、西部は「保守」というあり方を考え、次のように述べている。
 《保守主義の本来の含意は進歩に対する徹底した懐疑ということにあったはずである。(中略)保守的懐疑主義は右翼の党派にありがちな復古主義とも異なっている。不完全な自分たちがかろうじて見つけうる住み処は歴史の大地のなかにしかないと見当をつけた上で、次にその大地の中から保守すべき耐久の足場を、つまり伝統を、いかに発見するかという努力を持続させうるか否かによって、保守における反動主義と懐疑主義が区別される。》(「保守化の意味するもの」『大衆への反逆』所収) 

▼『大衆への反逆』という書名は、説明するまでもなくホセ・オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』のもじりである。上に引用した論文「‘高度大衆社会’批判」は、全面的に『大衆の反逆』に依拠して書かれた内容になっている。
 オルテガ・イ・ガセットは、人間を根本的に分類すれば二つのタイプに分けることができるとして、「自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々」と、「自分に対して何らの特別の要求を持たない人々、自己完成への努力をしない人々」に分けた。そして前者を「貴族」「選ばれた少数者」、後者を「大衆」「平均人」と呼び、これは実体的な社会階級による分類ではなく、精神のありようによる分類だとした。《大衆とは、良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。》

 オルテガ・イ・ガセットは、1883年に衰退の一路をたどるスペインで生まれた。その知的活動の原動力となったのは、「無気力な虚脱状態に低迷しているスペイン人の魂を言葉という鞭で目覚めさせ、再生させ、その生命力を『時代の高さ』にまで高めようとする愛国心と教育者的使命感」(神吉敬三)だった。彼の目指したのは具体的には、社会の自発的エネルギーによって政治、制度、社会組織を「国民化」していくことだった。そうした彼が、1920年代のスペインのみならずヨーロッパ社会を捉え、描き出した「現代社会論」が、『大衆の反逆』(1930年)なのである。
  一方、西部邁の「‘’高度大衆社会‘’批判」は、何なのだろうか。「現代社会論」というには中身が薄すぎるし、「政策論」ではもちろんなく、「人生論」、「修養論」のたぐいでもなさそうである。西部自身は論文の中で次のように述べているが、正直な告白ではないかと思う。
 《……本稿の意図は、現下の大衆社会にたいし日々つのってくる自分の嫌悪・憂うつの気持を、オルテガの激しい表現に仮託して表わしてみることにある。またそれをつうじて、大衆社会の恐ろしさの本体をつかめればと思う。》 

▼西部邁の著作は、「知識人」を「大衆」であることに無自覚な「大衆」として批判するものだったから、強い反発や反批判があったはずだが、筆者はそれらがどのように批評されたか、ほとんど知らない。筆者が読んだ唯一の批評は、西部のアメリカ留学記『蜃気楼の中へ』に対する阿川尚之のものである。それは西部という人間に評者の眼光が届いている、優れた批評だった。
 阿川は、「抽象的な思索の記述がことのほか多い本書のなかで、具体的に描かれるアメリカの情景は、どれもことごとく暗くてうっとうしい」ことを指摘する。そして、西部のアメリカでの体験が不愉快なものにあふれ、彼がアメリカやアメリカ人を嫌うのは、「それが自分とかけ離れたものであるからではなく、むしろ故郷北海道から引きずってきた内なる自己を痛切に思わせるからではないだろうか」と考える。
 《西部は故郷の束縛から、また記憶から、離れようとしてもがいてきたらしい。そのために若いときは左翼へ走り、後に転じて保守思想の担い手となった。しかし左翼にせよ保守にせよ、この人の思想への傾き方そのものに、一種マンチャイルド的な自己中心性や攻撃性がある。伝統だの保守だのとうるさく言って左を攻撃するやり方そのものは、一九六〇年前後に活動した左翼運動家のそれを多分に思い出させる。忘れようとしても忘れられないのが故郷であり、捨てようとしても捨てられないのが思想の内容そのものよりも思想の型なのだろう。/西部にとってアメリカという社会は、自分の故郷の、あるいは自分自身のなかの、いやな部分を赤裸々に思い起こさせるところであった。》(『アメリカが見つかりましたか――戦後篇』2001年)
 この阿川尚之の批評は正鵠を射ているように思う。西部は、「保守主義の本来の含意は進歩に対する徹底した懐疑にある」と言い、現代において「懐疑的姿勢」を保つ大切さを説くのだが、その言葉の内容は正しいとして、なぜ彼は自分の「語り口」には「懐疑」の目を向けようとしなかったのだろう。西部が「保守主義」を生きようとするなら、おそらく彼はもっと穏やかな言葉、穏やかな文体を、身に付けなければならなかったように思う。たとえば次のように。
 「私たちの非常に複雑な近代社会で必要なのは、いつも独断論を疑う心がけを失わず、非常にかけ離れた見解を公平にとりあつかう、自由な心のゆとりをもつ落着いた思索だ」(バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』)

西部には、「自由な心のゆとりをもつ落着いた思索」が欠けているように見える。「この人の思想への傾き方そのものに、一種マンチャイルド的な自己中心性や攻撃性がある」という阿川の批評は、急所を射抜いているのだ。
 阿川自身は「保守」という態度について、次のように語っているが、筆者も賛同する。
 《私にとって「保守」とは、ものごとがうまくいかなくても、こんなもんだと笑っている。はっきりした意見は持つけれど、他人に押し付けない。まずは自分でできることを、泰然として、多少のユーモアをもって、完遂する。群れない。声高に話さない。孤独を恐れない。そうした態度だと思っている。》(『諸君!』2009年6月号) 

▼『烈々豪々人生学』(1988年)という西部邁と加藤尚武の対談本を、前回のブログを書いたあとに読んだ。むかし手に入れたまま、少しも読んでいなかったのを思い出し、取り出したのである。二人は、「大学に入学したころからの友人」で、「ともに学生運動に参加し、同じ刑事法廷に通い、ともにアカデミズムの一隅に職を得て研究者としての人生を選んだ」(加藤尚武)仲である。西部は当時、教授会の騒動で東大教授を辞めたばかりであり、加藤尚武はヘーゲル哲学や倫理学を専門とする千葉大の教授だった。その本の中に、「死」について語りあった部分がある。
 加藤の語るところによれば、日本人はポックリ死にたいというポックリ願望が、非常に強い。しかしアメリカ人の場合は、ポックリ死ぬよりも癌で死にたいという人が多い。それは、「自分でじっくり考えて死にたい人が多い」ということではないか、と加藤は見る。日本人のポックリ願望は、「まず周囲の人に迷惑をかけないということ、それから自分でその苦痛を感じることが少ないということ、死を迎え撃つよりは死の意識を避けたいということなどから生じる」、つまり死というものを、「自分にとっても他人にとっても一番苦痛の少ない形が良い」と考えるからだろう、と加藤は考える。
 だが西部は、自分は「突然の死というものが一番恐い」と言う。「ごく生物的に言うと、あっという間に死んでいたというのは良いとも言えるんだけど、でもそこでぼくの精神なり魂なりが反発して、死を迎えたい、死を見ながら死にたいという感じがある」。
 そして西部は自分の死に方について、次のように考えを披露している。
 《……自分の死を見たいから、ぎりぎりまで自分が枯れていくのを見る。どこが生のぎりぎりかの判別についてはこれから訓練しますが、ともかくぎりぎりのところで青酸カリを自分で飲もうと思うわけです。今あれは販売が禁じられていますけれど、ただ幸いにもぼくの知り合いに金属商とか医者とかがいるから、その人たちに頼んで入手し、ひそかに保管して、最後、死を見つめて青酸カリ自殺をするというのが、ぼくの一番良い死に方なんです。》 

 現代の日本人は、「生き方」はいろいろ選べるが、「死に方」は選べない、ひたすら「ピンピンコロリ」を天に祈るばかり、と考えているようだ。しかし西部は対談の30年後に、「青酸カリ」こそ使わなかったものの、かっての自分の言葉通り自殺を実行し、「死に方」も自分で選べることを示した。「死に方」を選べるということは、ひとの「生き方」が問われると同様、「死に方」も問われるということを意味する。西部が見せた「死に方」あるいは最後の「生き方」は、「年老いて体は弱っても容易に死ねない」これからの時代に、ひとつの参照例として想い起こされるのではないか。 

▼筆者が、これから西部の著作を読むことはあまりないと思うが、彼の最期については、幾度も思い出すことになるのではないだろうか。
 筆者は、西部と同じように自ら命を絶った二人の経済学者・文筆家を想起する。 一人は、戦前の「日本資本主義論争」に労農派の立場で参加し、戦後、トロツキーの研究者に転身した対馬忠行である。対馬は1979年に瀬戸内海航行中のフェリーボートから身を投げて死んだ。78歳だった。桑原武夫はその訃報を聞き、「対馬忠行の死に涙をこぼさないものは、学者のはしくれではない」と言ったという。(鶴見俊輔『期待と回想』1997年) 

もう一人は、マルクス経済学者で九州大学や法政大学で教授を務めた岡崎次郎である。岡崎は亡くなる前に、『マルクスに凭れて六十年――自嘲生涯記』(1983年)という本を書いた。
  岩波版の『資本論』は向坂逸郎訳となっているが、向坂は翻訳が下手で、実質的には大部分を岡崎が翻訳した。岡崎が向坂に、自分の名前を出してほしいと不満を言うと、それには君がもっと偉くなることだ、と言われてしまう。翻訳料が半々という扱いはおかしいと不平を言うと、上と下が一緒に仕事をするときはだいたい下の方がたくさん仕事をするものだと、押し切られてしまった。ここできっぱりと翻訳の協力を拒否できれば格好がついたのだが、自分は「このえげつない言い草をそのまま呑んでしまった」。だが戦後のインフレ昂進の中で、半々の翻訳料が自分の生活を大いに助けることになったのだから、「ますます遣り切れない」。―――そういう挿話が「自嘲」とともに、はばかることなく語られている。
 この本の最後の部分に、次のような記述がある。
 《自分で自分に始末をつけること、これはあらゆる生物の中で人類だけに与えられた特権ではないだろうか。この回想記を書き終わって、余りにも自主的に行動することの少なかったことを痛感する。せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ。なるべく他人に迷惑をかけず、自分もほとんど苦しまずに決着をつける方法の一つとして、鳴門の渦潮に飛び込むなどはどうだろうか、などと考えていたら、往年の友人対馬忠行に先を越されてしまった。同じような人間は同じようなことを考えるものだ。》
  岡崎は『マルクスに凭れて六十年』を出版した翌年、夫人とともに関西方面に旅に出、そのまま行方を絶った。80歳だった。

 

(おわり)

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