沖縄戦における集団自決について

              【ブログ掲載:2017年8月11日~10月6日】

 

▼映画「ハクソー・リッジ」を離れて、沖縄戦について少し考えてみたい。民衆が戦火に追われる悲劇を体験した沖縄だが、なかでもその悲劇を象徴するものとして「集団自決」を捉えるのは、妥当であろう。犠牲者数の大きかった座間味島と渡嘉敷島の「集団自決」を、見ていくことにする。 

 座間味島は、那覇の30km西にある慶良間諸島のうちの一つであり、約100世帯、600人ほどが住む島だった。
  昭和19年9月 日本軍が上陸し、駐屯を開始する。海上挺身基地第一大隊の約900人と海上挺身第一戦隊の約100人である。
  基地第一大隊は守備隊だが、第一戦隊は特攻部隊で、特攻艇100隻を保有していた。これは長さ約5メートルのベニヤ板製のボートに自動車エンジンを取り付けたもので、一人乗りで爆雷2個を搭載し、目標の敵艦の船腹に体当たりさせるというものだった。
  沖縄の日本軍は、慶良間諸島は地形が険しいため航空基地には適せず、米軍が上陸することがあっても、沖縄本島より後のことだろうと考えていた。米軍は本島南部の西海岸から上陸すると予想し、上陸前夜に敵の輸送船団に背後から体当たりさせる、というのが座間味島に特攻艇を配備した理由だった。
  兵士たちは民家に分宿し、陣地の構築作業を進めた。

1010日 米軍は沖縄に大空襲を行った。飛行場、港湾施設、軍施設などが大きな打撃を受け、那覇市内は廃墟となった。座間味島はグラマンに機銃掃射された程度だったが、沖縄本島との連絡船が撃沈され、食糧の輸送が困難になる。

昭和20年1月22日 座間味島、二度目の空襲。港に停泊していた船舶が炎上。

2月16日 基地第一大隊が一部を残して本島に移動。島には基地大隊の残りと特攻部隊、併せて約400人が残った。

3月1日 座間味島、三度目の空襲。

3月23日 空襲。それまでの島の港湾施設に対する小規模な攻撃と違い、初めて部落を空襲し、その後山中に構築された陣地を片端から破壊。山全体が燃え上がった。島民はこの日から防空壕生活を余儀なくされる。

3月24日 午前中からグラマンの大群が現れ、形を残している民家や軍施設を攻撃。島からは一発の反撃もない。夕方になってやっと敵機は去った。 

 〔座間味島の戦争を生き延びた宮城初枝(村役場職員で当時23歳)の書き残した記録が、娘の手で出版されている。(『母の遺したもの』宮城晴美 2000年 高文研)。本稿の記述は主としてそれに拠る。〕

 

▼3月25日 未明から空襲が激しく、島民は壕を出ることは不可能となる。正午ごろから艦砲射撃始まる。夜になり、空襲は止んだが、艦砲射撃は間断なく続く。特攻艇はほとんど破壊され、本島との無線通信も不通となる。家畜類はほとんど爆撃で焼け死んだ。 

宮城初枝は幾度か壕を出て、島を取り囲む米軍の艦艇の様子を見に行くが、途中で助役・宮里盛秀に呼び止められ、ついて来るように言われる。助役、収入役、国民学校長、役場職員・宮平恵達といっしょに5人で、部隊長(梅澤裕大尉)のいる壕に行く。助役は隊長に、「もはや最期の時が来ました」と言い、若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならないよう玉砕させるので、弾薬をくださいと申し出た。

《私はこれを聞いた時、ほんとに息もつまらんばかりに驚きました。重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、垂直に立てた軍刀で体を支えるかのように、つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま、じーっと目を閉じたっきりでした。/私の心が、千々に乱れるのがわかります。明朝、敵が上陸すると、やはり女性は弄ばれたうえで殺されるのかと、私は、最悪の事態を考え、動揺する心を鎮めることができません。やがて沈黙は破れました。/隊長は沈痛な面持ちで「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と、私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引き上げてきました。》

助役は帰途、役場職員・宮平恵達に、伝令をするように命じた。初枝には、「各壕を回ってみんなに忠魂碑の前に集まるように……」という部分が聞こえた。

宮平恵達は「これから玉砕するので忠魂碑前に集まってください」と伝えてまわり、壕に避難していた島民たちはそれぞれ忠魂碑に向かったが、どうしたことか忠魂碑の前には誰もいない。仕方なしにまた引き返す、という事態が生じた。

宮城初枝は助役から、重要書類を忠魂碑前に運ぶよう命じられ、艦砲射撃の続く中を土地台帳を運んだりするが、途中でその仕事をあきらめ、島のなかを一晩中右往左往する。

 

▼この3月25日の夜、「玉砕」つまり「集団自決」は、忠魂碑の前でこそ行われなかったが、実は多くの壕で発生していた。
 助役・宮里盛秀は自分の壕にもどり、子どもたちに晴着を着せ、一家で忠魂碑に向かった。燃え上がる炎と飛んでくる砲弾に脅えながら歩いていると、数メートル先に照明弾が落ち、あたりが昼のように明るくなった。それで、これ以上進むのは危険だと判断し、引き返すことにした。途中で村長や収入役が家族を連れて歩いて来るのに出会い、一緒に農業組合の壕へ行った。
 助役の家族は混乱のなかで二手に分かれてしまい、農業組合の壕に入った者は他の避難者とともに、67人全員がここで「自決」した。壕は米軍によって破壊されたために、どのような自決手段がとられたのかは不明だという。 

 宮城初枝の養父も、家族を連れて忠魂碑に向かった。しかしたどり着いた忠魂碑前には誰もおらず、自分たちだけが取り残されたような恐怖に襲われ、養父は引き返すことにした。しかし艦砲射撃は激しさを増し、養父は近くの知人の壕に避難させてもらうことにしたが、そこにはすでに多くの島民や兵隊が、すし詰め状態で非難していた。ほとんどの島民たちが、羽織・袴の晴れ着姿だった。兵隊が、明日は上陸だから、いざとなったらこれで死になさいと、数人の男性に手榴弾を手渡した。
 あまりのすし詰め状態に、養父の家族は艦砲射撃が一時的に止んだ時に、自分の壕に移動した。夜を徹して歩き回ったため、自分の壕にもどると一家は寝入ってしまった。

 目が覚めると壕の外にアメリカ兵が立ち、全員が着剣した銃を構えていた。養父は恐ろしさに凍りつき、養母は、早く子供たちを殺して、早く、早く、と夫をせかした。養父は子どもの首をロープで絞め、さらに妻と子供たちの喉をカミソリで何度も切り付けた。そして自分の首もカミソリで切った。
 養父とその家族は、瀕死の重傷者として米軍の野戦病院に収容され、子どもの一人が亡くなった他は、一命を取りとめた。

 宮城初枝は翌日(3月26日)、上陸した米軍から逃れて友人たち4人と一緒に移動する途中、日本軍部隊と遭遇する。夜、部隊は敵陣地に斬り込みをかけることになり、生存者は山の上に集合するので、山の上まで弾薬を運ぶよう初枝たちは依頼された。
 明け方になっても集合場所に兵士たちは戻らず、「死にましょう、敵に捕らわれて辱めを受けて殺されるくらいなら」と、自決することがすぐに決まった。5人で円陣を組み、兵隊から自決用に手渡されていた手榴弾を石に叩きつけたが、不発弾で爆発せず、自決に失敗する。

部隊は全滅したわけではなく、初枝はその後再会し、炊事や傷病兵の看護などをして行動を共にする。412日に艦砲射撃の砲弾がすぐ近くで破裂し、大腿部を負傷。417日に投降し、野戦病院に収容された。

 

(つづく)

▼次に渡嘉敷島の「集団自決」について、島民の証言を集めた『沖縄戦「集団自決」を生きる』(森住卓 2009年)や『ある神話の背景』(曽野綾子 1973年)等により、まず事件の簡単なアウトラインを見ることにする。
 曽野綾子の『ある神話の背景』は、「集団自決問題」のある意味で当事者の位置にある書物なのだが、その資料としての検討は後で行うことにして、とりあえず問題のない部分を利用する。 

渡嘉敷島は慶良間諸島の一つで、座間味島の東側に位置する。
 昭和19年9月末、海上挺身第三戦隊約100名(隊長:赤松嘉次大尉)が渡嘉敷島に到着。第三戦隊は特攻艇の部隊だが、これを支援する基地隊等が、すでに島に到着していた。陣地構築や特攻艇の秘匿壕づくり、特攻の訓練などが、日々の日課だった。120キログラムの爆雷2個を積んだ重さ1トンの特攻艇を、秘匿壕から水面へ降ろし、また壕へ引き上げて隠すことは、30人がかりで行っても苦しい作業だった。

1010日 米軍による沖縄本島の大空襲があり、渡嘉敷島も機銃掃射を受けた。

昭和20年2月17日 基地隊の大半が座間味島と同様、沖縄本島の兵員不足を補うために転出。残りの部隊は赤松隊長の指揮下に入る。

3月23日 米軍の激しい空襲が始まり、渡嘉敷島の村落と山は燃え上がった。島民は壕へ避難する。

3月24日 早朝から米軍の艦載機が島を襲う。

3月25日 早朝から空襲。米艦隊が慶良間海峡に入り、艦砲射撃が始まる。夜、赤松隊長は三分の一の特攻艇を水面に降ろし、米艦隊を攻撃することを命ずるが、上部機関との意思疎通がうまくいかず、命令は出撃と中止のあいだで二転三転する。隊員たちは特攻艇を水面に降ろし、また引き揚げる作業に疲れ切り、最後は夜が明け初めるなか、上げ切らずに残っていた六十余隻を自沈させることとなった。

3月26日 日中、空襲と艦砲射撃が続く。夜10時ごろ、陣地にもどった赤松隊長を、村の駐在巡査・安里喜順が訪ねて来て、敵はいつ上陸するのか、どこへ逃げたらいいのか、と聞いた。
 1970年ごろ、住民の体験を聞きだし記録する仕事をしていた星雅彦が、雑誌に書いたところによれば、赤松隊長は次のように言ったという。「島の周囲は敵に占領されているから、誰もどこにも逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難していたほうがよい。場所は軍陣地の北側の北山(地元ではニシヤマと発音する)盆地がいいだろう。」
 そこで安里巡査は、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に北山盆地に集合するよう伝達してくれと告げ、巡査自身も各壕を回って、言い伝えて歩いた。
 防衛隊の一人は村長にいち早く伝達し、村長からも同様の伝達が出た。「それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって伝わって行ったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った。」(星雅彦)

 

▼3月27日 この日兵隊たちは、北山の軍陣地づくりに動員された。「複廓陣地」だとされるこの「陣地」は、実際はただの「予定地」であったらしい。
 長期戦に備え、兵隊たちは満足な道具も持たずに、陣地というよりも身を隠すための穴を、必死で掘った。道具のない者は鉄帽やゴボウ剣を使い、夜になっても穴を掘り続けた。赤松隊長自身も、タバコの明かりで地面を見ながら穴を掘っていたと、曽野綾子は赤松や元兵士たちへのインタビューをもとに書いている。

ところがその夜の軍の行動を、まったく別の情景として描いているものもある。『沖縄戦記・鉄の暴風』(沖縄タイムス社 1950年)である。『ある神話の背景』に曽野綾子が引用しているので、そこから書き出してみる。 

《日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地(複廓陣地のこと。曽野註)に陣地を移した翌二十七日、地下壕において将校会議を開いたが、そのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久態勢を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。》

この赤松隊長の「主張」は、その後日本軍が島民に「自決を強要」したことの、分かりやすい説明になっている。
 しかし曽野が知念元少尉に沖縄で会った際に、この本の記述について聞くと、知念は、地下壕などなく、そういう将校会議もしていないと、きっぱり否定したという。 

3月27日の夕方から、島は非常な豪雨に見舞われた。だが豪雨のなか、「北山に集まれ」という駐在からの命令で、島民たちは道もない真っ暗な山のなかを歩いた。自決を覚悟し、子どもに正月用の晴れ着を着せて集まった人々もいたが、自決とは思わず、できるだけの食糧を背負い、鰹節や黒砂糖、現金や預金通帳などまで持って集まった島民もいた。
 目指す北山盆地に、夜遅く着いて夜明けを待った人もいたし、翌朝28日に到着した人もいた。そこは雑木林で、数百名の人々が家族や親戚単位に寄り集まっていたという。
 村長が「天皇陛下万歳」の音頭を取り、その直後、手榴弾が爆発する音が一斉に起こった。しかし不発弾も多かった。大混乱の中、死にきれなかった家族を男たちが紐で締めたり、棒で殴ったりして止めを刺し、自分は樹に縄をかけて首を吊るという光景が、あちこちに見られた。そこに米軍の艦砲弾が降り注いだ。
 自決場所から逃げ出した人びとは、軍の陣地前に流れ着いたが、兵士たちは中に入れることを拒んだ。そこにも米軍の艦砲弾が撃ち込まれた。
 手榴弾について島民は、「役場勤めだった兄は村長からもらったと言って家族に見せた」とか、防空壕で「防衛隊員が雑曩に入れた手榴弾を配っていた」ので、それをポケットに入れて自決場所に行った、などと証言している。集まった自決場所で、「防衛隊員が手榴弾を手渡し、操作を教え」たという証言もある。

 

▼生き残った証言者のなかで、最も自覚的に「集団自決」問題を考えてきたのは金城重明(日本基督教団・首里教会牧師)であろう。金城の証言はよく整理されているので、長くなるが以下に引用する。そのとき金城は16歳だった。 

 《1945年3月27日の晩、北山へ移動した。親と兄、妹、弟と8キロくらいの道のりを、道順はわからないので前の人についていった。(略)その移動中、私たち家族は父とはぐれてしまった。/28日早朝、豪雨と激しい艦砲射撃の中をぬって、北山の集合場所にたどり着いた。びしょびしょに濡れていても、気持ち悪いという意識はなかった。それほど恐怖の一夜だった。周りには渡嘉敷集落や阿波連の住民、数百名がいたと思う。/明るくなって、住民は軍の命令で村長の下に集められた。皇軍の支配下にあったから、個人的に自由に動くことは絶対にあり得なかった。そして、軍の自決命令を待つという精神状態にあった。

 防衛隊員が村長のところに来て、耳元で「命令が出ました」と言った。/それを私たちは、空気を読んで知っていた。その様子を吉川雄介くんが、村長の下で一部始終を見て聞いて実情を把握していた。/しばらくして手榴弾が配られる。そこに「米軍は300メートル近くまで迫っている」と知らせが入り、緊張が頂点に達した。/「天皇陛下万歳」と村長が三唱した直後、あちこちで手榴弾が爆発した。しかし、手榴弾は操作の不手際や不良品が多く、不発に終わるものが多かった。/私の家族には手榴弾がなかった。全員が死ぬだけの数がなく、また多くの手榴弾が発火しなかったために、大混乱に陥った。/死ぬための武器を持たない私は、大人たちがどういう風にして自決すんだろうかと、ちょっと離れてじっと見ていた。/そこに阿波連の区長さんが現われ、木の枝をへし折っているわけですよ。やっぱり、とうとうそのときが来たかという感じですよ。その木片が彼の手に握られるやいなや、自分の愛する妻子をめった打ちにして撲殺したんですよ。/自分たちもこうして愛する家族を殺さなければと思って、まず母を石で殴って殺した、兄と一緒に。何も会話はなかった。ただ「みんな死ぬ」ということが前提で、どうしようかという言葉もない。次に弟、妹にも手をかけた。(略)そのあと、今度は生き残ったらどうしようという生への恐怖がどんどん増幅するんですね。/兄と死の順番を話し合っていた時に、ひとりの少年が「ここで死ぬよりも敵に斬り込んでから……」というので、一緒に「集団自決」の場を立ち去りました。米軍との遭遇を求めて、山中を夢遊病者のように彷徨っていた。》(『沖縄戦「集団自決」を生きる』2009年)

 

(つづく)

▼沖縄現地の守備軍(第32軍)の作戦や配備は、戦況の悪化の影響を受け、大本営の方針変更に幾度も振り回されたようである。
 当初、沖縄守備軍や海軍は、米軍を航空部隊で迎え撃ち海岸線で叩く構想を立て、兵力を配置し準備を進めていた。そのため沖縄の住民を総動員して15カ所もの飛行場の建設を急いだ。しかし日本軍にとって戦況はその後ますます悪化し、飛行場は完成しても、肝心の飛行機の多くを失っていた。
 また大本営は、レイテ島やルソン島での戦況に対応するため、沖縄守備軍から三分の一の兵力を転出させるよう指示した。沖縄守備軍は方針の変更を余儀なくされ、米軍に少しでも多くの出血を強いて本土決戦のための時間を稼ぐ持久戦が、その任務となった。
 沖縄守備軍の司令官は、沖縄の住民が不眠不休で完成したばかりの伊江島の飛行場や、沖縄中部(読谷、嘉手納)の飛行場の滑走路の破壊を命じた。

 

▼日本軍は、慶良間諸島の座間味島、阿嘉島、渡嘉敷島に、海上特攻艇の部隊(「海上挺身戦隊」)を配置していた。座間味島には第一戦隊(戦隊長:梅澤裕少佐)、阿嘉島は第二戦隊(戦隊長:野田義彦少佐)、渡嘉敷島は第三戦隊(戦隊長:赤松嘉次大尉)であり、それぞれ戦隊長以下100余人の部隊である。(沖縄では他に、宮古島に第四戦隊が配置された。)

 海上特攻艇とは、長さ5メートル、幅2メートルほどのベニヤ製のボートに自動車のエンジンを取り付けたもので、一人で運転し、120㎏の爆雷を2個積み、米軍の上陸直前の艦船に背後から体当たり攻撃をかけるというものである。特攻をかけるのは、昭和19年から「特別幹部候補生」の名で募集された15歳から19歳までの若者で、小豆島で半年間の訓練を受けたあと、急遽戦隊に編成され、慶良間諸島に連れてこられたのだった。
 だが座間味島や渡嘉敷島で、海上特攻艇の活躍の時はついに訪れなかった。米軍が沖縄本島の攻略に先立って慶良間諸島を攻撃し、猛烈な空襲と艦砲射撃のあと島に上陸してきたからである。島に海上特攻基地があることを米軍は見抜いており、米軍はそれを壊滅させることと、あわせて米国艦隊の投錨地を確保することを目的に、慶良間諸島をまず制圧したのだった。

海上挺身戦隊は特攻艇を自らの手で処分し、島内で米軍相手に陸上戦を闘わねばならなくなった。それは彼らにとって予想外の事態であり、彼らには何の準備もなかった。元第三戦隊長・赤松大尉は曽野綾子に、次のように語っている。

 《正直言って、初め村の人たちをどうするかなどということは、頭にありませんでした。何故かとおっしゃるんですか。我々は特攻隊です。死ぬんですから、後のことは、誰かが何とかやるだろうと思っていました。少なくとも、我々の任務ではない、という感じですね》(『ある神話の背景』曽野綾子)

 米軍の圧倒的な物量を背景にした艦砲射撃と上陸・占領の前で、日本軍の部隊はなんの計画も準備もなく、ほとんど無力であった。そしてそれ以上に無力であった住民は、極度の恐怖と混乱のなかでパニックに陥り、村当局の発表によれば座間味島で178人、渡嘉敷島で329人の人びとが「集団自決」で亡くなった。

 

 阿嘉島では「集団自決」こそ起こらなかった(第二戦隊の中隊が駐留した慶留間島を除く)が、悲劇の発生は他の島と変わりはなかった。第二戦隊長は、「日本の捨て石になって玉砕し、悠久の大義に生きる」ため、米軍陣地への斬りこみを計画した。戦隊には地元の少年たち80人が、義勇隊を組織して行動を共にしていた。3月27日未明、斬りこみは敢行され、少年たち義勇隊員も出撃し、ほとんどが米軍の敷設した地雷の餌食となり、全滅した。
 島の食糧難は急速に悪化し、軍の許可なく芋や野菜を採る者は銃殺にする、という厳しい命令が出された。30人以上の島民が、餓死する以前に銃殺された。(以上、『醜い日本人』太田昌秀 1969年 に拠る。)

 

▼「集団自決」の問題が沖縄で話題になったのは、1970年だった。渡嘉敷島で行われる「二十五周年忌慰霊祭」に出席するため、赤松元隊長とその部下や遺族など十数人が沖縄を訪れた。
 しかし那覇空港で、赤松元隊長は抗議団のシュプレヒコールに迎えられた。抗議団は、「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤松来県反対」の横断幕を掲げ、「赤松帰れ!」、「何しに来たんだよ!」、「県民に謝罪しろ!」などと叫んだ。結局、赤松元隊長は那覇にとどまり、生き残りの部下たちと遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に参加したという小さな事件があった。

当時曽野綾子は、大戦中の「沖縄女生徒の記録」である『生贄の島』(1970年)を、200人近い人々から証言を集め、資料を読み込み、雑誌の連載を経て刊行したところだった。取材の過程で曽野は、たびたび「慶良間には行かないのか」と聞かれたといい、関心を持った渡嘉敷島の「集団自決」について次に調べることにしたのは、自然な流れであったのだろう。
 『ある神話の背景』は赤松元大尉とその部下たち、渡嘉敷島の島民、沖縄戦の研究者や沖縄のジャーナリストなどに広く取材したルポルタージュである。この作品により、次のような点があきらかになった。

 ・赤松元隊長の命令により「集団自決」が行われたという、広く流布されている話は、出所をたどると『沖縄戦記・鉄の暴風』(1950年 沖縄タイムス社)に行きつき、他の出典とされる『慶良間戦況報告書』や『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』は、それを引き写したものであること。
 ・『沖縄戦記・鉄の暴風』は、太田良博が沖縄タイムス社の理事に依頼され、3人のスタッフとともに全沖縄戦の状態を3カ月で調べ、3か月で執筆したものだった。慶良間諸島の状況については、座間味島の助役ともう一人に来てもらって話を聞いた。

座間味島の助役は集団自決の目撃者ではあったが、それはあくまでも座間味島での体験だった。もう一人は南方から復員した男であり、二人とも渡嘉敷島で起こった事件について人から詳しく聞いていたが、直接の体験者ではなかった。しかし執筆当時の状況では、その程度でも、事件に近い人を探し出すのはやっとのことだった。 

曽野綾子は、「集団自決」は隊長の命令によって行われたものではない、ということを声高に主張しているわけではない。資料を読み、現場を歩き、関係者のそれぞれ微妙に喰いちがう証言や対立する証言を聞き、当時の状況を想像し、再構成する。敗戦当時13歳の自分が、現在とはまったく別の価値判断を持ち、まったく別の情熱のなかで生きていたという記憶を手掛かりに、当時の状況を理解しようと努める―――。
 『ある神話の背景』は、戦時下の人間の行動を発掘し、記録し、描いたルポルタージュとして、優れたものだと筆者は評価する。

 

▼「集団自決」の問題が次に話題になったのは、事件発生から60年が経過した2005年である。座間味島に駐留していた第一戦隊長・梅澤裕と、渡嘉敷島に駐留していた第三戦隊長・赤松嘉次の弟が、大江健三郎と岩波書店を被告として、大阪地裁に裁判を起こしたからである。
  梅澤裕は、岩波書店発行の『太平洋戦争』(家永三郎)と『沖縄ノート』(大江健三郎)には、梅澤が「集団自決」を命じたという記述があるとして、名誉棄損による損害賠償と謝罪広告、出版差し止めを求めた。赤松嘉次の弟は、『沖縄ノート』に赤松大尉が集団自決を命じたという記述があるとして、兄への「敬愛追慕の情」の侵害という不法行為にもとづく損害賠償と、謝罪広告、出版差し止めを求めた。
 訴訟が起こされたという地味な話だけなら、マスメディアを賑わす大きな話題にはならなかったかもしれない。しかし2007年の3月、文部省は「集団自決の強制」に触れた高校の歴史教科書について、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」だとして修正を求める検定意見を付けた。その際の根拠の一つが上の集団自決裁判であり、中でも梅澤裕が提出した「陳述書」だった。
 文部省の検定意見による教科書記述の修正が報じられると、沖縄では強い反発がおこった。同年9月、主催者発表で11万人が集まった「教科書検定意見の撤回を求める県民大会」が開かれ、沖縄県知事、市町村長、県議、沖縄選出国会議員が保革を越えて並んだ。

 

(つづく)

▼大江健三郎と岩波書店を被告とする裁判は、原告こそ梅澤裕元少佐と赤松嘉次元大尉の弟の二人だったが、裁判を起こした主力は政治的意図を持った勢力だった。彼らは、「集団自決」は愛国心から生まれた自発的な行為だと主張し、その政治的運動の一環として、原告二人に働きかけ裁判を起こさせたのである。
  一方、彼らの運動に反発する人びと、危機感を抱く人びとも敏感に反応し、被告とされた大江健三郎と岩波書店側に立って裁判を見守った。「自決」を強制した「命令」の有無という過去の「事実」に発する問題は、きわめてアクチュアルな政治的問題として注目を集めることになった。
 しかし裁判は裁判であり、原告、被告の意図や思惑がどうであろうと、裁判の論理によって進行し、結論が出される。 

梅澤裕は裁判のなかで、「座間味島島民の集団自決は私の命令によるものと報道されて以来、約半世紀にわたり汚名に泣き、苦しんでまいりました」と前置きし、住民の「集団自決」の起きた夜の出来事と、戦後の自分の体験について陳述した。

〔以下、裁判の経緯や陳述内容については、『狙われた「集団自決」』(栗原佳子 2009年 社会評論社)と『記録・沖縄「集団自決」裁判』(岩波書店編 2012年)に拠る。〕 

 夜10時ごろ、助役・宮里盛秀など5人が梅澤を訪ねて来て、軍の足手まといにならないように、また食糧を残すために、老幼婦女子は忠魂碑前で自決します、つきましては手榴弾や銃弾をください、と言いました。自分は、けっして自決するでない、生き延びてください、共にがんばりましょう、弾薬、爆薬は渡せない、と答えました。戦闘で多くの村民が亡くなったという報告は受けていたが、集団自決が行われていたことは知りませんでした。
 昭和33年ごろ週刊誌に、梅澤少佐が座間味島の島民に自決命令を出したと報じられて、初めて集団自決のことを知りました。座間味島の人たちと励まし合ってお国のために戦ってきたのに、どうして事実が捻じ曲げられて報じられるのか。屈辱と理不尽さに、人間不信に陥りました。
 私を訪ねてきた5人のうちの唯一の生き残りである宮城初枝さんと、昭和55年に那覇で会ったところ、初枝さんは、私が「自決してはならん」と言った、と言ってくれました。

 自決した宮里助役の弟で、座間味村の戦傷病者・戦没者遺族の援護を担当した宮村幸延氏からは、昭和62年3月にお詫びの念書を貰いました。「集団自決は梅澤隊長の命令ではなく、助役の宮里盛秀の命令で行われた。援護申請のため梅澤隊長の自決命令があったと虚偽を記載したが、申し訳ない」というものです。
 苦労した座間味の人たちが、補償を得られて助かり、沖縄も復興したのだから、私一人が悪者になった意味もあったはずと、自分自身を納得させていました。しかし今は、自分の名誉を回復したいという思いが強くなり、さまざまな方のご支援ご協力を得て、この訴えを起こすことができました。―――

 

▼梅澤の陳述の内容は、宮城初枝の娘の書いた『母の遺したもの』(宮城晴美 2000年)の内容と重なりつつ、重要な点で違いがある。梅澤元隊長が、自決するために訪れた助役たちに、「自決するな。生き延びよ」と言って、自決を止めようとしたのかどうかという、「集団自決」の「命令」にかかわる肝心な点である。『母の遺したもの』という本が生まれた事情が、この肝心な点に回答を与えていると思われるので、それを簡単に見ることにする。 

 宮城初枝は、1957年に厚生省の職員が「戦闘参加者」調査のため座間味島を訪れたとき、梅澤隊長のもとへ出かけた5人のうちの唯一の生き残りとして、島の長老から呼び出された。そして、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」という内容の質問に、「はい」と答えた。
 座間味村では調査のあと厚生省に対し、「集団自決」の犠牲者にも「援護法」が適用されるよう陳情運動を続けた。そのとき提出した文書「座間味戦記」には、「梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於て玉砕するようにとの事であった」というくだりがあった。

 宮城初枝は1962年に、農家向けの雑誌「家の光」で「体験実話」を懸賞募集しているという記事を見つけ、自分の戦争体験を書いて応募した。原稿をまとめるにあたり、「自決命令」についてどう記述するか、ずいぶん悩んだ。落選すれば問題ないが、万一入選した場合は、雑誌に掲載されることになっていたからである。結局、彼女は座間味村から厚生省への陳情に使われた文書の表現を使うことにした。
 彼女の応募作品は入選し、翌年の「家の光」4月号に掲載された。また、『沖縄敗戦秘録――悲劇の座間味島』という単行本に収録されて、東京の出版社から発刊された。

  19703月、渡嘉敷島の赤松元隊長が島の慰霊祭に参加するために沖縄に来たが、抗議団体の抗議のため島に渡れないという事件が起こった。「集団自決」が話題になり、「集団自決」が渡嘉敷島の代名詞のようになるが、座間味島にもジャーナリストや研究者が頻繁に訪れるようになった。宮城初枝は、「隊長命令」説にはできるだけ触れないようにしながら、「語り部」として島の戦争について語り続けた。

 1977年3月、座間味島で「集団自決」した人たちの三十三回忌が行われた。出版社に勤めていた宮城初枝の娘・晴美は、取材のために島に渡った。その夜、母は娘に、「集団自決」の夜の一部始終を、一気に語りだした。梅澤隊長のもとに「玉砕」の弾薬をもらいに行ったが帰されたこと、戦後の「援護法」の適用をめぐって、結果的に事実と違うことを証言したこと等々。そして、梅澤さんが元気なうちに、一度会ってお詫びしたい、とも言った。

 

▼3年後の1980年、梅澤の住所をようやく掴んだ宮城晴美は、梅澤に手紙を送り、母が話したいことがあると言っている、と伝えた。その年の暮れ、那覇のホテルのロビーで、母娘は梅澤に会った。
 宮城初枝は梅澤に、35年前の3月25日の夜の出来事を順を追って詳しく話し、夜、艦砲射撃のなかを役場の助役ら5人が隊長のもとを訪ねたが、自分はそのうちの一人だと言った。梅澤はそのこと自体を忘れていたようで、すぐには理解できない様子だった。

 《……母はもう一度、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた。母が「そうです」とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の眼もはばからず「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言いつづけ、やがて嗚咽した。母は、はじめて「男泣き」という言葉の意味を知った。》

 翌朝、母娘は梅澤といっしょに座間味島に船で渡り、車で島を案内した。宮城初枝は、梅澤が住民の「集団自決」を最も気にしていると思い、先に「自決」の場所に案内するつもりだったが、梅澤は自分の部下がどこでどのようにして戦死したかをしきりに質問し、部下が死んだ場所に行くようせかした。初枝の話す住民の話題にはあまり興味を示さず、部下の話となると、たとえ些細なことでも必ず反応する梅澤を見て、娘(晴美)は住民と梅澤の隔たりの大きさをあらためて感じた。
那覇に帰る船の中で、お土産にと、娘(晴美)は沖縄戦の写真集を梅澤に渡した。すると梅澤は烈火のごとく怒り、「こんなものは見たくない」と、投げ返した。 

 宮城初枝はかねてから自分の島での戦争体験をノートにまとめ、活字にしたいから手伝ってほしい、と娘に話していた。手伝いとは、自分の書いたのは個人的体験にとどまるから、島民の悲惨な体験や「集団自決」の歴史的背景、特攻艇の秘密基地にされた島の状況などを加筆してほしい、という意味である。
 宮城初枝は1990年に69歳で亡くなった。娘の宮城晴美は、母の書いたノートを「母・宮城初枝の手記」として第一部に収め、島民の「集団自決」体験や沖縄戦における座間味島の意味などを書き加え、さらに戦後の母の苦悩と梅澤裕との関わりを加筆して、『母の残したもの』を2000年に出版した。

 

▼宮城晴美は裁判に被告側の証人として出廷した。梅澤裕が3月25日の夜、助役たちに「けっして自決するでない。生き延びてください」と言ったと主張していることについて、次のように述べた。
 母は三十三回忌の日に私に告白して以来、「手記」に書かれているとおり、梅澤氏は「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と述べたと言っている。母は梅澤隊長に申し訳ないという気持から告白し、手記を書き改めたのだから、「けっして自決するでない」と聞いたのなら、そう書いたはずである。――― 

 裁判所は梅澤の主張を認めず、梅澤は爆薬等の提供を求めた住民に対し、求めには応じなかったものの、玉砕方針を否定することもなく、ただ「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と言って帰しただけである、と認定した。(控訴審判決)

 

(つづく)

▼梅澤元隊長が自分の「無実」の証拠として挙げた一つは、座間味島の元助役・宮里盛秀の弟が書いたお詫びの「念書」だった。そこには、座間味島の集団自決は元助役・宮里盛秀の命令で行われたものであり、梅澤元隊長の命令だとしたのは、自決した島民の遺族を援護法の補償の対象とするためだった、と書かれていた。
 この念書が書かれたいきさつを、宮城晴美は『母が遺したもの』のなかに記している。19873月、座間味島の慰霊祭に島を訪れた梅澤は、元助役の弟を訪ね、書面を用意したので印鑑を押してくれないか、と頼んだ。弟は、「自分自身、当時は島にいなかったし、知らないことなので押印できない」と断った。その翌日も梅澤は訪ねてきたが、やはり断った。
 ところがその夜、弟の元戦友という男二人が、泡盛持参で弟を訪ねてきた。戦友といっても所属が異なり親しい関係でもなかったが、はるばる遠いところを来てくれたので招き入れ、いっしょに泡盛を飲んだ。何時間も飲み続け、翌朝、泥酔しているところに梅澤がまた現れ、「決して迷惑をかけないから」と言って押印を頼んだ。上機嫌だった弟は、今度は実印を取り出し押印した。

 

▼元助役の宮里盛秀は兵事主任と防衛隊長を兼務し、村人のなかでもっとも軍に近い立場にあった。兵事主任とは軍の下部機関として、兵籍簿の整理や召集令状の伝達などの役目を担い、勤労奉仕の人員を確保したり食糧の供出、住民の避難、集結など、軍の命令はすべて兵事主任を通して住民に伝えられ、実行された。
  梅澤元隊長はそこで、宮里助役からの指示を村人は軍の命令と受け止めたかもしれないが、実は助役が勝手に出した指示だった、と主張したのである。自分は「けっして自決するな。生き延びよ」と助役たちに言ったのであり、自分が自決命令を出していないことを「証明」するものが、助役の弟の「念書」だというわけである。 

しかし裁判の中で、宮里助役の妹が、兄が「玉砕」するように軍から命令を受けていたことを証言した。妹は、『沖縄戦「集団自決」を生きる』(2009年)のなかでも同じ場面を証言しているので、以下はそこからの引用である。

《兄はお父さんに「明日は艦砲射撃が始まって敵の上陸は免れない。つかまらないうちに軍から玉砕しなさいと言われているから、水杯していっしょに死にましょうね」と言った。/私は死にたくないと思ったが、口に出せなかった。/父は「どうしても死なないといけないのか」と漏らしたけれど、兄は「軍の命令だから」と、父親を諭すように言って、水杯を交わした。その時兄は、「いままで親に迷惑ばっかりかけて、親不孝だったけれど、あの世に行って親孝行をつくしますから」と……。/そして子どもたちを抱き寄せて、「こんなに大きく育てたのにくやしい、ゴメンね。お父さんも一緒だからね」と言って涙を流し、抱きかかえて泣いてね……。》(宮平春子) 

 裁判官は「念書」について、座間味島で集団自決が発生した際、弟が島にいなかったこと、泥酔状態の時に作成されたものであることを認定し、真意を表しているのか疑問で信用できない、と判断した。(一審判決)
 また控訴審は、梅澤はその作成過程を意図的に隠している、との判断を示し、その作成経緯に照らし、遺族補償のために梅澤命令が捏造されたことを証明するものとは評価できない、とした。

 

▼渡嘉敷島の「集団自決」の検討に移る。
 原告側つまり赤松元隊長の弟の弁護団は、自分たちの主張の証拠として曽野綾子の『ある神話の背景』を示すだけで、それ以外に積極的な立証活動をしなかった。
 曽野の作品は、資料を読み、現場を歩き、関係者の証言を聞き、当時の状況を想像し、再構成する過程を描いたルポルタージュである。それは、「集団自決」は赤松隊長の命令で行われたものではない、と声高に主張するものではない。
 曽野自身、沖縄の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われた際、「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、とは言っていません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、というだけのことです」と答えている。
 『ある神話の背景』は、書かれた当時、村人と軍人双方に取材した画期的な仕事だったし、表現も抑制と均衡がとれており、筆者は優れた作品として読んだ。しかし曽野の資料や証言の収集や取り扱いの過程を綿密に調べてみると、かなり大きな問題を抱えているらしい。 

 『検証「ある神話の背景」』(伊藤秀美 2012年 紫峰出版)という本を読んだ。初めて聞く著者名であり出版社名だが、著者紹介欄には、1978年京都大学博士課程中退(理論物理学専攻)とあり、防災関係の仕事の傍ら戦史を研究、とあった。
 その検証はきわめて徹底したもので、入手できるかぎりの資料にあたり、資料のあいだの記述の差異の中から合理的な手続きにより結論を導き出そうとする。曽野の作品が書かれたときから40年近くが経過し、関係者の多くが亡くなり、体験を直接取材することが困難となったという条件のもとでなされた、もっとも徹底した検証ということができるだろう。

 

▼『ある神話の背景』は、赤松戦隊の行動を知るもっとも基礎的資料として、「陣中日誌」を使用している。これは赤松戦隊の谷本小次郎という男が赤松元隊長の了解のもと、タイプ印刷して元隊員や関係方面に配布したもので、谷本は「編集のことば」に次のように記している。「……基地勤務隊辻政弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三中隊陣中日誌を資に取り纏め聊かの追記誇張、削除も行わず正確な史実を世代に残し……」。
 しかし伊藤秀美の厳密なテキスト・クリティークの結果は、「聊かの追記誇張、削除も行わず」どころか、「大幅な加筆・改変」が施されていることを明らかにした。それは、「加筆・改変の規模、内容を考慮すると、改竄と呼べるレベルである」。(伊藤秀美) 
 また伊藤は、「陣中日誌」の元を書き綴った辻政弘元中尉の遺族に会いに行き、赤松や谷本からタイプ印刷した「陣中日誌」は送られてこなかったことを知る。辻は1970年に亡くなったが、死去を知った後でも遺族に「陣中日誌」を届けることはできたであろう。あえて寄贈しなかったのは、谷本が編集した「陣中日誌」が、辻の書き綴ったものとは「別物だからではないか。」「赤松氏は辻政弘氏の関与を避けたがっていたように見える」と、伊藤は書いている。

 

▼伊藤秀美は、曽野綾子の証言の収集やその取扱いについても、疑問を呈している。
  一番大きな疑問は、渡嘉敷島の兵事主任だった新城真順(戦後改姓して富山真順)に会ったことはなく、その名前も知らないと曽野は公式の場で語り、『ある神話の背景』のなかにも、その証言が何も取り入れられてないことである。(公式の場とは「第三次教科書裁判」に国側証人として出廷した時(1988年)である。) 兵事主任は座間味島の宮里盛秀がそうであったように、村人と軍との間に立って軍の命令を伝える重要な位置にある。だから「集団自決」の問題のように軍命令の有無が問題になるような場合、何をおいても真っ先にその話を聞かなければならないはずである。座間味島の宮里盛秀はすでに亡くなっていたが、渡嘉敷島の兵事主任だった新城真順は生存していたのだから。 
 実際は、曽野綾子は新城真順に会い、話を数時間にわたって聞いていた。沖縄国際大学の安仁屋政昭に新城真順は次のように語ったという。「曽野綾子氏が渡嘉敷村の取材に来た1969年にも、島で唯一の旅館であった『なぎさ旅館』で、数時間も取材に応じ事実を証言した。あの玉砕が軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われるとは夢にも思わなかった。」(伊藤秀美の『検証』から引用)。新城が「事実を証言」と言っているのは、米軍上陸の直前に兵器軍曹が村の職員や少年20余人を集め、手榴弾2個を、1個は攻撃用、1個は自決用として手渡したというものである。
 安仁屋政昭は次のように言う。「兵事主任に会うこともなく、その決定的証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識にてらしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら、『神話』の構成において不都合なものを切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字通りのフィクションということになる。」(『検証』)

曽野も、のちに新城に会ったことを認めたが、次のように弁解した。
 「私の本から、富山証言をなぜ落としたかって、責められても分かりません。私はヒアリングした全ての情報を書いてはいません。ノンフィクション・ライターのすべての人が、整理した内容を書いていると思います。私たちが書くのは警察の調書ではないんですから、たとえば『ひどい戦争でした』としかいわない人もいるんです。『どうひどかったんですか』『とにかく、ひどかったんです』式の具体性を欠いた発言は取り上げません。富山さんがそうだったというんじゃありませんが、とにかく手榴弾の話が出ていて、それがそれまでにない内容の話だったら、私は必ず書いていたはずです。」(『検証』)

 

(つづく)

▼前回紹介した安仁屋政昭と曽野綾子の発言は、「ノンフィクション」という作品世界の成立要件に関わる重要なものなので、後ほどあらためて取り上げることにして、伊藤秀美の『検証』の内容をもう少し見ていきたい。 

 筆者はこの「集団自決」のブログの第3回で、『ある神話の背景』のキモの部分を紹介した。渡嘉敷島の「集団自決」は赤松元隊長の命令により行われたという話は、最初に『沖縄戦記・鉄の暴風』(1950年)に書き込まれ、広く流布されたのだが、それは不確かな「伝聞証拠」に拠るものだったことが、この作品によりあきらかになった、と書いた。
 曽野綾子はその部分を次のように書いている。「太田氏」とは、『鉄の暴風』の著者・太田良博である。 

 《……取材に歩くと言っても、太田氏が当時使えたのは、トラックを改造したものだけであった。バスさえもまだなかった時代である。
 「そんな時に渡嘉敷島へは、どうしていらっしゃいました」
 私は驚いて尋ねた。
 「漁船でもお使いになりましたんですか?でも、漁船もろくにありませんでしたでしょう」
 「いや、とても考えられませんでしたね。定期便もないし」
 「どうしていらっしゃいました?」
 「いや、向こうから来てもらったんですよ」

 「何に乗ってきておもらいになったんですか」
 「何に乗ってきましたかねえ」
 困難な時代であった。直接生きるために必要なもの以外のことに、既にこうして働き始めていた人があるということは、私には信じられないくらいであった。》

 このあと曽野は、太田良博がかろうじて話を聞くことができた証言者は、二人だったと書く。一人は座間味島の助役で、座間味島の集団自決の目撃者ではあったが渡嘉敷島の体験者ではなく、もう一人は南方からの復員者で、事件当時、島にはいなかった。「二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった。しかし当時の状況では、その程度でも、事件に近い人を探し出すのがやっとだった。」

 そして曽野は結論的に、次のように書いた。
 「いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕らえられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった。」(『ある神話の背景』)

 

▼筆者は、『鉄の暴風』執筆時の状況の細部を執拗に聞き出す曽野綾子のインタビューに感心し、それが「伝聞証拠」によって書かれたという『ある神話の背景』の記述を素直に受け入れた。しかし太田良博によれば、事実は違うらしい。『鉄の暴風』が「伝聞証拠」によって書かれたのか否か、その後、太田と曽野の間で論争になった。
 論争は「沖縄タイムス」や「琉球新報」紙上で行われ、筆者は直接読むことができないので、伊藤秀美の『検証』から引用する。太田良博の反論は、要約すると次のようなものだった。

 ・曽野氏から渡嘉敷島の取材を誰からしたかと聞かれ、はっきり覚えていないと答えた。
 ・答えられなかったのは、非常にたくさんの人から取材しており、執筆からすでに二十数年経過していたからである。
 ・座間味島の助役ともう一人は、赤松大尉の暴状を戦記に書いてほしいと言ってきた情報提供者であり、「それでは調べてみよう」と答えただけで、彼らから証言をとっていない。
 ・那覇市内のある旅館で何人か集めた座談会で、事件当時の渡嘉敷村の村長・古波蔵氏に会ったことは、『ある神話の背景』が出た後、『鉄の暴風』を読み返していくうちに思い出した。 

 曽野綾子の再反論は、次のようなものだった。

 「いまにして思うと、私はその時、事件を誰から取材したか記憶がない、と言った太田氏の言葉をもっと善意に解釈していた。つまりそれまで一面識もない村人に、当時太田氏が会って話を聞いたというなら、確かにその名前をいちいち覚えていないということもあろう、と思ったのだ。しかし今度その取材先が、古波蔵村長だったと知って、私は逆に信じがたい思いである。当時、村の三役というのは、村長と校長と駐在巡査だということを、都会生活しか知らない私は沖縄で教えられたのだが、あれほどの事件を直接体験者であり、しかも村について絶対の責任のある、ナンバー・ワンの村長から聞いておきながら、だれから聞いたか思い出せなかったということがあるのだろうか。」

 「思い出せなかったということがあるのだろうか」と反撃したところで、太田氏から「あるのです」と言われればそれまでで、曽野氏は二の矢がつげないだろう、というのが伊藤秀美の判定だった。
 「思い出せなかったということがある」のかどうか。これは曽野綾子が渡嘉敷島の兵事主任だった新城真順に何度かインタビューしていながら、会ったこと自体を忘れ、新城真順という名前すら記憶にない、と公式の場で発言したことと、好対照なのかもしれない。曽野は、自分のケースに照らして見れば、太田良博の場合のみを否定することが困難なことに、行きつくに違いない、と筆者は思う。

 

▼『検証』における伊藤秀美の批判を、もう一つだけ挙げておこう。『ある神話の背景』を書くにあたって曽野綾子が集めた証言は、偏りがあるというのである。

 赤松元大尉は渡嘉敷島にいる日本軍の最高指揮官だったが、元は海上特攻部隊(海上挺進第三戦隊)100名の指揮官として来島したのだった。ところが沖縄本島の防備のために島の基地隊の過半が移動した結果、基地隊、整備隊、朝鮮人軍夫を中心とする特設水上勤務隊、住民を招集した防衛隊のすべてが、赤松隊長の指揮下に入った。
  伊藤の調査によれば、『ある神話の背景』に実名で登場する将校、下士官、兵士が赤松隊長以下11名いるが、軍医軍曹を除けばすべてが第三戦隊の隊員なのである。これは赤松隊長が指揮していた島の守備隊の構成から見て、「非常に偏った人選」だと伊藤は言う。
 集団自決に軍の命令があった、とする主張の根拠の一つに、手榴弾が配られ、自決に使われたことが挙げられている。武器の管理にとりわけ厳しかった日本軍の武器が、いかなる理由で住民の手に渡ったのか。隊長の許可がなければ住民の手に渡ることはなかったことは、裁判で梅澤元隊長自身が認めたことだった。
 曽野は、赤松元隊長にそのことを質問した。
 「自決命令を出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方がありませんね」
 赤松の答えは、次のようなものだった。
 「手榴弾は配っておりません。ただ、防衛招集兵には、これは正規軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥ったとき、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練の行き届いていない防衛招集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います」

 防衛招集兵、つまり防衛隊員とは、兵士として招集されなかった沖縄の17歳から45歳までの男子が集められ、組織に編成され、壕掘りや壕の中を支える坑木の切り出しなどの作業を日課とし、また兵力不足の守備隊の補助作業を役目としていた人たちである。
 曽野は、次に当然、防衛招集兵(防衛隊員)の証言を取るべきであったろう。そうすれば、「彼らが勝手にそれを家族に渡した」のかどうか、問題の核心に迫る証言を得ることができたはずである。しかし『ある神話の背景』には、防衛隊員たちの発言は記録されていない。

 

(つづく)

 

▼第一審(大阪地裁)の判決は2008年3月に出され、原告の請求を棄却した。

 原告の求めたものは名誉棄損に対する損害賠償であり、これと並行して、故人に対する「敬愛追慕の情」を侵害したことに対する損害賠償であり、また、出版差し止めであった。判決は、大江健三郎の著書『沖縄ノート』や家永三郎の『太平洋戦争』の記述が、梅澤元少佐、赤松元大尉の社会的評価を低下させることは認めた。
 しかし書物の記述が名誉棄損になるとしても、免責される場合があることが、判例として理論的に確立されている。それは、公共の利害に関する事実について(公共性)、もっぱら公益を図る目的で(公益目的)、示した事実が真実であるか真実と信じる相当な理由がある場合(真実性・真実相当性)には、免責される、というものである。この訴訟では、自決命令の真実性、真実相当性が最大の焦点となった。 

 原告は、自決命令は援護法の適用を受けるために捏造されたと主張したが、判決は、援護法の制定(1952年)以前につくられた『沖縄戦記・鉄の暴風』(1950年)や米軍の『慶良間列島作戦報告書』(1945年)に、日本軍の住民に対する自決命令の記述があり、援護法の適用目当ての捏造、という主張は疑問であるとした。その上で、
・集団自決に手榴弾が使われているが、多くの体験者が日本軍の兵士から自決用に手渡されたと語っていること、
・沖縄に配備された日本軍は防諜に特別の注意を払っており、住民が捕虜になり日本軍の情報が米軍に漏れることを強く懸念したこと、
・沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかったところでは発生していないこと、などの事実を踏まえると、集団自決については日本軍が深くかかわったものと認められる、とした。
 そして、それぞれの島の日本軍は、梅澤元少佐、赤松元大尉を頂点とする上意下達の組織であるから、それぞれの島の集団自決に梅澤元少佐、赤松元大尉が関与したことは十分推認できる。しかし自決命令の伝達経路が判然としないため、本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない―――というのが裁判所の判断だった。

判決は、梅澤元少佐、赤松元大尉が自決命令を発したことを、ただちに真実であると断定できないとしても、真実であると信じるについて相当の理由があったと認めるのが相当であり、名誉棄損は成立せず、それを前提とする損害賠償と出版差し止め請求も理由がない、とした。

 

▼第一審判決について秦郁彦は、「法的判断を放棄したとしか思えない奇妙な判決」と批判した。(『現代史の虚実』2008年 文藝春秋)
 筆者は秦郁彦の著作を、これまで面白く読んできたし、基本的に信用しており、このブログで引用したことも幾度かあった。しかし彼の「集団自決」裁判への発言は、感心しない。
 まず、原告側の提出した「証言」や「証拠」を、歴史家らしくもなく、無批判に信用しているきらいがある。判決について秦は、「原告に同調する証人や文献は軒並みに『信用できない』『疑問がある』と切り捨てられた。この種の非常識な認定は数十カ所に及ぶ」と、憤懣の声を上げる。
 しかし秦自身が原告側の「証言」や「証拠」を具体的に点検し、真実であるという結論に至ったということではないらしく、どこが「非常識な認定」なのかは、何も述べられていない。「証言」や「証拠」をめぐる議論について、とくに座間味島の梅澤元隊長に関わるものについてはこのブログでいくつか触れてきたが、筆者は、「信用できない」とした裁判所の判断は正しいと考える。

 また秦は、軍の「関与」という言葉を使って軍と住民の関係を表現したことを、批判する。「自決しろ」も「関与」、「自決するな」も「関与」であり、もし判決がこの便利な言葉に逃げ込んだとすれば、批判は免れないだろう。
 「裁判所が判断を求められていたのは、軍命の有無だったはずである。/それなのに二年半にわたる審理の結果が、語義のはっきりしないファジーな日本語の借用では、法的判断を放棄したとそしられてもやむをえまい。」
 「最初から『結論ありき』の『ペテン』的判決で事実認定は上告審へ丸投げした疑いが残るが、第二審は『自決するな』という『軍命』の有無が争点になるだろう。」(秦)

 しかし本当に判決は、「関与」というファジーな言葉に逃げ込んだのだろうか。この点についての筆者の考えは、のちほど述べたい。

 

▼原告は控訴し、控訴審(大阪高裁)判決は200810月にあった。
 大阪高裁もまた、梅澤元少佐、赤松元大尉自身が直接住民に対して集団自決を命令したという事実に限れば、証拠上その有無を断定することはできない、とする。
 しかし集団自決は両隊長の命令によるということは、戦後間もないころから座間味島、渡嘉敷島で言われてきたもので、本件の書物が発行されたころは、学会の通説ともいえる状況にあった。したがって自決命令の記述については、少なくともこれを真実と信ずるについて相当な理由があった、と認められる。
 その後公刊された資料により、控訴人の直接的な自決命令について、その真実性が揺らいだと言えるが、真実でないことが明白になった、とまでは言えない。他方、本件の記述により、控訴人が重大な不利益を受け続けているとは認められない。
  本件の各記述は、日本軍の行動という高度な公共の利害に関する事実に関わり、もっぱら公益を目的とするものであり、出版当時、真実性ないし真実相当性が認められたことなどを考えると、出版を継続することが不法行為に当たるとは言えない。
 したがって、控訴人の請求はいずれも理由がない―――というのが高裁判決だった。

 

▼大阪高裁の判決は秦郁彦の期待した「事実認定」で、原告側の提出した「証言」や「証拠」に対し、一審同様、「採用できない」、「信用し難い」という判断を下した。
 たとえば、座間味島の事件で「隊長命令」がなかったことの決定的証言だということで、原告側に立つメディアで持てはやされた「宮平秀幸」という人物の証言がある。これは第一審判決の前後に初めてメディアに登場したもので、秦も期待を込めて紹介していた。
 しかし高裁判決は宮平秀幸の陳述書を、「明らかな虚言」という強い言葉で否定した。宮平の証言内容が梅澤元隊長の陳述と矛盾するだけでなく、座間味村史に残る自分の母親の証言とも対立し、宮平自身の過去に語ったこととも違いがあることが、明らかになったからである。
 秦はまた、「(判決は、)軍命説を否定した曽野綾子『ある神話の背景』は、偏向したフィクションだとして超辛口の評価しか与えない」と、第一審判決時に書いた。(『現代史の虚実』2008年)。筆者は判決文を全文読んだわけではないので、発言を控えたいが、判決が曽野の著書を「偏向したフィクション」と見なしたという秦の発言は、疑問に思う。
 高裁判決は、「その後公刊された資料により、控訴人の直接的な自決命令について、その真実性が揺らいだと言えるが、真実でないことが明白になった、とまでは言えない」と述べている。「その後公刊された資料」とは『ある神話の背景』のことであり、これによって「直接的な自決命令」については、「その真実性が揺らいだ」と評価しているのだが、第一審の評価もこれからそう遠くはないはずだ、と類推できるからである。
 秦郁彦の判断・評価が、党派的な好悪によって曇る程度のものだったとすれば、残念なことと言わねばならない。

 原告は上告したが、最高裁は2011月、法定の上告理由にあたらないとして、上告を棄却した。

 

(つづく)

 

▼裁判の法律問題の焦点は、名誉棄損という不法行為の成立・不成立の問題だったが、事実認定の焦点は、「集団自決」の命令が軍から出されたか否か、であった。しかし筆者は、この問題設定は、沖縄・慶良間諸島に発生した歴史的事件をとらえる上で、かなり問題があるように思う。
 一般に「命令」が履行されるためには、内容と形式の「正当性」が確保されていることと、履行を促す制裁の担保が必要である。内容の正当性とは、命令に従うことが正しいと命令された者にも了解されることであり、形式の正当性とは、権限のある者から定められた形式をもって、命令が出されることである。
 制裁の担保とは、命令を履行しなかった場合に制裁を受けるという恐怖感が、命令された者に命令の履行を促すということである。制裁にも様々な形があるが、通常の最高の形は、命令違反に「死をもって償わせる」ことだろう。しかし「自決」を命ずる命令が履行されない場合は、「死をもって償わせる」というような「命令」が、「命令」としての十分な力をもって成り立つものだろうか。
 そのように考えるなら、沖縄戦下の沖縄・慶良間諸島で集団自決事件を生み出したものは、制裁の恐ろしさでも命令形式の正当性でもなかったことがわかる。軍と住民が「思考」を共有し、住民は進退窮まれば自決するべきだ、自決することが正しい、と思い込んでいた(思い込まされていた)ことこそ、事件発生の直接の原因だった。そうであればこそ、明示的な「軍の命令」という形があろうとなかろうと、住民たちは何かのきっかけがあれば「自決」へと殺到したのである。 

住民の証言を読むと、米軍につかまれば男は八つ裂きにされ(あるいは戦車に引き殺され)、女は強姦された後に殺される、と信じていたことがわかる。こう信じ込むことにより、住民たちは白旗を掲げる、敵の捕虜となる、という選択肢を、あらかじめ封じられていた。住民たちに、採るべき唯一の選択肢として残されていたのは、日本人として立派に死ぬべきこと、玉砕することだった。
 米軍の凄まじい艦砲射撃と米軍上陸の恐怖は、逃げ場のない状況をつくりだした。進退窮まった住民たちは、かねて言われてきた自決すべき時だと感じ、自決するなら家族一緒に、一族そろって死にたいと、覚悟を固めたわけである。自分一人残されることは何よりの恐怖であり、幼い子供をそのような恐ろしい目にあわすわけにはいかなかった。
 もちろん人間の生への本能は強く、どれほど「国のために死ぬ」ことを教え込んだとしても、容易に乗り越えられるものではない。だからもし、「生き延びよ」という一言が隊長や隊員からあれば、彼らは思いとどまり、自分たちの壕へまた戻って行った可能性は高いと思われる。
 だが、米軍への恐怖が生み出した恐慌状態のなかで、「自決」以外の選択肢を消し去さられた集団は、「死」の熱狂に支配され、「万歳」の声を合図に生への執着を一気に飛び越えたのである。

 

▼筆者の考えを整理するなら、次のようになる。明示的な「自決命令」があったとしても、それを当然のこととして受け止める住民の事前の理解がなければ、集団自決は起こらなかったかもしれない。また、「自決」しか道は残されていないと住民が思い込んでいるなら、明示的な命令がなかったとしても、彼らは容易に「自決」に走ったであろう。
 軍の命令はあった、と語る住民の証言を読んでいても、自決用の手榴弾を配る軍の態度は、「命令」という強圧的なものというより、「住民が自決できるように軍として便宜を図る」といったニュアンスが濃い。また住民の態度にも、「軍の命令」で強制されたため、「自決」から逃げたくても逃げられなかったという色合いは薄く、軍とともに行動し、ついに決められた「自決」の時に至った、といった意味合いが強いように見える。
 だから問題は、形式上の命令の有無よりも、どのようにして「自決」という途方もない考えが住民の頭に棲みついたのか、当時の言葉を使うなら、「玉砕」という観念が共有されるに至ったのか、ということなのである。 

 沖縄の守備軍は、「軍官民共生共死の一体化」という方針を、「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」(昭和1911月)の中で打ち出した。そして軍は、忠魂碑前での慰霊祭など住民と接触する機会を捉えては、「玉砕」することが住民の採るべき行動であると教え込み、住民の思考から他の選択肢を奪ったのである。
 軍のその方針には、敵軍に降伏した住民から日本軍の状況が漏れることを防ぐという、実利的な意味もあったであろう。しかし本当のところは、戦闘地域に残された住民をどうするか、というような枝葉の問題あるいは難しい問題について、軍はまともに考えたことなどなかったのではなかろうか。

宮城晴美は「玉砕」という観念が住民の頭に棲みついた事情を、『母の遺したもの』のなかで住民の側から説明している。「沖縄人」が明治期に「日本人」に組み入れられてから、徹底した皇民化教育を受けただけでなく、「沖縄人」自身、独自の言語や文化、習俗をヤマト風に変えることで、日本と一体化しようとしたこと。そして昭和期の軍国主義体制のもとで、学校や行政当局の指導下に、県民挙げての運動として「皇国」への忠誠心が人びとに叩き込まれたこと。日本軍が島に駐留するようになると、人びとは積極的に軍に協力することで「皇国民」としての義務を果そうとし、「軍官民共生共死の一体化」を受け入れ、軍とともに敵と戦う決意でいたこと。―――
 《しかしながら、畳二畳に二十一発という圧倒的な砲火にさらされ、完全に逃げ場を遮断されて、心理的にも徹底的に打ちのめされた住民が現実に米軍と向き合ったとき反射的にとった行動は、「玉砕」だった。捕えられれば女性は凌辱され、子どもまで虐殺されるという恐怖心から、せめてこの手でと、わが子をはじめ愛する者を次つぎに殺し、自らも「死」の途を選択した。/そこではもはや、「隊長命令」は本質的な問題ではなかった。細胞のすみずみにまでしみ込んだ「皇国」への忠誠心、「鬼畜米英」への異常なまでの憎悪と恐怖が、結果的に住民を「玉砕」へと導いていったといえる。》(『母の遺したもの』)
 宮城晴美のこの記述は、考え抜かれた優れた考察だと筆者は思う。

 

▼上のような筆者の理解、あるいは宮城晴美の記述は、「軍命令によって集団自決は起こった」という被告側の主張を否定し、原告側に組するように受け止められるかもしれない。しかし原告側の主張とは、微妙にして決定的な違いがあると言わなければならない。
 原告側弁護士は、「集団自決」について、「軍命によるものではなく崇高な犠牲的精神によって死を選択した」ものだ、と主張した。
 曽野綾子の『ある神話の背景』も、渡嘉敷島の第二中隊長だった元少尉が語る、次のような言葉を採録している。

 《私は防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったろうと思います。今の考えの風潮にはないかもしれませんが、あの当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して、軍人として心おきなく雄々しく戦いたいという気持ちはあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、自らの命を絶った、という面もあると思います。死ぬのが恐いから死んだなどということがあるでしょうか。/むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。》 

 「行為」の評価は、いつ誰によって行われるべきものなのだろうか。恐慌状態に陥った者の、その時の奇怪な心理を絶対視するのではなく、それを客観的に眺め考えるのでなければ、「評価」の名に値しないのではないか。
 熱狂が冷め、日常に戻ってから振り返り、沖縄の住民はその「自決」に意味があったと思っただろうか。それが「清らか」な「美しい」ものだった、「崇高な犠牲的精神」によるものだったなどと、考えただろうか。その「自決」は、本当に避けることのできないものだったのか。その「自決」は、誰かを救ったのか。
 そのように考えてくると、それが徹頭徹尾「無用の死」であったことが判明する。住民が「自決」すべきことを教え込み、手榴弾を配って住民の背中を押した日本軍の方針あるいは無方針は、きわめて罪深いと言わなければならない。

 日本軍の「関与」という言葉だが、形式上の軍命令の有無を超えて日本軍の果たした役割を認定するという意味で、筆者は積極的に評価したい。

 

(つづく)

▼「集団自決」問題のブログは、予定を大幅に超えて長くなったので、関係する二冊の書物に触れて閉じることにしたい。
 まず曽野綾子の『ある神話の背景』であるが、「ノンフィクション」作品のあり方という面で疑問が出され、曽野が次のように反論したということを紹介したところで、話を中断していた。

 「………私の本から、富山証言をなぜ落としたかって、責められても分かりません。私はヒアリングした全ての情報を書いてはいません。ノンフィクション・ライターのすべての人が、整理した内容を書いていると思います。私たちが書くのは警察の調書ではないんですから、たとえば『ひどい戦争でした』としかいわない人もいるんです。『どうひどかったんですか』『とにかく、ひどかったんです』式の具体性を欠いた発言は取り上げません。富山さんがそうだったというんじゃありませんが、とにかく手榴弾の話が出ていて、それがそれまでにない内容の話だったら、私は必ず書いていたはずです。」 

 「ノンフィクション」の面白さは、作者が人に会って話を聞き、資料を集め、それを読み込み、それらを組み立てていく過程にある。個々の資料や証言が組み上がるにしたがって視界が開け、全体像が現われ、新しい発見に書き手と読み手がともに感動する―――それが良質のノンフィクション作品の魅力である。たとえば吉村昭の『戦艦武蔵』を読む者は、かって戦艦建造にたずさわった人々の苦闘と、それを正確に掘り起し書き記そうとする作者の息苦しいまでの苦闘を、ともに味わうことができる。
 質の悪い「ノンフィクション」作品は、あらかじめストーリーが出来ていて、それに合わせて資料を集め、並べる、お手軽なものだ。目の前の作品が良質のものか、粗悪品かを見分ける万能の試薬があるわけではないが、作品としての読み応えに画然とした違いがある、ということができるのではないか。

 筆者は『ある神話の背景』を読んで、「戦時下の人間の行動を発掘し、記録し、描いたルポルタージュとして、優れたものだ」と感じた。その後、伊藤秀美の『検証「ある神話の背景」』を読んで、曽野の利用した基礎資料(「陣中日誌」)に「改竄」と言えるほどの改変があったこと、渡嘉敷島の兵事主任・新城真順の証言を採っていないこと、作品に使用した証言に偏りがあること、などを知った。
 伊藤の調査は徹底したもので、作品中の或る日の月の満ち欠け、潮の満ち引きに至るまで調べ上げ、曽野綾子が作品の効果を狙って半月を満月に変え、満ち潮を引き潮に書き変えたことまで明らかにしている。だが「ノンフィクション」は、事実の単なる調査報告書ではなく、あくまで文芸作品であり、「証言」や「証拠」として社会の争いごとに利用したり批判したりする場合も、そのことをわきまえて取り扱うべきなのではないか、と思う。
 筆者の曽野の作品に対する評価は、伊藤の『検証』を読んだ後も、それほど変わらなかった。曽野が、富山(新城)証言を作品に書き込まなかったのは、「『神話』の構成において不都合」だから切り捨てたのではなく、彼女の言葉どおり、「目新しい話ではない」と感じたからだ、ということもありえただろうと思った。なぜなら、相矛盾する証言が出てきて「真相」が混沌とするような事態は、文芸作品としてはむしろ歓迎すべきことだからである。

 

▼二冊目は、大江健三郎の『沖縄ノート』(1970年)である。実を言うと、筆者はこの書物をずっと昔に買いこんだまま書棚に積み上げていたのを、今回取り出して初めて読んだのである。買った当時読みはじめ、すぐに止めたという痕跡は、ページの欄外に残っていた。数十年経った今回も、何度も途中で放り投げたくなったが、必要に迫られなんとか読了した。

 『沖縄ノート』は、沖縄の歴史と人々、米国施政権下の沖縄の現状、そして自分の位置関係をめぐり、大江が考え、感じたことの記録である。自分の「沖縄への罪責感、戦争責任・戦後責任」について、そして沖縄の人々の「絶対的な優しさとかさなりあった、したたかな拒絶」について、大江は強烈な独特の文体で記述する。記述の中で、沖縄の風土や人や歴史や文化はナマの形で出てくることはなく、すべてが大江の個性によって濾過され、強烈な「思い」に色づけされている。

 《石垣島から、いかなる幻影も見ない拒絶の眼で東方を見わたす、醒めた詩人の意識においてもまた、今日の日本の実体は、沖縄の存在のかげにかくれて、ひそかに沖縄に属することによってのみ、いまかくのごとくにせの自立を示しえているのだと透視されるであろう。日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、と貧しい心で考えあぐねつつ僕が沖縄の空港に、港におりたつ時、僕の意識にある地図においてもまた、日本は沖縄に属する。》

 大江健三郎独特の、頭の痛くなるような悪文は、読むのも書き写すのも難儀であるが、我慢するしかない。
 「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という一節は、この『ノート』の中で幾度か繰り返される通奏低音である。
 そうした大江の個性が、渡嘉敷島の慰霊祭に参加しようと赤松元隊長が沖縄を訪れ、空港で抗議団体から罵声を浴びせられたという事件のニュースに接し、大江は次のように書いた。

 《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。……かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗り込んで、一九四五年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。》

 ここには「集団自決」の「事実」について何も書かれておらず、大江が「事実」と信じることに関して「夢想」したことがらが、書きつづられているだけである。赤松元隊長が、人間として償うには「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで」、「なんとか正気で生き伸びたい」と願う、などと大江は書くが、それは彼の好みの妄想というしかないものだ。『ある神話の背景』を読むかぎり、そのような元隊長のイメージは思い浮かべたくても浮かばない。
 要するに『沖縄ノート』には、大江の「思い」以外のものはないのである。大江自身は、「多様性」に向かって『沖縄ノート』を書き始めたと書くが、彼の「思い」を共有していない読者にも開かれている文章のようには見えない。読者は大江の閉じられた想念の中をぐるぐる周回させられ、「贖罪」の単調な旋律をいろいろな編曲で聴かされるだけなのである。 

 右翼勢力が大江健三郎の『沖縄ノート』を訴えたのは、戦術的失敗といえるだろう。大江の「思い」以上の、何ほどのことも述べていない文章を被告席に座らせ、名誉棄損を言い立ててみても、何が書かれているか読み取ること自体、容易なことではないのだから。それとも彼らは、大江健三郎と岩波書店のネームバリューを考えて、あえて訴訟相手に選んだのだろうか。 

 

▼最後にひとつ、『沖縄ノート』の自閉的な悪文や、右翼勢力の欺瞞的な「愛国自決」の主張の「口直し」のために、勇気と知性により「集団自決」をまぬがれた人びとのエピソードを、紹介しておきたい。

 米軍の沖縄本島上陸は昭和20年4月1日、本島中部の読谷(よみたん)村や北谷(ちゃたん)村などの海岸からだった。読谷村のチビチリガマという自然壕では4月3日、集団自決が行われ、87人が死んだ。
 チビチリガマから1㎞も離れていないところにシムクガマという壕があり、そこに約千人の村人が避難していた。米軍が上陸し、ガマを包囲して、殺さないから出てくるようにと日本語で呼びかけると、「天皇陛下バンザイをして玉砕すべきだ」という声が、洞窟中に広がった。警防団に編成された青少年たちは、竹槍で突撃する覚悟だった。降伏する者はスパイとして処罰するというのが日本軍の方針であり、住民には自決するしか選択肢がない状況だった。
 そのとき比嘉平治という老人が息巻く若者たちの前に立ち、竹槍を捨てるように言った。ハワイの移民帰りだった比嘉老人は、米軍は民間人を殺しはしない、早まったまねをするな、と言い、同じくハワイ移民の経験があり英語が達者な甥を連れてガマを出、米軍の将校と交渉した。その結果、シムクガマの全員が生き延びることができた。村人が家財道具を頭の上に乗せ、行列をつくって収容所に向かうこのときの様子は、米軍の映画班のフィルムに記録されているという。
 今から見れば何でもないことのようだが、軍が「敵に寝返るような非国民はいないか」と、たえず監視の目を光らせている最中のことであり、「この二人の命がけの勇気こそ奇跡と呼んでたたえられるべきであろう」と、大城将保という沖縄戦の研究者は書いている。(『沖縄戦の真実と歪曲』2007年 高文研)

 

(おわり)

 

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