女は二度決断する

                     【ブログ掲載:2018年5月11日】


▼連休中に映画を2本観た。一つはドイツ映画「女は二度決断する」(監督:ファティ・アキン)である。
 映画の主人公はドイツ人女性のカティヤ。夫はトルコからの移民で、麻薬に関わって服役していた時に、彼女は獄中結婚した。夫は出所後は薬から足を洗い、ドイツ在住の外国人を対象とするコンサルタント事務所を構え、カティヤは事務所の経理をしている。二人の間には7~8歳の男の子があり、幸せな生活を送っていた。

 ある日、主人公は事務所の夫に息子を預け、女友達と時間を過ごし、戻ってくると事務所近くに非常線が張られ、人だかりができていた。爆発事故があり、犠牲者が出ているという。夫と息子の姿は見えない。
  まもなく、爆発は仕掛けられた爆弾によるもので、犠牲者は夫と息子と判明した。警察は悲嘆と混乱の極にあるカティヤに情報提供を求め、夫はクルド人か?熱心なイスラム教徒か?敵はいたか?と矢継ぎ早に質問を浴びせた。マスコミは、麻薬取引に絡んだトラブルの線で報道した。疲れ果てたカティヤは、自宅の浴槽で両手首を切り自殺を図るが、死にきれず失敗する。
  そのうち彼女は思い出した。若い女が事務所の前に自転車を置いて、鍵もかけずに立ち去ろうとしたので、不用心ですよと声をかけたこと、自転車の後ろには、バイクに付けるようなケースが載っていたこと―――。やがて「ネオナチ」の若い男女が逮捕された。

 

▼裁判が始まった。この映画では裁判の場面が重要な意味を持ち、たっぷりと時間をかけて描かれている。法廷の正面に5人の裁判官が座り、左手に弁護士と起訴された被告の席があり、右手に検察側の席がある。そして傍聴席の前にも裁判官と向き合うように机と座席があり、そこにカティヤと彼女の依頼した弁護士が座っている。カティヤの弁護士は、被告の有罪を立証しようと証人に質問したり、反論したりする役割で、つまり検事の役割を担っている。法廷での論戦は、被告側の弁護士とカティヤの弁護士の間で闘わされ、検事は論戦に参加しない。
 筆者はドイツの刑事裁判についてまるで知識がないので、こういう形が一般的なのかどうか判断できないが、この映画の作られ方から見ておそらく通常の刑事法廷のスタイルなのだろう。 

 被告の若い男の父親が、証人に立った。父親は、自分の家の物置小屋で爆弾を見つけ、警察に届け出、それがきっかけで若い男女が逮捕されたのだった。父親は、息子とは思想が違うので、一緒に暮らしてはいない、と問われるままに答えた。思想が違うというのはどういう意味か、というカティヤの弁護士の質問に、彼は、息子はヒトラーの崇拝者です、と答えた。

 被告の弁護士が立ち、物置小屋のカギをいつもどこに置いていたかと質問した。一般にカギを置くと考えられる場所に置いていたのなら、被告以外の人間でも小屋に入ることができた可能性があるというのが、彼の主張だった。警察の鑑識担当者は、被告たちや父親の指紋以外に、誰のものか特定できない指紋が一つあったと証言した。
 弁護側はさらに、事件当日、被告の男女はギリシャにいたとアリバイを主張し、ギリシャ人の男を証人に立てた。証人は、二人は自分のホテルに確かに泊まっていたと、宿帳のサインを示して証言した。
 カティヤの弁護士が立ち、ひとつの映像を見せた。ギリシャの極右政党の集会で、そこには証人のギリシャ人の顔も映っていた。極右政党は各国をまたいで連携しており、証言は信用できない、と彼は反論した。いや、自分たちの政党はデモクラティックな政党だ、とギリシャ人は言った。
 事件は、麻薬取引に絡むトラブルから生じたものであり、被告の女性を事件前に事務所の前で見たというカティヤの証言は、信用できないと弁護側は主張した。
  カティヤの弁護士は、彼女が自転車を置いて立ち去る若い女を見たと警察に語ったのは、父親が物置小屋で爆弾を見つけて警察に届け出た時より時間的に前だったことを挙げ、その証言の信憑性を主張した。―――

 結審後、カティヤは弁護士に判決の見込みを聞き、弁護士は十分有望だと答えた。しかし判決は「無罪」だった。裁判長は、この判決は被告を完全に有罪と判断するには疑念が残る、つまり「疑わしきは罰せず」の原則によるものであることを述べ、法廷を閉じた。被告の男と女は抱き合って喜び、カティヤは硬い表情でこれを見つめた。

 

▼カティヤはギリシャに行き、海岸近くに車を止め、小さなホテルの様子をうかがった。ホテルの主人が出かけたあとホテルに入り、友人を捜しているが、こちらに泊まったことはないか、とスマホをいじって「ネオナチ」の男女の写真を見せた。ホテルの女は、ドイツ人の客は来ない、ギリシャ人だけだと答え、写真を見せられても首を横に振るだけだった。
 カティヤが車に乗ってホテルから離れようとしているところに男が帰り、ホテルの女はカティヤを指さし、あんたのことを探りにきた女だと大声で叫んだ。
 カティヤは追いかけてきた男の車をまき、逆に後をつけた。男の車は浜辺に止められたキャンピングカーの側で止まり、そこにいた「ネオナチ」の男と女に、気をつけろ、あの女がお前たちを探しに来ている、と伝え、帰って行った。その様子をカティヤは、灌木の茂みの後ろで身を低くして見ていた。

 カティヤは街のホームセンターに行き、除草剤や薬品、釘、電気の回線や無線キットなどを購入した。そして自分のホテルの部屋で、薬品類を混ぜ合わせて釘と一緒に圧力釜に詰め、スイッチを押せば無線で発火する爆弾を作りあげた。
 弁護士から電話がかかり、控訴の手続きをしなければならないので、来てほしいという用件を伝えた。わかったとカティヤは答え、爆弾をザックに入れて浜辺に戻った。男と女が出かけた隙にキャンピングカーの下にザックを置き、自分は灌木の茂みの後ろに身を隠して二人の帰りを待った。しかしやがてカティヤは起き上がり、キャンピングカーに近づいてザックを取り出し、それを抱えてまた灌木の茂みに戻った。
 男と女が戻り、車の中に入った。その姿を確認してからカティヤは立ち上がり、ザックを肩にゆっくりと自分も車の中に入った。数秒後、キャンピングカーは爆音とともに炎に包まれた。

 

▼主人公カティヤは直情的な女性である。それはトルコ系移民で服役中の男と、獄中結婚したことでもわかる。この激しく情熱的でエネルギッシュな女性を、ダイアン・クルーガーが鮮やかに演じている。
 この映画は、ドイツで2000年代に実際に起きた、極右グループの外国人への連続テロ事件を下敷きにしているという。だが監督ファティ・アキンは、ドイツ社会の民族的偏見や差別の問題としてではなく、最愛の家族を奪われた女性の絶望と怒りと復讐の人間ドラマとして、映画を撮った。映画はきりりと引き締まった力作で、細部まで丁寧に過不足なく描かれている点は見事である。
 主人公の「自爆テロ」による映画の終わりをどう見るかは、ひとにより異なるところだろう。ネット上には、「この映画の結末はすっきりするものではありませんが」とか、「後味がいいとは言えない」、「やり残しがあって煮え切らない感じ」など、否定的な感想が散見される。しかし筆者は、違和感なくすんなり受け入れたし、これ以外の結末は考えられないと思った。
 もしも主人公が「ネオナチ」の犯人を殺して復讐を果し、警察へ自首するような筋書きや、なんらかの試練を経て、主人公が犯人を「許す」心境に至るような筋書きだったとしたら、とても見られたものではないだろう。映画芸術の「真実」の前で、現実社会の「倫理」が間の抜けたものになるのは、致し方ないことなのだ。

 (おわり)


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