貧しい生活は「倫理的」か
               【ブログ掲載:2012年2月11日~3月2日】

1.
 大江健三郎が朝日新聞に月1回、「定義集」という名のコラムを書いている。 これまで一度も読んだことはなかったが、先月(118日)、「【私らに倫理的な根拠がある】原発利用 終結させるべきだ」という大げさな題名を掲げているのに少し驚き、一読した。
大江は福島原発の事故に関し、昨年雑誌に掲載された坂本義和、宮田光雄の文章に共感したことや、「ドイツにおけるエネルギー転換――未来のための共同の仕事」というドイツの報告書を読みたいと強く願っていたことを書き、その翻訳を読み、日本政府もこれに学んで原発の利用を早く終結してもらいたい、という。  

この報告書は、「安定したエネルギー供給のための倫理委員会」がドイツ政府から委託を受けて作成したものであり、その中心部分が雑誌「世界」20121月号に翻訳掲載されている。
 この「倫理委員会」はドイツの信頼ある老政治家や専門学者ら15人から成るもので、福島原発事故発生後に急遽招集され、530日には報告書が完成、この報告を土台に「10年以内にすべての原発を停止する」というドイツ連邦議会の決議が、630日に超党派で行われた。内容はともかく、このスピードには感心させられる。

 

報告書の表現は筆者には理解の困難な部分を含むが、論理の骨格はわかりやすい。

長い間ドイツでは、原発を絶対的に拒否する人々と、相対的なリスクの比較考量のなかで考える人々のあいだで対立・論争があった。しかし今回福島原発の事故を前にして、両者は同じ結論に至ったという。
 原発を絶対的に拒否する人々の主張は、次のようなものである。
 一般に技術的なリスク評価は、事故の規模と事故の起きる確率を掛け合わせる期待値として示されてきたが、この方式は原子力の評価には適用できない。
 交通や建築の安全性なら、事故が起きることを前提にし、事故が実際に起きるたびに一歩一歩学習することが可能だ。しかし原発施設の場合、《最終的な非常事態は起きえないとして排除されている以上、安全という概念は、検証可能な合理性を失うことになる。》
 だから《破局の潜在的な巨大さ、未来の世代が担わねばならない負担、さらには、放射能による遺伝的損傷の可能性、こうしたいっさいを最大限に捉えるべきで、リスクの比較衡量による相対化など試みてはならない》のだと。 

 一方、原発問題を相対的なリスクの比較考量のなかでとらえる人々は、次のように考える。
 巨大技術のプラントに、ゼロ・リスクはありえないし、石炭、バイオマス、水力、風、太陽、原子力の利用に際してのリスクは、相互に比較可能である。

「生物循環の全体に渡る直接的かつ間接的な帰結」を考察の対象とし、科学的事実に基づき合理的かつフェアに比較を行うこと、帰結の規模とならんで、そうしたことが起こる可能性も同時に考察することが大事だ。
 そうした《リスク評価に依拠して、それぞれのエネルギー・オプションのリスクとチャンスを相互に比較考量しなければならない。》
 また《社会には、原子力を放棄した場合の帰結を考える義務もある》、と。 

 しかし今回の福島の原発事故が、「リスク」感覚を変えた。事故が日本のような高度のテクノロジーを備えた国で起きたこと、事故から数週間たっても終わりが見通せず、損害の規模も分からないこと、また「技術的なリスク評価」の限界性が明らかになったとみられることが衝撃だった。リスク比較考量論者は次のように言わざるをえない立場に立った。 

 《比較考量は、つねにその出発条件やコンテクスト条件次第である。それゆえ、ある国において、あるいは別の時点において、原子力エネルギーについて肯定的な全体評価にいたる場合もあれば、別の国において、また別の時点において、否定的な全体評価になる場合もある。そのどれも正当でありうる。》

 そして比較考量を「今日のドイツのコンテクスト」で行った結果として、次のような結論に至った。

 《環境や経済や社会と適合する度合いを考慮しながら、原発の能力をリスクの低いエネルギーで置き換えうる程度に応じて、原発の利用をできるだけ早く終結させるべきである。》

要するに、原発を絶対的に拒否する人々と、相対的なリスクの比較考量のなかで考える人々とは、原発を止めることで意見が一致したのである。

 

3.

 日本でも「原発はいらない」、「脱原発」、を叫ぶ人々がいる。筆者はこれまで、この種の声をいいかげんに聞き流していたのでよく解からないのだが、ドイツの「絶対的拒否」派の主張と同様と考えてよいのだろうか。
 ドイツの「絶対的拒否」派の主張は要するに、原発事故がもし発生するとその被害は想像を絶する規模になるから、原発を止め、廃止しようというものである。
 可能性は低いとしても、危険がまったくゼロでないかぎり、関わりを持ちたくないし持つべきでない、というのは一つの態度ではあるだろう。
 しかし不思議に思うのは、彼らが原発事故の危険性について思いめぐらすのと同様の熱心さで、人間にとってのエネルギー消費の問題を考えているようには見えないことである。 

 現代人の生活は、家や衣服、食糧、家具や電化製品、新聞や本、電話、PC、車など、多くのモノの使用に支えられており、道路、鉄道、電気、水道、ガス、下水道などのインフラも含め、これらのモノの維持と生産には、膨大なエネルギーの投入が欠かせない。

 《世界全体、あるいは日本全体でも、このモノの生産に全エネルギー消費の約半分があてられている。》(引用は、石井彰「原子力発電の代替エネルギーは何か」 日経ビジネスオンライン 2011415日 から。以下同じ)
 《これらの基礎物資の輸送・配送も考慮すると、全エネルギー消費の3分の2にもなる。》
 《家庭での直接的なエネルギー消費というのは、全エネルギー消費の約1割程度しかない。》

 電力消費はエネルギー消費の一部に過ぎず、家庭で直接使用する分はそのまた「3割以下」だという。
 昨年夏、日本の多くの原発が止まり、電力消費のピークを乗り切るために、「照明をこまめに消す」ことや「冷房設定の温度を高くする」ことが呼びかけられた。一時的、瞬間的には、それも効果があったかもしれないが、問題は、われわれの文明全体が巨大なエネルギー消費・電力消費の上に乗っていることであり、日常生活の貧しさや不便さを少し甘受すればどうにかできるという次元の話ではない、というところにある。 

 もしもエネルギーが十分供給されないと、どうなるのか。石井彰は、
 《安くて大量で安定的なエネルギーが供給されないと、中長期的に暖衣飽食の生活と公衆衛生インフラが崩壊する。この結果、死亡率が劇的に上がって、18世紀の産業革命以前の中世より、ずっと高い死亡率水準にならざるを得ない》という。

 《なぜ、産業革命以前より死亡率がずっと高くなるかというと、当時に比べて世界の人口と人口密度は約8倍に増加しており、世界人口の51%、先進国では78%が都市に居住しているからである。都市では人間生活に必然的に伴う排泄物・廃棄物の自然浄化は全く期待できず、食糧は全く自給できない。だからこそ、産業革命直前に比べて、世界のエネルギー消費量は約30倍に、一人あたりでも約4倍に上昇しており、しかも先進国では数十倍に激増している。
 というよりも、本当は因果関係が逆で、
18世紀に石炭という非常に安くて効率のよい化石エネルギー源が歴史上初めて本格導入されたから産業革命が生じ、その結果、公衆衛生インフラの確立と暖衣飽食が可能になり、結果、死亡率が劇的に低下して人口爆発が生じ、世界的に都市化が加速度的に進んだのである。》―――

 原発問題に関する筆者の考えはごく単純であり、現代人の生活に「必要なエネルギー・電力を確保する」というところから思考を出発させるべきだ、ということに尽きる。「必要なエネルギー・電力を確保する」ことこそ、政治の第一の責任でなければならない。
 より安全で安定的に供給される代替エネルギー・電力源が確保できるなら、ドイツの「比較考量」派にならって、原発停止に同意することもよいだろう。しかし確保の見通しが立たないのなら、代替手段が手に入るまでの当分の間、現代人は原発と嫌でも付き合わなければならない。
 ドイツの「報告書」の結論、《環境や経済や社会と適合する度合いを考慮しながら、原発の能力をリスクの低いエネルギーで置き換えうる程度に応じて、原発の利用をできるだけ早く終結させるべきである。》は、「絶対的拒否」派の主張を全面的に肯定したわけではない。「早く終結させるべきである」という結語部分に、「環境や経済や社会と適合する度合いを考慮しながら、原発の能力をリスクの低いエネルギーで置き換えうる程度に応じて」という条件が付いていることの意味を、注意深く読みとらなければならない。

 

4.

 大江健三郎が「共感」したという坂本義和と宮田光雄の文章を筆者も読んでみたが、「困ったものだ……」というのが正直な感想だった。それぞれの結論部分を引用しよう。
 

 《原発は、もともと自然界に存在しないウラン235を原料とするという点からして、根本的に自然に逆らう、おごりの発想の産物なのだ。自然界の、あらゆる報復は「想定内」のはずだ。》
 《日本国民は、人間のおごりの上に成り立つ、今の生き方、生活様式そのものを変革して、世界的格差のない人類共有となりうる「モデル」を創る道を探る時ではないか。今回の天災と人災とが、それを、われわれに問うているのだ。》             (以上 坂本義和「人間のおごり」から 『世界』20115月号)

 《電力消費の問題一つとってみても、いわゆる豊かさを追い求めるのではなく、たとえ貧しくなろうとも、日常生活の不便を忍んでも、人間らしく生きるとはどういうことか、真に生きることの意味を、今こそ深く問いつづけなければなりません。そのことなくしては、「いま人間であること」そのものが成り立たなくなっているのです。
 今回の大震災は、私たちにたいして重大な警告を発しています。これまでのような政治、経済、社会の在り方を根本的に改革し転換しなければならない。それは、現代文明そのものの構造変革を問うているのです。》
    (以上 宮田光雄「いま人間であること」から 『世界』20115月号)

 坂本義和も宮田光雄も、大震災と原発事故を前にして、「人間のおごり」に対する天罰のようなものを読み取り、われわれの「生活様式」も「政治、経済、社会の在り方」も「現代文明そのもの」も変革し転換しなければならない、と奮い立っている。
 年寄りの冷や水、とは言うまい。年齢や性別を言い立てて論者を冷やかすのは、卑しい振る舞いだ。
 しかし彼らはなぜ、もっと具体的なレベルでの問題整理や検討を飛び越して、一足飛びに「生活の悔い改め」にまで走ってしまうのだろうか。

たしかに大津波によって地上の建物が根こそぎ失われ、戦後の焼け跡のような光景がどこまでも広がっている現実は、生活の確信を揺るがすのに十分だし、死者・不明者併せて2万人という規模も衝撃的だ。家を流され家族や親しい知人を失った人々が、無常感に襲われたり宗教的感傷に流されたとしても、少しも不思議ではないだろう。
 しかし「知識人」に求められる役割は、感傷の音頭をとることではなく、広い視界のなかで問題を整理し、展望を拓いて見せることである。
 たとえばビル・エモット(英エコノミスト誌前編集長)は、東日本大地震が世界に与えた教訓の一つとして、日本の耐震技術の有効性を証明したこと、を挙げた。この20年間に世界中で発生した地震のワースト4に入る巨大地震だったにもかかわらず、建物の倒壊による人的被害はほとんどなかったことを指摘したのだが、こういう指摘は呆然自失した日本人への、何よりの励ましであるだろう。(このことは昨年421日のblogに書いた。)

 一方、坂本義和や宮田光雄の発言とそれに共感した大江健三郎に感じられるのは、たわいのないセンチメンタリズムと知性の衰弱である。筆者は坂本が、飛行機の墜落事故のニュースに接したときに、「飛行機は地球の引力に逆らって空を飛ぶ人間のおごりの発想の産物だ」、「墜落することは『想定内』のはずだ」などと言いださないように、祈らずにはいられない。

 

5.

 ドイツの「報告書」をはじめに紹介するにあたり、その「表現は筆者には理解の困難な部分を含む」と書いたが、理解困難な部分の一つは「倫理的」という言葉である。

 翻訳された報告の中に「倫理的評価」「倫理的考察」「倫理的論拠」「倫理的判断」等、「倫理的」がいくつも登場し、委員会自体が「倫理委員会」を名のるのだが、筆者にはその意味がよく掴めないのだ。
 ふつう日本語で「倫理的」といえば、「行いが正しい」、「道徳的だ」、「道義にかなっている」といった意味のはずだが、報告のなかでは必ずしもこういう意味に使用されているようには見えない。例を引こう。 

 《原子力の利用とその停止、さらには停止にあたっての種々の代替エネルギーによる穴埋め、こうしたことに関わるいっさいの決定は、社会における価値決定にその根拠を持つ。こうした価値決定は、技術的側面や経済的側面に先行するものである。未来のエネルギー供給および原子力を倫理的にどのように評価するかにあたって鍵となる概念は、持続可能性と責任である。》 

 何回読み直しても意味のとりやすい文章ではない。それが翻訳のせいなのか、それとも「倫理的」という言葉のなじめなさのせいなのかは後で考えるとして、とりあえず筆者が読み取った意味は、次のようなものだ。 

(原子力利用を続けるかどうかは、技術的・経済的な判断よりも深いところにある社会の価値判断にかかっている。社会が決めるにあたって考慮すべき要点は、「持続可能性」と「責任」である。) 

 他の例を引こう。

《比較考量にあたっての基盤は、科学的事実であり、倫理上の評価基準、それも共通の一致を見た筋の通った評価基準である。(中略)その際、できるだけ合理的かつフェアな比較考量がなされるように、倫理的考察が手助けすることになる。だが最終的に重要なのは、政治的な意思決定プロセスである。このプロセスこそが、どういった評価基準がより重視され、逆にそれ以外が低く評価されるかを決めるのである。》 

これまた頭を抱えたくなる文章であるが、何とか意味が解るようにパラフレーズしてみる。 

(原子力や代替エネルギーを比較考量する場合、科学的事実に基づき、共通の基準に照らし、合理的かつフェアに行わなければならない。この基準の内容を最終的に決めるのは政治的な意思決定プロセスである。) 

 もう1例だけ、引用する。今度は比較的わかりやすい。 

 《今日から見ると、平和利用というのは、未来の大いなるユートピアを描くものでしかなかった。このユートピアは、当時の知識水準の枠内では、倫理的論拠を持っていたものだったが、こうした根拠づけは、今日では、少なくともドイツにおいては、もはや通用しなくなった。》 

 (=前略= このユートピアは、当時の知識水準の枠内では、社会的に受け入れられるものだったが、今日では、少なくともドイツにおいては、もはや通用しなくなった。) 

 他の例も同様であるから、例示はこの3例でやめる。
 文章を分かりやすく言い直すにあたり、「倫理」や「倫理的」という言葉を使用しなかったのは、使用しないことで意味が通じやすくなるからである。これらの文章の解りにくさは、日本語としてこなれていない言い回しをしていることもあるが、それよりも、「倫理」や「倫理的」というカテゴリー上異質の言葉が挿入・使用されているところから来ている。
 コンテクストから判断するかぎり、この「倫理」や「倫理的」は、「道徳的に正しい」「道義にかなっている」という意味ではなく、「その社会における価値判断」、「社会の価値判断に合致し、受け入れられる」といった意味で使われているようだ。
 つまり原子力エネルギーの採用が、社会の選択として「正しい」かどうかを論じているのだが、「正しい」という意味は「賢明で適切な選択」という意味であり、「道徳的に正しい」という意味ではない。両者はカテゴリーを異にするのであり、仮に原子力利用が「愚かで不適切」な選択だとしても、それが「道徳的に不正である」ことにはならないし、「賢明な」選択だったとしても、「道徳的に正しい」ことになるわけではない。 

ドイツ語の「倫理」や「倫理的」という言葉を、上のように使用することが自然なのかどうか、筆者は知らない。しかし大江健三郎がこの意味のズレないし拡張を利用して、「【私らに倫理的な根拠がある】原発利用 終結させるべきだ」と言うのは、はなはだ感心しない。
 それは「科学的事実に基づき」、「合理的かつフェアに」検討すべき課題のなかに、「正義不正義」の問題を混入させ、混乱を助長するからであり、そのことをドイツの有識者会議の権威とノーベル賞作家の虚名を使って行う試みだからだ。

「倫理的」という言葉は、きわめて劣悪な環境のなかで原子炉を冷却し、抑え込んでいる福島原発の人々の奮闘努力を語る場合にこそ、使われるべきである。


ARCHIVESに戻る