論駁――ロッキード裁判批判を斬る――
               【ブログ掲載:2018年1月5日~2月9日】


▼優れた裁判映画が、日本にないわけではない。筆者も昔、今井正の「真昼の暗黒」や山本薩夫の「証人の椅子」を、内容はすっかり忘れたものの、心を熱くして観た記憶がある。
 新しいところでは、周防正行監督の「それでもボクはやってない」(2007年)だろう。日本の刑事事件の有罪率の高さ(第一審ではなんと99.9%)を前にして、「無罪」の判決を出すことに憶病になり、弁護側が提出した無罪の証拠を屁理屈を付けて無視しようとする裁判官への、怒りが込められた佳作だった。
 映画「否定と肯定」を観終わってから、そんなことを思い出したのだが、「否定と肯定」の面白さは日本の裁判映画と少し違うようにも思った。上の日本映画に共通するのは、裁判官も含めた国家権力が無実の個人を抑圧する、その理不尽さへの怒りである。一方、「否定と肯定」では、アーヴィングの主張のデタラメさをどのように立証するかという知的な関心が、ドラマ構成の中心に来ているようだった。
 アーヴィングvsリップシュタット裁判は、名誉棄損訴訟という点では、最近このブログで採り上げた沖縄戦での「集団自決」をめぐる裁判、いわゆる「大江・岩波裁判」と同様である。書物によって「名誉を棄損された」として著作者と出版社が訴えられ、訴えた側は「名誉の回復」だけでなく、裁判を通して自分の歴史観が広まることや、大戦時の歴史記述が修正されることを狙っていた。
 しかし「大江・岩波裁判」の争いの中心は、「集団自決命令」があったか否かであり、また「集団自決命令」があったとする記述は、名誉棄損の免責条件に該当するか否か、という問題だった。歴史記述の全体の信憑性が裁判の場に引き出されたアーヴィングvsリップシュタット裁判に比べれば、かなり地味という印象はぬぐえない。
 調査と論理によって相手の主張の誤りや誤魔化しを暴き出す、そのスリリングな過程を味わえるような日本の映画や書物はなかっただろうかと考え、一つだけ、その優れた例を思い出した。立花隆の『論駁――ロッキード裁判批判を斬る』(Ⅰ巻~Ⅲ巻 1985年~1986年 朝日新聞社刊)である。

▼1976年7月27日、前総理大臣・田中角栄が逮捕され、8月16日、外国為替管理法違反と受託収賄罪で起訴された。いわゆる「ロッキード事件」である。裁判は1977年1月に始まり、1983年10月12日、「懲役4年、追徴金5億円」の一審有罪判決が出された。
 これに対し、㈱文藝春秋発行の雑誌『諸君!』誌上で、ロッキード裁判批判のキャンペーンが大々的に行われた。1984年新年号に渡部昇一「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」に始まり、84年3月号に渡部昇一「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七カ条」、4月号に渡部昇一・伊佐千尋「『角栄裁判』は違憲合法だ!」、5月号に石島泰「『角栄裁判』は司法の自殺だ!」、6月号に「『角栄裁判』は主権の放棄だ!」と続く。
 当時立花隆は、「ロッキード裁判」の第一審を7年間傍聴し続け、『朝日ジャーナル』誌上に傍聴記を連載し終えたところだった。立花の目から見て裁判批判の議論は、どれも事実を踏まえていないという点で共通していた。
 『諸君!』7月号に「立花隆の大反論」を、編集長のインタビューに応える形で発表すると、同誌8月号は、匿名法律家座談会「立花流『検察の論理』を排す」と伊佐千尋・沢登佳人「『角栄裁判』は宗教裁判以前の暗黒裁判だ!」を載せた。立花の旧くからの知り合いである編集長は、酔ったときにこう言ったという。「向こうは裁判官も検察官も出てこない。だから、向こうの立場を一番よく代弁できるお前を引っ張り出してきて、ぶっ叩かなくちゃ、こっちの勝ちにならないわけだ」。
 この編集長は『文藝春秋』本誌に異動し、その10月号に渡部昇一「『角栄裁判』に異議あり」を載せた。また、『正論』が新たに裁判批判の列に加わり、10月号に林修三・元内閣法制局長官と俵孝太郎の対談「『角栄裁判』の虚構」を載せ、法務大臣で元警視総監の秦野章も裁判批判を内容とした『何が権力か。』を出版した。田中裁判批判の波は広がっていった。

 《反論というのは手間がかかるものである。デタラメは簡単に口にすることができる。しかし、そのデタラメを取りあげ、それがデタラメである所以を分析して示した上で、それに反駁するという作業は、その何倍もの手数を必要とするのである》。《あれこれのメディアを利用して、数多くの論者が展開した裁判批判論は、内容的に相当ダブっているとはいえ、千枚は軽く超える。そして反論は相手の論を引用しながらやっていかなければならないので、余計手間がかかる。相当のスペースがなければ、これまで裁判批判者たちがまき散らしたデタラメを説得力を持って正していくことはできない》。(『論駁』Ⅰ)
 立花は『朝日ジャーナル』から、「いくらでも書きたいだけ書いてよい」という申し出を受けて、84年10月12日号から1年以上にわたって「ロッキード裁判批判を斬る――幕間のピエロたち」を連載した。それを単行本にまとめたのが『論駁』Ⅰ(1985年)~『論駁』Ⅲ(1986年)である。
 筆者は、『朝日ジャーナル』連載の立花の文章を愛読した。本屋で立ち読みする場合が多かったが、毎回充実した満足感があった。

▼「ロッキード事件」は、1976年2月4日に米国の上院外交委員会多国籍企業委員会(通称チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社の対外工作が明るみに出たことに始まった。ロッキード社が、旅客機・トライスターの売り込みを図るために、正規の帳簿に載らない多額の金銭を諸外国の企業にばらまき、その一部が政府高官に渡ったというのである。
 日本に関しては児玉誉士夫がロッキード社の秘密代理人になり、多額のコンサルト料が支払われていたことが明らかになり、丸紅専務の伊藤宏がサインした「ピーナツ100個受領」などという領収証のコピーが出てきた。ピーナツ1個は100万円とされた。
 丸紅はロッキード社と代理店契約を結んでおり、全日空にトライスターの売り込みを図り、ダグラス社の代理店としてダグラスDC1型機を売り込む三井物産と、はげしい競争を繰り広げていた。 全日空は1972年10月に、新機種としてトライスターを採用することに決定したが、この機種選定に関して政府高官が絡み、金が流れたのではないかという疑惑が生じたのである。
 衆議院予算委員会は76年2月から3月にかけて、この事件で全日空の幹部や丸紅の幹部、小佐野賢治などを証人として喚問した。

 1977年1月に始まったロッキード裁判は、立花隆によれば、丸紅ルート、全日空ルート、児玉ルート、小佐野ルートの四つに分かれて同時進行した。(児玉ルートと小佐野ルートは同じ法廷で裁かれたから、三つに分かれて行われた、と書かれることも多い。裁判としては「あくまでも丸紅ルートが主役」(立花)であり、裁判批判の対象として騒がれたのも、この丸紅ルートの裁判である。)
 丸紅ルートの被告は田中角栄(受託収賄・外為法違反)、秘書の榎本敏夫(外為法違反)、丸紅会長・桧山広、専務・大久保利春、専務・伊藤宏の計5人で、丸紅の幹部は三人とも贈賄、外為法違反、偽証の罪に問われた。
 全日空ルートの被告は、元運輸大臣の橋本登美三郎(受託収賄)、元運輸政務次官・佐藤孝行(受託収賄)と全日空の社長・若狭得治以下幹部6人の計8人であり、全日空の幹部は外為法違反や偽証の罪に問われた。
 児玉ルート、小佐野ルートの被告は、児玉誉士夫(脱税、外為法違反)とその秘書(外為法違反)、小佐野賢治(偽証)の計3人だった。
 16人の被告は、裁判途中で死亡した児玉誉士夫が控訴棄却となった以外は、全員が第一審で有罪の判決だった。



▼筆者はこのブログで、ロッキード事件やロッキード裁判を振り返るつもりはない。また、ロッキード裁判への批判に対して反批判を加えた立花隆の『論駁』について、その全体を紹介し批評するつもりもない。
 なにしろ立花の『論駁』は、単行本3分冊、400字詰めの原稿用紙にして二千枚を超える長さである。また批判と反批判の議論の中心にくるのは、「総理大臣の職務権限」の問題であり、「嘱託尋問調書」をめぐる「法的根拠」、「免責」、「最高裁宣明」、「証拠能力」などの問題である。立花は元法制局長官や学者、弁護士など法律専門家の議論を取り上げ、見事な手際の良さでその「誤り」を分かりやすく指摘しているが、法律上の論争そのものはそれほど一般人の興味を引くものではないだろう。
 しかし、そういう法律上の論争点をめぐって立花が議論を展開している部分は、じつは『論駁』のせいぜい二分の一ないし三分の一である。あとの残りは、裁判批判者たちの批判が、いかに事実に基づかない妄想や非論理によって組み立てられているか、を明らかにした部分であり、その実情に驚かされる。それなりに著名なジャーナリストや学者が、一流とされる雑誌に発表した文章や発言が、なんら根拠のないデタラメだということが次々に暴露されるのだが、その実態を知れば読者は誰しも考え込むことだろう。
 『論駁』の中心である法律論争の部分は基本的に割愛し、立花が「調査と論理によって相手の主張の誤りや誤魔化しを暴き出す、そのスリリングな過程」が垣間見られる部分を、少しだけ覗いてみようと思う。

▼立花は、「誤り」という言葉の意味を明確にするところから、書きはじめる。

 《法律問題というのは 数学や物理の問題のように、答えが必ずしも一義的に出るわけではない。一つの論点について、二つどころか、場合によっては、三つも四つもの議論が同時になりたちうる場合すらある。どの分野でもよい、法律の専門書をひもといてみるとすぐわかるように、たいていの論点について、多数説、通説はこう、少数説として学者Aはこれこれの説を唱え、学者Bはこう主張しているが、実務上は一般にこう解釈されているなど、三つも四つもの説を併記した上で、著者の立場が書かれているのが常である。/どの立場をよしとするかは、要するに見解の問題、選択の問題である。主観的な主張なのである。》
 《従って法律のプロ同士が議論していて、相手の見解を「誤り」ときめつけるとき、それは通常、「理論的にはそういう主張が成り立ちうるとしても自分はその主張にくみしない」という意味の主観的「誤り」を意味しているものである。/こうした主観的「誤り」に対して、一プラス一を五としてしまうような、客観的、絶対的「誤り」は、プロ同士の議論においては、きわめて少ない。/しかし、この角栄裁判批判においては、法律や裁判に関して基本的知識を欠く人がかなり参加したために、この手の客観的誤りがあまりにも多く混在している。それだけではなく、裁判批判の側に立つ法律のプロの中には、なぜかこの問題に関しては、平気で明白な客観的誤りの上に論を立てるという、およそ法律のプロとは信じられぬことをしている人も何人か見受けられる。》

 立花は、そういう明白な「客観的誤り」をまず洗い流してしまわなくては、実りある論争は期待できないとして、論点の整理に入る前に、裁判批判キャンペーンのトップバッター・渡部昇一の所論を取り上げた。

▼渡部昇一の論文「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」(『萬犬虚に吠える』1985年 所収)は、治安維持法で二年数カ月拘留された近親者の話に始まり、古代社会の「神明裁判」の話や渡部自身の英国での裁判体験などを交えながら、裁判批判を展開する。大仰な身振り手振りが気になる向きには鼻白むものだったかもしれないが、語り口は滑らかで、気分よく最後まで読み終えた読者も多いことだろう。
 渡部の「批判」の内容を項目として整理すると、
① 第一審の判決後、元最高裁長官の岡原昌男と藤林益三が新聞のインタビューにそれぞれ答えて、「一審判決を軽く見るのはやめてほしい。田中元首相の居座りは司法軽視の姿勢をさらに進めるもので、許されるものではない」と発言しているが、これは裁判の三審制を無視し、社会に田中有罪の予断を与えるものである。
② 田中角栄への予断なしでこの裁判を見てみると、首をかしげる箇所がいくつもある。田中に渡ったとされる五億円についても、《これが問題にされたことはほとんど聞いたことがない。》《そのお金は誰がダンボールにつめたのか。いくらロッキードが大会社でもそんな大金が現金で経理部においてあるはずがない。銀行だって急に取りに来られたって用意してないであろう。誰が頼んだのか。それは何銀行であったのか。それともそのダンボールはロッキード本社からとどけて来たのか。外国から持ち込んだのなら空港での通関はどうしたのか。アメリカでその札束を集めたのは誰か。》《被告の田中氏はそれは受け取らなかったと言っている。もし検察側が「受け取った」と主張するならば、その膨大な量の札束をどうして集め、誰がダンボールに詰めたかまで明らかにしなければなるまい。その辺がどうなっているのか、それは後でのべる恐ろしい理由によって、調査されなかったのである。》
③ 裁判官は「準職務権限」という概念を持ち出して、田中を有罪にした。それは、総理大臣は民間会社の商売に口出しする「準職務権限」がある、という意味になるが、それで良いのか。
④ 弁護人側の反対尋問が許されない外国人の証言を、全面的に採用して有罪判決を下すのは、刑事被告人の権利を定めた憲法37条に違反する。東京裁判でさえ被告側の弁護士は、検事側の証人に対し反対尋問をする機会を、十分ではなかったが与えられていた。ロッキード裁判は、東京裁判よりも被告の権利が守られなかった暗黒裁判だ。

 以上のようなものだろう。「後でのべる恐ろしい理由」とは何か、興味津々で最後まで読んだが、渡部は自分の言葉を忘れてしまったらしく、何も述べられていなかった。

▼立花は、上の①の元最高裁長官の発言を問題にする渡部の批判は、イカサマ論法だという。イカサマ論法とは、「人の発言をねじまげて引用して、人が言っていないことを言ったとして論を進めるたぐいの論法」だとし、元最高裁長官の発言を渡部が捻じ曲げていることを指摘する。
 一審判決後、最大の政治問題になったのは、田中に対する辞職勧告の問題だった。野党側が一斉に辞職を要求したのに対し、政府も自民党も、最高裁で無罪が確定するまでは無罪が推定されるとして、要求を拒否した。この問題、つまり日本の三審制の中で一審判決はどういう重みを持つのか、一審判決しか出ていないということは、田中が政治責任を取ることを拒否する理由として妥当なのか、という問題が、元最高裁長官に質問された。元最高裁長官二人は、一審判決というものの重みを指摘し、田中の政治責任回避の論理を批判した。
 《二人はあくまで政治家田中の身の処し方について意見を述べているのであって、被告人田中の身の処し方、すなわち控訴すべきか否かについて意見を述べているのではない。二人の発言をよく読めば、二人とも被告人田中が最高裁まで争うことを当然の前提としていることはすぐわかるだろう。》
 この立花の指摘は、言葉の微妙な問題を的確に処理していく彼の能力の一斑を示し、その後の「論駁」への期待を高めるのに十分と言えよう。

 ②の、五億円が田中に渡ったというのは予断であり、裁判で五億円が「問題にされたことはほとんど聞いたことがない」という渡部の批判について、立花は次のように感想を述べる。《これが一応言論人として名の通った人物が、一応言論誌として名の通った雑誌に書いた論文であるという事実が悲しかった。日本の論壇のレベルは、ここまで低いのだろうかと情けなかった。》
 裁判では、五億円の金は終始問題とされてきた。五億円はトータルで65㎏弱の重さで、1億円、1億2500万円、1億2500万円、1億5000万円の4回に分けられ、ダンボール箱に入れて運ばれた。法廷ではこのダンボール箱を運んだ丸紅の元秘書課員が証人として呼ばれ、いろいろの大きさ、重さの段ボール箱をかかえて、どれが自分の記憶に近いかを証言する再現実験による立証も行われた。
 五億円の金は、ロッキード東京事務所で支社長・クラッターが勘定してダンボール箱に詰め、取りに来た丸紅の元秘書課員に渡した。ロッキード東京支社では、通常の業務外に用いられる秘密工作資金は現金で保持していた。資金はディーク社という世界中に支店を持つ金融サービスの会社に依頼して、香港経由で日本に送られてきた。アメリカから香港への送金はディーク社の支店間の為替操作で行われ、香港から日本へは運搬人の手によって現金や小切手が現送された。法廷にはこの運搬人も証人として出廷し、クラッターに多額の現金を何度も届けたという証言をしている。――
 もう一度、立花の感想を紹介する。《くり返しになるが、本当にこういう例も珍しい。誤りがところどころにあるというならまだしも、はじめから終わりまでデタラメなのである。いったいこの方はどういう神経をお持ちなのか。……事実から離れて、自分勝手にあれこれ妄想をたくましくして、その妄想の上に立って裁判批判を展開なさるのである。/こういう人が、こういう手法で冤罪だの、無実の罪だのを論じるのは、悪い冗談というほかない。》



▼立花の「論駁」を続ける。
 ③の「職務権限」の問題に関する渡部の批判は、次のようなものだった。
 裁判官は職務権限の問題について、検事側の言うとおりには認めなかったが、「準職務権限」という概念を持ち出して田中を有罪にした。したがって機種の選定について、総理大臣の職務権限があることを、実質的に認めたことになる。だがそれは、総理大臣が民間会社の商売に口出しする「準職務権限」がある、という意味にほかならない。田中角栄の場合は5億円を貰ったということで有罪になったが、賄賂さえ取らなければ首相は日本中の民間会社の商売に口出しできるということになる。それで良いのか。―――

 渡部昇一の批判の論旨は、裁判官が「準職務権限」というインチキな概念を持ち出すことで、田中を無理やり有罪にした、ということである。しかし立花は、この「準職務権限」などという言葉は、判決文を「はじめから終わりまで目を皿のようにして読んでも」、どこにもないと言う。渡部が発明した言葉など、出てくるはずがない。
 「準職務権限」ではなく「準職務行為」という言葉は、賄賂罪の最高裁判例から出た概念として確立している。立花は、渡部が「権限」と「行為」を間違ったのだろうと好意的に解釈した上で、議論を進める。
 刑法197条は賄賂罪について、公務員が「その職務に関し」賄賂を貰ったり、要求したり約束したりすることと規定し、罰則を定めている。
 「その職務に関し」は「職務権限」よりもはるかに広い概念で、法令上所管する職務行為ばかりでなく、職務と密接な関連のある行為、すなわち「準職務行為」も含むものとされている。このことは最高裁判例によって確立し、賄賂罪の常識として田中弁護団も異議を唱えていない。
 「田中判決」の場合、総理大臣の全日空への働きかけは「準職務行為」にあたると認定され、また全日空を行政指導できる運輸大臣への指揮監督権があるため「職務権限」も認定され、収賄罪が成立したのだった。そこには少しも、無理なこじつけも苦し紛れのインチキもない、と立花は説明する。

▼「総理大臣が民間会社の商売に口出しする『準職務権限』があると認めることは、賄賂さえ取らなければ、首相は日本中の民間会社の商売に口出しできるということになるが、それで良いのか」という奇妙な理屈は、田中弁護団の主張を裏返した形になっている。田中弁護団は法廷で、「民間会社の機種選定に口を出すことは、総理大臣にも運輸大臣にも法律上許されていない。法律上許されていないことだから、職務権限に入るはずがない」と、手を変え品を変え主張した。
 判決はそれは誤りであるとし、違法な行為であっても「職務権限内の行為であることを否定されるものではない」とした。立花も判決を解説しながらこの理屈の誤りである理由を説明しているが、筆者なりに理解したところを示すと以下のようになる。

 職務権限から見て違法・不当な行為でも、賄賂罪を論ずる上では職務権限内の行為とみなされる。しかしそのことは、違法・不当な行為を正当な職務行為とするわけではない。
 もし職務権限から見て違法・不当な行為を、「職務権限なし」として賄賂罪が否定されるとしたら、どうなるか。賄賂罪が成立するのは正当行為をしたときだけ、というおかしなことになってしまう。
 一般に賄賂というものは、違法・不当な職務執行を依頼して手渡されるものであり、それを賄賂罪上の「職務」に関するものと認定することは、違法・不当な職務執行を認めるという意味ではない。
 《総理大臣が、全日空の機種選定にそこまで具体的に口をはさむのは、もちろん、総理大臣の職務上、おかしな行為なのである。しかし、だからといって、職務権限から外れてしまうわけではないのである。》(『論駁』Ⅰ)

 少々分かりにくいのだが、賄賂罪の認定における「職務権限」という言葉の中に、詭弁の生じる余地があるのだろう。

▼渡部昇一が④で批判している「嘱託尋問調書」の「証拠能力」の問題は、ロッキード裁判で最大の法律問題であり、論争の中心点だった。しかしそれは渡部の言うような、「弁護人側の反対尋問が許されない外国人の証言を採用して有罪判決を下すのは、憲法違反だ」という主張のレベルで、論争されたのではない。
 立花は「嘱託尋問調書」の「証拠能力」や「法的根拠」、「免責付与」、「最高裁宣明」などの問題に、『論駁』全体の三分の一ほどのスペースを当てて詳細に論じているが、このブログでは法律問題の森に分け入ることはしない。ただ渡部が、どのように間違った議論を行っているかを、立花に従って簡単に示すことにする。

 渡部の言う「憲法違反」とは、「嘱託尋問調書」が証拠として採用されたことは、憲法に定める「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続きにより証人を求める権利を有する」という規定(第37条2項)に違反する、という主張である。
 渡部は主張する。《憲法37条に目をつぶることは、日本が法治国家であるかぎり絶対に許されないことである。/平たく言えばこうなる。ある人間が被告について非常に不利な証言をした。その証言は嘘である可能性も高い。そんな証言をどんどん取り上げて有罪にされたら被告はたまったものではない。したがって憲法は、被告側の弁護士にその証人に対して反対尋問する権利を与えているのだ。それもおざなりでなく、充分に反対尋問して嘘かどうかを吟味する機会を保証したのである。(中略)/それが今回のロッキード裁判ではどうだ。田中側弁護人はコーチャンやクラッターに反対尋問する機会が一度でもあったか。》(「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」)
 《ドレフュス事件がフランスにとってあれほど深刻な問題となり、「国にひびを入れた」と言われるほど深い不信感をフランス陸軍や体制に与えることになったのは、裁判官が被告側の反対尋問権を踏み潰したからである。/「証人を呼ぶ権利は人殺しや泥棒にも認められているのであります。私はそれと同じ権利を主張しているのであります」(大佛次郎『ドレフュス事件』)と、いくら弁護士やゾラが叫んでもダメだったのである。反対尋問権の重みは、このような歴史的事件をいくつも経験すると共に加わり、文明国の刑事裁判では不可欠のものになったのである。》(「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七カ条」)

 渡部昇一は、「コーチャンやクラッターに『反対尋問』が行われなかった田中裁判は、憲法違反だ」という主張を、幾度も飽きずに繰り返している。しかしそれは渡部が、憲法にも刑事訴訟法にも無知であり、その運用の実態を知らず、田中裁判の実情も知らないところからくる謬論に過ぎない。

▼憲法の条文に言う「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ」というのは、法廷に出てきたすべての証人に対し、という意味である。ロッキード裁判では検察側証人のすべてに対して、十分すぎるほどの時間をかけて反対尋問が行われた。
 問題はコーチャンやクラッターの「嘱託尋問調書」であり、反対尋問を受けない証言の証拠能力である。一般に、証人は法廷で直接体験した事実を証言し、それに対して反対尋問が行われることになっている。証人が他人から聞いたことを述べても、「伝聞」として証拠能力は認められない。
 反対尋問なしの証言記録も「伝聞証拠」と呼ばれ、供述内容の真偽を直接問いただすことができないという点で、証拠価値は低い。一般的には証拠能力が認められていない。
 しかし「伝聞証拠」は一切認めないということにしてしまうと、裁判によっては正義よりも不正義を喜ばす結果となる場合も出てくる。そこで一定の厳密な要件を満たしている場合には、「伝聞証拠」にも証拠能力を認めることになっている。これは日本だけでなく英国・米国でも同様であり、フランスやドイツなど大陸法体系の国々では、もともと「伝聞証拠」排除の原則がない。
 「伝聞証拠」に証拠能力を与える条件は、日本では刑事訴訟法321条から328条に定められている。だから「嘱託尋問調書」がこれらの規定に該当するか否かが、ロッキード裁判の攻防の焦点だったのであり、判決は検察側、弁護側双方に十分議論させたうえで、「調書」に「証拠能力」を認めたのだった。


▼渡部昇一のデタラメな主張については、いいかげん食傷気味なのだが、行きがかり上もう一つだけ、立花の指摘の中から紹介しておこう。
 前回、渡部の論文の中から、「反対尋問権」の重要さを強調した部分を引用した。渡部は大佛次郎の『ドレフュス事件』を典拠として示しながら、「ドレフュス事件がフランスにとってあれほど深刻な問題となり、『国にひびを入れた』と言われるほど深い不信感をフランス陸軍や体制に与えることになったのは、裁判官が被告側の反対尋問権を踏み潰したからである」と述べた。
 しかし立花によれば、これはまったくのデタラメなのである。大佛次郎の『ドレフュス事件』に、そのようなことは書かれていない。《渡部氏が引用した文章は、たしかに大佛氏の本の中にある。しかし、そこで要求されているのは、反対尋問ではなく、証人喚問である。反対尋問と証人喚問はまったく別のことである。とりあえずその根本的誤りは目をつぶるとして、ではゾラが要求した証人喚問は裁判所によって拒絶されたのであろうか。》
 ゾラが要求した証人たちが続々と裁判所に喚問されて登場する場面を、立花は大佛次郎の『ドレフュス事件』から引用して示し、渡部は本を読むのを途中でやめてしまったのか、といぶかる。
 「ドレフュス事件」は、19世紀末のフランスで、スパイ容疑でユダヤ人・ドレフュス大尉が逮捕され、軍法会議で終身禁固刑に処せられたことから始まる。ひょんなことから参謀本部は真犯人を発見し、ドレフュスの無実であることが判明したが、軍上層部は軍の名誉のためにその事実を隠し、事件のもみ消しを図った。この事実をつかんだゾラは、新聞一面に大統領への公開質問状を出してそれを暴露し、軍部を中心とした不正と虚偽を糾弾した。ドレフュスの再審を求め、自由と民主主義を擁護する声が高まる一方、これに反発する愛国主義や反ユダヤ主義の動きも強まり、フランスの世論は二分された。
 《この事件がフランス陸軍に深い不信感を与えることになったのは、軍が組織をあげて真相もみ消しをはかり、無実と判明した男を獄につないだままにすることによって軍の名誉を守ろうとしたというところにある。反対尋問権などは全く関係がないのである。》(『論駁』Ⅰ)

▼渡部昇一が「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」で主張した裁判批判はまったくの誤りであること、それを立花隆はどのように「論駁」したかについて述べてきた。渡部は上の文章以外に、いくつもの裁判批判論文を書き散らしており、立花はそれに付き合って丁寧に「論駁」しているから、この調子で渡部論文の誤りを取り上げるブログを続けようと思えば、ネタに困ることはない。しかしそれは立花が幾度も嘆息しているように、空しい作業である。
 『萬犬虚に吠える』には渡部の裁判批判論文5本が収められているが、そのうち4本は立花が「論駁」を始める以前に書かれたものであり、「立花隆氏にあえて借問す」(『諸君!』1985年2月号)の1本だけが「論駁」開始後のものである。そこでそれを見ることで、このロッキード裁判の問題は終わりにしようと思う。

▼「立花隆氏にあえて借問す」は驚くべき「論文」である。「論争」と言えば、相手と自分の主張の違いがどこから生じているかを考え、相手の批判の正しい点は認めつつ、相手の間違いを指摘して進行するものと、誰もが考えるだろう。中には詭弁を弄して相手の批判から逃れようとしたり、黙殺することで時間を稼ぎ、読者が忘れてくれることを期待するような情けない論者もいるかもしれない。しかし渡部の上の「論文」は、そのいずれでもなかった。
 渡部は、「(立花は)われわれが提出した角栄裁判批判の本質的な点には答えようとせず、デマゴーグの手法で人身攻撃することに専心しているのである」の一言で立花の批判を斬り捨て(たつもりになり)、「敢えて立花氏に借問したい」と6問を挙げる。6問は項目にすれば、①別件逮捕、②職務権限(首相が私企業の商行為に金さえもらわなければ介入しても良いのか)、③嘱託尋問調書(証拠採用することは憲法の精神に反しないか)、④最高裁の免責宣明、⑤免責付与、⑥反対尋問権、である。これを読めば、立花隆でなくとも唖然とすることだろう。
 立花がこれから論じようとしている法律問題もあるが、既に論じ、渡部の間違いを痛烈に批判したものもある。批判された渡部は、まずその批判に反論できなければ、物書きとして恥ずかしくて、まともに表通りを歩けないはずなのだが、ここには何の反論もない。立花の批判などまるで無かったかのように、平然と自分の主張をただ繰り返しているだけなのである。
立花がこれを読んだ感想は、次のようなものだった。
 《これは反論といっては語弊があろう。反論の体を全くなしていないからである。一口でいえば、これは弁解と悲鳴である。》
 《渡部氏の所説が、ほとんど一節ごとに誤っていることを、これまで詳細に指摘してきた。その誤りの密度の濃さは、ほとんど信じ難いほどである。おそらく近代言論史上において、定評ある言論誌に載った定評ある(?)言論人の論文の中で、渡部氏のそれは、その誤謬密度の濃さにおいて白眉をなすものといっても過言ではあるまい。》
 《私がこれまで批判してきたものは、すべて渡部氏の言論である。渡部氏の言論から離れた渡部昇一個人を攻撃したことなど一度もない。時に渡部氏の知的能力に疑義をさしはさむような表現を用いたこともあったが、それも、渡部氏のあまりのデタラメな言説に仰天してのことである。いったい渡部氏は何を指して「人身攻撃だ」といっておられるのだろうか。》

▼渡部昇一が立花隆を「デマゴーグの手法で人身攻撃」していると書き、また「立花氏は私怨のために良心を失ったデマゴーグにすぎない」(『萬犬虚に吠える』あとがき)などと「人身攻撃」しているので、二人の論文を読んだ読者として、筆者の感想を述べておこう。
 立花隆の文章は、事実を整理しながら分かりやすく説明するシンプルな文体で書かれている。シンプルではあるが正確性や論理性に欠けるところはなく、丁寧に積み重ねられた文章を追っていくと新しい視界が開かれ、知的なスリルを体験することができる。
 井上ひさしがモットーとした、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」に通じる文章として、筆者は評価する。一方、渡部昇一の文章は、派手な身振り手振りで読者に働きかけ、読者を動かそうとするものである。渡部の論文「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」の末尾は、次のように結ばれている。
 《最後にわれわれの中で、外国の報道機関、外国人の物書き、外国人の法律学者などなど、法律に接触する人々に、次のことを決して漏らしてはならない。/「田中角栄被告は、ただの一度も最重要証人に反対尋問する機会を与えられることなく有罪を宣せられたのである。」/それを聞いた文明国の人は、百人が百人、千人が千人、万人が万人、一人残らず日本はそんな野蛮国であったのか、と仰天することであろう。われわれはそんな国の恥を世界の目にさらすことはないのである。》
 講釈師が張り扇で釈台をバンバン叩きながら、声を張り上げているような文体、とでもいえば良いだろうか。
 デマゴギーと親和性のある文体はどちらであるか、説明は不要だろう。

▼田中角栄は一審判決後控訴し、控訴審途中の1985年2月に脳卒中で倒れた。控訴審でも有罪の結論は変わらず、最高裁に上告したが、1993年に死去した。
 「丸紅ルート」の最高裁判決は1995年2月にあり、被告二人(桧山広・榎本敏夫)の上告を棄却し、ロッキード裁判は終わった。公判途中で死亡した田中角栄、児玉誉士夫、小佐野賢治、大久保利春、橋本登美三郎の5人を除く全員が、有罪で決着した。
 最高裁判決は、法律上の二大争点の一つであるトライスターの購入の働きかけについて、首相の職務権限にあたると判断した。
 もう一つの争点、「嘱託尋問調書」の「証拠能力」については、それが刑事免責を与えて得られたものであることを理由に、認めなかった。検察側は、「起訴便宜主義」(刑訴法248条)の援用によって実質的な「免責」をコーチャン、クラッターに与え、調書を取ったのだが、最高裁は、刑事免責の明文規定がないからわが国は免責制度を採用していないと考えるべきであり、免責を与えて得られた供述は証拠として採用できない、としたのだった。
 だがそのことが、渡部昇一が繰り返した「反対尋問がなかったから憲法違反」という主張と何の関係もないことは、言うまでもない。


▼渡部昇一の不運は、立花隆が気のきいた視点を見つけて気のきいた文章をまとめれば満足する、というタイプのライターではなかったことである。
 立花がロッキード裁判を傍聴するにあたり、刑法や刑事訴訟法を一から勉強して臨んだであろうことは、その裁判傍聴記(『朝日ジャーナル』連載)を読めば分かる。勉強は法の実際の運用や判例、日本の法律制度と諸外国のそれとの異同におよび、傍聴記は裁判の進行に対する十分な理解をもって書かれている。
 たとえば「嘱託尋問調書」の「証拠能力」の問題は、1978年5月に傍聴記の2回を当てて分かりやすく解説されている。これは単行本にまとめられ、『ロッキード裁判傍聴記1 被告人田中角栄の闘争』として1981年に刊行された。だから渡部が裁判批判を行う上で『傍聴記』を真面目に読んでいれば、主張の違いはともかく、「ほとんど一節ごとに誤っている」ようなお粗末な議論をすることは避けられたであろう。
 立花のもう一つの強みは、膨大な資料の量を厭わず読み込む能力である。立花は、膨大な量の裁判批判論文だけでなく、裁判批判を行った法学者や法律家が書いた著作や他の論文にも目を通し、その上で「批判」の誤りを指摘した。 

 《相手の議論のどこに弱点があり、どこをどう突けばそれが崩れるかを発見するのは容易なことではない。相手もそれ相応の論客であるから、いちおう表面的にはもっともらしい議論として組み立てられているのである。どこかおかしい、何かが間違っているということはすぐに感じられるのだが、相手の誤りの核心部分を取り出して、それがなぜ間違いであるかを一般読者にわかりやすく解説するというのは、そうたやすい仕事ではない。/そのために、私は法律の原理論にまでさかのぼって、もう一度勉強し直した。一つ一つの法律の条文の解釈や、その運用のされ方、判例などを知るだけでは足りず、そもそもなぜそのような法律があるのか、その法律はいかにして成立し、いかなる歴史を持っているのか、よその国ではどうなっているのかということを調べ、さらには、そもそも法とは何であるかというところまで考えを及ぼさなければならなかった。あるいは、相手の論理的詐術を見破るために、もう一度論理学の本を引っ張り出したりもした。》(『論駁』Ⅲ あとがき)

 このような正攻法で裁判批判の反批判にのぞんだ立花に対し、思い付きを並べるだけの渡部昇一が勝負になるはずがなかった。立花と論争したのは渡部の不運と述べたが、渡部は往生際悪く、いつまでも自分の誤りを認めず見え透いた強弁を続けたため、その頭の悪さと根性の悪さを際立たせる結果となった。 



▼『論駁』Ⅲを見ると、その初めに「番外編」の章がいくつか置かれている。

 立花は裁判批判を「論駁」するにあたり、まず箸にも棒にもかからないような「客観的誤り」を洗い出し、整理した上で、法律問題の議論に進む計画を立てた。その「客観的に誤まった議論」の代表として取り上げたのが渡部昇一の「論文」だったわけだが、渡部はなぜかカン違いし、立花が自分の提出した「角栄裁判批判の本質的な点」に答えていないと「反論」したことは、前回見た。
 立花は「ロッキード裁判批判を斬る」の連載を中断し、『朝日ジャーナル』が紙面を提供して、立花と渡部のあいだで批判と反批判の応酬が5回ずつ行われた。そのとき立花が書いた渡部批判の部分が、『論駁』Ⅲの「番外編」なのである。渡部の立花批判は収録されていないが、どのようなものであったか、立花の「番外編」を読めば一応わかるようにはなっている。
 筆者はこの番外の批判の応酬のコピーを取った記憶があり、机の引き出しや書棚を探してみた。そのコピーは見つからなかったが、代わりに渡部が産経新聞の「正論」欄に書いた「論文」を、ウェッブサイトからプリントしたものが出てきた。2006年に騒がれた「富田メモ」に関する二千字ほどの短いもので、「富田メモの真相を国会も調査せよ」の題が付けられている。(ウェッブサイト掲載の日付は、2006年9月5日。)

 2006720日の日経新聞は、元宮内庁長官だった富田朝彦が昭和天皇の言葉を書きとった日記やメモを入手した、と報道した。「A級戦犯靖国合祀」、「昭和天皇が不快感」、「参拝中止『それが私の心だ』」という見出しを付けて報じられた「富田メモ」の存在は、昭和天皇の肉声を伝えるものとして話題になり、天皇の靖国参拝を望む日本の右派に衝撃を与えた。
 渡部の「論文」は、その衝撃の大きさを物語るものと言えるが、「事実」よりも党派的利害を優先させ、巧みな弁舌をあやつる「渡部らしさ」がよく顕れている。短いものなので渡部の「論文」の特徴を見て取るのに適当であり、紹介し簡単にコメントしてみようと思う。いわばこのブログ「論駁」の「番外編」である。
 以下に全文を引用する。

▼《トレヴァー=ローパー卿といえば、オックスフォード大学の近代欽定講座教授という近代史の権威である。この欽定教授(リージャス・プロフェッサー)の席は、フリーマンやフルードのような巨大な名前の前任者を持つ名誉と権威のあるポストである。
 ところが、トレヴァー=ローパー卿はヒトラーの日記の真贋鑑定で大きなミスを犯した。筆跡や書かれている内容からみて、「ヒトラーの日記に間違いがない」と鑑定したのだった。
 しかし、のちに鑑定の専門家が検討したところ、日記の背の糊は、ヒトラーの時代にはこの世にまだ存在しないことが証明されたのである。
 文書の鑑定には、さまざまな専門家が必要であるという一例である。
 日本でも少し前に、芭蕉の『奥の細道』の本物が出てきたと騒がれたが、それは筆跡鑑定の専門家たちによって否定され、あの騒ぎは古書店と野心的学者とNHK記者と岩波書店の策略ではなかったかという噂さえある。
 自身の虐殺行為を告白した元中国戦犯の告白記――と話題になった曽根一夫氏の『私記南京虐殺』(正続)もそうであった。
 一時は「類書にない特色を持つ」と評価する南京問題専門家もいたが、後に曽根氏は兵士として南京戦に参加していなかったことまで明らかになったのである。偶然私の知り合った曽根氏の親類も、「あの嘘つきが困ったものを書いてくれた」と言っていた。
 文書の真贋を定めるには、いくつかの手続きがある。最近話題になっている富田メモを例にとって言えば、大体次のようになる。
 第一に、外的証拠(エクスターナル・エビデンス)に関することである。
 先ず、その手帳はどこから誰の手に渡り、誰によって、まさにあのページが報道されたのか。その手帳に貼られた糊はいつ頃、どの会社製のものであるのか。貼られた紙のインクは、そのページの手帳のインクと同じであるのか。もし違うのならば、貼られた紙のインクと同じインクで書かれている手帳のページの日付は、いつ頃のものなのか、などなど。
 第二に、内的証拠(インターナル・エビデンス)である。
 先ず、あのメモの発言者が昭和天皇であることを示す言葉が付いているのか否か。その紙や手帳の前後の全記述はどうなっているのか。そのメモの内容が昭和天皇のそれ以外の発言と整合性はあるのか。ないとすれば、その不整合性をどう説明するのか。富田手帳の、その他の部分の信用性はどうなのか(東京裁判で検察側が利用した『原田日記』の例もある。)富田氏自身のメモの信憑性は他のページでも証明されるのか。昭和天皇の言葉遣いが反映されているのか、などなどである。
 今までの報道から私の知る限り、右のような文書鑑定の手続きを一切無視して発表が大々的に行われたようである。
 そこに政治的意図があったという指摘がなされるのも当然であるし、明らかに政治的に利用しようとして発言した政治家や、記事にした新聞があった。

 天皇陛下や皇族方のプライベートなつぶやきみたいなものまで、本人の同意なく発表され、政治的に利用されては陛下も国民もたまらない。
 国会の予算委員会は、この手帳と、あのページの出現のプロセスを究明する義務がある。二度と悪質な政治利用で世間や政治を動かそうとする人間やマスコミが出ないようにするのは政治家たちの義務である。
 また、鑑定を頼まれた人たちも、そんな鑑定をするのに十分な時間や手段が与えられていたのだろうか。
 たとえば、この手帳に貼られた紙片を、近代史の重要な証拠と見て発言しておられる人たちがいるが、先に指摘したポイントに立って、その根拠を明らかにする責務があるように思われる。
 トレヴァー=ローパー卿に限らず、マックスウェーバーのような学者も、脚注につけた文献の出典・内容がいい加減であることを羽入辰郎氏(第12回山本七平賞受賞者)が指摘するまで、マックスウェーバー研究者たちは気がつかなかった。
 文献研究をやっている者なら修士課程の学生でも気づく程度のことである。富田メモを鑑定した人たちの名前に権威を置くことなく、国会が少なくとも外的証拠だけでも調査に乗り出すことを切望する次第である。》

▼「富田メモ」を遺した富田朝彦(ともひこ)は警察官僚出身で、1974年に宮内庁次長に就任し、1978年から昭和天皇が亡くなる前年の1988年まで長官を務めた。長官退任後は宮内庁参与や国家公安委員を務め、2003年に83歳で亡くなった。

 日経新聞の記者で富田長官時代に宮内庁担当だった男が、その後地方支局に異動し、2006年春に東京本社に戻り、また宮内庁担当になった。富田未亡人のところへ挨拶に行き、話をするうちに、実は日記やメモが遺されているという話になり、実物を見せてくれた。その記者は「スクープ狙いのギラギラした感じがない人なので、未亡人も、警戒せずに見せたのではないでしょうか」と、「日記やメモ」について相談された秦郁彦は語っている。 

 富田の遺した日記は、1975年から1986年まで各年ごとにあり、黒い表紙に「T.TOMITA」と名前の入った手帳が1987年から1997年分まであった。それとは別の1987年と88年の手帳があり、「ほとんどすべてのページに、横書きのメモ用紙を貼り付けたりホチキスで留め」たりしてあり、「分厚く膨れ」た状態だった。「さまざまなメモ用紙に書いたものを、糊やホチキスで日付順に貼って整理した、スクラップ帳みたいな感じ」(半藤一利)だった。その中に、「それが私の心だ」という「靖国メモ」も貼られてあった。
 昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝しているが、197511月を最後に参拝は行われなくなった。その理由として、「A級戦犯の合祀が原因」という見方と、「三木首相の靖国参拝が『公人か、私人か』と政治問題化したために自粛した」という見方があったが、「富田メモ」は天皇の考えがどこにあったかを、明らかにしていたのである。
 「富田メモ」における靖国参拝に関する部分は、次のようになっていた。

 《私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが。
  筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
  松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
  松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
  だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ》
 

▼日経新聞は「富田メモ」を公表するにあたり、資料の評価について事前に秦郁彦と半藤一利に相談した。秦は資料全般を見渡したうえで、「メモの信頼性は高いと思う」と評価し、半藤一利も、「天皇に信頼されていた富田元長官は、よくぞ貴重にしてものすごい資料を残しておいてくれたものだ」と感想を述べた。二人は、保阪正康を交えて三人で「徹底検証」の座談会を『文藝春秋』(20069月号)誌上で行い、そこで「富田メモ」の意義や公開の問題について語っている。
 半藤は、「富田メモが貴重なのは、昭和62年9月に昭和天皇が病に倒れてから開腹手術を受け、亡くなるまでの約二年間のものが多いことです。一種の「病床日誌」であると同時に、ある意味では。昭和天皇の『遺言』ともいえるんじゃないでしょうか」と言う。
  秦も、「このメモの分量と内容を見るかぎり、『言い残したことを、信頼できる長官に伝えておこう』という昭和天皇の意志が感じられる。単なる備忘録とは思えないほど、度重ねて、多岐にわたる会話が記録されています」と語る。
 また、資料の公開の問題について秦は、次のように言う。「富田さんは時期がきたら、歴史的資料として、公開してもよいと思っていたのではないでしょうか。もし出してはいけないと考えていたのなら、昭和63年に宮内庁を退任してから、平成15年に亡くなるまで、日記やメモを処分する時間はたっぷりあったはずです。急死されたわけではないから、家族に死後の処分を頼むこともできたでしょう。」 

▼渡部昇一が、「今までの報道から私の知る限り、右のような文書鑑定の手続きを一切無視して発表が大々的に行われたようである」と書いているのを見て、筆者は渡部が1か月前に発行された『文藝春秋』を読んでいないのか、といぶかった。だが読み進むと、「鑑定を頼まれた人たち」とか「鑑定した人たちの名前に権威を置くことなく」と書かれているから、読んでいたことは分かる。しかし、軍事史を中心に昭和史について精力的に調査・研究・発表を行っている二人の研究者の仕事に、何の根拠もなく「文書鑑定の手続きを一切無視して」と難癖をつけるのは、控えめに言っても不遜であり、きわめて礼を失した行為である。
 また渡部は、「政治的意図があったという指摘がなされるのも当然」と騒ぎ立てるが、どこに「政治的意図」があったのかは、何も言わない。富田長官が天皇の言葉をメモしたことに「政治的意図」があったというのか?メモを未亡人が新聞記者に見せたことか?日経新聞が特ダネを報道したことか?それとも昭和天皇が「靖国メモ」のような内容を語ったこと自体に、「政治的意図」があったというのか?

 新聞報道を読んだ読者は、「靖国参拝」をあらためて考えてみようと思うかもしれないし、天皇の言葉に政治が動かされるのはまずいと考えるかもしれない。A級戦犯の「分祀」論議や、新たな慰霊施設建設の議論が高まるかもしれない。しかし様々な議論や主張がなされることは民主的な近代社会の常態であり、「悪質な皇室利用」などと非難すべきことがらであるはずがない。
 渡部は、「富田メモ」の関係者にうわずった声で憤懣をぶつけるのではなく、A級戦犯合祀に不快感をもった昭和天皇自身を、逃げずに批判するべきだったのだ。そうすれば世論の賛否はともかく、いちおう渡部の思いのこもった「論文」が生まれたはずである。 

▼渡部は、近代史の権威トレヴァー=ローパー卿が鑑定を誤ったという逸話を持ち出し、糊やインクを調べなければ、資料の鑑定として欠陥があるかのような印象を、読み手に与えている。
 筆者は、糊やインクを調べた鑑定事例を、ごく最近になって一つ知った。『アンネの日記』の真贋鑑定である。
 『アンネの日記』は、戦後に父親オットー・フランクによって隠れ家から発見された。父親はこれを出版しようと考え、原稿に整理する際に『日記』の文法上の誤りを直したり、家族内のトラブルや生存者を傷つけるかもしれない部分を削ったりした。代理人を立て、いくつもの出版社に原稿を持ち込み出版にこぎつけたが、その過程で複数の版が生まれた。『日記』の否定者たちは、複数の版のあいだの異同に目を付け、『日記』は戦後の創作であり、オリジナルな日記など存在しないと主張した。
 1980年にオットー・フランクが亡くなり、日記はオランダの国立戦時資料館へ寄贈された。戦時資料館はアンネの筆跡を鑑定し、また、日記に使われた紙、糊、インクについて調べ、それらが1940年代に使われたものであることを明らかにした。(以上、エボラ・E・リップシュタット『ホロコーストの真実』に拠る。)
 『ヒトラー日記』も『アンネの日記』も、真贋両説の論争があるなかで結論を出す必要があり、また「否定論者」が広める無責任な噂を根絶する必要があった。そこで必要性に照らして妥当な方法が選ばれ、それが「糊やインク」の科学的調査として実施されたわけである。しかし「富田メモ」について、これを贋作だとする責任ある主張はない。無責任な噂を根絶するには、「否定論者」渡部昇一が口を閉じるのが一番といった状況では、「糊とインク」は渡部のこけ脅しの小道具以上のものではなかった。 

 「富田メモ」が発見された翌年(2007年)、『卜部亮吾侍従日記』が出版された。卜部亮吾は1969年に宮内庁の侍従となり、1993年に退職、2002年に亡くなった「昭和天皇最後の側近」である。その日記のなかにも、「A級戦犯合祀が御意に召さず」の記述があり、昭和天皇の靖国神社不参拝の理由が、A級戦犯の合祀にあることは定説となった。

▼渡部昇一の議論の特徴を一つだけ挙げれば、事実よりも自分の「思い込み」や「党派的利害」を優先させ、不都合な事実は無視する、ということだろうか。自分に有利と思われる記述や発言を搔き集め、大袈裟な身振り手振りで声を張り上げ、自分に不利な事実はねじ曲げる。そして、「天皇陛下や皇族方のプライベートなつぶやきみたいなものまで、本人の同意なく発表され、政治的に利用されては陛下も国民もたまらない」などと、クサイ台詞で読者の泣き落としも図る。
 渡部のデタラメな議論が立花隆によって徹底的に批判された後、さすがに㈱文藝春秋からはお座敷がかからなくなったようで、『萬犬虚に吠える』の文庫版も発行されなかった。しかし捨てる神あれば拾う神ありで、文庫版はPHP文庫から出されることになり、2000年代に入っていくつも発生した右派系雑誌や産経新聞社からは、渡部はあいかわらず歓迎されたようである。

 時代は、超大国の大統領が率先して、「フェイクニュース」、「オールタナティブ・ファクト」などの言葉を使って事実を貶め、「自分ファースト」を公言してはばからない世の中になった。昨年亡くなった渡部は、自分が時代を先導したのだと、地下で瞑目しているかもしれない。

 
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