斎藤史『魚歌』と桶谷秀昭『天の河うつつの花』
               【ブログ掲載:2019年6月28日~7月5日】

 

▼ブログを書いていて思うのだが、最近書くスピードがずいぶん落ちたように感じる。勢いに乗って一気呵成に書きあげるということがなくなり、途切れ途切れに書き進めるものだから、途中でいろいろ迷いが生じ、よけいに時間がかかるのだ。集中力が落ちたことが直接の原因だろうが、体力の低下がそこに関わっているようにも思う。
 もう一つ感じるのは、ある話をブログで取り上げたいと思うのに、それがいつどこで読み聞きした話なのか、思い出せないことが多くなったことだ。これはひどく困る。話の内容を確認しようと、当たりをつけた書物や資料を調べるのだが、書物や資料自体が見つからない場合も多く、そういうことに時間を費やしているうちに、ブログを書く作業はどこかに行ってしまう。
 たとえば次の歌である。 

 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた 

これが斎藤史(ふみ)の歌であることは、記憶にあった。そして斎藤史が二・二六事件を起こした青年将校の一人と幼なじみであり、彼女の父・斎藤瀏は陸軍の将官で、歌人でもあったことも知っていた。良い歌だと感じ、作歌の背景とともに記憶したのだが、この歌をどこで読み、それらの知識をいつどこで得たのか、はっきりとしないのだ。桶谷秀昭が書いたものをどこかで読んだのかもしれない、と考えたりしたが、それが桶谷のどの文章なのか確認することができない。 

先日、古本屋で、桶谷秀昭の『天の河うつつの花』(1997年)という本を買った。書物や人にかかわる桶谷の短い随想を集めた文集だが、その中に斎藤史に関する短文が2篇あった。筆者の記憶と重なる文章のようにも思えたが、発表されたのが「歌壇」、「短歌」というなじみのない雑誌だということからすると、筆者が読んだのは別のものである可能性が高い。 

▼斎藤史は明治42年(1909年)の生まれで、父親の斎藤瀏は帝国陸軍の将校であり、また佐佐木信綱門下の歌人だった。17歳の時、旭川の第七師団参謀長だった斎藤瀏のもとを訪れた若山牧水から、歌を詠むように勧められ、本格的に歌をつくりはじめる。
 昭和11年(1936年)に二・二六事件が起き、旭川の小学校の同級生で、家族ぐるみで親交のあった栗原安秀が、叛乱の首謀者の一人として処刑された。父の斎藤瀏は当時予備役の少将だったが、叛乱を利する罪に問われ、位階勲功を剥奪され、5年の禁固刑に処せられた。
 昭和15年、斎藤史は昭和7年から15年までの作品を集め、処女歌集『魚歌』を出版した。上の歌はその中の一首で、二・二六事件の翳を色濃く落とす昭和11年の作である。史は事件の少し後に、女の子を出産している。 

 濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ 

 生まれ来てあまりきびしき世と思ふな母が手に持つ花花を見よ 

 御裁きに死にしいのちを思ほえば夏草の陽にくるめき伏しぬ 

 照り充てる真日につらぬく道ありてためらはず樹樹も枯れしと思へ 

 ひそやかに決別の言の伝はりし頃はうつつの人ならざりし 

いのち断たるるおのれは云はずことづては虹よりも彩にやさしかりにき 

 かぎりなくせつなき言葉胸にありて炎のごとしひとすじに燃ゆ 

以上は昭和11年の作だが、いずれも二・二六事件の影響下につくられたことは明瞭である。その後も斎藤史の歌には、事件が深く刻印されていた。 

 わが神の罠の美美しさにまなくらみたふれし森に虹たちにけり(12年) 

たふれたるけものの骨の朽ちる夜も呼吸(いき)づまるばかり花散りつづく(12年)
 たまはりし御裁きなれば御いくさに死なぬ無念は云はざりにけり(13年)
 

 なほ生きむわれのいのちの薄き濃き強ひてなげかじあぢさゐのはな(13年) 

 二・二六事件は帝国陸軍の恥部であり、特設軍法会議は、非公開、弁護人無し、判決は即時確定し上告不可、というもので、軍上層部は7月12日には青年将校15人の死刑を執行し、事件を闇に葬った。史の『魚歌』は、歌集のせいか検閲の網にかからず、世に出すことができた。

 桶谷秀昭は、これらの歌を次のように読む。《二・二六事件に連座した父と友人らへの思ひを動機につくられたこれらの歌が、その背景といふ限定を超えて、昭和戦前といふ時代の運命を予言し、象徴しえてゐるのはまことに希有のことである。しかも心情の流露において、その憤りさへきはめてうつくしい。》
 《肉親、友人を国家的犯罪者に持つ三十代の婦人が、身びいきといふ自然な感情からだけでは、かういふ歌は生まれないであらう。身びいきはもちろんある。その自然な感情が日本の歴史の精神に対する直覚と交はり、昂揚したときに、歌は生まれてゐるのである。》 

 斎藤史は戦時中、父の故郷である長野県安曇野に疎開し、戦後もそこに住んで作歌活動を続け、生涯に十冊ほどの歌集を出し、平成14年(2002年)に亡くなった。 

▼『天の河うつつの花』(1997年)は、桶谷秀昭の二冊目の随想集だという。桶谷の50歳少し前から60代半ばまでの約15年間に書いた短文を集めたものだが、父母の死や細君の死、孫の誕生がこの期間にあり、彼の文章も当然その時々の思いや思い出を描いている。
 「さう巧くはいかない」という、ごく短い文章がある。「むかし中野重治は晩年とか老年といふ言葉をたいへん嫌った」という一文に始まり、「老いて往年の志気を失はぬ中野重治……」と書いてハガキで抗議されたことに触れ、自分も「いはゆる初老の年齢」になったが、母が昨年亡くなり、妻がやっかいな病気になって「ぢたばたしてゐる」ことを、さらりと語る。

 《やがて老いて死ぬことはわかってゐるが、自分が妻より先に死ぬと決めてかかってゐたのは、いかにもあさはかであった。人生はさう巧くはいかない。
  仕事は、努力さへすればだいたい計画どほり進む。しかし身内の病気や死は、そんな計画どほりの仕事など一瞬のうちにぶちこわす。途方に暮れて、気をまぎらはすために又、仕事をする。
  老母が死んだ年の夏に外国で娘が男児を生み、一歳になるすこし前に日本へ帰ってきた。輪廻転生はあると思った。幼児と庭で落葉を焚いた。日本の秋の空をながめて、生きねばならぬと思った。
  鳥は蒼天の高みに消え、風は紫煙を捲いて裸木の枝に砕け散る。そんな言葉をつぶやいて、この子が成人に達するとき、自分は生きてゐまいと思った。
  冬が来て、また妻が入院した。寒風に吹かれて、娘と幼児を連れて病院に妻を見舞った日の帰り、そばやで鍋焼きうどんをたべた。幼児が正座して、卓子の上の皿に取りわけたうどんを手づかみにして食べてゐた。幼な児が無心にものを食べてゐる姿ほど胸を打つものはない。》 

桶谷は、この光景の瞬間を、「さう巧くはいかない人生をつぐなって余りある」ものと感じたと書き、文章を閉じる。 

▼桶谷秀昭は自分の文章について、「話すように書く」スタイルは取らないが、書き終えたものが難解でなく、「平談俗語に近い」ものであることを願っている、と書いている。
  彼の文章は漢文脈を下敷きにしたもので、「平談俗語に近い」というわけにはいかないが基本的に平易であり、時に挿入される感想や箴言風の言葉が、文章を引き締め、余韻を醸し出す。『天の河うつつの花』から、いくつか例を引く。 

 《芝木さんの小説には、何を書いても、どこかにさっそうとした志気が感じられる。『湯葉』の主人公は人生の敗者であらうが、負け振りが颯爽としてゐる。
 女流作家にむかって志気という言葉はふさわしくないとすれば、気概といったらいいだらうか。それは近代人権思想の直訳臭をすこしも伴はない、生活的教養によって身につけたものである。
  『湯葉』を高度経済成長が始まる昭和三十五年に書いたことは、芝木さんがその後の小説にこめた文明批評の意図にひきつがれた。『隅田川暮色』も『雪舞い』も『群青の湖』も、その小説の時代背景を昭和三十五年を下限として設定してゐる。 それによって何を守らうとしたかが分かる。古典的な気品ある文章がよくその意図を実現した。『群青の湖』を完成して、芝木さんは書くべきものを書きつくして、心残りはなかったと思ふ。》(「芝木好子追悼」) 

 《彼は根っからの煽動者だったが、彼の運動は、敗北か自滅を担保にして、誰もまだみないヴィジョンを手に入れようとするものだから、煽動に乗った者は、恨みっこなしだったらう。それが六十年代の谷川雁だった。
 以後の谷川雁は「十代の会」を組織して、少年少女の魂を相手とする、美しくて繊細な煽動的教師になった。
 彼が捨てるやうに残した文章は、意外に古びてゐない。その暗喩をちりばめた修辞は、時務を語りながら、日本人の魂の古層と今日ののっぺらぼうな地平を架橋する幻視的造形のとば口で、美しい破片のやうに輝いてゐる。》(「六十年代幻視的煽動者 谷川雁」) 

 《村上一郎がいま生きてゐたら七十三歳、生きてゐても不思議でない年齢であるが、人の一生はをはりをまったうすべきときに、をはるものである。そのことが棺を蓋ったあとではじめてわかるのも、生きてゐる者のあと知恵であるかもしれないが、悲しい。
 人生において人は大事なことをあとになって知るのである。(中略)
 この人に相聞の歌はごくわづかしかない。女人を大事にして、恋をすれば、ますらをぶりの述志素懐の歌となった。それがをとこ歌といふものである。そんなことを、あらためていはねばならぬやうな世の中に、村上一郎は生きられなかったであらう。
 一事が万事である。もっと大事なことがある。人は生まれる時と世をえらぶことができない。しかし、死ぬことによって、生きた時間を運命と化すことができる。》(「一冊の歌集 村上一郎『撃攘』) 

 よく生きること、美しく生きることは、桶谷秀昭の文章の根元に置かれた礎石である。桶谷にとって、文章を読むことは書き手の生きる姿勢を問うことであり、上の芝木好子も谷川雁も村上一郎も、その生きる姿勢のさわやかさへの好意と文章への好意は、一体のものという印象を受ける。さわやかさ、すがすがしさ、含羞、志気、気品、周りの空気が凛然と澄むような人柄……桶谷が愛用する言葉は、作者と作品の魅力をともに表現する。
 そして桶谷は『天の河うつつの花』に集められた随想について、「はかないことを夢み、人の世におけるものごとの美しくも愚かなありさまに心惹かれる瞬間」を読者と共有できるなら、「もう何もいふことはない」とあとがきに書いている。

 

▼実を言うと、筆者は桶谷秀昭の文章に魅力を感じる読者の一人である。表現の正確を期すなら、むかし魅力を感じていくつかの文章を読み、それから関わりを持たない厖大な時間が過ぎ、最近久々に桶谷の文章に出逢い、‘縒りを戻した’のである。
  『天の河うつつの花』の中のいくつかの文章は、たしかに人の世の儚さや愚かしくも美しいありさまを描き出し、むかし感心したものと同じように魅力的だった。しかし違和感を覚える文章もあった。日本の戦後史や近現代史にかかわる桶谷の主張が、筆者にはまるで受け入れられないのである。 

 「講和条約以後の日本は占領下の延長であった。意識過程においてさうであった。米ソの冷戦構造の中で米国の一属州のやうに振舞って、‛平和’を享受し、経済大国にのしあがった。」
 「東南アジアの独立が大東亜戦争によって生まれたとするのは、たしかに自己過信である。大東亜共栄圏の理想と現実のあひだは、あきらかに落差があった。しかし、この落差を直視することと、無視することのあひだには雲泥の相違がある。」 「過去の悲惨ばかりをいひ、東京裁判史観のお仕着せを盲信して、謝罪し、迷惑料を払って、‛誠意’を示すことしか考へないのが戦後五十年の日本だとしたら、この現状こそ情けないのを通り越して悲惨である。」

 以上は、『天の河うつつの花』に収められた「私の戦後五十年」という文章から抜き出したものである。江藤淳の主張の二番煎じのようにも見えるが、桶谷は、「欧米列強の侵略に対して、自衛のために欧米模倣を方法とした近代日本の歴史的イロニイ」という、かっての「日本浪漫派」の主張に寄り添いながら、思考を組み立てているらしい。
 さいわい桶谷には、この問題を主題とした『昭和精神史』という著作がある。これを俎上にあげることにより、日本の戦後史や近現代史を考え、桶谷の文章について考えを進めたいと思う。

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